夢か現か幻か
Episode8:中庭の少女
朝、カーテンを開けると、柔らかな日が差し込んできた。
真新しいブレザーに袖を通しながら、祐一は昨晩の出来事を思い返していた。
結局、特に語らうこともなく分かれた男。
彼はあの後、どうしたのだろうか。
事の顛末は秋子に仔細洩らさず報告した。
取り敢えず【妖魔】が消えたことは確かだが、標的を先にしとめられた形になってしまった。
彼女の代理として依頼に望んだ以上、せめて報告ぐらいは怠るわけにはいかない、と思ったからだ。
事情を聞いた秋子は「了承」とだけ言って済ませてしまった。
何が了承されたのかはよく分からなかったが、特に問題はなかったらしい。
“…ツキカゲサクヤ……とか言ってたかな、あいつの名前……”
不思議な感覚だった。
聞いたことのない名前、見たことのない顔。
なのに、どこかであったことがあるような気がする。
「……ま、気のせいだよな」
そう呟いたところで、
ピピピピピガーガガガピージリリリリギュゴオオオオオズギューンズギューン
隣の部屋から騒音が聞こえてきた。
「……名雪か」
大きく溜め息を吐く。
今日は歩いて学校に行けることを祈り、名雪を起こすために自室を後にした。
「で、やっぱり無理だったわけね」
「ああ、案の定無理だったぞ」
学校まで全力疾走した事と、その原因を香里に言うと、彼女はさもありなん、という顔をした。
自分の水瀬家での同居に関しては、とっくの昔(およそ24時間前)に知れ渡っているのだから、もはや隠す意味も、話題を選ぶ手間もない。
名雪のねぼすけっぷりを克明に伝えてやった。
「この娘、前からそうなのよねぇ。いつだったか、名雪の家に泊まりにいったことがあったんだけど――」
「それ以上は言わなくていいぞ。何があったか、身をもって分かっている」
「なんであんな中で寝れるんだか……もしかして新種の怪病かしら?」
「今度の学会で発表してみようぜ」
二人でうんうん、と頷くと、名雪が拗ねたような顔をする。
というより、拗ねている。
「ひどいよ二人とも……わたしだって努力はしてるよ」
「ほほう、どんな?」
名雪の主張に、疑惑の視線を向ける祐一。
「早めに寝たり……目覚まし時計の数を増やしたり」
「早めって、何時くらいに寝てるんだ?」
「えっと……昨日は8時に寝たよ」
「…………それは早すぎだろ」
きょうび、小学生でもそんな時間に寝ないだろう。
それほど眠れることの方が、祐一には驚異的である。
「うーん……やっぱり目覚ましの数をもっと増やすしかないのかな?」
「それはやめなさい」
香里がすぐさま止める。
祐一も同感だった。
あの目覚ましの山に、いまさらひとつふたつ増えたところで、起きるとも思えない。
間もなくチャイムが鳴り、数人の生徒が慌てて教室に入ってくる。
その中に潤の姿もあった。
「うーすっ」
「おう、ギリギリだったな」
「ちょっと寝過ごしてな……そういう相沢は、今日はゆっくり登校できたのか?」
「ふ、もちろん……無理だったぞ」
「だろうな」
あっさりとした潤の言葉を聞きつつ、ふと疑問が湧いた。
「……ん? なんで昨日、走ってきたことを知っているんだ?」
祐一はまだ、転校2日目だ。
『今日は』と言うのなら、昨日の件も知っているということだろう。
「ふふん。どうしてだと思うかね? ワトソン君」
「誰がワトソン君だ、誰が」
祐一のツッコミを無視して、したり顔で潤は続ける。
「簡単なことだよ。キミの隣に座る少女が昨日、『今日も朝から走って気持ちよかったよー』と言っていたからさ」
隣に座る少女――名雪は「そうだっけ?」と首を傾げている。
その後ろで香里が首肯していた。
