ニブルヘイム





繋ぐ糸は 幻の残滓
隔てし壁は 交わらぬ道
灰燼無限に掻き集めども
在りし姿は戻らない










第九話「紅蓮」





 暗い夜道を、少女は走っていた。

 まだ十歳にも満たない、長い黒髪をした少女である。


 歳の割には大人びているが、まだまだ隠しきれないに幼さを残した顔。

 だが眼差しには、子供らしからぬ芯の強さがあった。


 凍てつくように寒い夜だった。

 芯から凍りつかせるような冷気が、手足を痺れさせ、吐息を白く染める。


 それでも少女は走り続けた。

 愛しい者を、自らの手で探し出すために。


 その足が辿り着いたのは、住宅街の合間にひっそりと存在する公園だった。

 時間が時間のため、人気はない。


 機械仕掛けの建物が立ち並ぶ現代の文明にあって、時の流れから取り残された小島のような場所。

 その一角、古びたアスレチックの一部。


 丸い穴が入り口となった小部屋に、少年はいた。

 両膝を抱え、必死に寒さをしのいでいる。


 少年は少女の姿を見ると、さまざまな感情の入り混じった顔を見せた。


「……お姉ちゃん」

 彼は少女の弟だった。

 歳は一つしか違わないが、やせ細った体と幼さの抜けない顔立ちが、その外見を少女より幾分年下に見せている。


「……やっぱり、ここにいたのね」

 少年が消えた、と知らされたのは少し前のことだった。

 遊びに出かけると言ったきり、帰ってこないのだと。


 だが少女にはすぐに分かった。


 弟は消えたのではない。

 家出したのだと。


 だから大人たちの制止も振り切り、この場所にやってきた。


「……」

 自分に一言も言わず飛び出していった弟を、彼女は一言も咎めなかった。


 ただ抱きしめた。

 安堵と悲しみの混じった涙を流しながら。


「こんなところにいたら、風邪ひいちゃうよ……早くお家に帰ろう。みんな待ってるよ」

 精一杯優しい声を作って、少女は言った。


「……いやだ」

 膝の間に頭を埋め、少年は拒否した。

 いつも無条件で姉の言うことに従ってきた彼の、初めての反抗だった。


「あそこは、お家なんかじゃない……みんな待ってなんかない……」

「淳也……」

 頑なに自らの殻に閉じこもろうとする弟を、少女は痛ましげに見つめた。


 彼ら二人に親はいない。

 物心つく頃には、既に交通事故で帰らぬ人となっていた。


 親類たちは二人をたらい回しにした挙句、適当な施設に放りこんだ。
 
 そこは二人にとって、安住の地にはならなかった。
 

 施設で働く大人たちにとって、子供の世話は「仕事」に過ぎない。

 家畜の類を飼育するのと、意味的には等価だった。
 

 少女はまだいい。


 彼女は頭が良く、何事も一人でこなせる力強さがある。

 だから大人や他の子供たちを相手に、器用に立ち回ることができた。
 

 だが弟は違う。


 彼は生まれつき体が小さく、気も弱い。
 
 人見知りが激しく、不器用で、臆病な子供だった。
 

 だから当然のように誰にも認められなかった。


 同じ施設の子供たちは、当然のように彼をいじめた。

 大人たちは彼を厄介者として煙たがった。
 

 そんな冷遇に抗える気概が少年にあるはずもない。

 彼にできるのはただ、こうして現実から逃避するだけだった。


「みんな、ぼくなんてどうでもいいんだ。ぼくなんか、いても邪魔なだけ……いっそいなくなったほうがいいんだ」

 幼い声で、稚拙な言葉で、自らの抱える苦しみを語る。

 それでもその胸中は、少女に痛いほど伝わった。


「ぼくは……一人ぼっちだ。 ……どこにも味方なんていない」

 少年は必死に悲しみを抑えようとするが、溢れ出す涙は止まらない。

 一筋の流れとなって、頬を伝い続ける。


 その頬に、少女はそっと手をあてがった。

 冷たい夜気を受けて冷えきった手。


 だが少年にとっては、この世界で最もあたたかなものだった。


「お姉ちゃんがいるじゃない……私だけは、いつだって淳也の味方だよ」

 少女は微笑んでみせる。


 彼女にとって、弟は唯一の肉親だった。

 他人がどんなにひ弱と呼ぼうと、無能と蔑もうと、彼女にとってはかけがえのない存在だった。


 弱くてもいい、頼りなくてもいい。

 ただ傍にいてくれるだけでよかった。


 少年の顔から、頑なな意思が抜け落ちる。


「お姉ちゃんは……ぼくと一緒にいてくれる?」

 震える声で、弟は問うた。

 行くあてのない子猫が、必死に飼い主を求めるような顔をして。


 それを、少女は優しく受け止めた。


「うん。ずっと一緒にいてあげるよ」

 姉弟はいつまでも一緒にはいられない。

 やがては別々の道を歩み、“他人”になる日がやってくる。

 幼いながらも、そんなことはわかりきっていた。


 それでも少女は言った。


「約束だよ」

 偽りの笑顔を浮かべて、偽りの約束を。


 それから十余年……

 狂った歯車は、異なる道を歩んだ二人を巡り合わせる。





「嘘……嘘よ……」

 綾瀬小百合の口からは、喘ぐような声しか紡ぎ出されなかった。


「悪いが姉貴、これが真実だ」

 獅子の名を冠する男は、穏やかな表情で、穏やかに言う。

 現実を受け入れようとしない幼子に、静かに言い聞かせるように。


「俺はニブルヘイム・セクステルの一人“レオ”。自称ニブルヘイム最強の戦士にして、自他ともに認めるお喋りなキザ野郎。でもって、約九年前に生き別れ……いや、死に別れたあんたの弟さ」

 流暢な口振りと脚色の効いた台詞は、聞く者に皮肉な印象しか与えない。

 不思議と悪びれた印象がないのは、彼のもつ独特の雰囲気ゆえだろう。


「そんな……」

 紗百合の震えは止まらなかった。


 今まで求め続けた存在は、今目の前にいる。

 倒すべき敵として。


 背丈は見違えるように伸び、声は中世的な少年のものから精悍な青年のものへと変わった。

 だがその顔立ちには、明らかな面影が残っている。


 自分によく似た、切れ長の眼。

 幼い頃から人目を引いた、オレンジ色の髪。


 何より、偽ることのできない気配がある。

 血を分けた姉弟だからこそ、感じ取れるものがある。


 認めたくない。

 認めたらお終いだ。


 だがこの目の前の青年は紛れもなく、思い出の中の少年が成長した姿だった。


「姉弟……」

 呟いたのはエリダヌスだ。

 彼女もまた、唐突に明らかになった事実に呆然となっていた。
 

 レオは彼女に視線を向ける。


「ああ、隠してて悪かったな。その人は正真正銘、俺の姉貴だ」

 なんでもないことのように平然と言ってのける。

 だがそれを取るに足らない事実と思っているのは、この場で彼だけだった。


「知って……らしたんですか……?」

「アリエス部隊が潰されてから、この作戦を決行するまでの数日間……アリエスの部下たちを倒したのがどんな連中か興味があってな、個人的に少しばかり調べてみた。知ったのはその時だよ」

 呆然と立ちつくす紗百合と早人を置き去りにして、淡々と語る。


「最初は流石の俺も少々驚いたよ。まさか、以前から取り沙汰されてた霊獣狩りが、自分の姉貴だったとは思ってもみなかったからな。さてどうしたものかとガラにもなく少しばかり悩んだが、結局そのままにしておくことにした」

 そう言って、紗百合に向き直る。


「互いにもうガキじゃないんだ。己の思想と目的をもって行動し、今の立場になった。なら、衝突するのもまた必定……と思ってな」

 その眼に迷いはなかった。

 声色にも佇まいにも、取り繕ったような様子は全くない。


 本気で言っている。

 早人とエリダヌスはそう思った。


 この男は自分の姉が相手だと知りながらこんな舞台を用意し、部下を刺客としてけしかけていたのだ。

 およそまともな神経とは思えない。


「まあ、何はともあれこうして再会できたんだ。つもる話でも……」

「やめて……!」

 レオの言葉を、あるいは目に映る世界全てを否定するように、紗百合は叫んだ。


 頭では既に分かっている。

 これが真実なのだと。


 だが彼女の感情は、魂は、その真実を否定したかった。
 
 否定する方法はただ一つ、最愛の者の面影をもつこの男を、この世から消し去ること。


「あなたは淳也じゃない……淳也は……違う!」

 背中から木刀を取り出し、両手で握り締め、構える。

 残る力全てを木刀に注ぎ込んだ。


「先生!」

 軽率な行動を早人は止めようとしたが、遅かった。


 漆黒の木刀が急激に伸び、幾本もに枝分かれしてレオを襲う。

 ラケルタを葬った技、樹槍ロンギヌス。


 だが、それが標的に届くことはなかった。


 赤き眼が輝きを放つ。

 爆風が木の刀身を砕き、爆炎が傷口を焼く。


 鋭い枝は標的に刺さることなく、全て床に落ちた。


「爆破の派手さと威力が取り沙汰されがちな俺の赤輪眼だが、本当の売りは見た位置を確実に爆破できる利便性と攻撃に移るまでの速攻性。その二つを活かしきれば、自身に向かってくる物全てを排除する防御術にもなりえる」

 驚愕に眼を見開く紗百合に、レオは穏やかに言う。


 攻撃を仕掛けられて気分を害した様子はない。

 彼にとって、今の一撃は攻撃と呼ぶにも値しないのだから。


「姉貴。気持ちは分かるがそういきりたたないでくれ。まず落ち着いて俺の話を聞きなよ」

 最高の技を易々を防がれた以上、紗百合は従う他なかった。

 端から見守る早人もレオの能力に圧倒され、口を挟むことができない。


「細かい経緯はよくわからないが、姉貴が何でニブルヘイムに喧嘩売ったかは大体想像がつくさ。俺が奴隷になったと思って、助けようとしたんだろ?」

 彼の推測は正しかった。

 綾瀬紗百合は実の弟を助けたい一心で、全てを犠牲にしてここまできたのである。


 無論、早人とエリダヌスにとっては初めて知ることだった。


「どうして……」

 紗百合は言った。

 肉体的にも、精神的にも追い詰められた彼女には、もはや眼前の男の存在を否定する力は残っていなかった。


「私……あなたを救いたくて……どうしてもまた逢いたくて……何もかも……全部捨ててここまできたのに……どうして……こんな……」

 常に刃のような鋭さをもち、鋼の意思を宿していた眼。

 それは今見る影もなく翳り、大粒の涙を浮かべていた。
 

 ずっと求めてやまなかった者が、倒すべき敵となっていた事実。

 その者に、自らの努力が灰燼に帰したことを宣告された苦しみ。


 それは気丈な彼女でも、堪えきれるものではなかった。


「強くならなければいけなかったからさ……」

 唐突な言葉。

 この時になって、レオの顔から笑みが消えた。


「お察しの通り、霊獣に殺されてニブルヘイムに連れ去られた後、俺は奴隷になった。不幸自慢するわけじゃないが、奴隷と呼ばれるだけあって扱いはひどいもんでな。それなりに苦痛は味わったよ」

