夢か現か幻か




Episode2:食い逃げ少女





 正午を過ぎたあたりで名雪が帰ってきた後、三人そろって昼食を食べた。

 そして今、祐一は朝約束したとおり、名雪に街を案内してもらっていた。


 とはいえ、街中を歩き回るような時間はないので、取りあえず利用頻度が高そうな商店街へ向かっている。

 ついでに秋子に頼まれた買い物をすませる、という目的もある。


「名雪、この辺りって昔と変わったか?」

「ううん、駅の方は結構新しい建物とか建ったけど、この辺りはあんまり」

「そうか……」


“変わったのは俺の方か…”


 今ひとつ記憶と繋がらない街の姿を見て、祐一はなんとも複雑な気分になってしまった。


「焦ることないよ。ゆっくり、少しずつ思い出していけばいいと思うよ……祐一はこれから、ずっとこの街で暮らすんだから」

 そんな祐一の気持ちを察したのか、名雪が励ましの言葉をかけた。


「ずっとかは分からないけどな」

「……うん。そうだね」

 名雪は少し寂しそうな顔になったが、次の瞬間にはまた笑顔に戻って言った。


「ふぁいとっ、だよ」

「…………」


 白い街並み。すぐ隣で嬉しそうな笑顔を覗かせる従兄妹の少女。

「そう言えば、あったかもしれないな」

 昔、こんな光景が…。


「あの頃は、祐一が鞄持ってくれたんだよ」

「そこまでは覚えてない」

「うー」

 膨れっ面になった名雪を見て小さく笑い、手を差し出す。


「ほらっ」

「…え?」

「鞄くらいなら持ってやるよ」

「ホント?」

「ああ、それくらいなら、な」

「うん。ありがと」

 名雪は嬉しそうな顔で鞄を祐一に手渡した。


「らくちん、らくちん」

 祐一はあまりに喜ぶ名雪の姿に、少しだけ首を傾げた。別に重い鞄というわけではない。普通の買い物鞄だ。


“何がそんなに嬉しいんだ?”

 そう思ったが、従兄妹の少女の笑顔を改めて見て、まあいいか、と思うことにする。





 しばらくして二人は商店街の入り口に着いた。


「わたしは買い物をすませてくるけど、祐一はどうする?」

「俺はここで待ってるよ。戦力になれそうにないからな」

「そうだね…じゃあ、すぐに戻ってくるよ」

「ああ」

「ちゃんとここで待っててね……勝手にどっか行ったら嫌だよ」

「大丈夫だって」

 祐一はそう言って名雪に鞄を返す。


「それでは、行ってくるよ」

「ああ」

「そういえば……なんとなく、昔同じような場面があったような気がするよ」

「気のせいだって」

「うーん…」

 首を傾げたまま、それでも納得したのか商店街の奥に向かって歩いていく。


 名雪の背中が人ごみに紛れて見えなくなるまで見送った後、祐一は商店街の人の往来をぼんやりと眺めていた。


 夕飯の買出しにきた親子。
 
 楽しそうに話しながら目の前を歩くカップル。

 友達と二人で肉まんをほお張りながら帰っていく小学生。


 次々と通り過ぎる人々を見ながら、いつしか祐一は、自分の記憶の中に思いを投じていた。



 白い雪。

 商店街。

 一緒に買い物に来た従兄妹の女の子。

 そして……。



「そこの人っ!」

「……えっ?」

 突然声をかけられ、強引に現実に引き戻された。


「どいてっ! どいてっ!」

 状況が分からないまま、気が付くとすぐ目の前に女の子がいた。

 というか、自分に向かって走ってきている。


 手袋をした手で大事そうに紙袋を抱えた、小柄で背中に羽の生えた女の子。


“…って羽?”


「うぐぅ…どいて〜」

「っ!」

 ここに至って、漸く体が反応し、とっさに後ろに向かって跳ぶ。


“って後ろに避けても意味ないだろー!”

 女の子は真っ直ぐ向かってきているのだから、当然――


 べちっ!


