夢か現か幻か
Episode5:転校初日(後)
「あー、全員席に着けー」
恰幅の良い男性教員が、教室に入りながら言う。
その一言で、騒がしかった教室が静かになった。
その担任教師、石橋に廊下で待っているように言われた祐一は、ぼんやりとさっき会った男子生徒のことを考えていた。
“世話になったのにろくに礼も言えなかったな……そういや名前も名乗らなかった”
礼を言おうにも、相手の名前も知らない。
もっとも、あれだけ目立つ容姿をしていれば、探すことは難しくはないだろう。
名雪にでも訊けば、すぐ見つかるかもしれない。
「今日は転校生を紹介する」
そんなことを思っていると、俄かに教室が騒がしくなったことに気付いた。
「ちなみに男だ」
一瞬で静かになった。
“……悪かったな”
「相沢祐一君だ」
石橋の言葉と共に、教室に入る。
クラス中の視線が祐一に集まる。
教壇の前に立ち、軽く、教室を見回す。
生徒達の反応は様々だった。
なぜか値踏みするような目で見ている男子。
なぜか隣同士で目配せしあう女子。
“……なぜか嬉しそうな顔で手を振ってくるやつ……”
というか名雪だった。
その後ろの席では、香里も面白そうな顔で手を振っている。
「…………」
取り敢えずそちらは見ないようにしながら、自己紹介をすることにする。
「…相沢祐一です。よろしくお願いします」
これ以上ないというぐらい無難な言葉で済ませておいた。
面白みはないが、誰も気にした様子はない。
「あー、キミはそこの空いてる席に座って」
石橋は窓際の後ろから二番目の席を示して言う。
「……はい」
そこは、名雪の隣で、香里の斜め前という、狙ったような席だった。
こっそりと嘆息を吐きながら席に向かう。
こうして、祐一の新しい学校での生活が始まった。
今日は始業式の後にHRがあっただけだったようだ。
祐一が職員室で待っている間に、始業式は終わっていたらしい。
つまり、後は帰るだけということだ。
新学校生活初日は、自己紹介と連絡事項を聞くだけで終わってしまった。
帰りの号令と共に、クラスの生徒達が思い思いに立ち上がる。
名雪は、すぐさま祐一の前まで来た。
「祐一、同じクラスだよ」
やたらと嬉しそうである。
「……そーだな……」
「…あんまり嬉しそうじゃないね」
祐一の気のない返事からそう思ったのか、気落ちした表情をする。
その様子に慌てて、
「そんなことないぞ。思わず踊りだしそうなくらい嬉しいんだ」
おどけた仕草で言う。
「……よく分からないけど…うん、よかったよ」
名雪は、それだけで笑顔に戻った。
祐一も、その反応にほっとした。
発言自体は冗談ではあったが、嘘ではなかった。
知り合いがひとりもいないよりは、いた方がいくらか気が楽だ。
「普通の自己紹介だったわね…」
香里が不満気に近づいてくる。
期待を裏切られた、と言う顔だ。
「普通じゃない自己紹介ってなんだよ……」
「いきなり手品を始めたり、ひとりで漫才を始めたり」
真顔で言うので、冗談かどうか分からない。
「それは普通じゃない…だが、俺は手品師でも芸人でもないんでな」
大げさに肩をすくめながら応える。
「なんだ? お前ら知り合いなのか?」
と、後ろの席から声をかけられた。
祐一が振り向くと、男子生徒が興味深そうな顔で立っている。
身長は、祐一よりも少し高い。
頭頂部のハネッ毛が特徴的だ。
「……誰だ?」
「おっと、悪いな。オレは北川潤。見ての通り、お前の後ろの席の者だ」
訊ねると、すぐさま自己紹介をしてくれた。
ジュン――女みたいな名前だな、と思いながら、差し出された手を取り、握手をする。
「分かった。俺は相沢祐一。見ての通り、お前の前の席の者だ」
「いや、わざわざ言わなくても知ってるぞ。さすがに5分前の自己紹介を忘れてはいない」
「そうか」
