夢か現か幻か




Episode4:転校初日(前)





 カチッ


『朝〜、朝だよ〜』

「うおっ!」

 突然耳元で声が聞こえて、祐一はがばっと布団ごと跳ね起きた。


『朝ご飯食べて学校行くよ〜』

「な、名雪か?」

 きょろきょろと部屋の中を見渡す。


『朝〜、朝だよ〜』

 枕元から、間延びしたやる気のなさそうな声が聞こえてくる。


『朝ご飯食べて学校行くよ〜』

「…………」

『朝〜、朝だよ〜』

 従兄妹の少女の声が、目覚まし時計から聞こえていた。


 カチッ


 時計の頭についたスイッチをオフにする。

 と、再び静寂が部屋の中に戻ってくる。


「…何だ、今の?」

 静かになった目覚まし時計を掴んで、しげしげと眺める。


「…………」

 昨日は気づかなかったが、よく見ると〈録音〉と書かれたボタンがあった。

 どうやら、自分の声を録音して、それを目覚ましとして使えるらしい。


「……人騒がせな……」

 ぼやきながら、枕元に時計を戻す。


 シャッ


 カーテンを開けると窓の外の真っ白な景色が、目に飛び込んできた。


 日の光を浴び、きらきらと輝く雪。

 素直に、綺麗だと思う。


 しばらく目を奪われていたが、ぼちぼち着替え始める。


 今日から通うことになる学校の制服。

 真新しいブレザーを着込むと、ガラにもなく緊張しだした。


“転校っていうのは……何度やっても慣れないもんだよな…”