 淡々と語るその口振りには、どのような感慨もこもっていなかった。

 ただ、事実のみを述べるように。


「当時の俺は本当に甘ったれたガキでな。いつも姉貴にひっついてたように誰かに助けられて当たり前、守られて当たり前だと思ってた。いつか姉貴がやってきて助けてくれる……なんて、甘ったれた幻想も抱いてたよ」

 過ぎ去った過去を脳裏に映しているのか、幼き日の自分を見つめているのか、その眼差しは遠い。


「だが……いろいろあって、そのどうしようもないガキは気付いた。これでは駄目だ。怖れていては何も始まらない。逃げてばかりいては何も得られない。強くならなければならない……そう悟った」

 声色には相変わらず抑揚がないが、その言葉にはどこか熱がこもっていた。


 静かに聞き入る三人。

 その中で、エリダヌスはある思いを抱いていた。


 それは、レオと自分の決定的な差。

 それが、現在の自分とレオの立場を分けたのだろう。


「だから必死になって鍛錬を積んだ。身も心もな。自由を手にするために。遥かな高みに昇るために。……そんな調子で数年も経てば、こんな風になってたわけさ」

 そう言うと、顔に微笑みを戻し、飄々と肩をすくめた。


「以上が、俺様のサクセスストーリーの概要だ。自分の過去話にイロつけて話すのもナンセンスかと思ったが、どうにも根がお喋りなもんでね」

 それまでの神妙な空気を自ら壊してみせる。


 彼にとって今話した内容は、もはや終わったことなのだ。

 それ以上語るべきことはない。


 だが、それで納得のできない者がいた。


「言ってることは大体わかったわ……」

 紗百合の声は、幾分落ち着きを取り戻している。
 
 だがその眼差しには、堪えようのない悲壮感があった。


「奴隷の境遇が辛かったのはわかるし……そこから抜け出すためには、ニブルヘイムの幹部になるしかなかったのもわかる……」

 理解することはできた。


 弟が歩んできた道を。

 味わってきた苦しみを。


 だが頭で理解できても、それで納得することなどできはしない。


「でも……! もう戻れないの……!? ニブルヘイムなんか抜けて、また昔みたいに……」

「無理だな。俺の今の体は、霊魂から幽子操作の技術をもとに再構成されたものだ。心臓は動いてるし血も通ってるから生身と較べて違いはないが……唯一つ、ニブルヘイムの技術がなければ体を維持できないという欠点がある」

 それが事実であることを、エリダヌスは知っていた。


 幽子の塊であるニブルヘイムには、生身の生物は入れない。

 よって彼女らニブルヘイムの住人及び奴隷は、ニブルヘイムで生存可能なように肉体に改造が施されていた。


「だから俺は組織を抜けられないし、抜けようとも思わない。やはり一度一端の悪党になったからには、悪の頂点を極めてみたくなってな」

 紗百合が拳を硬く握り締めるのが、早人にもわかった。


「そんな……嘘でしょ……?」

「事実だ」

 レオの返答は短い。


「嘘よ……! 嘘だって言って!」

 紗百合の言葉は、もはや悲鳴に近い。


「やれやれ……それなりにお喋りを愉しもうと思ったんだが、どうにも喧嘩にしかなりそうにないな。まあいいさ。俺が元に戻れるか否かはともかく、“敵”としての俺があんたの手に負えない相手だってくらいは理解できただろ?」

 紗百合は否定したくてもできなかった。


 セクステルにおいて最強の誉れ高いレオと、その下のゾルダートを倒すのに必死になっていた自分。

 直接闘わずとも、その実力さは歴然としているだろう。


「それが理解できたなら、大人しく退いてくれないか? あんたがこの件から引き下がると言うなら、俺が他の奴とかけあってあんただけは見逃すようにしといてやるよ」

 意外な申し出だった。

 平然と自分の姉と部下を闘わせていたこの男がこんなことを言い出すなど、誰に予想できようか。


「見ての通り、俺は命懸けで救うには値しない極悪人だ。そんな奴のためにわざさわざ闘い続ける必要もないだろう。ニブルヘイムの影響が及ばないどこか遠くに行って、全てを忘れて静かに暮らすがいいさ」

「いやよ!」

 幾本もの茨が伸び、レオの左腕に絡みついた。

 鋭い棘が皮膚を裂き、血を滴らせる。


「連れ戻してみせる……! 力づくでも……!」

 相手の言葉が真実だと気付いている。

 自分の言葉など無力だと知っている。

 自分の力など、無力だと分かっている。


 だがそれでも、紗百合は吠えずにいられなかった。


 自らの手で弟を救う。

 失った時を取り戻す。


 それが、ただ一つの願いだから。

 それだけが、心の拠り所だから。


 茨に容赦なく締めつけられても、レオは眉一つ動かさなかった。

 かわそうと思えば容易にできた。


 それをしなかったのは、己の無力さを、姉に分からせるため。


「無理だな。あんたの力じゃ」

 束縛されし左腕。

 それが、突然激しい輝きを放った。


 光を受けた茨は燃え上がり、灰燼に帰しながら地に落ちる。


 紗百合がとっさに跳び退き、早人とエリダヌスが目を瞠った。


 今の力、爆破とは明らかに異なる。

 爆破によって粉砕するのではなく、高熱によって茨を燃やしたのだ。


「悪いな。俺の芸は爆破だけじゃないんだ」

 足元に落ちた燃え滓を踏みつけ、言い放つ。


「早人の刻星眼がそうであるように、俺の魔眼も双眸二つで一つ。そして俺の赤輪眼は、左右でそれぞれ独立した能力を具えている」

 彼の顔で、真紅に染まり、紋様に彩られているのは右眼のみ。

 左眼には何の変化も生じていない。普通の眼だ。


「だが左眼の能力は普通に眼球に埋め込んだんじゃ効果は発揮できないんでな。ここには仕込まれていない」

 そこまで聞いて、三人の脳裏にある共通の想像が浮かんだ。

 それを現実のものとするかのように、レオは左手を前に突き出す。


「“左眼”の在処は……ここだ」

 ゆっくりと五指が開かれる。


 紗百合の眼に映る、何の変哲もない掌。

 その中心から、小さな物体が出現した。


 水晶のように透き通った、真紅の半球。

 それが、赤輪眼の“左眼”だった。


 その出現に伴い、左手全体に右眼と同様の紋様が浮かび上がる。


「能力は単純明快。“熱”を操る」

 真紅の半球こそ、輝きの発生源だった。

 灼熱の闘気を主の体表に伝導させ、左手を高熱の塊に変えている。

 その温度は最早、金属が溶解する域に達しているだろう。


「右眼が中・遠距離型なのに対し、この左眼は接近戦用の武器だ。この二つがある限り、俺に死角はない」

 語りつつ、紗百合との間合いを詰めてゆく。


 見るものを爆破する眼と、触れし物を灰燼に帰す腕。

 その二つを携えたその姿は、近寄るだけで相手に耐え難い重圧を与える力があった。


「くっ……!」

 圧迫感に耐え切れず、紗百合は木刀を振るった。


 その切っ先はいとも簡単に受け止められる。

 そしていとも簡単に、黒焦げになった。


「“熱”は最も純粋にして強力な破壊の力だ。草木は燃え、鋼は溶け、生物は死に絶える。あんたの能力は俺には通用しない」

 生物と植物は、総じて熱への耐性がない。

 僅か百度足らずで死に至り、数百度で発火する。


 生命を生み出す紗百合と、生命を死滅させるレオ。

 紗百合にとってレオの能力は、最悪の相性にあった。


「もう一度言う。大人しく退け。二度と俺に関わろうとするな」

 灼熱の左腕を姉の眼前に突き出し、言い放つ。

 あと一歩、軽く踏み込めば、姉の顔は見る影もない黒焦げになる……そんな距離。


「大人しく退くなら、もう俺はあんたを追いはしない。だがむかってくるなら、容赦なく燃やし尽くす」

「本気……なの……?」

 紗百合の問いに、もうレオは答えなかった。


「馬鹿なことはやめて……あなたはそんな子じゃなかった……どうして私のことを分かってくれないの……!ねぇ……!」

 どれほど言葉を並べようとも、レオの表情は変わらない


「お願いだから……戻ってよ……昔みたいに……」

 突然の、衝撃。


 レオは殴った。

 最強の破壊力を誇る左手でなく、何の力もない右手で。


 紗百合の体がよろめき、意識が遠退いてゆく。

それでも彼女は、弟の顔を見つめ続けていた。


「淳……也……」

 最後の抵抗のように、弟の名を呼ぶ。

 とうにその名を捨てた男は、静かに告げた。


「いつまでも想い出にすがりつくな。過去は何も与えてはくれない」

 倒れゆく体を、静かに支えてやった。

 その顔には何の表情もない。

 頭を打たぬように、静かに床に寝かせてやる。


 それが彼なりの、最後の情けだった。


「先生!」

「安心しな。気を失わせただけだ。もっとも……目覚めた頃には、闘いを続ける気力は残ってないだろうがな」

 声を荒げる早人を宥め、すっと立ち上がる。


「それにしても、見苦しい姉弟喧嘩を見せてしまったな。心から詫びよう」

 その顔はもう、姉との対話で垣間見せた弟としての顔ではなかった。

 穏やかな笑みと漲る覇気を兼ね備えた、“レオ”の表情だ。


「さて、試合の結果は今のところこちらの二敗か。もう一つの勝負はどうな……」

 そこで言葉が途切れた。


 口にしようとした内容の答えが、すぐそこにやってきたのだから。

 背後に出現する、刃を持つ刺客。


 早人もエリダヌスも、思わず眼を見開いた。


 白刃が鋭く閃く。

 標的の首筋を狙ったその一太刀は、僅か数ミリとどかなかった。


 刺客は軽く舌打ちし、レオとの間合いを空けた。

 首を僅かに傾けたレオの視線が彼を追う。


 一瞬の出来事だった。


「水城さん!」

 早人が叫んだ。

 突如乱入した水城優也は仙流で床を滑走しながら、体勢を立て直す。


「やあコルブス、惜しかったな。お前はわりと手段を選ばないタイプだと聞いたから、多分奇襲でくるんじゃないかと予想してたよ」

 微笑みながらレオは言う。

 水城の顔には汗が流れていた。


(笑いながらかわしやがった……化け物が)