「キミと彼女は同じ屋根の下に住んでいるのだろう? ということは、転校初日のキミを先導する役目を担ったはずの彼女と共に、キミも走って登校した……と推理できるわけさ」
「へえー……すごいね北川君。名探偵みたいだよ」
「…………」
素直に感心する名雪と、「いやなにそれほどでも」などとのたまう潤の顔を見つつ――
「はああああぁぁぁ」
盛大に、溜め息を吐いた。
一時間目。
教科書をまだ手に入れていない祐一は、潤のものを借りて授業を受けていた。
最初は名雪が一緒に見ようと申し出てくれたのだが、丁重に辞退させて頂いた。
名雪と席をくっつけて教科書を見るなど、かなり間抜けな上に照れくさい。
授業の進度は前の学校よりも進んでいるようだ。
なんとか早く追いつかないと、試験の時が怖い。
しかし、理解できない授業など苦痛に思えて仕方がない……ので、授業も後半に入ると、教師の言葉を半ば聞き流しつつ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「……ん?」
窓から下に視線をやると、中庭が望める。
数本の木々、雪に埋もれた中から所々姿を見せている芝、まばらに置かれたベンチ。
この時間は――いや、たとえ授業中でなくとも、こんな季節に好んで人が寄り付く場所ではないだろう。
だがそこに今、一人の少女がじっと佇んでいる。
祐一は目を凝らして見てみた。
俯いているせいで顔はうかがえないが、着ているものは制服ではないことは分かった。
“なにやってんだ?”
もちろん、考えても分かるわけがない。
その内帰るだろう――と判断して、視線を黒板に移した。
あまり窓の外ばかり気にしていると、教師に見咎められる。
転校して最初の授業から注意されるなど、それこそ間抜けな話だ。
そして、四時間目。
今日は半日なので、これが最後の授業ということになる。
件の少女は、未だに中庭にいた。
どうにも気になって、時たま覗いているのだが、少女はいっこうに動く気配がない。
胸の前で手を合わせ、じっと立ち尽くしている。
その姿はまるで、誰かを待っているように見える。
“……んなわけないか”
ふと浮かんだ考えを、即座に否定する。
待つにしてもあんな場所に、朝からじっと立っている必要はない。
学校にいる人間に用があるのなら、その人物の所に行けばいいのだから。
と、授業終了を告げるチャイムが鳴った。
その音を待ちわびていたかのように、少女が空を見上げる。
「……あの娘は――」
ようやく見ることができた少女の顔に、彼は見覚えがあった。
教師が教室を出て行くと同時に、祐一は音を立てて席を立った。
名雪が驚いたように見てくる。
「祐一、どうしたの?」
「急用ができた」
それだけ言い残し、教室を飛び出した。
「え…ゆ、祐一?」
困惑したような名雪の声を背に、一路、中庭へと向かう。
ばんっと音を立てて、重たい扉が開く。
白と緑に埋まった景色。
やはり、今の季節は人が訪れることなどないのだろう。
その少女を除いて。
真っ白な雪の絨毯の上に、彼女は相変わらず佇んでいる。
周りの雪に負けないくらい白い肌、首筋まで短く切った髪、小柄な体はあきれるほどの薄着と、一枚のストールにしか包まれていない。
間違いなく、昨日、あゆと共に出会った少女だった。
祐一はしばし迷った後、結局上履きのまま中庭へと降りる。
戻る時に雪を払えばいいだろう。
「なにをやってるんだ?」
ゆっくりと少女に歩み寄りつつ、声をかける。
少女が祐一に気付いて、顔を向けた。
数瞬の後、わずかに驚いたような表情を見せる。
「よう、また会ったな」
「あ…」
少女は短く声を上げた後、こくりと頷き、微笑んだ。
「どうしたんですか? こんな所に」
「なに。中庭に生徒以外の不審人物を見つけたんで、注意しに来たんだ」
