夢か現か幻か




Episode9:再会? 邂逅?





 二人並んで、祐一と名雪は校門を出る。


 予定のない祐一はもとより、今日は名雪も部活の練習がないため、一緒に家に帰ることになったのだが、どうにも気まずい空気が流れていた。

 原因は言うまでもなく、先程の香里の――ついでに潤の――不可解な態度だった。


 困惑しているのは二人とも同じだが、名雪はそれ以上に、落ち込む気持ちの方が強い。


 香里の様子はおかしかった。

 口調がきつい事は時たまあるが、あのように〈壁〉を感じさせる物言いをしたのは、初めてだった。


 香里がそうなった理由――彼女の妹だという栞なる少女――のことは、祐一から聞いた。

 実際会っていないので分からないが、わざわざ嘘をつく理由もないと思われるので、少女の言うことは真実である可能性が高い。


 祐一の妄言だと言う可能性もあるが、それこそ理由がない。


 香里に妹がいるという話は、聞いたことがない。

 彼女の家に行ったことはないし、そういった会話をした覚えもなかった。


 彼女の家庭のことを、知らないのだ。

 何も。


「――ま、どっちを信じるか……だよな。栞か、香里か」

 不意と、祐一が口を開いた。


 沈黙に耐えられなくなったのかもしれない。

 一人で思いつめているとどんどん思考が暗くなってしまいそうなので、名雪には若干ありがたいことだった。


「……祐一は……その娘が嘘を言ってるかもって思うの?」

「その可能性もあるってことだ。さっきの香里の様子は変だったけど、あれだけじゃどっちが嘘ついてるかなんて分からない……香里とも栞とも、俺は知り合ったばっかりだしな」

「………………」

 それはその通りだ――だが、


「……香里……きっと嘘ついてる」

 名雪には確信に近く、そう思えた。


「……そっか……そうなのかもな」

 否定はせず、さりとて強く賛同もしない。

 そんな祐一の態度は、慎重というより煮え切らないものに思えてしまう。


 早計に判断はしたくない、ということなのだろうが。


「…………祐一」

「ん?」

「……どうしたらいいのかな?」

 漠然とした問いかけ。

 言ってから、自分でそう思った。


 だが、祐一はすぐさま意図を汲み取り、


「んー……俺はほっとくことにするさ。しばらく」

 答えた。


「ほっとく?」

「ああ、香里はどうもこの件に関してはあんまり話したくなさそうだったし……そんなずけずけ訊いてよさそうな雰囲気でもなかったからな」

「…………」

「普段どおり――ってのも変だけど、ともかくこの話題を出さないようにしながら、付き合ってくことにするさ……もっとも、今日のことで機嫌悪くして、避けられるようになったりしたらそれまでだけどな」

「それは……ないと思う」

 断言はできないが、いくらなんでもそこまで態度を豹変させるようなことはないと思う。名雪にしてみると、彼女は自分よりもずっと〈大人〉だ。たった一つの話題を振られただけで人を避けるようなことはしないはずだ。


