夢か現か幻か
Prologue
雪が降っていた。
重く曇った空から、真っ白い結晶がゆらゆらと舞い降りていた。
冷たく澄んだ空気に湿った木のベンチ。
そのベンチに、一人の少年が座っていた。
「……」
17、8歳だろうか。
くすんだ黒髪や両肩に雪を積もらせ、黒瞳をうんざりしたように鉛色の空に向け、白い溜め息を一つ吐いた。
ベンチに深く沈めた体を起こして、居住まいを正す。
ここはとある駅前の広場。
屋根の上が雪で覆われた駅の出入り口は、今もまばらに人を吐き出している。
少年が、ちらりと街頭の時計を見ると、時刻は3時。
「……遅い」
少年は再び椅子にもたれかかるように空を見上げて、一言だけ言葉を紡ぐ。
視界が一瞬白い靄に覆われて、そしてすぐに北風に流されていく。
体を突き刺すような冬の風。
そして、絶え間なく降り続ける雪。
心なしか、空と雲の白い密度が濃くなったような気がした。
“やっぱり、来る前に暖房術を覚えておけばよかった…”
【理術】はあまり得意ではないが、練習すれば覚えられないということもない。
だが、以前住んでいたということもあり、この土地の寒さを侮っていた。
“これは…想像以上に寒い”
今更後悔しても遅い。
もう一度溜め息混じりに見上げた空。
その視界を、ゆっくりと何かが遮る。
「……」
雪雲を覆うように、女の子が少年の顔を覗き込んでいた。
「雪、積もってるよ」
とろんとした青色の瞳を少年に向け、ぽつり、と呟くように白い息を吐き出す。
「そりゃ、2時間も待ってるからな…」
「…あれ?」
彼の言葉に、女の子は不思議そうに小首を傾げる。
「今、何時?」
「3時」
「わ…びっくり」
台詞とは裏腹に、全然驚いた様子もなかった。
「まだ、2時くらいだと思ってたよ」
「それでも、1時間の遅刻だ」
「ひとつだけ、訊いていい?」
少年の指摘を聞き流して言ってくる。
「…ああ」
「寒くない?」
「寒い」
即答。
最初は物珍しかった雪も、今はただ鬱陶しいだけだった。
「これ、あげる」
そう言って、缶コーヒーを1本差し出す。
「遅れたお詫びだよ。それと…再会のお祝い」
「7年ぶりの再会が、缶コーヒー1本か?」
少年が差し出された缶を受け取りながら、改めて少女の顔を見上げる。
素手で持つには熱すぎるくらいに温まったコーヒーの缶。
痺れたような感覚の彼の指先に、その温かさが心地よかった。
「7年…そっか、そんなに経つんだね」
「ああ、そうだ」
温かな缶を手の中で転がしながら…。
もう忘れたとばかり思っていた、子供の頃に見た雪の景色を重ね合わせながら…。
「わたしの名前、まだ覚えてる?」
「そういうお前だって、俺の名前覚えてるか?」
「うん」
雪の中で…。
雪に彩られた街の中で…。
7年間の歳月、一息で埋めるように…。
「祐一」
「花子」
「違うよ〜」
「次郎」
「わたし、女の子…」
困ったように眉を寄せる。
一言一言が、地面を覆う雪のように、彼の記憶の空白を埋めていく。
彼女の肩越しに降る雪は、さらに密度を増していた。
「いい加減、ここに居るのも限界かもしれない」
「わたしの名前…」
立ち上がった少年に、女の子が不満そうな顔を向ける。
「そろそろ行こうか」
「名前…」
7年ぶりの街で、7年ぶりの雪に囲まれて、
「行くぞ、名雪」
新しい生活が、冬の風にさらされて、ゆっくりと流れていく。
「あ…」
祐一が視界の端に捉えた少女は――
「うんっ」
名雪は、満面の笑みを浮かべていた。
薄暗い病室。
部屋にいるのは彼と、部屋の主である少女。
この時間、室内を照らすのは窓から入ってくる日の光のみ。
今日は生憎の空模様でそれすらもほとんどない。
だが、どんなに暗くともこの部屋の患者には関係のないことだった。
なぜなら――目を開かないから。
眠ったまま、目を開かないから。
だから、部屋の明るさなど意味はない。
あるとすれば、看護師や医者が検診に来た時だけだ。
従って、彼は明かりを点けなかった。
暗く、清閑とした部屋。
彼は関係者以外入室が固く禁じられたこの部屋に無断で侵入し、十数分前からベッドに眠る少女の顔を眺めていた。
「……」
ふと、腕時計に目を落とすと、時刻は3時。
そろそろ巡回の看護師が来る時間だった。
見付かると厄介なので、早々に帰ろうとし、
「……?」
なんとなく違和感を覚え、もう一度、少女の顔を見る。
何も変わったところなどない、相変わらずの寝顔。
彼は、その寝顔へ手を伸ばした。
「……」
ゆっくりと…。
「……」
ゆっくりと…。
「………っ」
指先が触れそうになったところで動きを止める。
彼は自分の手を見詰め、しばし後、自嘲気味に唇を歪めた。
腕を引き、少女に背を向ける。
そのまま振り返らずに部屋から出て行った。