「そうなんですか、ごくろうさまです」
少女はぺこりとお辞儀をした後、「でも――」と続けた。
「ちょっと違います」
「……違う?」
祐一が訝しげな顔をすると、唇に人差し指を当て、にっこり可愛らしく笑う。
「生徒以外――じゃないです。私も、この学校の生徒なんです」
「…………」
少女の言動に、祐一は微かに違和感を覚えた。
どうも昨日感じた印象と異なる。
儚げな雰囲気はあまり感じられず、楽しそうな、面白がっているような様子だ。
そうは思っても、口には出さないことにした。
「授業はどうしたんだ?」
「今日は欠席しました」
「……そういうのって、サボリって言うんじゃないか?」
「サボリじゃありませんよ。ちゃんとした理由があるんです」
少女は一旦言葉を切り、
「お医者様に止められているんです」
「……え?」
「私、昔からあまり体が丈夫なほうでもなかったんですけど……最近、特に体調が優れなくて…………」
言われてみると、確かにどこか辛そうな表情に見えなくもない。
「…………」
祐一は頭を掻き、少し迷ってから、口を開いた。
「こういう事訊いていいか分からないけど……何の病気なんだ?」
不意に、少女の顔が曇る。
「あ、いや…べつに言いたくないなら――」
「…たいした病気じゃないですよ…………ただの風邪です」
祐一が言うのを遮り、小さな声で、伏し目がちにゆっくりと告げた。
“ただの風邪……か”
その割には、随分と深刻そうだ。
そうは思っても、やはり口に出さないことにする。
他人の事情にはなるべく干渉しない。
それが彼の通常のスタンスだった。
「そうか……ま、風邪は万病の元とも言うからな。気をつけろよ」
「はい」
そう返答した時には、少女は再び明るい雰囲気を取り戻していた。
「でも、病気で長期に渡って休んでいる女の子なんて、ちょっとドラマみたいでかっこいいですよね」
「自分で言うなよ」
「もちろん冗談です」
いたずらっぽく笑う。
先ほど見せた陰っぽい印象は、それで払拭された。
たとえ、完全ではなかったにしても。
「しかし…医者に止められてるんだったら、なんでこんな所にいるんだ?」
祐一がしごくまっとうな問いかけをする。
体調が悪いのなら、家なり病院なりで療養しているべきである。
「普段は大人しく家で寝ているんですけど……今日は人に会うために、こっそり出てきたんです」
「人に会うために? だったらそいつの所に行けばいいんじゃないのか?」
「――いえそれが……実は私も、その人のことをよく知らないんです」
「…は?」
思わぬ答えに、知らず、間抜けな声が出た。
「名前も知らないですし、何年生でどのクラスなのかも分からないんです」
「……まさか、会ったこともないとか?」
「いくらなんでも、それはないですよ」
なんともわけの分からない話だったが、あまり突っ込んで訊くこともためらわれた。
「まぁ、俺が知ってる奴じゃないだろうな」
転校2日目では、交友範囲などたかが知れている。
「…………そういえば、自己紹介がまだでしたよね」
不意に、少女が言った。
「ああ、そうだったな。俺は相沢祐一。昨日転校してきたばかりだが、ここの二年生だ」
「私は栞です。美坂栞。休んでばかりですが、ここの一年生です」
ぺこっとお辞儀をする。
「私のことは、栞と呼んでください」
「分かった、俺のことも遠慮なく、お兄ちゃん、と呼んでいいぞ」
「…そういうこと言う人、嫌いです」
「冗談だ」
と、少女の名を頭の中で反芻し、ふと思い立った。
「ん? みさか……ってもしかして…………」
「どうかしましたか?」
美坂――そうそうある苗字ではない。ということはやはり、
