夢か現か幻か




Episode7:邂逅の夜





 帰宅した頃にはまだ高かった日も、数十分前に街の向こうに沈んでしまった。

 昼食を食べた後は、刻限まで眠っていた。


 眼を閉じて、開く。

 それだけで数時間たつ。


 体に染み付いた習性。

 生まれつきではない。


 望んだことでも願ったことでもない。


 必要だっただけのこと。

 そういう生き方しかしてこなかっただけのこと。


 野生の獣が狩りの仕方を学ぶように、自然に身についた。

 それを嘆いたことなどなく、かといって、誇ったことなどあるはずもない。


 必要なことを学べ。

 それ以外は切り捨てろ。


 弱さも甘さも、笑顔も涙も、愛も情も、家族も友も、自分さえもいらないと思えば、容赦なく切り捨てろ。


 それが、最初に教えられたこと。


 言われたとおり、学んだ。

 そうしなければ生きていけなかったから。


 言われたとおり、切り捨てた。

 そうしなければ耐えられなかったから。


 ――否。

 それは嘘だ。


 それができていたら、いまここに自分がいるはずがない。

 結局自分は、捨てたつもりでこっそり隠し持っていたのだ。


 だから逃げた。

 だから未だに、弱いままだ。


 だから今も昔も――バカなままだ。


「…………」

 そろそろ狩りの時間だった。

 準備を始めなければいけない。


 まずは――夕食の支度からだ。





 帰宅した頃にはすでにとっぷり日も暮れていた。

 放課後、商店街に寄っていこうと思っただけなのに、だ。


 昨日に引き続いてあゆの食い逃げに巻き込まれ、数時間かけてたい焼き屋の店員と追いかけっこをしてしまった。

 目的だった本屋もCD屋も探せず……そういえば、昼食も食いっぱぐれてしまった気がする。


“……やっぱりたい焼き、ひとつくらいもらっておけばよかったかな……”