「じゃあ問題ないな。何か分かるまで、ほっとくよ」

「…………わたしは――」

 逡巡する。

 香里が何か嘘をついていることは確かだと思うが、それを問い質すべきなのか、そうすることが正しいのか……


 悩む名雪を、祐一は黙して待つ。


「……うん……わたしも、今までどおりにするよ」

 しばし後、そう結論を下した。


 誰にでも隠しておきたいことや、触れてほしくないことはある。

 否定したいことや、目を逸らしたいことはある。


 忘れてしまいたいことも、ある。



 そのことを、自分も知っているから。



「香里が、自分から話してくれるまで……待つよ」

 ちくりと、胸に走った痛みを隠しつつ、


「そうか……」

 応える少年に、たおやかな笑顔を見せた。










「どういうことだ?」

 呼び出した相手が顔を見せた瞬間、月影桜夜はそう切り出した。

 言われた相手――流崎望は、問いかけの意味が分かっているだろうに、


「何がですか?」

 首を傾げて、そう返してきた。

 心なし、桜夜の顔が憮然としたものになる。


 ここは昨日と同じ、屋上に通じる階段の踊り場。

 人が来ない分、密会にはうってつけだが、メリットらしいものはそれくらいだ。


 寒いし、暗い。

 こんな季節、こんな場所に用があるのは、自分たちくらいだろう――と思いかけ、すぐさま桜夜は撤回した。


 こんな季節、こんな場所に用がある連中を、彼は知っている。

 それはともかく、


「決まっている。昨日のことだ……何故他の狩人が来た?」

「偶然仕事が重なっちゃったみたいですね」

 真顔で、しゃあしゃあと答える望を、眼光を鋭くし眼つける。


「嘘は言ってませんよ。【EDEN】が僕らに討滅命令を出したのと、【協会】が街の狩人に討滅を斡旋したのが同時だっただけ……よくあることでしょう?」

「それは分かっている」

 望の言うとおり、よくあること――とまでは言わないが、今まで何度か経験したことではあった。

 今さら、その程度で一々目くじらを立てたりはしない。


 だが――


「俺が訊いているのは、どうしてあいつが結界に入ったことを知らせなかったか? ということだ」

 昨晩、望はいつもどおり周囲の監視をしていたはずなのだ。

 二人の役割分担は、普段からそういうことになっている。


 結界を張るとはいえ、何かの拍子に【妖魔】が突破して逃げ出すとも限らない。

 その時に一般人に見られたら……さらに危害を加えられでもしたら、最悪としか言いようがない。


 そういったことがないように、桜夜が狩りを行なっている間は、望が〈狩場〉に人が近づかないようにしていたはずなのだ。


 しかし、どういうわけか、あの少年が【狩人】だったとはいえ――いや、場合によっては一般人よりも対処が厄介になる相手がK社ビルに近づいても、あまつさえ結界の中に進入までしても、望は桜夜に連絡すらしなかった。


 うっかりしていた――などと言わせるつもりはない。

 この少年に限って、そんなことはありえない。

 何らかの意図が、あったはずなのだ。


「…………そんなに恐い顔しないでくださいよ……」

 困ったような――それでもかすかに笑みを含んだ――顔をしつつ、望は観念したように口を開いた。


「ただ、逢っておいてもらいたかっただけですよ。あの人に」

「……なんだと?」

 それは奇妙な返答だった。

 当然の如く、桜夜は訝しげな表情になる。


「面白い人だったでしょう?」

「…………」

 そんなことを問われても、答えようがない。

 あの少年を前に、不可思議な感情に捕らわれたのは確かだが――それを上手く言葉にすることはできそうにない。


「……あいつに逢わせて、それでどうしようと言うんだ?」

 逆に問いかけると、少年は軽く微笑を浮かべた。


「どうもしませんよ。ただ、逢うだけで意味があるんです」

 不可解な事を言ってくる。

 実は、眼前の少年にはよくあることだった。


 思わせぶりで、もったいぶっていて、真意を見せない。

 常の、少年のスタンスだ。


 それを一々気にしていたのではキリがないのだが……かといって、ほうっておこうという気にはなれない。

 どんなに意味がないように思えても、少年がそうするということは、何かしら意味があるのだ。


「…………」

「逢うだけでいいんです。彼と逢ったということが、いずれ大切な〈意味〉を持ってくるはずだから」

 そこで、いったん言葉を切り、


「あなたにも……僕にも、ね」

 そう、付け加えた。










 昼食を食べ終わり、祐一が居間でテレビを見ていると、鞄を片手に秋子が姿を現した。


「今からお出かけですか?」

「はい。冷蔵庫を見てみたら、おかずになりそうなものが少なかったから」

 買い物鞄を手に提げ、淡く微笑むその姿を見ると、そこらの平凡な主婦となんら変わりはない。


 彼女も主婦であることは確かなのだが……その裏の顔を知る祐一としては、平凡とは言い難い女性であった。

 立ち居振る舞いに隙がなさ過ぎるのも、そんな印象を強める理由かもしれない。


「だったら、俺が行ってきますよ」

 祐一は当然の如く申し出た。


 彼としては、居候の身でありながら、昼間からテレビを見てぼーっとしているだけというのは、なんとも申し訳なく思えてくるのだ。


「そう……なら、お願いしようかしら」

 秋子も祐一の心情をすぐに察し、汲み取ってくれた。

 微笑みながら、財布と鞄を渡す。


 名雪を誘おうかとも思ったが、彼女は自室に戻っている。

 呼び出すのも面倒なので、一人で行くことにした。


「何を買ってくればいいんですか?」

「食べたい物を買ってきてくれればいいのよ」

「了解」

 なんともアバウトな返答に苦笑しつつ、祐一は家を出た。





 商店街への道中、


「……ん?」

 ふと、何者かの視線を感じ、祐一は立ち止まった。


 殺気――とまでは言わないが、剣呑な気配だ。


 注意深く周囲を探る――と、いた。

 後方、十字路の陰からこちらを見ている。


 無論、祐一とて背中に目がついているわけではない。
 
 感じる視線や気配から、相手の位置を特定する訓練を散々受けているからこその芸当だった。


 とはいえ、今回に限って言えば、特に誇れるような事でもなかった。


 視線があからさま過ぎるのだ。


 じー…という擬音すら聞こえてきそうである。

 これでは祐一でなくとも、普通の人間でも視線を向けられていることを察知できるかもしれない。


「…………」

 祐一はゆっくりと歩みを再会する――ふりをして、


 ばっ


 振り向いた。


「――っ!」

 視界の隅に影が映る。

 壁の陰から出ようとした所を、こちらが急に振り返ったので、慌てて戻ったのだろう。


「…………」

 明らかに尾行に関しては素人だった。


 露骨な視線、丸出しの気配、不用意な追跡。

 どれを取ってもなってない。


「……おい、何か用か?」

 半ば呆れた口調で、呼びかけてみる。


 反応はない。


“なんか分からんが……まあ、いいか”