 次の瞬間、二人は見事に衝突していた。

 体格差があったため、少女の方が倒れて尻餅をついていた。


「うぐぅ…痛いよぉ〜」

 多少衝撃は和らげたが、女の子は頭からぶつかったため、涙目で赤くなった鼻をさすっている。


「ひどいよぉ。避けてって言ったのに…」

「……ああ…その、悪い」

 いきなり体当たりしてこられたのだから、どちらかと言うと自分の方が被害者のような気がしないでもない。


 だが、いくら考え事をしていたとはいえ、こんな女の子に不意を突かれ、あまつさえその後の判断すら誤ったのは、自分のミスだ。

 母に知られれば、折檻モノである。


“このことは、誰にも言うまい”


 固く心に誓ってから、まだ倒れたままの女の子に手を差し出す。


「大丈夫か?」

「…あんまり大丈夫じゃないけど、ボク急いでるからもう行かないと……」

 その手を掴んで立ち上がりながら、女の子は自分の来た道を振り返り、


「あっ!」

 短く声を上げ、


「どうした?」

「と、とりあえず話はあとっ!」

 走り出した――祐一の手を持ったまま。


「ちょ、ちょっと待てっ!」

「待てないよ〜!」

 商店街の人ごみをかき分けながら、二人は奥へ奥へと進んでいった。


「いったいどうしたんだよ?」

「追われてるんだよ…」

 時折背後を気にしながら、猛然と走り続ける。


「追われてるって?」

「…………」


 それっきり口を閉ざす。


 祐一はそれ以上の追求を諦め、女の子に手を引かれるままに走り続けた。





「ここまで…来れば……大丈夫だよね…」

 かなりの距離を走った所で漸く止まり、少女が息も絶え絶えにそう言った。


「大丈夫も何も、事情を説明してくれ。わけが分からん」

「……追われてるんだよ」

 祐一の問いかけに、神妙な顔で先程聞いた言葉を繰り返した。


「追われてるって、誰に?」

 当然の疑問である。


「それ以上はボクの口からは言えないよ…無関係の人を巻き込みたくないからね」

「この状態ですでに思いっきり巻き込んでいると思うのだが、俺の気のせいか?」

「うぐぅっ」

 祐一の至極まともなつっこみに、女の子が奇妙な呻き声を出す。


 と、祐一は女の子が大切そうに抱える紙袋に目をやった。


「もしかして、その持ってる紙袋と何か関係があるのか?」

「ぜ、ぜ、ぜんぜん、そ、そ、そ、そんなことないよっ!」

 明らかに動揺している。


「関係あるんだな」

「ええっ! う、ううん、か、関係ないよっ!」

 どもりながら、紙袋を胸元に押し付け少し後ずさる。

 とても分かりやすい女の子のようだった。


 目を泳がせ、額に走った後に流れるのとは違う種類の汗を浮かべる少女。

 その背中で、小さな羽がパタパタ揺れている。


「まぁ、言いたくないんだったら別にいいけど……ところで、その羽は何だ?」

「はね?」

 女の子が不思議そうな顔をする。


「背中に付いてるやつだ」

「背中?」

 首だけ動かして自分の背中を見る。


「あっホントだ!」

 女の子がぱっと微笑み、嬉しそうな声を上げる。


「羽があるよ〜。可愛い羽〜」

「で、何なんだこれは?」

 祐一がその白い羽を触ってみた。


 プラスチックのような冷たい感触がする。

 その根元は、少女の背負ったリュックにくっついていた。


「羽だよ」

「俺が聞きたいのは、どうしてこんな物がリュックに付いているかだ」

「最近、流行なんだよ」

「…変なものが流行ってるんだな」

「可愛いよね〜」

 女の子はあっさり笑顔でそう言った…直後、


「あっ!」

 笑顔を消し、また短く声を上げた。


「どうした?」

「ごめんね、話はあとっ!」

「『話はあとっ!』じゃない!」

 再び腕を掴んで走り出そうとする少女を、慌てて引き止める。


「うぐぅ、放してよ〜」

「事情を話せ、事情を!」

 女の子は、祐一の手を振りほどくことはあきらめ、


「うぐぅ…と、とりあえずここには入ろ!」

 すぐ横のファーストフード店を指差しそう言った。


「……たくっ、分かったよ」

 少女のあまりに必死な様子に祐一も折れ、一緒になって店に入る。


 少女はちらちらと店の外に目をやりながら、窓際の席に腰を下ろす。

 祐一もその向かいに座った。


「何も頼まないのか?」

「普通のお客さんを装うんだよっ」

 祐一は、〈注文もせずに席に着き、こそこそと外を窺う二人組み〉が果たして普通の客に見えるものか、と思ったが、何も言わず女の子の指示に従った。


「あっ!」

 三度、少女が短く声を上げた。

 どうやら、彼女を追いかけていた人間が店の前に来たらしい。