 空腹に耐えつつ、水瀬家の門をくぐる。


 後1・2時間で秋子の夕食が食べられることを思えば、この空腹も絶妙のスパイスに思えてくる。

 というか、そう思わないと耐えられない。


 玄関を開け、一言。


「ただいまー」

 一昨日引っ越してきた時「おじゃまします」と言ったら、名雪にはむくれられ、秋子にはやんわりと諭された。


 居候の身とは言え、今の自分は水瀬家の一員。

 確かに、お客様気分でいては、二人に失礼だろう。


 二人は自分を〈家族〉として迎え入れてくれたのだったら、自分もそのつもりにならなるべきだと思う。


「おかえりなさい、祐一さん」

 居間から秋子が顔を出す。

 靴を見ると、名雪は帰っていないらしい。


「名雪、まだ部活ですか?」

「ええ、そろそろ帰ってくる頃だと思いますけど」

 言いながら、秋子が近づいてくる。


「祐一さんも随分遅かったですけど……何かありましたか?」

「えーと……まあ、色々と…」


 まさか、「食い逃げに付き合わされてきました」とは言えない。


「そうですか……お疲れですか?」

「はらぺこで倒れそうです」

「あらあら…………それじゃあ、今日はお休みした方がいいかしら…」

 その言葉に、祐一は素早く反応する。


「秋子さん、もしかして今夜も――」

「はい……お仕事の依頼は来ていますけど…祐一さんがお疲れのようですから――」

「かまいませんっ。やらせてください……腹がへってるだけですから、秋子さんのごはんを食べればすぐにでも行けますよ」

「そう……なら、お願いしようかしら」

 秋子は淡く微笑み、祐一に一枚のメモを手渡した。


 そこには簡単な地図が書かれている。

 おそらく、今日のターゲットがいる場所が記されているのだろう。


「……裏駅の――」

「K社ビルです。今夜の内に討滅してほしい…とのことです」

「分かりました」

 祐一が頷くと同時に、玄関のドアが開いた。


「ただいまー……あれ? 祐一…お母さん?」

「おう」

「おかえりなさい、名雪」

 名雪がドアを開けた体勢のまま、きょとんとした顔をしてる。


「二人でどうしたの? こんな所で……」

「いや、なんでもないぞ」

「ええ、なんでもないわよ」

「?」

 祐一も秋子も、名雪には何も語れない。


 彼女は狩人ではないから。

 理用者ですらないから。


 知らなくていい世界。

 知られてはいけない力。


 それは、できれば彼女には、知らないままでいてほしいこと。


 だから――


「おかえり、名雪」


 すべて、彼女が眠る夜の世界に閉まっておこう。





 昼間は会社員やOLでにぎわう駅前も、この時間では人通りもまばらだった。


 目的の建物を目指し、歩みを進める。

 駅の裏側に出ると、さらに人影は少なくなった。


 表通りから聞こえる車の音が、いやに耳に響く。

 彼は血色の瞳を暗く照らし、注意深く辺りを見渡した。


 流崎望の手配どおりなら、間もなく人払いは終わるはずだ。

 それを確認してからでないと、仕事は始められない。


 これから狩り殺すモノや、自分の持つチカラなどは、決して明るみに出してはいけない。


 それが、自分達のルール。


 すぅ、と鼻から冬の空気を吸い込む。

 鼻腔と喉に、チクリとした痛みを覚えた。


 数分後、周囲から人の気配が完全に消えた――と、思うと同時に、携帯電話が一度、震える。

 流崎望からの合図だ。


 彼はゆっくりと、目的の建物――K社ビルへと入っていった。





 終業時刻がとうに過ぎた会社に、照明がついているわけもなく、ビルの中を照らすのは、非常灯の微光と、月明かりのみ。

 
 軽く眼を閉じ、呼吸をひとつ。

 それだけで、開いた時には闇が眼に慣れた。
 

 凍りついた大気。

 感じる冷気は、冬の寒さ故のみではない。


 この場を死人が支配している証。






 寄生型の妖魔は、外見や習性の差はあれ、捕食行動にたいした差はない。


 最初に〈宿主〉となる人間を見つけ、寄生する。

 この際、多くの場合は〈宿主〉の意識や肉体を内側から喰い尽くす。
 
 その後、〈宿主〉の肉体という皮を被り、人間社会に潜り込む。


 高ランクの妖魔なら、〈宿主〉の記憶を読み取り、完璧に擬態することが可能だ。

 後は、言うまでもなく、〈宿主〉だと思って油断している人間を、また喰い殺すのだ。

 
 今回の場合、このK社の社員の一人に取り付いたようだ。

 数日の内に同僚、上司、友人を喰ってしまった。





「……封界」

 囁きと共に、ビルと世界を区切る。


 潜んでいるはずのターゲットに、こちらの存在を気取られただろうが……かまうものか。

 逃げられる心配も、邪魔が入る心配もなくなった。


 ならば、後は狩るだけだ。


 ビルは5階建て。

 さほど大きくも広くもない。


 ワンフロアに数部屋ずつ入った、どうということもない作り。

 汚れた壁紙と固い床が、闇の中、ぼんやりと映る。


 エレベーターはあるが、もちろん使わない。

 階段で下の階から順に、調べていく。


 1階、2階、3階……慎重に、一部屋一部屋調べていくが、何もいない。


 気配はある。

 ターゲットは間違いなくこのビルの中にいる。


 向こうもこちらに気付いているはずだ。

 足音は立てないようにしているが、気配までは隠していない。


 あえて感知させることで、相手からアクションを起こしてもらうことを期待しているのだ。

 襲ってきてくれれば返り討ちにするだけ。


 だと言うのに、どこかで息を潜めているのか、まったく動きがない。


「…………」

 4階。


 十数個の机と椅子が並べられた部屋に入る。

 どこの部かは知らないが、ともかくオフィスルームだろう。


 と、廊下から一歩入り込むと同時に、彼は前方へ体を投げた。


 ザッ


 後ろで何かが落ちる――否、着地する音。


 机と机の間を転がりながら、体を捻る。

 肩膝を付き、相手と向き合う――それと動作と同時に、左手が腰の後ろに走った。


 ダンッ!


 魔法のように掌中に出現した自動拳銃が火を吹いた。


 一秒にも満たないクイック・ドロウ。

 常人ならば日の光の下でも、その過程を見切ることなど不可能だろう。

 
 だがしかし、彼の標的は常人ではない。


 銃口を向けられる直前に横っ飛びに跳ね、銃弾をかわした。

 天井にへばりついて奇襲を狙っていたことと言い、尋常な身体能力ではない。

 
 机の影に入り込んだ標的を追い、銃口を走らせる。


 瞬間、机が一つ、宙を舞った。

 落下地点は、間違いなく今自分がいる場所。

 
 心中で舌打ちしつつ、跳び上がる。


 背後の机上に着地。

 さらにもう一度、バックステップ。


 大きく距離を取り、床へと降りる。


 投げ出された机、パソコン、書類の山、数冊の書籍にボールペンやハサミなどの筆記用具、領収書の束――それらが床を跳ね、あるいは宙を踊るその向こうに、


 しゃあ――!