 彼には実感できる。


 今の数センチという差が、分厚い壁だったということを。

 いくら予期していたとはいえ、完全に気配を絶ち、完全に虚をついたはずの自分の奇襲を易々と凌ぐなど、並大抵のことではない。


「噂に違わずいい太刀筋だ。タイミングも申し分ない。だがその程度でくれてやる程、俺の首は安くはないな」

「ったく、アリエスといいあんたといい、どうして人の渾身の一撃を軽々とかわすのかね……嫌になる」

 かつて同じ最高幹部のアリエスにも同様の手を試してみたが、その時も同様にあしらわれてしまった。

 剣技以上に自らの奇襲の腕に自信をもつ彼としては、浅からぬ衝撃である。


「そのアリエスだが、お前には相当いれこんでたらしいな。お前が抜けたと聞いた時はひどく残念がってたよ」

「そうかい……そりゃ光栄だね」

 心にもない皮肉を言っておく。

 それから構えを解き、おどけた仕草を見せた。


「だが悪いな。俺はあんたみたいな化け物とまともにやりあう気はないんだ」

 レオを含めた三人が訝しげな顔をする。水城は不敵に笑った。


「あんたの相手は、こっちのお方さ」

 突如、水城の頭上を越えて何か巨大なものがやってきた。


 それは宝石などの貴金属のケースを備え付けた机だった。

 人間をゆうに越す重量をもつであろうそれは床に巨大な影を落とし、斜め上方からレオを押し潰さんとやってくる。


 当然の如く、レオは赤輪眼の右眼を使った。

 空中で爆発が生じ、飛来物は跡形もなく四散する。


 爆炎に照らされる赤き眼は、水城と早人の後方からやってくる人影を見据えていた。


「しばらく見ないうちに随分と偉くなったものだな、淳也」

 男の声が聞こえた。


 早人が振り向くと、そこに見知らぬ男が立っていた。


 紺のスーツ身に纏った、長身の男。

 その鋭き眼には、冷厳な意思が宿っている。


 天秤座の称号をもつ男、片桐琢磨。


 その姿を視認したとき、レオの笑みは一層深まった。


「おやおや……今日は昔の知り合いによく会う日だ」





 頭上に聳える、巨大な十字架。

 磔にされし、神の姿。

 人工の照明が闇を払い、部屋中を照らす。


 ニブルヘイム最高幹部アリエスは、神の像の前に跪き、一人祈りを捧げていた。

 ここはアリエスが自らの意思で建立させた礼拝堂。

 位置的には、ニブルヘイムにおけるアリエスの管轄エリアの中心にあたる。

 下界の喧騒など無縁なこの場所には、主の好む静寂な空気が流れている。


 ふいに、閉じていた瞼が開いた。


「“ジェミニ”か……」

 振り向かずともわかる。

 自身の背後に、気配を隠そうともしない来訪者がいることを。


「ほう、キミが宗教にかぶれていたとは初めて知ったよ」

 ややくせのある黒髪に、中世的な顔立ち。

 研究者らしい白衣を纏い、知性を引き立てる小振りな銀縁眼鏡をかけた青年。

 外見年齢は二十代前半に見えるが、実年齢がそれ以上であることは周知の事実だ。


 彼こそがニブルヘイム・セクステル最後の一人、“ジェミニ”だった。


 アリエスは静かに立ち上がり、ジェミニのほうを向く。


「かぶれている……というほど博識でも信心深くもないさ。ただね……こういう場所があると心が安らぐ……それだけだよ」

 静寂を友とし平穏を愛する者は、抑揚なく語る。


「それに……神は全ての命に平等だよ。どのような者でも、分け隔てなく愛して下さる。私のような……仮初めの命でさえも」

 どこか謡うようで、どこか寂しげな言葉。


 自身の発した言葉に、アリエスは内なる疑問を抱いていた。


 神は確かに全ての者に平等だ。だがそれは、自身が生んだ存在に限られるのではないか。

 自然の摂理の外で生まれた自分のような存在を、愛してくれるのだろうか。


 答えは分からない。

 この命が、尽きるまで。


「そうだね……そういう考えで神を奉じてみるのもいいかもしれない。たとえ見返りはなくとも、奉ずる者の心は幸せでいられるだろう」

 ジェミニは穏やかに微笑んで言った。

 だがその裏に隠された皮肉を、アリエスは感じとってしまう。


「だがねアリエス。忘れてはいけないよ。たとえどんなに神に祈りを捧げてみたところで、キミの魂が救われることはない。天国や救世主などは、所詮信者の心の中にしか存在しない」

「……」

 言われるまでもない。

 とアリエスは思った。


 この礼拝堂を造らせたのは、自身の言葉通り、ただ心の平穏を得たかっただけに過ぎない。

 それ以上の何も求めはしない。

 多くの命に災厄を与える組織に身を置く自分が、ただ祈るだけで救われるなどと思うほど愚かではない。


 そんな内心の反論など構わず、ジェミニは続けた。


「だらこそ、偉大なる陛下はこの楽園をお創りになったのだからね」

 彼はカンケルと同じく、天帝の指揮の元、組織の黎明期に活躍した人物である。

 元々は優秀な科学者だったが、能力の高さを買われて組織結成時に幹部として組み込まれたらしい。


 そのためか、天帝への崇拝の念は誰よりも強い。


「それはそうと、レオの戦勝祈願でもしてたのかい?」

「そんなところさ」

 事実をつかれたアリエスは、無難な答えを返しておいた。

 水晶のような瞳の奥底に、この場にいない友の姿を映し出す。


「彼は、私の数少ない友人だからね」

 最初は、あの男が嫌いだった。


 ある日突然リブラが連れてきた、得体の知れない存在。

 いつもふざけていて、無駄なことをよく喋り、偉そうな態度を崩さない男。


 最初はあんな奴とは関わるまいとは思った。

 自分のような者とは、決して相容れない存在だと思った。
 

 いつからだろうか、彼を“友”と呼ぶようになったのは。
 

 別段何があったわけでもない。

 彼は大した意味もなく自分のところにやってきて、大した意味もない無駄話をしていただけ。

 
 たがそれだけでも、通じ合えるものはあった。


 あの男はただ、自分と接することを楽しんでいた。

 何の打算も、悪意もなく、ただ楽しんでいた。


 世の中から道を踏み外した者達が集う、この歪んだ組織に身を置く中で、そんな奇妙な輩に出会ったのは始めてだった。


 自分が知る者の中で、あの男は一番掴み所のない、矛盾に満ちた性格をしている。


 好戦的なくせに、妙に理知的で

 暴力で相手をねじ伏せることを何とも思わないくせに、妙に喋り好きで落ち着いていて

 時には冷酷なようでもあり、時には情に厚い面を見せたりもする。


 本当に、あの男だけはよくわからない。


 アリエスの意識を現実に引き戻したのは、ジェミニの言葉だった。


「友達想いなんだね、アリエスは」

 素直に喜ぶ気など、アリエスはなれなかった。

 一見柔和なジェミニの微笑みの裏には常に、暗い嘲笑が隠れている気がしてならない。


 それが、この男に気を許すことのできない理由だった。


「でも僕は、彼が君の祈りを知ったらこう答えると思うよ。“神の加護なんざ必要ない。俺は俺自身の魂の力で生きている。これまでも、この先もな”……ってさ」

 その言葉を、アリエスは否定しなかった。

 ジェミニの言葉は、レオの口調と性格を見事に表現していたからだ。


「……そうかもしれないね」

 静かに同意し、瞼を閉じた。





 早人は困惑気味に視線を彷徨わせていた。

 レオを見、水城を見、水城が連れてきた謎の男を見る。


 困惑の原因はこの男である。


(誰だ……?)

 様子を見る限り水城とこの男は知り合いで、レオとも面識があるようだ。


 見ると、エリダヌスは自分と似たような表情を浮かべていた。

 どうやら、今状況を把握できていないのは自分と彼女だけらしい。


「よう早人、お互いあんまり無事とは言えないが、まあ生きててよかったな」

 緊張感のかけらもない声で水城が言った。

 体中の……特に両足に刻まれた傷が階下で繰り広げた激戦を物語っているが、表情は元気そうである。


「水城さん……この人は?」

「ああ、こいつが前に話した俺の依頼人だよ。偉そうに人をこき使うナイスミドル気取りのいかついオッサンで、無口・無表情・無愛想の三拍子揃った最低最悪の野郎だが、まあ腕だけは確かだから安心しな」

 随分と個人的感情がこもった説明である。

 賞賛と悪口の比率が一対九くらいだろうか。


 だが片桐は別段気にした様子もなく、ただレオだけを見据えている。

 睨みあう両者の表情はともに落ち着いていた。


 だが、それが嵐の前の静けさであることは誰の目にも明らかだ。


「やあリブラ。あんたとも久しぶりだな。それとも今は本名で呼んでもらうほうがお望みかな」

「……好きにしろ」

 饒舌なレオに対し、片桐の返答は短い。

 それは、そのまま両者の性格を現している。


 “リブラ”という名を耳にし、端で聞いていたエリダヌスは過剰な反応を見せた。


「まさか……その男が……!?」

 かつてセクステルの筆頭に据えられながら、その座を捨てて野に下った天秤座の戦士。その噂は彼女も耳にしていた。


「ああ、こいつが四年前姿を消したセクステルの七人目……いや、かつて天帝の腹心だったセクステルの一人目だよ」

 そう説明するレオの顔には、取り乱した様子はない。


「奴の魔眼の名は“玄眼”。能力は“念動力”。洒落た言い方をするとサイコなんとかになるんだったかな? 予てより知れ渡っていた空想上の超能力を、科学の力で実現させた最古の魔眼だ」