 悪意は感じられるが、脅威とは思えない。

 いつまでも道の真ん中に突っ立ているのもアホらしい。

 こちらから近づいていくのは面倒くさい。


 多少は鬱陶しいものの、買い物を済ませる方が先決、と判断して、再び商店街へ向かって歩き出した。





 見つけた。

 探していた。


 その相手を見つけた。

 その姿を見た瞬間、激しい喜びと、同時に憎しみが湧き上がってきた。


 目が離せない。

 握った手にどんどん力が入る。


 許せない。

 絶対に許せない。


 そいつが憎い。

 どうしようもなく憎い。


 逃がしはしない。

 追いかけて、近づいて――そして、復讐してやるのだ。


 先程は不用意に近づきすぎて、危うく見つかってしまうところだった……いや、そういえば復讐するのだから、隠れている必要はないんじゃないか?


 いやいや、さっきのは……そう、不意を打つためだったのだ。

 相手が油断している隙に、とびっきりの一撃をお見舞いしてやるつもりだったのだ。


 だけど、うん。

 やっぱりそんな卑怯なのはよくない。


 だってこれは正当な復讐なのだから。

 こそこそする必要なんて、全然ない。


 姿を見られそうになったのはびっくりした。


 その上声までかけられてしまったことはさらに驚いたが、そいつの声を聞けたのはラッキーだった。

 おかげで、よりいっそう、〈そいつ〉だと確信できた。


 正々堂々と向き合って、そしてこの思いをぶつけてやろう。





 商店街に着き、近くのスーパーに入る。


 視線と気配はここに来るまでもずっと付きまとっていたが、さすがにスーパーの中までには追ってこなかった。

 だが、おそらくはまだ外にいるのだろう。


 視線に含まれていた悪意は、そう簡単に引いてくれる程度のものではなかった。


「さて、何にするかな…」

 それでも祐一は、警戒は最低限に止め、買い物に思考をめぐらせる。

 特に指定されないとなると、どうにも悩む。


 食べたい物を買ってくればいいとは言われたが、今は特に食べたい物などない。

 強いて挙げるなら、〈秋子さんの手料理〉と言ったところか。


「…ゴーヤ…ピータン……ヘットファン………パックチー……うーむ、弱いなぁ」

 何が弱いのかは分からなかった。


 結局、野菜を数個、肉を二パック、惣菜を数点見繕って、買い物籠へ入れていく。

 何を買っていっても、彼女ならば何とでも調理してくれるだろう、と判断したからだ。


 祐一が会計を済ませ、スーパーの外へ出る――と、


「……やっと出てきたか」

 待ち構えていたように、全身を使い古された布で覆った人影が一つ、立ち尽くしていた。


 はっきり言って、かなり人目を引いている。

 十中八九、自分を尾行していた人物だろう。


 小柄な体躯。

 顔は布の陰になっていて窺えない。


「何なんだよお前? 何か用か?」

 半ば――以上に呆れた口調で、祐一は声をかける。


「やっと見つけた……」

 質問に答えず、人影は呟く。


 その声を聞き、祐一は少々驚いた顔をする。

 といっても、べつに聞き覚えがあったわけではない。


 その声が凛とした――おそらくは女の子の――ものだったからだ。


 人影が、ばっと纏っていた布を投げ捨てる。



「――あなただけは許さないから」



 現れたのは、予想通り年若い少女であった。

 さらに予想通りなことに、まったく見覚えのない顔でもあった。


 デニムのジャンパーにミニスカート。

 肩から鞄を提げ、履かれたブーツの脇に投げ捨てたばかりのボロ布が落ちている。


 明るい色の長髪が、夕日を受けて橙色に煌いている。

 幼さは残っているものの、中々に整った顔立ちの持ち主だ。


 笑顔でも見せればさぞ映えるであろうに、しかし口元はきゅっと結ばれ、鋭い目つきで祐一を睨んでいる。


「お前のような奴に恨まれる覚えはないぞ」

「あるのよ、こっちには」

 ただならぬ空気が漂う。

 どうも穏便に済みそうな状況ではない。


 少女の眼は真剣そのもので、冗談や嘘でこのようなことを言っているのではないことは、祐一にも分かった。


「覚悟!」

 拳を握り込み、踏み込んでくる。

 短く息を吐きつつ、拳を突き出す。


 ひょい


 それをあっさり避ける祐一。