 吼える人影があった。

 膝に力を溜めているのが分かる。

 
 彼は――真っ直ぐに銃口を向けた。

 そのままトリガーを引き絞る。


 銃声を三度響かせると、弾丸は標的の右腕と肩に着弾した。

 が、体を傾がせながらも、標的はまったく頓着せず跳び上がった。

 
 天井すれすれを舞い、近づいてくるその体に向け、さらに二射。

 どちらも腹に当たった。


 だが――それでも止まらない。

 怯みもしない。


 落下の勢いのまま、のしかかり、組み付いてきた。

 打ち抜かれ、ろくに握力もなくなった右手で、こちらの左手――銃を押さえ込もうとする。


 その時点で、彼は初めて相手の顔を見た。


 事前に渡された写真に写っていた青年。


 正気を失った瞳、荒く息を吐く口腔。

 櫛と整髪料で整えられていた髪は乱れ、汗と垢に汚れた身体は、かすかに――彼のような人間にしか分からぬほどに――腐臭を発していた。


 青年は――青年の姿をした妖魔は、マウントポジションを維持したまま、相手の武器を奪おうと躍起になる――と、身体に短い衝撃。


 ――――!


 慌てて跳びすさる。


 気付くと、脇腹に深々と、肉厚のナイフが突き刺さっていた。
 
 ぎりっと歯を鳴らす。


 それは痛痒からくるものではなく、追い詰めたと思った獲物に反撃を喰らった屈辱感からだ。
 
 苛立たしげに、入り口へと走り出す。


 後を追って数発、銃声が響いたが、机の影を盾にしたため、一発も当たらなかった。


 妖魔に逃げられても慌てず、彼は空になったマガジンを落とし、新たに装弾する。

 落としたマガジンを拾い、しまい込んでから、その後を追った。


 廊下には点々と、血の後が落ちている。


 その道筋は、上階へと向かっていた。





 そのビルに辿り着いた時、祐一は少なからず衝撃を受けた。

 何故ならそこには、既に結界が施されていたから。


 それが意味するところは即ち――


「……同業者か? 依頼が重なったか……」

 しばし迷ったが、結局中に入ることにした。

 このまま帰ってしまっては、秋子に申し訳が立たない。


 幸い、結界は内向きに作用されていた。

 つまり、外からの侵入を阻むというより、中からの逃亡を許さないための檻なのだ。


 といっても、普通の人間には侵入はできないが。


 狩人がよく使うタイプの結界だ。

 十中八九、同業者だろう。


 そう結論付けた所で、


 ダンッ!


 ビルの中に、銃声が響き渡った。


「っ!?」

 身構える。


 銃声は上の階から聞こえてきた。

 次いで、何かを壊すような、ばらまくような音と、獣の咆哮のような音、銃声、床を転げまわるような音、また銃声――そして最後に、駆ける足音。


 一分にも満たぬ時間の中、それらが耳に入ってきては消えた。


 足音は近づいてこず、むしろ遠ざかっていった。

 つまり、上へ向かったということだ。


「…………」

 逡巡は一瞬、すぐに階段へ向かい、駆け出した。


 この程度のアクシデントでおたおたしていたのでは、この先やっていけるはずもない。

 自分の仕事は、ターゲットを見つけ、狩り殺すこと。


 ならば今は、立ち止まっている時ではない。





 もはや殺す意味もない足音を相変わらず抑えたまま、血痕の後を追う。

 暗い廊下を、暗い階段を駆け上がり、屋上へと続く踊り場に出る。


 四角い小部屋だ。

 屋上への扉以外はなにもない。

 軽く、銃を握りなおす。


 そして、重く閉ざされた扉を、蹴り開けた。


 視界に飛び込んできたのは街の夜景と、高い月。

 そして、その中を黙然と佇む、青年の姿。


 ビルの屋上は、中と同じく特徴のない作りだった。


 剥き出しのコンクリートが真っ平らに続く床と、その周囲を囲む網目状のフェンス。

 扉が設置されている四角い踊り場の壁の上に給水タンクがあるだけで、他には何もない。


 その寒々しいほど殺風景な屋上に、青年が一人立っている。


 その光景は、こんな状況でなければ、なんら不思議なものでもなかったかもしれない。

 しかし、もはやここは異界だ。


 妖魔と、狩人。


 擬態したヒトと、それを狩るヒト。

 ヒトを喰らうことしかできないモノと、それを放逐するしかできないモノ。


 人間が踏み入れる世界ではない。

 人外のモノが降り立った場所であり、人外のチカラを持ったモノが隔絶した世界だ。


 ならば、それを異界と言わずなんと言う?




 妖魔は腹から引き抜いたナイフを左手で握り、毒々しい視線を投げてくる。

 応えるように、彼は無言で銃口を向ける。


 妖魔が一瞬、怯えるように肩を震わせたと思ったのは――やはり錯覚だろう。


 しゃああぁぁぁぁぁ!!