 己を睨む一対の瞳……鬼火の如く灯る十字を眺め、悠々と語る。


「奴は自分の周囲五十メートル以内に存在する物質を意のままに操れる。道端の小石から相手の武器まで、無生物なら何だってな」

 早人とエリダヌスの脳裏に、先程の攻撃が浮かび上がる。


 あの巨大な物体をレオめがけて投げつけたのは、魔眼の能力だったのだ。
 
 彼らには知る由もないが、先の戦闘で襲い来る鞭の軌道を強制的に捻じ曲げ、支配権を奪ったのもこの力の応用である。


「まさかそいつらの頭があんただったとはな。まあ可能性の一つとしては考慮してたが、いざ現実の光景となると流石に驚いたよ」

 まったく驚いたそぶりを見せずに言う。


「最近になって正義の味方に転職したわけかい?」

「そんなところだ。今の俺の目的は一つ。お前らを滅ぼすことだ」

 皮肉をこめた問いに、片桐は短く答えた。


「そうか」

 そう答えて微笑んだだけで、レオは理由云々を問い詰めようとはしなかった。


 片桐は視線を、レオの後方に倒れる人物に向ける。

 直接の面識はない。

 だが水城から聞いた彼女の名と、この状況を見ればあれが誰かは明白だった。


「敵ならば実の姉でも容赦はなしか……」

 独り事のように、静かに言う。


「変わったな。幼い頃はあれほど姉を恋しがっていたお前が」

 さまざまな感情がこめられた言葉。

 その中には、哀れみに似た感情も混ざっていた。


 過去のことを掘り下げられても、当の本人は気にした様子はなかった。


「今のあんたがそうであるように、誰しも月日とともに変わるものさ。俺とて例外じゃない」

 眼差しから哀れみが消え、代わって有無を言わさぬ厳しさが宿る。


「お前はただ天帝の教えに染まりきっただけだ。どんなに外見を飾り立て、尊大な口を叩いても、所詮はお前も奴の傀儡に過ぎない」

 それはある意味で、現在のレオを根底から否定する言葉だったのかもしれない。


 だが、レオは穏やかに受け流した。

 敵の言葉に耳を傾けても、心は乱されない。


 それが彼の“強さ”でもある。


「やれやれ、随分な言い草じゃないか。まあ、俺とて自分の悪党ぶりは充分自覚してるよ。誰に口汚く罵られても文句を言う気はない……が、あんたに言われるのだけは少々納得がいかないな」