「間違ってたらすまないが……お姉さんいないか? 香里って名前の」
「……お姉ちゃんを知っているんですか?」
祐一の言葉に、何故か表情を曇らせつつ、栞は訊いてきた。
「ああ、偶然だけど同じクラスだ」
「……そう…ですか…………」
複雑な表情で言葉を濁しながら、ゆっくりと空を見上げる。
高い雲が、陽光を受けて白々と輝いていた。
まるで、足元にある雪のような色だ。
“……香里に会いに来た…………ってわけじゃないよな。やっぱり”
少女が会いに来たのは、名前も知らない相手だと言っていた。
それが姉である香里なわけがない。
「……祐一さん」
視線を戻し、栞が微笑んだ。
「今日はもう帰ります」
「え……人に会いに来たんじゃないのか?」
「はい。でも……いいんです。もともとたいした用事があるわけでもありませんでしたし――」
家族が心配しますから――と言って、にっこり微笑んだ。
「そうか……」
「はい……それじゃあ祐一さん、さようなら」
一礼して、背を向けて歩き始めた。
ゆっくりと離れていく栞の背中。
それが何故か、ひどく儚いものに見えてしまい――
「栞っ」
思わず、強く呼びかけてしまった。
「――はい?」
不思議そうな顔で、振り向く。
「あ……と…………」
祐一も、特に考えがあって呼んだわけではなかったので、言葉に詰まってしまう。
それでも、なんとか言うべきことを探し、
「……またな」
一言だけ、言った。
栞はその言葉を聞き、しばしきょとんとしてから、
「はい。また会いましょう。祐一さん」
嬉しそうな顔で応え、今度こそ、中庭から去っていった。
教室に戻ると、ほとんど人が残っていなかった。
残っていたのは三人。
名雪と香里、そして潤だけだ。
「あ、帰ってきた」
名雪が言うと、二人も教室の扉の前で呆然と立つ祐一に目を向けた。
「…………」
「……祐一? どうしたの?」
「さぁ? おおかた『HR出るの忘れてたああぁぁぁぁっ』とでも心の中で叫んでいるんじゃないかしら?」
「ぐっ」
図星だった。
香里がじっとりとした視線を向けてくる。
「呆れた。本当に忘れてたんだ」
「石橋、カンカンだったぞー」
潤がにやにやと笑いながら教えてくれた。
あまり知りたくない情報だ。
「それで祐一……どこに行ってたの?」
不思議そうな顔で、名雪が聞いてくる。
「ああ…ちょっとな…………と、そうだ、香里」
祐一はそれをどう説明したものかと悩みかけ、不意に思い出した。
「何?」
「ついさっき中庭に、栞が来てたぞ」
祐一としては、特に深い意味のある言葉ではなかった。
妹が学校に来ていたことを、姉に教えただけなのだから。
ところが香里は、一瞬虚をつかれたような顔をすると、
「栞?」
心底、訝しげな声音で言ってきた。
「ん? 香里の妹なんだろ? 本人がそう――」
「相沢君」
刹那、香里は顔から、声から一切の感情を消し、
「あたしに妹なんていないわ」
冷たく、突き放すように言い切った。
「あ……」
「――――っ」
友人の突然の豹変に、隣で聞いていた名雪と潤がそれぞれ異なった反応をする。
名雪は香里の態度に驚いたような顔になる。
潤は一瞬、痛ましげな表情を浮かべ、すぐにそれを消した。
その数秒の空隙の間に、香里はそのまま鞄を手に持ち、教室の扉へと向かう。
「え…ま、待ってよ香里」
「ごめん。あたし、ちょっと用事思い出したから」
名雪の引き止める声に、香里は振り向きもせずに応え、さっさと教室から出て行った。
「……悪い。オレも用事があるんだ」
その後を追うように、潤も廊下へと出る。
「じゃあな、二人とも。また来週」
それだけ言い残して、あっという間に姿が消えた。
「…………」
「…………」
後には、事情も分からず呆然とする名雪と祐一が、残された。