 蛇のような威嚇音と共に、妖魔は駆け出した。


 それをかき消すような悲鳴を上げ、彼の拳銃が火を吹く。

 発射される弾丸は、妖魔の肩に、腿に、腹に、胸に、頭に、次々と着弾していく。


 右腕は千切れかけ、腹に風穴を開け、顔面を半分吹き飛ばされながら、それでも突進は止まらない。

 必殺の意志を込めて、ナイフを握り締め、直進する。


 それに向け、さらにトリガーを絞った。


 強烈な反動を、しなやかな手首の動きで吸収する。

 片手撃ちとは信じがたい驚異的な正確さで、全弾命中。


 血に塗れたその身体は、いまやヒトの形を成していない。


 だが――それでもなお、突進は止まらない。


 ――――――!!


 もはや声はない。


 喉は潰れ、口も顎も半分吹き飛んでいる。

 それでもなお、咆哮は止まない。


 言葉が通じたのなら、妖魔はこう叫んでいたのだろう。


 死ね、と。


 彼は、弾の切れた拳銃から、ぱっと手を放した。

 獲物は武器を捨てた。


 必殺の間合い、猛然と腕を、握り締めたナイフを突き出す。

 だが――期待した手ごたえはない。


 彼は放した銃が床に触れるよりも速く、妖魔の懐に入り込んだ。

 スーツの袖を掴み、巻き込むようにして肩に担いで、一息に引き寄せ腰で跳ね上げる。


 妖魔の身体が綺麗に弧を描き、コンクリートの床に叩きつけられた。

 自分が投げ飛ばされ、地に伏せているという事実に、その妖魔は最後まで気付かなかった。


 だから、殺せたはずの獲物がなぜ、自分にのしかかっているのかも、分からなかった。


「――消えろ」


 聞こえたのはその囁きと、肉の焼ける音。

 見えたのは血色の瞳と、己を取り囲む闇色の炎。

 感じたのは肉の焦げる臭いと、冷たい灼熱。

 分かったのは己の消滅と、それを成したのが誰かということ。



 それらすべてが恐怖を、同時に悦楽をもたらした。

 その感覚に酔いしれながら、永劫とも思える一瞬を経て、妖魔はその存在の一片すらも遺さず、焼滅した。





 討滅完了。


 どうということのない、今まで何度となく繰り返してきた〈作業〉を終え、彼は淡々と立ち上がった。

 しばし、己の影を見詰め、次いで頭上の月を仰ごうとし――


「っ!」

 不意に現れた気配を察し、身構える。

 視線は先ほど己が蹴破ったドアの向こう。


「…………待ってくれ、あんたに危害を加えるつもりはないんだ」

 すぅ、と闇の中から滲み出るように姿を現したのは、自分と同じ年頃の少年。

 片手に刀を携え、若干緊張した面持ちでこちらを見ている。


「……誰だ?」

「あんたと同じ、狩人だよ」

「………………」

 なるほど、気配は妖魔のものではないし、ただの人間に自分が張った結界をくぐれるはずもないので、理用者であることは間違いないだろう。

 だが、狩人であるという弁を、疑いもせず信じるほど、自分は聞き訳がいいわけではない。


「……何故ここにいる?」

「……っておいおい。〈狩り〉に来たに決まってるだろ? どうやら、依頼が重なったみたいだけど」

「…………」

「嘘はついてない。獲物の潜伏場所を聞いて来てみたら、もう結界が張ってあるし、取りあえず中に入ってみたら物騒な音が聞こえるし……標的がいると分かっているのに帰るわけにもいかない。で、気配を追ってここまできたら……どうやら、先を越されちまったみたいだな」

 まだ警戒を解かないこちらを見て、ぽりぽりと頬を掻く。

 どうしたら信じてもらえるだろうか、といった風情だ。


「…………名前は?」

 これは、さほど答えを期待しての問いではなかった。


 普通の理用者ならば、自分の名という最大の情報を、見ず知らずの人間に(それも同じ理用者に向かい)あっさり教えるはずもない。

 試したのは、どう答えるかという反応を見たかっただけだ。


 無言を通すか、迷った末答えるか。

 あるいは偽名を使うか、はぐらかすか。

 はたまた、一方的な質問にうんざりするか。


 しかし、少年はそのどれでもなかった。


「相沢祐一だ」

 即答。


 迷いもなく、名を訊かれたから答えたという感じだ。

 その瞳には一片の虚偽の色もない。


 真顔で嘘がつけるほど卓越した詐欺師か、真正のバカかお人好しか――それとも、他の理由か。


「――っ」

 その反応には、さすがに面食らった。


 『困惑』などという感情は、忘れて久しかった。

 後にして思えば、どうしてこの時、唐突に『憧憬』などという感情さえ思い出してしまったのか、分からない。


 だから、どうしてこの時、自分がこんなことを言ってしまったのかも、分からない。


「俺は――月影桜夜」

 こんな、自分の名前なんて言ってしまったのか――分からない。






第6話 第8話

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