 空かした反動で、少女が慌ててたたらを踏む。


「避けないでよっ!」

「いや、避けないと痛いし」

 無茶なことを言い出す少女に、律儀に返す。

 聞いた少女は、夕日のせいばかりではなく、顔を赤く染めた。


「うー…馬鹿にして! このっこのっこのーっ!」

 勢いよく次々と拳を繰り出す――と言えば聞こえはいいが、実際はただ出鱈目に拳を振り回しているだけだ。

 当然の如く祐一はすべて見切って、楽々とかわす。


 少女の動きはさほど悪くはない。


 体捌きは鋭く、軽快だ。

 突きのスピードも連打の速度もそこそこ。

 何より思い切りがいい。


 人を――というより祐一を殴ることに、躊躇いはないらしい。


 だが、はっきり言ってそれだけだ。

 筋がいい、といった程度のもの。


 きちんと訓練を積んでいない、素人同然だ。

 相手の動き――回避行動を頭に入れていない。


 攻撃までの予備動作も大きいので、どこを打とうとしているのかが手に取るように分かる。


「いやねぇ…ケンカ?」

「どうやら痴情のもつれらしいわよ」

 祐一は余裕のためか、周囲の状況にまで気を配れる。


 いつの間にやら、彼らを中心に人だかりができていた。

 商店街のど真ん中で格闘を始めたのだから、ある意味当然と言えよう。


 それにしても――


“なんだって痴情のもつれってことになってるんだ?”

 当然の疑問が浮かんでくるが、否定しようにも少女の攻撃は続いている――持久力もあるらしい。


「散々弄んで貢がせた挙句、飽きたらポイッですって」

「まぁ! 酷い男がいたものね」

「何でもあの娘を薬漬けにしてたらしいぞ」

「親の借金のカタ代わりに売られちまったらしい」

「金が払えないんだったら身体を売ってでも作ってこいだとか…」

「かわいそうに」

 噂話は瞬く間に伝播していく。

 しかも根も葉もない出鱈目な上に、かなり過激な内容になってきた。


“潮時か……”

 これ以上噂がエスカレートされるのは困る。

 下手をすると警察を呼ばれかねない。


 一発でも殴らせてやれば、とりあえず気は治まるだろう。

 そう判断し、回避をやめるべく足を止めた。


 その時――


「いいかげんに――」

 いつまでたっても掠りもしないことに苛立ったのか、少女が大きく拳を引き、腰を落とす――瞬間、祐一の意識が凍りついた。


“なぁっ!?”


 それは光の加減が見せる幻像だろうか――否。

 確かに、少女の拳は今、煌く赤光を纏っている。



 これは…この感覚は間違いなく――



「――当たりなさいよ!」

「――っ!」

 少女が全身を捻りながら、拳を突き出す。


 頭で考えるよりも早く、体が動いた。

 とっさに少女の拳を手で弾き――同時に逆の腕が出ている。



 ガンッ!



 ハンマーで鉄板を打ったような音が、商店街に響いた。


「…………あっ」

 静まり返った空気を祐一の呟きが破った。

 少年の腕には、脱力した少女が抱えられている。


“やっちまった……”

 あまりに予想外な脅威――そう、脅威だ――に、思わず反撃をしてしまった。


 鳩尾を肘で打たれた少女は、完全に気を失っている。

 周囲から非難に満ちた視線が祐一に注がれる。


「おい、女の子が殴り倒されたぞ!」

「自分で捨てた挙句……なんて酷いことを」

「やっぱり警察を呼んだほうが……」

 状況はかなりまずいものになっていた。

 周りの言うことの真偽はともかく、少女を殴り、気絶させたのは紛れもなく事実だった。


“――逃げよう”

 数秒で判断し、少女を担ぎ上げる。

 ここで置いていけば、それこそ本当に警察沙汰になりかねない。


 そして――こちらの理由の方が大きかった――祐一も少女に詳しく訊きたいことがある。


「どうもー。お騒がせしましたー」

 なるべく人が良さそうに見える笑顔を浮かべ――そう見てくれたかは果てしなく不安であるが――小さく一礼した後、脱兎の如く逃げ出した。


 その場を去る直前、こっそりと背後に視線をやる。





 彼の瞳には――先の異音の元であろう――奇妙に窪んだスーパーの壁が映っていた。






第8話 第10話

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