潤は一瞬変なものを見るような目になったが、気を取り直して話を元に戻すことにした。
「で、さっきの会話からして、美坂と水瀬さんは、相沢と知り合いみたいだったけど……」
「わたしの従兄妹なんだよ」
「あたしは今朝会ったのよ」
二人とも端的な返答をする。
「へぇ、水瀬さんの従兄妹なのか……」
妙に納得したような顔をする。
「……? なんだ、その何か分かったって顔は?」
「いや、仲良さそうだなと思ってな」
「そんなことはないぞ」
潤の言葉を、祐一は即座に否定した。
「顔を合わせるたびに殴り合いになるほど仲が悪いんだ」
「え? そうなの?」
名雪が驚いた顔をしている。
その反応に若干脱力する。
「いや……今のは、そんなわけない、と突っ込みを入れてほしかったんだが……」
「あ、そうなんだ。びっくりしちゃったよ」
にこにこと言う名雪を見て、ますます脱力する。
「やっぱり仲が良いじゃない」
「だよな」
香里と潤は二人で納得したような顔になっている。
何だか泥沼にはまっているような気がする…。
「そういえば名雪、時間はいいの?」
と、不意に香里が名雪に向かいそう言った。
それを聞いた名雪は、腕時計に目を落とす。
「わ、もうこんな時間なんだ」
台詞だけ見れば驚いているようだが、口調が相変わらずのんびりしていて、あまり切迫感は伝わらない。
「何か用事があるのか?」
「うん、部活」
「始業式の日にまであるのか。大変だな」
「そうでもないよ……祐一はこれからどうするの?」
「別に用はないからな。すぐ帰るつもりだ」
「そうなんだ。ひとりで帰れる?」
心配そうな顔で言ってくる。
それを苦笑で返しながら、
「今朝来た道を辿るだけだろ。余裕だ」
鞄を持って立ち上がる。
「お前らはどうするんだ?」
「あたしは自分の部室によってくわ」
「オレもちょっと用事があってな。まだ学校にいるつもりだ」
祐一が訊くと、香里と潤からそれぞれ答えが返ってくる。
「そっか、じゃ、ここで解散だね」
名雪が言い、四人で廊下に出る。
「ばいばい、香里。北川君」
「ええ」
「また明日な」
名雪と祐一は右に、香里と潤は左に分かれた。
名雪の先導で下駄箱へ向いながら祐一は、ふと思い立って、気になっていることを訊ねることにした。
「なあ、名雪」
「ん?」
「この学校で、銀髪の男子って心当たりあるか?」
名雪はちょっと考えるような仕草をし、間もなく「うんっ」と首肯した。
「たぶんそれって、流崎君っていう人だと思うよ」
「流崎……何年だ?」
「一年生だったと思うけど……どうしたの?」
「――ああ、今朝ちょっとな……」
言葉を濁しておく。職員室の場所を訊ねたなんて情けないこと、自分から言う気はさらさらない。
幸い、名雪は「ふーん」とだけ言い、それ以上追求はしてこなかった。
「この学校って、結構面白い――っていうか、変わった噂のある人が多いんだよ」
「変わった噂?」
「うん。〈学食に絶対一番に来る人〉とか、〈蝿を箸で掴む男〉とか」
「……なんだそりゃ……」
奇人変人の宝庫だろうか……。
さしずめ名雪は、〈目覚まし100個でも起きない女〉、と言ったところか。
「で、流崎君も、何かそういう噂があったような気がするんだよ」
「…………」
あの人の良さそうな少年に、いったいどんな妙な噂が付与されているのだろう。
祐一は、聞きたいような聞きたくないような、微妙な気分になった。
「えーと…あ、そうだ……確か、〈探し物の名人〉だったよ」
「〈探し物の名人〉?」
随分と大人しい――という表現はおかしいかもしれないが――評価に、祐一はきょとん、とした顔をする。
「うん。落し物とか無くした物、探してほしい物を言うと、たちどころに見つけてくれるらしいよ。百発百中で」
「……本当に、そんなことできる奴がいるのか?」