 祐一が、怯えるような視線で店の外を注視する少女の視線を追う。

 すると、それらしい人物が見えた。


 きょろきょろと辺りを見回している、エプロンをかけた中年男。

 薄くなった頭に、人の良さそうな穏和な表情。


 どこから見ても普通のおやじだった。


「お前を追ってるのって、あの人畜無害そうなおやじか?」

「…そうだよ」

 女の子がじっと息を潜めながら、絞り出すように呟く。


「俺にはただのおやじにしか見えないが…」

「人は見かけで判断したらダメだよ…」

「…まあ、そうだけど」

 やがて、一通り辺りを見回したエプロン姿の男は、さすがにあきらめたのかそのまま元来た道を引き返していった。

 それを見届けてから、二人揃って店を出る。


「うぐぅ…怖かったよ〜」

 店を出た所で、緊張が解けたのか、少女がほっと息を吐いた。


「あのおやじ、どうしてエプロンなんかかけてたんだ?」

「たぶん、たい焼き屋さんだからだよ」

 祐一の言葉に、女の子が軽く答える。


「…どうして、たい焼き屋がお前を追いかけて来るんだ?」

「…それは」

 言いづらそうに、俯いてもじもじしている。


「えっと…大好きなたい焼き屋さんがあって……たくさん注文したところまではよかったんだけど…」

 祐一は何となく、話の雲行きが怪しくなってきたような気がした。


「お金を払おうと思ったら、財布がなくて…それで走って逃げちゃったんだよ…」

「……もしかして、お前が一方的に悪いんじゃないか?」

 聞かなきゃよかった、と思いながら、もしかしなくても確実であろうことを訊ねる。


「うぐぅ…仕方なかったんだよ〜」

「どう仕方なかったんだ?」

 とりあえず、女の子の言い分も聞いてみる。


「話せば長くなるんだけど…」

「どうせ時間はあるから、気にするな」

「複雑な話なんだけど…」

「大丈夫だ」

「実は…」

 言いよどんでいた少女が、わけを話し始る。


「すごくお腹がすいてたんだよ〜」

「それで?」

「それだけ」

「……」

 長くも複雑でもない話が終わった。


「やっぱりお前が一方的に悪いんじゃないか!」

 またも聞かなきゃよかった、と思いながら、少女に怒鳴りつける。


「うぐぅ…」

「悪人っ! 偽善者っ!」

「ひどいよ〜、そこまで言わなくても…」

 少女が傷ついたように俯いた。

 その姿に、祐一も言葉を止めた。


「だって…ホントにお金なかったんだもん……それで…つい…」

 だんだんと、聞き取れないくらい声が小さくなっていく。

 一応は反省をしているらしい。


「それに、後でちゃんとお金払うもんっ」

「本当か?」

「ホントだもん」

「…まぁ、それだったらいいけど」

「うんっ!」

 本当はあまりよくないのかもしれないが、自分も一緒になって逃げているところを見られている可能性もあるため、黙っているしかない。

「あ、そうだ」

 女の子がぽんと手袋を合わせて、今まで大切そうに抱えていた茶色の紙袋を取り出す。


「わっ。やっぱりたい焼きは焼きたてが一番だよね」

 中から湯気の立ち上るたい焼きを、ひとつつまみ出した。


「…それはちゃんと金を払ったやつが言う台詞だぞ」

「ね、キミも食べる?」

 すでに祐一の言葉は耳に入っていなかった。


「…やっぱり、事情を説明して、返した方がいいんじゃないか?」

「はぐ…おいしいね」

 女の子は祐一の発言をとことん耳に入れず、たい焼きにかぶりついた。


「食うなっ!」

「うぐぅ…」

「うぐぅ…じゃない!」

「でも、たい焼きは焼きたてが一番おいしいって…」

「うまくても食うなっ!」

「うぐぅ…」

 拗ねたような表情で、食べかけのたい焼きと、こちらの顔を交互に見る少女に、祐一は溜め息をひとつ吐いてから言った。


「とにかく、やっぱりお金はちゃんと払った方がいいぞ」

「お金持ってるときに、ちゃんとまとめて払うもん」

「…まぁ、それならいいか」

「うんっ。約束だよっ」

 拗ね顔から一転、満面の笑顔になる少女。

 ころころと表情が変わって、見ていて飽きないタイプのようだ。


「だから、はいっ。ボクからのおすそわけだよっ」

 女の子は紙袋からたい焼きを一匹取り出し、祐一に差し出した。


「そうだな…後で金をちゃんと払うんなら…まぁいいか」

 受け取ったたい焼きを口に運ぶ。


「やっぱり焼きたてだよね」

 女の子が得意げに目を細めて、自分も同じようにかぶりつく。


「そうだな…」

 きつね色に焦げ目の入ったたい焼き。

 今もなお、白い湯気が立ち上っていた。


“懐かしいな”