 それは憤りを浮かべて抗議する者の表情ではなく、愉しげに格下の者をあしらう者の表情だった。


「なにせ……」

 わざと間を置き、唇の端をつり上げる。


「一介の奴隷だった俺にアーティファクトの扱い方を教え、セクステルにまで引き上げたのは、他でもないあんただからな」

 今一度、新たな事実が明らかとなった。


 その中で、エリダヌスは驚きつつも納得していた。

 一介の奴隷が最高幹部にまで成り上がるのは容易なことではなかったのだろう。

 それを支えたのは、強力な師の存在があったからなのだ。


 片桐は反論しなかった。


 過去を切り捨てることは、誰にもできない。

 過去を背負い、それでも前に進まなければならない。


「……そうだ。全ての元凶……最も罪深いのは、この俺自身だ」

 半身になり、腰を落として構えをとる。


「だからその罪を、今ここで償おう」

 体術の心得があるのだろう。

  その佇まいには隙がない。


 レオは満足げな表情を見せ、一歩進み出た。


「こんな言葉があったな。“いつの時代、どこの国でも、最後の議論は暴力だ”……正直俺もそう思うよ。お互い悪党同士ならなおさらだ」

 その姿勢は、相も変らぬ両手をだらりと下げた自然体。

 だが、それが彼の臨戦体勢だった。


 元々、彼の流儀に構えはない。

 構えとは、防御を主体とした型。


 前進し、攻撃し、滅殺することを信条とする彼には必要のないものだった。


「あの、レオ様……」

 緊迫に水を差すことを承知で、エリダヌスは声をかけた。


「本気でやりあう気ですか……?その男と」

「無論だ」

 勝負を前にしているゆえだろう、レオの返答は短い。


「その、勝算はあるのですか……?」

 エリダヌスとて、レオの力量を疑う気はない。

 だが相手もまた、彼と同じセクステル・クラスの者なのだ。


 そう簡単に勝てるとは思えない。


 加えて向こうにはまだ二人控えているのに対し、アーティファクトを壊された自分は戦力にはならない。

 考えようによっては、こちらはかなりの不利だ。

 ここはニブルヘイム本土に連絡を入れ、援軍を求めたほうが賢明ではなかろうか。


 そんな不安を一蹴する笑みを、レオは見せた。


「俺が負けると思うか?」

 思わずエリダヌスは息を呑む。


 自分に向けられたレオの顔が、揺ぎ無い自信に満ちたものだったからだ。

 同じセクステルの者を、かつての師を相手にするというのに、あの自信は何なのだろう。

 あの笑みを見ていると、何故だか不安が薄れていく。

 レオが敗れ、地に倒れ伏す姿が、どうしても想像できなくなる。

 頭に浮かぶのは、それとは逆の光景だけ。


 だから、それ以上言葉をかけることはできなかった。


 始まった。

 最早、誰にも止められない。


 かつての師弟が、殺意をもって対峙する。





 自然体のまま、レオは悠々と歩を進めてゆく。


 片桐は構えを維持したまま動かない。

 相手が間合いに踏み込んだ瞬間を狙い、迎撃するつもりだ。


 他の三人は無言でそれを見守る。

 彼らの視線は、片時も二人から離れない。


 やがてレオの右足が、片桐の数メートル先についた。

 常人の感覚からすれば、やや長めとなる間合い。


 だが、二人にはそれで充分だった。


 申し合わせたように、二人は同時に動く。

 鋭い踏み込みで互いに間合いを詰め、一瞬の攻防を演じる。


 殺気と闘気が交錯し、空気が弾けた。

 吹き上がる風圧が、一瞬だけ大気を揺るがす。


 二人は背を向けて交差し、間合いを空けた後、再び向き直る。


 それはエリダヌスの眼には、ただ二人が擦れ違っただけのようにしか見えなかった。


 だが、早人と水城には見えた。

 二人があの一瞬で、壮絶な格闘戦を繰り広げていたことを。


 互いに相手の拳打を捌ききったのか、ともに外傷はない。


「互角か……」

「いや……」

 水城の呟きに、早人が異を唱えた。

 動体視力なら、この場で彼が最も優れている。


 直後に、片桐の右腕の袖が燃え上がった。

 片桐は舌打ちして、スーツの袖を破り捨てる。


「どうやら、素の殴り合いなら俺のほうが一歩上らしいな。さて、どうする?」

 余裕の表情でレオは言う。


 格闘戦に利があると知りながらそのまま攻め続けないのは、相手に次の手を打たせる猶予を与えるためだった。

 彼は、この闘いを愉もうとしている。


 重要なのは安易で確実な勝利ではなく、血の滾るような勝負だ。


 だが、片桐は容赦しない。

 彼にとって重要なのは勝負でなく勝利だ。


 ゆえに、あらゆる手段を駆使して相手を殺しにかかる。


 上着から諸刃のナイフを取り出し、レオめがけて投擲した。

 一見地味だが、これは彼の能力を活かした効果的な戦法である。


“玄眼”の念動力は、対象物の質量が小さく構造が単純なほど操作の精密性が増す。

 念動力によって複雑怪奇な軌道を描くナイフは、回避が非常に困難な代物だった。


 それを承知のレオは、避けようとはしない。


 魔眼特有の動体視力で飛来するナイフの動きを見極め、右目の能力を発動させた。

 眼前で爆発が起き、彼の視界を赤く染めた。


 それが片桐の狙いだった。


 爆破された空間を一瞬にして迂回し、レオの右側面に出現する。

 爆破によって視界が遮られる一瞬の隙を狙った奇襲である。


 加えて左腕が反応しにくい右側をつくなど、狙いも完璧だった。

 だが、突き出された拳は右の掌にあっさりと受け止められた。


「もう少しは愉しませてくれると思ったんだが……その程度か? 今のあんたの力は」

 その眼差しには、侮蔑と失望が入り混じっていた。

 相手の正拳突きの衝撃など、意に介した様子はない。


「まあ本当にこの程度だと言うなら、これ以上つきあってやる必要はない」

 右手で拳を押さえたまま、灼熱の左腕を振りかぶる。


「打ち止めだ」

 突き出される獅子の爪。

 直撃すれば肉体を貫き、全身を燃え上がらせる威力がある。


 だが、片桐は冷静だった。


 双眸に宿る十字が、蒼く輝く。

 灼熱の一撃は空を斬った。


 直撃の寸前に標的が宙に逃れたためだった。


 主の体を空中で逆立ちさせるように、両足が天に向けて浮き上がったのだ。

 そのまま重力の法則を無視して、一瞬静止する。


 これには、レオを含めた全員が驚愕した。


 片桐は、そのまま空中で身をひねる。

 その勢いで、拳を掴んでいた右手は放された。


 空中の舞踏は、それだけにとどまらない。


 上体が浮き上がると同時に、天を向いていた足が疾風の勢いで振り下ろされる。

 弧を描く蹴撃がレオの頭部を襲った。


 レオは上体を大きくのけぞらせ、片桐は優雅に着地する。


「レオ様!」

 エリダヌスが叫んだ。


 今の一撃、彼女の眼には完璧に命中したように見える。

 いかにレオとて、無防備な頭部に回し蹴りを打ち込まれて無事では済まないはずだ。


 しかし、彼女の心配は杞憂に終わった。


 レオの足は地面に踏みとどまり、ゆるやかに体勢を立て直す。

 頬が僅かに血を滲ませているものの、未だ余裕の笑みは保たれていた。


「自分の靴を念動力で操って自身の体を浮遊させる、か……そういえばそんな使い方もあったな……」

 蹴りは頬をかすめたものの、完全に命中してはいなかった。


 レオは直撃の瞬間、自分から上体をのけぞらせることで威力を殺したのだ。

 どこまでも見事な体捌きである。


「だがまだまだ……俺を愉しませるには到底及ばないな」

 それが虚勢でないことを、エリダヌスは感じ取っていた。


 今のレオは控えめに言っても気を抜いており、片桐の一撃は完全に不意をついていた。

 それでなお、かすり傷しかつけられなかったことからも、二人の技量の差は歴然としている。


 格闘戦でレオが有利なことは、これで証明された。


「もったいぶってないで本気出せよ。でないと……そろそろ殺したくなってしまう」

 かつての師への畏敬の念など微塵も感じさせない、尊大な態度。

 だが翳ることのない冷笑と迸れんばかりの覇気が、その余裕を裏付けている。


 対する片桐も、怖気づくそぶりは見せなかった。
 
 これまでの攻防は、相手の技量と戦闘の型を見極めるための小手調べにすぎない。


 自身の能力を最大限に生かす術は、別にある。


「いいだろう。望み通りにしてやる」

 右手を前に突き出す。

 距離の関係から、それが飛び道具の合図であることは誰の目にも明らかだった。


「これが、俺の本当の闘い方だ」

 レオが右に跳び退こうとする。


 同時に、片桐の右腕が無数の何かを放った。


 それらは照明の光彩を受け、光の奔流となって一直線に伸びる。


 レオは回避に成功したが、完全にはかわしきれず、奔流が左腕の裾をかすめた。


 奇妙な痕が残っていた。

 まるで薄い刃物で何度も何度も斬られたように、細かな切れ目が幾筋も生じている。


 後方では、直撃を受けた壁が無惨に砕かれていた。

 細かく刻まれた瓦礫を撒き散らして。


「これは……」

 レオにも見たことのない技だ。

 流石に今の一撃だけでは、正体を看破することはできなかった。


 早人は刻星眼の遠隔視を用い、砕けた壁を凝視する。


 すると、見えた。

 砕けた壁面と、散乱する瓦礫に、細く、短く、鋭い物体が刺さっている。


 あれは……


「針……?」

 その呟きには、水城が答えた。


「ああ、あれがおっさんの得意技……服の中に仕込んだ微細な針を念動力で一気に射出してるんだ」

 その表情には、今の技への畏怖と畏敬の念が混在していた。


「直径数ミリ程度の微細な針は、あらゆる防御・装甲の類を通過して標的を貫く。一本一本の威力は微々たるものだが、それが何百本も重なるとああなるわけさ」

 以前片桐と敵対した際、その一撃を自分に向けて放たれたことのある彼には、その恐ろしさが実感できる。

 少なくとも自分は、二度とあんなものの標的にされたくはない。


 水城の説明に、レオは得心したようだった。


「なるほど……“針”か……」

 冷静に、一度だけ見た技を分析してみせる。


「確かに質量の小さいそれならナイフより速く、そして大量に射出できるな。防御するのは難しそうだ」

 口では相手の技を評価しているが、口元は笑っていた。


「だが、それだけの量を一度に射出してる分、単体のナイフほど細かい軌道修正はできないだろ。いかに速くても軌道が直線なら、避けるのは容易い」

 その考察は正しい。


“技”としての型にはめられた攻撃は、通常の攻撃に比べ利点を持つ分、何かしらの欠点を抱えてしまうものだ。

 “針”の場合は、その大量射出ゆえに直線的な攻撃しかできなくなる点がそれだった。


 だがそれを熟知しているのは、他ならぬ片桐本人である。

 弱点を見抜かれても、彼の顔に気負いは浮かばなかった。


「なら、試してみるがいい」

 今度は左腕を突き出す。


 再び放たれる、光の奔流。

 眩しい白光を纏い、流星群のように奔り抜ける。


 だが、それが切り裂いたのは風のみだった。

 レオは光の奔流に向けて突攻しつつも、直前に左に動くことで完璧に回避してみせた。


「あいにく嘘は嫌いでな。できないことは言わないさ」

 走る勢いは少しも緩めず、左手に灼熱の力を纏わせる。

 第三撃を放つ間は与えない。


 片桐のまでの距離は、あと僅か。


「終わりだ」

 最後の一歩を踏み出し、左腕を突き出そうとする。


 その刹那、踏み込もうとした足が止まった。

 なぜ止まったのか、それは本人にもわからない。


 視線を向けると、答えは左の大腿にあった。

 微細な針の何本かが、そこに刺さっていたのだ。


 ありえない。

 完璧にかわしたはずだ。

 仮に多少かすめていたとしても、たかが数本で足がいかれるはずがない。


 だが現実として、硬直した左足は一歩も動いてはくれなかった。

 そこで気付く。


「毒針か……」

「そう、即効性の麻痺毒だ。もうその足は使い物にはならない」

 片桐は淡々と答えた。


 レオは全てを悟る。


 あの派手な大量射出は囮だったのだ。

 自分の注意を向けさせ、その隙にこの毒針を打ち込むための。


 手裏剣術などの見られる、相手の死角から“影”の刃を投擲する技術だ。


「やれやれ……ちと迂闊だったか……」

 頬に汗を伝わせ、レオは苦笑を浮かべた。


 これで接近戦の目は消えた。

 この足では、次の攻撃を避けることもできない。


 だが自分にはまだ、遠隔爆破の能力がある。

 あちらが飛び道具を使うなら、容赦なく反撃するのみだ。


 赤き右眼が輝く。

 片桐のいた場所で、爆炎が爆ぜた。
 
 生み出され、膨れ上がる赤の世界。
 

 しかし……


「右の赤輪眼……」

 重厚な声が、彼方より届いた。


「視覚で捉えた空間に、不可視の爆弾を設置する能力」

 大気の流れとともに、煙幕が晴れてゆく。

 そこには砕けた床があるばかり。


 片桐の姿は、爆破地点より遥か後方にあった。


「爆弾の正体は窒素、酸素に次いで大気を構成する第三の要素……水素だ。その右眼の本質は、大気中の水素を任意の位置に密集させ、分子運動操作により発生させる熱で着火することにある」

 爆破が通じない理由は一つ。


 見極めたのだ。

 爆破の起こる位置を。

 そのタイミングを。


 最強の破壊兵器と呼ばれ、誰もが恐れた能力も、かつての師には通用しなかった。


「確かに軌跡も予備動作も無い不可視の技だ。だが爆破を起こす位置は、お前の目線が如実に物語っている。同じ魔眼を持つ俺なら、見極めるのは容易い」

 再度、右手を突き出す。

 最後の一撃を放つために。


 この時ようやく、レオの顔に戦慄が浮かんだ。


「終わりだ、淳也」

 光の奔流が、空気を切り裂く。

 それらは全て、標的の胴体に命中した。


 衣服が裂け、肉が裂け、血潮が撒き散らされる。

 口から血を吐き出しながら、レオの体は後方に吹き飛んだ。


 低空を飛行した体はやがて墜落し、仰向けになって倒れる。


 一瞬の出来事だった。

 最高クラスのアーティファクト使いによる、火花散る激闘。


 その最後を飾るには、あまりに静かな幕切れだった。


「やった……のか……?」

 事実を確認するように、水城が呟いた。


 無理もない。

 あまりに呆気ない幕切れを、彼もまだ信じきれずにした。

 早人も同様だ。
 

 しかし、彼ら以上にこの状況を信じられない者がいた。


「そんな……嘘よ……」

 エリダヌスは顔を蒼白にして震えていた。


 ありえない。

 こんなことが、あるはずがない。


 いかに相手が元セクステルの一人で、かつての師とはいえ、あのレオが負けるはずがない。

 いつも余裕の笑みを浮かべ、何事にも決して動じなかったあの男が、こんな簡単に死ぬはずがない。


 だが……これでは……

 思考が現実に追いついてゆくごとに、背筋に悪寒が走っていく。


「レオ様! レオ様ァ!」

 叫び声を上げ、レオの元に駆け寄った。


 屈みこんでその体をゆするが、反応はない。

 爛々と輝いていた赤き眼は、瞼によって閉じられていた。


 レオが死ねば、エリダヌスを敵から守る者はいない。

 ニブルヘイムにも帰れない。


 だがそんな打算は、今の彼女の頭になかった。


 今はただ、レオに死んでほしくなかった。

 生きて、立ち上がってほしかった。


 わがままで、自分勝手で、悪党で、戦闘狂で……


 でもこの男は、闘いに敗れた自分を咎めなかった。

 自暴自棄になった自分を救ってくれて、これまで通りに接してくれた。


 だから……


「嫌、嫌ぁぁぁ!」

 必死に揺さぶり続け、悲鳴を上げる。

 その眼には、涙さえ浮かんでいた。


 その様子を、片桐は痛ましげに見つめていた。

 一人残されたあの少女が哀れでならない。


 アーティファクトを失った今、彼女はもう無害だろう。

 あのまま、そっとしておいてやろうと思う。


 あそこに倒れている女性。


 彼女は眼を覚ました時、弟の死を知ることになる。

 その時、彼女の苦しみはどれほどのものだろうか。

 最愛の者を奪った自分を、彼女は決して許しはしないだろう。


 そして、物言わぬ亡骸となった男。


 あの男もかつては、ひ弱で頼りないが、澄んだ眼をした、心優しい少年だった。

 その心に野望の火種を植えつけ、ニブルヘイムの戦士に変えたのは、自分のせいだろう。


 あの青年に罪はない。

 罪深いのは、彼の運命を捻じ曲げた自分だ。


「すまん……許せ……」

 厳かに目を閉じ、言った。

 かつての同胞への、弔いの言葉を。


「何を謝る?」

 殺気も、怒気もない、平然とした声。

 それを発したのは、今しがた息絶えたはずの男だった。


 エリダヌスの涙が止まり、早人と水城が驚愕を浮かべ、片桐までもが蒼白となる。


 突如として湧き上がる、激しい光。

 激流の如き勢いを伴った金色の光が、周囲を眩しく照らし出す。


 その中心に在るのは、亡骸となったはずの体だった。

 その手が動き、人差し指で少女の涙をそっとぬぐう。


「心配しなくていいよエリ。俺のような悪党は、そう簡単にくたばらないものさ」

 二本の足で、ゆるやかに起き上がる。

 金色の光を纏いながら悠然と立ち上がるその姿は、さながら死の淵から舞い戻った不死鳥のようだった。


「フフ、フフフ……ハハハハハ……!」

 笑みを形作る口が、こらえきれないように哄笑をもらした。


 呆気にとられていた二人を。

 自分の死を悲しんでいた部下を。

 決着がついたと確信していた間抜けな相手を。


 自分の猿芝居に騙された者達全てを、可笑しそうに嘲笑う。


「いや失礼。我ながら下品な笑いだったな。みんなして予想通りの反応してくれるんでつい、な……」

 針を全てその身に受け、死んだように倒れたのは、全て演技だった。


 自分が死んだと思ったとき、この場の連中はそれぞれどんな反応を見せるだろうか。

 そんなささやかな好奇心を満足させるため。


 そんな他愛のない悪戯に皆が騙されたのは、可笑しくてたまらなかった。


「馬鹿な……」

 片桐はそう呟く他なかった。


 自分の“針”は確実に命中していたはずだ。

 現に今、レオのスーツの腹部は無惨に破れ、赤く滲んだ腹が見えている。


 だが、あれは……あれは何だというのだ。


 滴り落ちる血が、徐々に減っていく。

 引き裂かれた筋肉繊維が、しだいに繋がっていく。

 破れた皮膚が、元の姿を取り戻していく。

 傷口が、恐るべき速さでふさがっていっていた。


 ありえないことだ。


 赤輪眼の能力は“熱”と“爆破”。

 ただそれだけのはずだ。


 どんなに技を研磨しようが、どれほどの力を引き出そうが、死の淵から生還する能力など得られるはずがない。

 そんな使い方は、絶対に不可能だ。


「……」


 待てよ。

“使う”……?