 そんなことを考えながら廊下に出た時、すぐ隣の部屋から、騒音が鳴り響いた。


 ジリリリリリリン


「うぉ!」

 あまりの音に、思わず耳を塞ぐ。


 ジリリリリリリリーン

 ピピピピピピピッ

 ガーピーピー


 複数の目覚ましの音が、祐一の耳を叩く。

 不協和音に頭を痛めながら、名雪の部屋のドアを叩く。


「おい名雪、止めろ!」

 ドンドンと乱暴にドアを叩きながら言うが、一向に音が止む気配がない。


「くそっ…入るぞ!」

 一瞬の躊躇の後、祐一は名雪の部屋の扉を開いた。

 そして、そこに信じられないものを見た。


「……まじかよ…」

 部屋の中には未だに鳴り響く大量の目覚ましと…その只中で巨大なカエルのぬいぐるみを抱いて、気持ちよさそうに眠る従兄妹の少女がいた。

 いっそう酷くなった頭痛を堪えながら、少女の名を呼ぶ。


「名雪っ! 朝だぞっ!」

「……うにゅう」

「うにゅう、じゃない! 朝だ!」

「…くー」

「くー、でもない! 朝だっ!」

「すー」

「…………」

 まったく起きる気配がなかった。


 そもそも、祐一の声よりも、周りの目覚ましの音の方が大きかった。


「……諦めよう」

 そう決断し、部屋を出て行こうとした――が、


「ぅうん……」

 後ろで、名雪が起き上がる気配を感じ、振り返る。


「うぅん……あれ、祐一?」

「……やっと起きたか」

「えっ何?」

 目覚ましの音がうるさくて聞こえないらしい。


「いいから早く目覚ましを止めろ!」

「あ、うん、分かったよ」

 声が聞こえたというよりも、彼の手振りからそう悟ったのだろう。


 慣れた手つきで、ぽんぽんと手際よく止めていく。


「ごめんね…わたし、朝弱くて…」

 目を擦りながら、眠そうに言う。


「そうは言っても、限度ってもんがあるだろ…」

「そんなことないよ」

「………そうか………」

 疲れたようにそれだけ言い、祐一は部屋を出て行った。





「おはようございます、祐一さん」

 ダイニングに顔を出した祐一に、秋子は笑顔であいさつをした。


「ええ、おはようございます、秋子さん」

 それに応えながら、席に着く。


 テーブルの上には、すでに朝食が並んでいた。


 ほどよく焦げ目のついたトースト。

 綺麗な円形の目玉焼き。

 色とりどりのジャムとマーガリン。


 昨日の朝食は和風だったが、今日は洋風のようだ。


「名雪、まだ寝てます?」

「一応起こしましたけど…」

 祐一の返答に、秋子は少し驚いた顔になった。


「これからは、名雪を起こすのは祐一さんにお願いしようかしら?」

「絶対に嫌です」


 即答。


 彼女も断られるのは予想通りだったらしい。


「そうですよね。ところで祐一さん、朝はコーヒーでいいですか?」

「ええ」

 祐一の答えを聞き、カップにコーヒーを注ぐ。


 祐一がカップを受け取ると同時に、寝惚け眼の名雪がダイニングに入ってきた。


「ふぁ……おはようございますぅ〜」

 気の抜けたあいさつをして、ゆっくりと自分の椅子に座る。


「めずらしいわね。名雪が起こされてすぐに起きてくるなんて」

「そんなことないよ〜。わたし、起こされたらちゃんと起きるもん」

 そうだったかしら、と笑う秋子。

 ちょっとむくれる名雪。


 そんな二人を眺めながら、


“それはそうと、時間は大丈夫なんだろうか?”

 祐一は、割と重要なことに、思いを巡らせた。





「到着だよ〜」

 祐一の心配どおり、時間はあまり大丈夫ではなかった。


 具体的には、玄関を出たところから走らなければならないほど。

 家から10分ほど走ったところで、学校に着いた。


 名雪と祐一、双方とも、息の乱れはない。


「……お前、足速いな」

 多少は手加減したが、自分と変わらぬ速さで走る少女に、少し感心してしまった。


「わたし、陸上部だから」

 心なし、胸を張って応える。


「祐一も速いよ。何かやってたの?」

 運動を、という意味なのだろう。

 それに対し、小さく首を振る。


「いや、何も……運動は」


“アレは……運動なんて呼べるものじゃなかった”


 嫌な記憶を思い出し、若干身体を震わせる。


「ふ〜ん」

 そんな祐一の内心を察した様子もなく、名雪は素直に感心している。


 正直、つっこんで訊かれても困るので、手早く話を打ち切るために、何気なく視線を逸らし、校舎へと眼を向けた。

 それは、彼が想像していたよりも大きな学校だった。


 一番手前にあるのは、真っ白な大きな校舎。

 妙に角ばっており、各階ごとに広さが違うように見える。


 奥の方には少し古くなった印象の校舎――おそらく旧校舎なのだろう――がある。

 その他、大きな校舎の左右に大小様々な校舎が建っている。


 この分だと、屋内プールくらいあるかもしれない。


「これが、わたしの通う学校」

 いつの間にか名雪が、校舎を背に、祐一に向け笑いかけていた。


「そして、今日から祐一が通う学校…だよ」

「………ああ」

 その笑顔を前に、祐一は短く、気の抜けた返事しか返せない。


 というか、他に言う言葉が思い浮かばない。


 何か言わなくてはいけないことがある気がする。

 だが、それが頭の中でまとまらない。


「…祐一、どうかしたの?」

 少女が、難しい顔をしだした祐一に、小首を傾げながら尋ねる。


 それを、


「いや…なんでもない」

 とだけ返し、周りを見回す。


 校門前を賑やかに通り過ぎていく生徒達。


 見ると、女子の制服はリボンの色が三種類ある。

 目を凝らすと、男子の制服に付いている校章にも、同じように色分けがされているようだ。


 おそらく、学年ごとに色が違うのだろう。


 とすると、名雪と同じ赤色のリボンを付けているのは、自分と同じ二年生なのだろうか――というところまで考えた所で、ひとりの女生徒が自分に向かって歩いてきているに気付いた。


