夢か現か幻か
Episode1:朝の光景
バタンッ
勢い良くドアを閉めるような音、
ドタドタドタドタ……
次いで、誰かが廊下を走るような音が聞こえてくる。
「……」
その時点で彼、相沢祐一は目を覚ましていたが、頬に触れる空気が伝えてくる寒さを認め、布団から出ようとはしなかった。
“どうせまだ冬休みだ”
惰眠を貪るための絶好の理由に思い当たり、彼は心置きなく己の誘惑に従うことにする。
“にしても…寒い”
ドタドタドタドタ……
“そしてうるさい”
ドタドタドタドタ……
ドタドタドタドタ……
「……はぁ」
布団の中でも容赦なく襲ってくる寒さと、一向に治まらない騒音に、再び半分眠りかけていた頭もすっかり覚めてしまった。
しぶしぶ体を起こし、
「うお、寒っ」
即効で後悔した。
と、自分の目の前に広がる光景に首をひねる。
そこは自分の部屋とは思えないほど片付いた――というより物がない、殺風景な部屋だった。
「どこだ? ここ…」
呟いてから、彼は昨日のことを思い出した。
「そうだった…引っ越したんだよな」
祐一は昨日から、この家、水瀬家に居候することになったのだ。
家主の名前は水瀬秋子。
祐一の叔母にして、従兄妹の水瀬名雪の母親でもある。
7年ぶりの街。
7年ぶりの家。
そして、7年ぶりの再会。
7年前、確かに自分はここに住んでいた。
それははっきりと覚えていた。
だが、その時の記憶をどうしても思い出せない。
7年前の冬にあったことが、人と交わした会話が、何一つ思い出せない。
「……考えても仕方ないか」
悩んでいても始まらないし、何より、この寒さの中いつまでもパジャマ姿でいるのは辛いものがある。
あっさり頭を切り替え、着替え始めた。
「あっ…わたしまだパジャマだよっ」
壁越しに間延びした声が聞こえてくる。
察するに、先程からの騒音の原因であろう少女の声。
「うー…本当に時間ないのに…」
切羽詰っている台詞の割には、あまり大変そうな口調ではなかった。
バタンッ
そして、またも響くドアを閉める音。
「名雪のやつ…朝っぱらから何をバタバタしてるんだ?」
疑問半分、呆れ半分という口調。
手早く着替えを終え、廊下に出る。
祐一が廊下に出るのとほとんど同時に、隣の部屋のドアが開いた。
そこから名雪が顔を出し、そして、階下に向かって言う。
「お母さん、わたしの制服、ないよ〜」
先の言葉どおり、名雪はパジャマの上に半纏を羽織っただけという、祐一にしてみれば見ているだけで寒くなれそうな姿である。
「時間ないよ〜、時間ないのにどうしよう〜」
困った顔で呟く。
ちなみに、顔は困り果てているが、声の方はどうも間延びしていて、やはり今ひとつ切迫感に欠ける。
と、名雪は自分の隣に、部屋から出てきたばかりの祐一がいることに気付いた。
「あ…おはよう、祐一」
にこっと微笑みながら、今までもそうだったというように朝の挨拶をする。
「…………」
あまりにも自然な挨拶だったので、祐一は思わず言葉に詰まった。
「ダメだよ、祐一。朝はちゃんと、おはようございます、だよ」
「えっと……おはよう」
少し戸惑いながら、言われたとおり挨拶を返す。
「うん。おはようございます」
にっこりと二度目の挨拶をする名雪を見て、祐一はどうにも照れくさくなってしまった。
「あっ…そういえば、時間と制服がないんだよ」
「そのようだな」
先程までの騒ぎと、彼女の台詞を聞いていれば分かる。
「祐一、わたしの制服知らない?」
「そんなの俺が知るか…と、待てよ。制服って、昨日も着てた変な服のことだろ?」
「変じゃないよ…」
「秋子さんが洗濯してたんじゃないか? 確か」
「あっ……」
名雪も思い出したのか、踵を返して階段を駆け下りていった。
間もなく、名雪が嬉しそうな顔で変な服――もとい、制服を抱えて上がってくる。
「あったよ〜」
「よかったな」
「でも、ちょっと湿ってる……」
制服は、乾かしている途中だったのか、名雪の言うとおり湿り気を帯びているようだ。
「我慢しろ。嘆いても乾くわけでもないし」
「うー……そうだね」
渋々、といった顔をしつつ、着替えるべく部屋に入っていく。
「やっぱり湿ってる〜」
「文句を言うな」
「肌に貼りつく……」
「ここだって寒いんだ」
祐一は廊下の壁に寄りかかり、名雪の部屋から聞こえてくる悲鳴に応える。
よく考えれば、自分は別に待っている必要はないのだが、成り行きでなんとなく離れづらくなってしまった。
〈なゆきの部屋〉と書かれたドアプレートに背中を向け、廊下の壁にもたれかかる。
「お待たせ」
着替え終わった名雪が部屋から出てきた。
その姿を見て、祐一はやはり変な服だという印象を強める。
「そういえば、起きるの早いね。祐一は休みなんだから、まだ寝ていてもいいのに」
「そう言うんだったら、もう少し静かに騒いでくれ」