「所詮は、どいつもこいつもみな同じ……」

 その男が一歩踏み出すごとに、金色の光は激しさを増してゆく。


「ゾルダートの連中も、セクステルの奴らも……俺の師であるあんたでさえ、アーティファクトを“使う”ことしかできなかった」

 その口が言葉を紡ぐごとに、最悪の想像が現実へと変わってゆく。


「アーティファクトを“支配”できるのは、この世でただ二人……」

 湧き上がり続ける金色の光。

 それが空中で獅子の顔を象ったように、片桐には見えた。


「天帝と……この俺だけだ」


 最強の獅子を彩る、黄金の闘気。

 全てを凌駕し、全てを滅す、灼熱の力。


 烈火の如く、地を焦がし。

 恒星の如く、空を制す。





 その余波は、百貨店の外部にまで及んでいた。


 建物を包囲する警官と、さらにその周りに群がる群衆は、何の知識も理解もないまま、突如顕現された強大な力に晒された。

 流石に距離があるため、その力が彼らの生命に害を及ぼすことはない。


 だが、精神に圧迫感を与えるには充分だった。

 場はまたたく間に混乱の渦と化した。





 身を焼き尽くすような、膨大な熱波。

 それが及ぶのは、天空に浮かぶ島とて例外ではない。


「フフ……レオの奴め、随分と熱くなってるようだね」

 ジェミニは愉快そうに言った。

 傍らのアリエスは神妙な顔で黙している。


 優れた知覚力をもつ彼らには、同胞の放つ闘気が眼前のことのように感じられる。
 
 今彼らの眼には、下界の一点に巨大な火柱が顕現されたように映っていた。


「アリエス、キミはあの状態の彼に勝てる自信あるかい?」

 からかい半分でジェミニが問うと、アリエスは神妙に答えた。


「通常状態の彼になら、私とて勝ち目はあるだろう。だが、あの状態の前には私の力すら無に等しい」

 彼らは知っている。


 アーティファクトを“支配”することの意味を。
 
 支配者の強さを。
 

「ああなった以上……もはや止められる者はいないよ」




 強き魂。


 何事にも揺るがぬ心。

 何者にも屈することなき意思。


 誰からも無能と蔑まれ、世界から見放された少年の奥底に眠っていた……


 唯一つの武器。


 それが彼を最強のアーティファクト使いにした。


「どうした、何を怯んでる? さっさとかかってこいよ」

 挑発としかとれない不遜な言葉。

 だが片桐の頭には、戦意でなく戦慄しか浮かんでこなかった。


「その力は……貴様……!」

「俺は、もうアーティファクト使いじゃない。アーティファクトの支配者だ」

 その意味を正確に理解できたのは、この場では片桐のみだった。


 他の者はあまりの圧倒的な力に、ただ呆然となるばかり。

 片桐は滝のような汗を流し、歯を食いしばる。


 アーティファクトとは“力”の結晶体だ。


 幽子操作によって生み出された膨大な力を、金属という器に内包させた存在である。

 無論、ただの力の塊では何の役にも立たない。


 内在する力を金属内部に埋め込まれた機械で制御し、力に志向性を与えることで、初めて個々の能力を発現させることができる。

 並の使い手は、アーティファクトに精神を同調させ、“能力”として加工された力を貸し与えられ、それを我が物として使っているに過ぎない。


 だが、こいつは違う。

 こいつはアーティファクトに内在する“力”を、より純粋な形で引き出し、より純粋な力で具象化した。


 “アーティファクト操作”の上をいく、“アーティファクト支配”。


 かつてただ一人……アーティファクトの創造者にしか許されなかった力を、この男は独力で体得したというのか。


(綺麗……)

 そんな場違いな感想を、エリダヌスは抱いた。


 金色の光がレオの全身を輝かせ、その身を外界と隔絶させている。

 その体が動くごとに、火の粉のような燐光が宙を舞う。

 血で血を洗う闘いの最中とは思えない、幻想的な光景だ。

 その様はもう禍々しさ、猛々しさなどという次元を超え、神々しささえ感じさせる。


 彼女は闘い最中であることも忘れ、主の超然たる姿に暫し見とれた。


「悪いがリブラ。今の立ち合いで、あんたの力の底は見えた」

 破れた衣服から見える腹部はすでに完治し、針は跡形も残っていない。

 足に注入された毒素さえ無効化したのか、足取りはしなやかだ。


「俺が腕を上げたせいか、あんたが衰えたためか、あるいはその両方か……まあ何にせよ、これ以上一対一にこだわる必要もない」

 レオの視線は、それまで傍観に徹していた二人に向けられた。


「早人にコルブス。いい加減、つっ立ってるだけじゃ暇だろう? まとめて相手してやるからかかってこいよ」

 二人の顔が思わず強張る。


 先程の闘いを見ただけで、彼らはもうレオに対する戦意のほとんどを失っていた。

 圧倒的な“アーティファクト支配”を見せられた今となってはなおさらである。


 だが、露骨に挑発されてなお竦み上がっているほど二人とも臆病ではない。

 それぞれの武器を構え、戦闘態勢を整えた。


「自惚れるな、お前の相手は俺一人だ」

 片桐は二人を守るように立ち、言い放つ。

 レオは静かに眼を閉じた。


「そうかい、ならご自由にどうぞ」

 そして、閉じていた眼が開かれる。


「どっちにしろ俺は、まとめて標的にするがね」

 赤き右眼が輝いた。

 かつてないほど、爛々と。


(まずい……!)

 三人が本能的に危機を感じ、それまでいた場所から跳んだ。


 直後に巻き起こる、視界を覆う爆炎。

 幾重にも重なる、数多の爆音。


 赤輪眼・“煉獄葬”


 砕かれる床。

 弾け飛ぶ壁。

 崩れる天井。


 同時に五ヶ所で爆破が起き、三人の周囲を紅く包んだ。

 三人は直撃こそ避けたものの、三者三様の苦悶の表情を見せ、喘いだ。


(なんだ……この威力は……!?)

 片桐は爆炎を避けながら、歯を食いしばっていた。


 赤輪眼は確かに強力な破壊能力だ。

 だが爆破できるのは一度に一箇所のみ。


 それも一度撃った後は、第二撃まで暫しの間が必要だったはずだ。

 同時に五ヶ所を爆破するなど、尋常なことではない。
 

 そして気付いた。


 先程までレオのいた場所。

 今そこに、奴の姿はない。


 あわてて周囲を見回す。


 先程の自分と同じように、爆炎に紛れて奇襲をかける気だろうか。

 だが前後左右どこにも、奴の姿が見当たらない。


 足元に映る、もう一つの影。


 とっさに真上を見上げる。

 レオの姿はそこにあった。


 灼熱の左腕を、こちらの脳天に叩き込もうとしている。

 防御など微塵も考えず、片桐は跳び退いた。


 灼熱の雷が地を穿つ。

 衝撃とともに噴き上がる熱風だけで、吹き飛ばされそうになるほどだった。


 レオは着地した姿勢のまま、床に左手を刺し込んでいた。

 ゆっくりと、左腕が引き抜かれる。


 一撃を受けた床は、原型を止めぬほどに溶解していた。

 あの左腕の威力も、明らかに以前の比ではない。


 アーティファクト支配により、アーティファクト自体の性能が飛躍的に向上しているのだ。

 片桐は迷わず左手を突き出す。


「喰らえ!」

 四度目の、そして最後となる光の奔流を放った。

 それは彼にしては、ひどく短絡的な行動だった。


 レオは避けようとしない。

 その場に悠然と立ち、迫り来る針の嵐を迎え討った。


 直撃の瞬間、身に纏う闘気を爆発的に噴出する。

 ただそれだけで無数の針は全て弾き飛ばされ、液体となって地に落ちた。


 凍りつく片桐と、嘲笑うレオ。

 立場は完全に逆転した。
 




 闘いは続く。

 攻勢を続けるレオに、早人が銃口を向け、水城が飛びかかった。


「よせ!」

 片桐は叫んだ。

 あの二人の力量では、レオには到底及ばない。


 だが、一度闘志に火のついた二人は、彼の怒声だけでは止まらなかった。


 余分なパーツを外した砲身が、一筋の閃光を放つ。

 鋭利な白刃が、横薙ぎに閃く。


 どちらも攻撃としてのレベルは低くない。

 だが、連携としては拙いものだった。


 レオはそこにつけこむ。


 閃光の描く直線と、刃の描く曲線。

 二つの軌道を瞬時に見極め、どちらの軌道にもあたらぬ位置に、自らの体を移動させる。

 それまでの豪快な闘い方とは一変した、無駄のない、しなやかな動きだった。


 そして、優雅に笑う。


「……!」

 その笑みを眼にしたとき、水城は迷わず後方に逃げた。


 頭で考えてのものではない、反射的に体が退避を選択してしまったのだ。

 いうならばそれは、猛獣を目にした小動物の反応に似ていた。


 高速無音移動術“仙流”を駆使し、前を向いたまま後方に移動してゆく。


 機動力なら自分に勝てる者はいない。

 それだけの自信はあった。


 だが、一瞬だけ植えつけられた恐怖は彼の思考を凍結させていた。

 眼が醒めて再びレオを見ようとしたとき、そこには誰もいなかった。


 直後に耳に届く、背後からの声。


「鈍いな」

 それは、水城の“速さ”への自信を、完膚なきまでに粉砕する一声だった。


 水城は防御も間に合わず、痛烈な蹴りを背中に叩き込まれる。

 左腕の一撃ではなかったため致命傷には至らなかったが、心を砕かれた衝撃は堪え難いものだった。


 受身もとれずあえなく倒れ伏す。


「水城さ……」

 早人には叫ぶ間も与えられなかった。


 倒れる水城に気をとられた隙に、レオに間合いを詰められたからだ。

 気付いた時にはもう、灼熱の左腕が間近に迫っていた。


 とっさに外したばかりの装甲を巨砲に装着させ、防御に回す。

 巨砲はその分厚い装甲をもって、あらゆる攻撃を受け止めるはずだった。


 しかし、左腕は巨砲を一刀両断する。


 霊獣の打撃に耐え、ムスカの鞭に耐え、エリダヌスの水にも耐え続けた巨砲が、一刀のもとに両断される。

 切り口は見る影もなく溶解していた。


 早人は、なす術なく呆然となる。
 
 その脇腹に、容赦ない回し蹴りが叩き込まれた。


 なす術なく倒される二人を、片桐はなす術なく見るしかなかった。


 今、迂闊に動いたらやられる。

 今は無駄な動きを一切せず、冷静に闘わなくてはならない。


 レオは立ち上がれない二人に止めを刺そうとせず、片桐のほうへと歩みよってゆく。


(落ち着け……勝機はまだある)