よほど目ざといのか――いくらなんでも、百発百中は誇張だと思う。
「うーん……噂、だからね」
名雪が困ったようにそう言ったところで、下駄箱に着いた。
靴を履き替え、外に出る。
周りには同じように下校しようとする者の流れができている。
「じゃあね、祐一。また家でね」
「ああ――と、そうだ、名雪」
「ん?」
立ち去ろうとしたところで呼び止められ、少女が軽く小首を傾げる。
「分かってるとは思うが、俺がお前の家に居候してること、誰にも言うなよ」
「え? どうして?」
目を見張っている。
祐一の言っている言葉の意味が、本当に分からないらしい。
「世間体というか――あんまり言いふらす事じゃないだろ。年頃の男と女が同居してるなんて知られてみろ」
ろくな噂にはならないと思う。
祐一は諭すように言ってから、名雪の目が泳いでいることに気が付いた。
「……名雪?」
厭な予感がする。
「……ごめん、祐一」
なんで謝るんだ――と、思っていると、名雪は微かに後じさりを始め――
「今日の朝、みんなに言っちゃった」
言うと同時に、脱兎のごとく駆け出した。
「なにいいいぃ!?」
祐一が叫んだ時には、既に名雪は人波に紛れ、背中も見えなかった。
「…………」
後にはただ、呆然とした祐一が残された。
屋上へと続く階段の踊り場。
この時期、めったに人が訪れないそこで、彼は黙然と立っていた。
踊り場は寒い。
寒さの厳しい地方であることと、豊富な資金があることから、職員室はもちろんのこと、教室のひとつひとつや各部室、更衣室にも暖房が取り付けられているこの学校も、こんな所にまで暖かさを求めるわけがない。
窓はあるので、かろうじて陽光は入ってくるが、そんなものは気休めにしかならない。
階下からは校内に残っている生徒達の喧騒が聞えてくる。
それを、どこか遠い世界のもののように錯覚しながら、窓を背に体を預ける。
「…………」
足元にできた自分の影をぼうと眺める。
影。
自分の影。
他の人間はさして気にすることもないであろうそれは、彼にとっては片時も忘れることのできないモノだ。
常に意識の隅にその存在を留めておく。
それは、彼の体に染み付いた習性だった。
眼を閉じる。
視覚を封じてもでは今まで見ていた影の形、大きさを完璧に思い浮かべられる。
息を吸い、吐く。
空想の中の影を、瞳を使わずに視る。
そして――
「………………」
不意と、眼を開ける。
リノリウムの床を蹴る音。
階段を誰かが上がってくる。
待ち人が来たようだ。
血色の瞳が、現れた少年を捉える。
「お待たせしました。先輩」
「……ああ」
少年は、両手に缶コーヒーを持っていた。
「どうぞ」と言って、ひとつよこしてくる。
「…………」
無言で受け取る。
すぐには開けず、冷えた指先を温めるのに使う。
少年はしばし間を計ってから、ゆっくりと口を開いた。
「……今夜の標的は、裏駅にあるK社ビルを住処にしているようです」
「……そうか」
頷きながら、彼は頭の中でK社ビルの位置、間取り、夜間の周りの人通りなどを思い浮かべる。
仕事に取りかかる前の、いつもの手順だ。
「タイプは寄生型、ランクはB+といったところですね。宿主を含めるとこの一週間で4人喰われています」
「悪食だな」
「ですね……できれば今日中に始末して欲しいとのことです」
「……分かった」
プシュッと缶コーヒーのプルタブを開ける。
一口飲むと、喉から温まってきた。
「ビルは11時には完全に人払いしておきます。後はいつもどおりに――あ、それから」
少年――流崎望は、常の微笑を浮かべながら、
「『備品などはなるべく壊さないように』、だそうです」
耳の痛くなる一言を付け加えてきた。
「……善処する、と言っておいてくれ」
彼はそう答えてから、コーヒーを一気に飲み干した。