 祐一は理屈ではなくそう感じた。


「ボクはあゆだよ」

 不意に女の子が顔を上げる。


「月宮あゆ」

「俺は祐一だ。相沢祐一」

 祐一が自分の名を告げると、少女は突然奇妙な表情になった。


「…祐一…君?」

「どうした?」

「…ううん、何でもないよ」

 泣き笑いのような複雑な表情。

 それでもすぐにもとの元気な笑顔に戻る。


「じゃあ、これでさよならだね」

 たい焼きを食べ終わったところで、少女がそう言った。


「ああ」

「また会えるといいね」

「…いいか?」

 どちらかと言うと、次ぎに会う時も厄介な目に遭いそうな予感がする。


「うぐぅ…いいんだよぅ」

「…そうだな、会えるといいな」

 それでも、またこの少女と顔を合わせるのもいいか、と思った。


「うんっ」

 女の子が笑顔で頷いて、そのまま元気に手を振って走っていく。

 夕日に染まった、背中の羽がなぜか印象的だった。


 ちなみに、祐一がようやく商店街の入り口まで戻ってきた時、


「うそつき…」

 案の定拗ねた名雪が待っていた。





 夕食を食べ終わった後、仕事の時間まで部屋で暇をつぶしていることにした。


 コンコンッ


 ベッドに横になり、ぼんやりと天井を眺めていると、ドアがノックされる。


「はい」

「わたし〜」

「入っていいぞ」

 祐一が言うと、ドアがほんの少し開き、隙間から朝と同じ、パジャマに半纏姿の名雪がちょこんと顔を出した。


「祐一、お風呂空いたよ」

「ん…分かった」

 これから外に出るのだが、とりあえずそう応えておく。

 と、重要なことを思い出した。


「あ…そうだ、名雪」

「うん?」

「悪いんだけど、目覚し時計余ってたら貸してくれないか?」

 そう、この部屋には目覚ましどころか時計がひとつもなかった。

 彼は腕時計をしない性質(たち)なので、このままでは非常に不便である。


「うん、いいよ…いっぱいあるから」

 そう言って、名雪が自分の部屋に入っていった。


“…なんでいっぱいあるんだ?”

 目覚ましというのは、持っていてもひとつやふたつではないのか、と祐一が疑問に思っていると、


「お待たせ〜」

「ああ、ありが…って何だその数は?」

 名雪が両手いっぱいに目覚まし時計を抱えて戻ってきた。


「本当はまだあるんだけど、持ちきれなかったよ」

「まだあるのか!?」

「うん。持ってこようか?」

「…いや、いい」

 祐一は眩暈がする心地で、目覚ましの山を見詰めた。


“まさか、これを全部使っているわけじゃあるまいな……”

 いやいやそれはないだろう――と思うことにする。


「はい、どれでも好きなのを選んでいいよ」

「…どれでも…と言われても…」

 どれがどんな機能を持っているのか分からない。

 目覚ましである以上、起こしてはくれるのだろうが…。


「わたしが選ぼうか?」

「ああ、そうしてくれ」

「う〜ん…じゃあ、これ」

「…どれだ?」

「このてっぺんの、白い目覚まし」

 目覚ましの山から名雪に薦められた物を取る。


「じゃあ、しばらく借りるぞ」

「うん」

 笑顔で頷く名雪に背を向け、再びベッドに横になる。


「……祐一」

「何だ?」

 まだ部屋の入り口に立っていた名雪が、微笑みながら言う。


「夜は、おやすみなさい、だよ」

「……おやすみ」

「うん。おやすみなさい」


 バタンッ


 祐一は名雪が出て行ったドアをしばらく見詰め、小さく首を傾げる。


「おやすみ?」

 借りたばかりの目覚まし時計が示す時間は、まだ9時だった。





「それじゃあ祐一さん、よろしくお願いします」

 1時間後、祐一は仕事に出るべく玄関で靴を履いていると、後ろから秋子の声がかかった。


「場所は分かりますか?」

「ええ、昼間名雪に案内してもらいましたから」

「そう…だったら安心ね」

 仕事の成敗より、祐一がちゃんと目的地に行けるかどうかの方が心配のようだ。

 祐一は苦笑しつつ、玄関のドアを開ける。


「行ってきます」

「気をつけてね」

 名雪が部活に行く時かけられたのと同じ言葉を背に、祐一は一歩、夜の街へと踏み出した。






第1話 第3話

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