 アーティファクト支配の力。

 まさかこれほどとは思わなかった。
 

 膨大なエネルギーを運動エネルギーに変換した、爆発的な身体能力。

 今奴の戦闘力は、通常時の数倍に膨れ上がっている。


 だが、それは所詮一時的なものに過ぎない。


 アーティファファクトに内在する力は人の秤からすれば無限に等しいものだが、それを制御する人間の精神力には限界がある。

 あれだけ膨大な力を放出し続けるからには、術者には相当な負担がかかっているのだろう。


 いずれ枯渇することは目に見えている。


 持久力。


 それがあの“アーティファクト支配”の唯一にして最大の弱点のはずだ。

 片桐はそこに希望を見出した。
 

 すると、レオは言った。


「七時間と十二分」

「何……?」

 唐突な宣言の意味が、とっさに理解できない。


「この状態を維持するときの、俺の自己ベストだ」

 相手の顔に浮かぶ絶望を、レオは愉快そうに眺めた。





 重い瞼を、ゆっくりと開く。

 闇に閉ざされていた意識が、徐々に鮮明になってゆく。


 意識を取り戻した紗百合が最初に眼にしたのは、熱風が吹き荒れ、殺気と闘志が交錯する闘いだった。

 いや、もうそれは、闘いなとど呼べるものではないだろう。


 状況はあまりに一方的過ぎた。


 倒れた状態から起き上がった水城が、背後から奇襲をかける。

 だがそれは実らず、相手に振り向きもされぬまま腹に肘打ちを叩き込まれた。


 巨砲を破壊された早人は、壊れた巨砲でなお閃光を放ったが、本来の威力を持たぬそれは、右手一本で止められた。

 直後に爆破が起こり、早人は直撃こそ避けたものの爆風にあおられ後方に飛ばされた。


 そして、見知らぬ男。

 必死に格闘戦を演じているが、体力も技量も相手の方が数段上回っている。

 嵐のような猛攻を捌ききれず、徐々にその身の傷を増やしていった。


 三人を相手にこれだけのことをやってのけているのは、ただ一人の男。

 自分と血を分けた、実の弟。


(あれが……淳也……?)

 眼前で繰り広げられている光景が、とても信じられなかった。

 敵の攻撃を無力と化し、必死の抵抗を嘲笑い、暴君の如く暴れ回る。


 その闘いぶりには、かつてのひ弱な少年の面影は微塵もない。

 その大きな背中は誰よりも頼もしく、その闘う様は誰よりも華々しい。

 
 だが、悲しかった。

 あの拳が振るわれるごとに、自分の仲間達が苦しみ悶えていくことが、何より堪え難かった。


 弱くてもいい。

 頼りなくてもいい。


 遠いあの頃の彼に戻ってほしかった。

 自分が愛していたのは、目の前で闘う戦士ではなく、想い出の中の少年なのだから。


 薄く開かれた眼から、涙が零れ落ちた。





 決着がつくのに、そう時間はかからなかった。


 すでに手傷を負っていた早人と水城は、僅か二撃で戦闘不能となった。

 二人とも床に膝をつき、必死に痛みを堪えている。


 せめて気迫では負けまいとレオを睨みつけているが、そのまま飛びかかる体力と気力は残されていない。

 唯一、二本の足で立っている片桐も既に数撃をその身に受け、満身創痍の状態にある。


 もはや劣勢を通り越して敗北を目前に控えていることは、誰より彼自身が自覚していた。


「終わりだな。リブラ」

「ふざけるな、まだ俺は闘える」

 明らかな虚勢だった。


 この劣勢を挽回できる手など、今の自分はもちあわせていない。

 たとえ、まだ隠している技を駆使したところで、この相手には到底通用しないだろう。


 一線を退いた己の衰えも、相手の実力の向上も、全て計算に入れているつもりだった。

 しかしそんな計算は、所詮机上の空論に過ぎなかった。


 この男の技量は、既に全盛期の自分を凌駕している。


(まさか……これほどとはな)

 “レオ”はセクステルの長にして、ニブルヘイム最強の証。


 その名を冠する者は、組織で最高の武力を誇り、知勇に優れ、人望厚く、気高い魂の持ち主でなければならない。

 組織結成当初から、そう決まっていた。


 最高幹部の座は十二。


 天帝の腹心だった自分を初め、初期メンバーのジェミニとカンケル。

 後にそれぞれの事情と経緯を経て加わったタウルス、ビスケス、アリエス。


 六人までは順調に揃った。


 だがその時点ではまだ、最高位の“レオ”を授かるにふさわしいと認められる者は現れなかった。

 ゆえに集った六人、さらにその下のゾルダート達は、自らがその座につこうと鎬を削っていた。


 そんな中、天帝が眼をつけたのは最高幹部の六人でもゾルダートの誰でもなかった。

 奴隷として虐げられていた、一人の少年だった。


 天帝は自分に、その少年をレオの座につくにふさわしい者に育て上げるよう命じた。

 一介の奴隷とニブルヘイムの王が、いつどこで、どのように面識をもったのか……それは自分にもわからない。


 自分はただ、命じられるがままに少年を鍛えた。

 最初は自分にも、なぜ天帝がその少年に目をつけたのか理解できなかった。


 少年は、初めからアーティファクトの扱いに長けていたわけではない。

 一人前に育て上げるには、相当な修練を要した。


 だが、今ならわかる。

 天帝の眼には狂いはなかった。


 かの人物は見出した才覚は見事なまでに開花し、無能な奴隷を無敵の戦士に変えていた。


 最強の力を手にした少年は、もう何にも臆さない。

 何者にも怯えない。


 ただ笑い、嘲り、見下ろすのみ。


「その気概だけは讃えておこう。そこの早人とコルブスにも、俺はけっこう好感が持てた。できればもう少し雑談を交わしてみたかったな」

 それは本心からの言葉だったのだが、満身創痍の三人には皮肉にしか聞こえなかった。


「だがもう終わりだ。次の一撃で、全て終わりにする」

 敵に賛辞を述べ、敬意を表することはあれど、決して容赦はしない。

 それがニブルヘイムの戦士・レオのやり方だ。


「やや陳腐で白々しい台詞になるが、俺はお前らのことを忘れない。生涯記憶に留めておこう」

 赤き右眼に、黄金の闘気が収束されていく。

 闘気を我が物とした右眼は、強烈な真紅の光を放ち、かつてない重圧を三人に与えた。


 先程の“煉獄葬”をも上回る、膨大な力だ。


「死力を尽くして闘った者へのせめてもの礼儀だ。苦しむ間は与えない。一瞬で消し飛ばしてやるよ」

 全ての力を解き放った、最大出力の赤輪眼。

 それは居並ぶ三人を跡形もなくこの世から消し去る力を具えている。


 一切の苦しみを与えず、無惨な亡骸も残さない。

 それがレオなりの強者に対する、敬意の表し方だった。


 右眼が最大限に見開かれ、溜め込まれた力が放たれようとする。


 その時……


「やめて!」

 綾瀬紗百合は、レオの眼前に立ちはだかった。

 両手を広げ、三人を守る意思を示して。


 そんなものが無意味なことは知っている。

 今更彼女が視線上に割り込んだところで、爆破には何の支障もきたさない。


 それでもレオは、右眼の起爆を見送った。

 主により強引に抑えこまれた真紅の力が、右眼の周囲にくすぶり続ける。


「あなたの勝ちよ! だから、もうやめて!」

 必死の形相で紗百合は叫ぶ。

 だが、レオの心には届かない。


「まだそんな真似をする気力があったとはな……」

 その顔には、一割の感嘆と九割の呆れが浮かんでいた。


「どけ姉貴、悪いがあんたの望みは聞き入れられない。どかなければ、あんたも一緒に消し飛ばす」

 それは脅しではない。


 事実右目に集められた力は抑えられながらも、まだ消滅してはいなかった。

 彼が僅かに集中を解くだけで、紗百合は後方の三人もろとも灰燼に帰すだろう。


「いや……!」
 
 悲鳴のような声で、紗百合は拒否した。


 その表情には、先程の対峙の時のような弱々しさはなかった。

 強い意思で、今この場に立っている。


「お願いだから……誰も殺さないで」

 早人たちが殺されること。

 レオが手を下すこと。


 どちらも自分には堪え難いことだ。

 だから、止めなければならない。


 この命に代えてでも。


「どんな形でも……あなたが生きていてくれたのは嬉しいよ。私のことなんかどうでもよくたって、生きてさえくれれば私は構わない。でも……あなたが誰かを殺すのを見るのだけは嫌……」

 零れ続ける涙が唇を麻痺させ、紡ぎ出される言葉を遮ろうとする。

 それでも紗百合は言った。


「昔のあなたは、今みたいに強くも頼もしくもなかったけど……優しい子だったじゃない。私は……そんなあなたが好きだった」

 幼い頃からひ弱で、臆病だった弟。

 いつも自分の傍についてまわって、いつも自分の後ろに隠れていた。


 それでもよかった。

 そんな少年でも、愛することができた。


 たった一人の肉親だから。


「戻ってこれなくてもいい……昔みたいになれなくてもいい……だから、誰も殺さないでいて」

 プライドも何もかもかなぐり捨てて、必死に懇願した。

 静かな表情で、レオは静かに応える。


「俺が昔は心優しい子供だったと思うのなら、それはあんたが勝手に抱いた幻想だ。昔の俺は“力”がなかったからあんたの陰に隠れて大人しくしていただけ……俺の内面は常に、ドス黒い野望と欲望の塊だ。今も昔も、それは変わらない」