「うー、難しいよ」
「いや、まあ…そんなことより急いでたんじゃないのか?」
冗談を素で返され、なんとなく虚しさを覚え話題を変える。
「時間は大丈夫なのか?」
「うん。全然大丈夫じゃないよ」
階段を下りながら、あくまでものんびりと言う。
「何かあるのか?」
何かあるから急いでいるのだろうが、訊いてみる。
「部活があるんだよ」
「ああ……陸上部だったよな」
「うん」
陸上部、しかも部長をやっているという話を、昨日家に案内される途中で聞いた時、祐一は最初冗談かと思ったが、どうやら本当のようだ。
「今からでも間に合うのか?」
彼はまだ、ここから学校までどれくらいかかるのか、部活が何時から始まるのかも知らない。
「一生懸命走れば間に合うよ」
どうやらかなり厳しいらしい。
玄関に着いたところで、祐一は名雪に訊くことがあったのを思い出した。
「なあ」
「ん〜?」
「今日は何時に帰ってこれる?」
「んと、今日は冬休み最後の部活だから、お昼過ぎまでには帰ってこられるよ」
祐一の質問に、名雪は靴を履きながら答えた。
「だったら、帰ってからでいいから街を案内してくれないか? 久しぶりなんで、あんまり覚えてないんだ」
「うん、わたしでよければおっけーだよ」
「悪い、ありがとな」
さして悩みもせず承諾してくれた従兄妹に感謝する。
「あら?」
不意に、二人の背後から声がかかった。
振り返ると、この家の主、水瀬秋子が立っていた。
「あ、お母さん」
「名雪、まだいたの」
いかにもおっとり系という雰囲気の女性である。
見た目はかなり若く、17歳の娘がいるとはとても思えないほどだ。
「もうこんな時間だけど、今から間に合うの?」
「100メートルを7秒で走れば間に合うよ」
“それは世界新だ”
祐一が心の中で突っ込みをいれるが、当然二人には聞こえるはずもない。
「がんばってね」
「うん」
「がんばっても無理だって…」
軽く頬に手を添えて微笑み、娘を応援する母親と、笑顔で応える娘に、今度は声に出して言うが聞いていない。
「それじゃ、行ってきます」
名雪が玄関のドアを開け、出て行った。
開いたドアから冷えた空気が入り込んでくる。
「気をつけてね」
秋子が笑顔で手を振り見送った。
祐一は名雪の背をぼんやりと見ながら、
“これで間に合ったとか言ったらすごいよな……”
ありえないと思いつつ、そんなことを考えてみた。
名雪の後ろ姿を見送った後、秋子がぽつりと呟く。
「もう少し早く起きてくれると助かるんだけど…」
「名雪って、朝弱いんですか?」
「明日から祐一さんも大変ですね…」
祐一の問いかけへの答えなのか、それともただの独り言なのか。
「祐一さん、朝ごはん食べますか?」
「あ、はい、頂きます」
「待っていてください、すぐ用意しますから」
「はい」
祐一は、昨日の夕食の味を思い出しながら言った。
自分の母親のものと違い、秋子が作った料理は一流レストランでも通用しそうなほどのものであった。
「そうそう、祐一さん」
祐一がリビングのテーブルに腰掛けたところで、秋子はまるで世間話をするかのように話しかけた。
「何ですか?」
軽く返事をした祐一は、秋子の次の言葉に思わず表情を引き締めた。
「お仕事のお話なんですけど…」
「っ……はい」
対する秋子は、あくまでも笑顔のまま続ける。
「祐一さんの実力、こちらではまだあまり知られていませんから、最初はなかなか依頼がこないと思うんです」
「ええ、分かっています……というより、向こうでも有名だったわけではないですよ。まだまだ駆け出しですから」
「あらあら、謙遜しなくてもいいんですよ」
秋子が頬に手を当てにっこりと微笑む。
「祐一さんは十分《狩人(ハンター)》としての力があります。私が保証しますよ」
「はあ……」
褒めてもらえるのはありがたいが、自分より遥かに実力がある人間に言われても、素直に喜べるものではなかった。
「でも、さっきも言ったように、この地域にはそれを知る人はあまりいません。ですから、しばらくは私にきた仕事を代理人としてこなす、というのはどうでしょうか?」
「代理人……いいんですか?そんなことして頂いて」
「ええ」
遠慮する祐一に、秋子は微笑をもって答えた。
「実を言うと、最近依頼が多くて少し困っていたんです。祐一さんが手伝ってくだされば、私としても助かるんですけど……」
「………断る理由はありません。是非お願いします」
「了承」
秋子は心なし笑みを強め、祐一の言葉に1秒で返した。
おそらく、秋子にくる依頼が多いというのは本当だろう。
だが、それを自分に回してくれるというのは、明らかに彼女の厚意だ。
それくらい祐一にも分かった。
だから彼は思う。
「じゃあ、早速今夜からお願いできますか?」
「はい、分かりました」
厚意と信頼には実力を示すことで応えてみせる、と。