 緩やかにウェーブのかかった髪を背中に流した、整った顔立ちの美少女だ。

 姿勢もよく、足取りもきびきびしている。


 はっきり言って見覚えはない。


 いぶかしむんでいる内に、どんどん少女は近づいてくる。

 そして――


「おはよっ! 名雪!」

 涼やかな声で、名雪に向かって声をかけた。


 どうやら自分ではなく、名雪の知り合いだったようだ。


「久しぶりねぇ、元気だった?」

 屈託なく笑いながら、名雪の背中をぽんぽん叩く。


「香里、痛いよぉ」

 かおり、それが少女の名前であるらしい。


「相変わらず眠そうな顔してるわね」

「別に、普通だよ。それに久しぶりじゃないよ。一昨日も電話したよ」

「直接会うのは久しぶりって意味よ」

「火曜日に一緒に買い物したよ」

「3日会わなかったら、立派に久しぶりよ……ところで――」

 少女が、今まで置いてきぼりにされていた祐一に目を向ける。


「あなた、誰?」

「…誰? と言われても…」

「わたしの従兄妹の男の子だよ」

 答えに困った祐一に代わり、名雪が言った。


「ああ、電話で言ってた人ね……そっか、そうなんだ……」

 何かを納得したように、うんうんと頷く。

 当然のことながら、祐一には訳が分からない。


 彼の当惑をよそに、少女は軽く微笑みながら、自分の名を名乗り始めた。


「はじめまして、美坂香里です」

「俺は相沢祐一だ。えっと…美坂さん?」

「香里でいいわよ」

「だったら俺も、祐一でいいぞ」

「あたしは遠慮しておくわ。相沢君」

 意味ありげに見つめられるが、相変わらず訳が分からない。

 ともあれ、呼び方ぐらい好きにしてもらって構わないので、何も言わないことにした。


 自己紹介も終わったところで、名雪が口を開く。


「わたしと香里は同じクラスなんだけど、祐一も一緒のクラスになれるといいね」

「転入するクラスって、まだ分からないの?」

 香里の言葉に頷きながら、校舎に目を向ける。


「俺は聞いていない。今日分かるんじゃないのか?」

「…一緒のクラスになれるといいね」

 繰り返す名雪に、


「そうだな…」

 とだけ返す。


 それと同時に、チャイムが鳴った。


「あ、予鈴…」

「急ぐわよ、名雪」

「うん、祐一は?」

「俺は職員室に行くつもりだ」

 第一まだ自分の靴箱の場所を知らない。


「そっか。それじゃ、後でね」

「後でって…」

 祐一が言いかけた時には、二人とも校舎の中に入っていった。


 しばし呆然と見送った後、気を取り直して職員室に向かおうとし――足を止めた。


「……職員室って、どこだ?」

 間の抜けたことに、肝心な点を失念していた。


 急いで周りを見回すと、当然のようにもう誰もいない。


「ぐぁ! どーすりゃいいんだいったい」

 広大な敷地に目をやり、この中から自力で目的地を探さなければならなくなったことを悟り、気が重くなる。


「……くそっ…こうしてても始まらないか」

 そう言い、足を踏み出そうとしたところで、


「どうかしましたか?」

「っ!?」

 突如、後ろから声をかけられ、慌てて振り向く。


 そこには、十数秒前まではいなかった――はず――の人間が、いた。


 鮮やかな銀髪。

 宝玉のような碧色の瞳。

 抜けるような白い肌。


 と、日本人離れした外見の少年だ。

 だが、顔立ちはしっかりと日本人のものである。


 背はさほど高くはなく、下から見上げるような形でこちらを見ている。


“いつの間に現れたんだ? こいつ……”

 少年は、手を伸ばせば触れられる位置にいる。


 祐一にすれば、完全に後ろを取られた形だ。

 こんなに接近されるまで気付かないとは――昨日の失態といい、自分はどこか調子がおかしいのだろうか。


 そんなことを考えていると、少年は軽く微笑みながら口を開いた。


「何かお困りのようでしたが……どうしたんですか?」

「いや……その……」

「ああ、コンタクトを落としましたか?」

「いや、違う」

「う〜ん…それじゃあ財布でも落としましたか? 定期とか?」

「どっちも違う。何も落としてはいない」

 警戒は解かずに、会話を続ける。


 ただ、祐一には目の前に立つ少年に、悪意や害意があるようには思えなかった。


「それじゃあ…どうしました? 僕でよければ力になりますよ」

 人のよさそうな少年に向かって、どうにも情けない心地になりながら、事情を話すことにした。


「それが…実は俺、今日からこの学校に通うことになった者なんだが……」

「転校生さんですか」

「ああ、そうだ……それで――」

「自分のクラスがまだ分からなくて、取り敢えず職員室に行こうと思ったんだけど、その職員室の場所も分からなくて困っていた――ですか?」

「ぐっ」

 鋭い。

 改めて今の自分の立場を口にされると、情けない事この上なかった。


 少年は、どこか落ち込んだ様子の祐一を見やり、それからすっと腕を伸ばした。


「この道を真っ直ぐ行って、二つ目の分かれ道を右に曲がってください。そうすると、職員用の玄関があります。職員室はそこを入ってすぐですよ」

 学校の敷地内で道、という表現は奇妙だったが、やたらと広い通路は、しっかりと舗装されている。

 小洒落た公園か遊歩道か、という風情だ。


「あ、ありがとな。助かった」

「どういたしまして…それでは、僕はこれで」

 微笑み、校舎に向かって歩き出す。


 その少年の背を見送ってから、祐一も教えてもらった道を進みだした。





「また会いましょう。相沢祐一さん」





 少年が立ち止まり、自分に向かってそう囁いたことに、祐一は気付かなかった。






第3話 第5話

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