 それが事実なのか、虚言なのか、それは誰にもわからない。

 ただ一つ言えることは、彼は姉の抱いていた想い出を、幻想として否定したことだ。


 この時になって、紗百合は悟った。


 自分の言葉は、今の弟には決して届かない。

 長い年月は、埋めようのない隔たりを、自分たち姉弟の間に作っていた。


「淳也……一つだけ答えて」

 もうこれで最期になるなら、一つだけ、知っておきたいことがあった。

 聞かならないことがあった。


「あの時……私があなたを見捨てて逃げたこと……恨んでるの?」

 血みどろの闘いに身を投じながら、彼女が求め続けた答え。


 もし弟が自分を恨んでいるのなら、償わねばならない。

 そのためになら、死ぬ覚悟すらできていた。


 レオの眼から殺気が消えた。


「……恨みなんざ微塵もないさ。怒りも憎しみもない」

 その時、彼の眼が見ていたのは、眼前の女性ではなかった。

 その傍らに微かに浮かぶ、思い出の中の少女だった。


「あの時はお互い無力な子供だった。俺が姉貴の立場でも同じことをしただろう。姉貴を恨む道理なんざどこにもない」

 あの時、少女は涙を零しながら去っていった。


 その背にむけて、自分は必死に手を伸ばしていた。

 その手が届くことはなかった。


 今にして思えば、あの時自分たちの繋がりは途絶えたのだろう。


「言い換えるなら、そんなくだらない感情を抱かない程どうでもいいことなんだ。俺の中でもうあんたの存在は、何の意味ももっていない。俺たちはもう姉弟じゃない。別々の道をゆく他人だ」

 もう、姉の後ろに隠れていた子供ではない。

 姉に捨てられて泣いていた子供でしない。


 姉との“絆”を求めはしない。


「そして他人だからこそ、ためらいなく殺せるんだ」

 それは、決別の言葉だった。

 過去を断ち切った者が過去にしがみつく者に告げる、別れの言葉だった。


 紗百合は死を覚悟した。

 双眸をきつく閉じる。


 ついに最期の時が来た。


 全てを捨てて、求め続けた者の手で殺される。

 それはある意味で、過去の罪が生んだ罰なのかもしれない。


 肉を焼き、骨を焦がす堪え難い痛み……それはいくら待ってもやって来なかった。

 不審に思い、僅かに眼を開ける。


 目の前に位置する左手からは、灼熱の力が消え失せていた。


「だが、それでもやはり……昔のよしみというやつかな。あんたを殺すことに、どこかためらいを感じている俺がいる。他の奴に殺されるなら構わないが、俺自身の手で殺すのは少々気が引ける」

 左腕を下ろし、身を翻した。

 全身を覆っていた闘気は風船がしぼむように収縮していき、やがて消え失せる。


「いいだろう。あんたの気概に免じて、この場は退いといてやるよ」

 この場の誰にとっても、意外な答えだった。

 まさかこの男が自ら闘いを止めるなど、誰も予想だにしていかった。


「まあ俺が手を引いたところで、ニブルヘイムがあんた達を見逃すことは無いだろうがな。じきに、別の奴が似たように襲い掛かってくるだろうさ」

 背を向けて歩きながら、淡々と言った。

 エリダヌスのところに歩み寄ると、おどけて肩をすくめてみせる。


「俺様としたことが任務失敗とは……やれやれ、無敗伝説に傷がついてしまったな」

「いいのですか……?」

 エリダヌスは聞いた。

 どのような形であれ敵の抹殺が完遂できなかったとあれば、レオの立場も危ういものとなる。

 だが、本人にそんなことを気にした様子はなかった。


「いいさ、済んだことだ。さ、帰ろーぜ」

「あ、はい……」

 とまどいながらも、エリダヌスは主に従う。


 今彼女は、複雑な心境にあった。


 任務に失敗したはずなのに、それをどこか素直に受け止めている自分がいた。

 レオがあの連中を殺さなかったことに安心している自分がいた。


 何故そんな感情を抱くのか、それは彼女自身も分からない。


「では諸君、少々不本意だが今夜は大人しく引き下がるとするよ」

 レオはそう言って、首だけを後ろに向けて笑ってみせた。


「次に逢う時……が来るかどうかは分からないが、その時はもう今回のような手抜きはしない。本気で相手してやる」

 最後まで気取った物腰を崩さず、余裕の笑みを絶やさない。


「まあ、それなりに楽しい夜だったよ。……じゃあな」

 それを最後の言葉とし、歩を進めてゆく。


 エリダヌスは一瞬だけ、自分を倒した少年に視線を向けた。

 消えてゆく幻を、名残惜しむように。





「……」

 無言で別れを告げ、主の後を追っていく。

 二人の死の国の住人は、戦場から去っていった。


 そして、紗百合の体は倒れゆく。


「先生!」

 早人はあわてて、紗百合の体を支える。


 元々、彼女は精神的にも肉体的にも満足に動ける状態ではなかった。

 レオが消えて緊張の糸が切れたのだろう。

 再び気を失っていた。


 一方、水城は床に腰を下ろし、心底疲れたように嘆息した。


「……まあいろいろひどい目にあったが、命があっただけよしとするか」

 本当に長い夜だった。


 幾多の命の危機を超え、ちっぽけな勝利を重ねた先にあったのは、馬鹿らしいくなるほどの力の差。

 心身ともに疲れ果て、もはや何も考えたくない。


「なあ、おっさん」

 視線を片桐に向ける。


「あいつ……あれでまだ本気じゃなかったのかな?」

 片桐は答えない。

 あるいは、答えるのが怖かったのかもしれない。


 双眸に宿る十字を消し、静かに眼を閉じた。


「今日のところは……俺たちの負けだ」

 こうして、長い夜は終わりを告げた。





 凍てついた鉛のような、重く、冷たい圧迫感。

 昏く、深い闇の中に、意識を沈め続けようとしている。


 それは、傷ついた体が休息を求めるゆえなのか。

 砕かれた心が、現実から逃れようとするゆえなのか。


 どちらにせよ、いつまでも闇に身を投じてはいられない。

 甘い誘惑を振り切り、紗百合は重い瞼を開けた。


「う……ん……」

 ぼやける視界が、徐々に鮮明になってゆく。


 眼前に映る。

 やけに低い天井。

 背中に感じる、やわらかな感触。

 その下から伝わってくる、微かな振動。


 小さな窓からは、オレンジ色の光が途切れ途切れに差し込み続けていた。


「ここは……」

 ここがどこなのか。

 それを認識するのに数秒を要した。

 意識が覚醒するごとに、記憶と思考が戻り、この場所の正体を彼女に気付かせる。


 ここは、車の中だった。


「あ、先生。気がついた?」

 前の座席に腰掛ける早人が振り向いて声をかけた。

 そのさらに前の席に腰掛けていた水城も振り返る。


 運転席では、片桐がハンドルを握っていた。

 ここは、彼の運転するワゴン車である。


 その最後尾の座席に、紗百合は寝かされていた。

 毛布がわりに、片桐の上着がかけられている。


「大丈夫? どこか痛まない?」

「いえ……それより、あの後どうなったのですか?」

 紗百合が問い返すと、早人の代わりに水城が答えた。

 親指で隣の運転手を指差しながら。


「このおっさんの本職は刑事だからな。俺らが人質の一部だったってことで警官たちを無理矢理納得させて、あそこから連れ出したんだよ。で、あとは『こいつらは自分が事情聴取する』とか何とかテキトーな理由つけて、あの場を離れたわけだ」

 あの後片桐は外の警官たちに連絡を入れ、彼らを店内に突入させた。
 
 彼らは片桐と一緒にいる奇妙な三人組を見てえらく訝しげな顔をしたが、そこは片桐の地位と権力で黙らせることができた。


 幸いラケルタに殺された二名を除き、人質たちは全員無事だった。

 三人のゾルダートの変死体は回収され、主犯格二名の逃亡という結果で事件は一応の幕を閉じた。


 正確には“もみ消した”と言ったほうが正しいが。


「ま、職権の乱用ってやつだな」

 あからさまに毒を含んだ物言いにも、片桐は動じない。

 ただ、無言で前だけを見据えて運転している。


「それより先生、何か食べない? 途中でコンビニに寄っただけだから大したものはないけど」

 そう言って、早人は脇に置いてあったビニール袋を差し出した。

 中には各種のおにぎりやサンドイッチ、ペットボトルなどがいっぱいに詰め込まれている。


 前方に座る水城が「腹減った」「喉渇いた」などと駄々をこねるため、仕方なく途中で買い溜めしたのである。


「“目的地”とやらに着くにはもう少しかかるらしいからな。出血もあるだろうし、何か食っといたほうがいい」

 そう言う本人はといえば、「失った血を取り戻すため」という名目で四個目のおにぎりをほおばっていた。

 紗百合はビニール袋には目もくれず、力なく眼を伏せる。


「いえ……食べ物はいいです」

 食欲など湧いてこない。

 それどろか、今は何もしたくなかった。


 ただ静かに、頭の中を整理していたかった。


「すみませんが……もうしばらく休ませて下さい」

 そして、再び静寂の中へと帰っていった。


「……」

 早人と水城は、何も言えなかった。


 励ましの言葉も、慰めの言葉も思いつかない。

 たとえ幾分気の利いた台詞を言ったところで、今の紗百合には気休めにもならないだろう。
 

 今、彼女の心は砕かれている。


 以前の彼女を支えていた使命感や不屈の意思は、今となっては見る影もない。
 
 かつての彼女を奮い立たせていた“闘う理由”はもはやない。


 それでも闘いを続けるには、彼女自身が新たな“理由”を見つけるしかない。

 酷なようだが、自分の力で立ち直ってもらう他ないだろう。


 早人は気持ちを切り替え、片桐に問うた。


「ねえ片桐さん。そろそろ教えてほしいんだけど、この車はどこに向かってるの?」

 現在片桐の車は天城市を離れ、高速道路の本線車道を走行中だった。

 平日の夜なので、通行量はまばらだ。


 ワゴン車は右側の車道を、100キロを越える速さで疾走していた。

 道路脇のライトが列を成す流星のように、次々と後方に飛び去ってゆく。


「もう出発して二時間になるよ。ただ単に、ニブルヘイムから遠ざかってるわけじゃないんでしょ? いい加減、目的地くらい教えてよ」

 早人の声には、微妙な苛立ちが混じっていた。

 突如、行動の主導権を握った片桐の強引さが原因である。


 百貨店を出た後、彼は有無を言わさず三人を車に押し込み、

 発車してから、いきなり天城市を出ると言い出したのだ。

 その理由については、未だ聞かされていない。


 出会って間もない者にこれだけのことをされれば、誰でも不満と不信感を募らせるというものだろう。


「同感だな。この期に及んで、秘密主義に徹することもないだろ」

 助手席の水城も同意する。
 
 片桐は嘆息し、面倒くさそうに答えた。


「目的は一つ。ある人物と合流すること。目的地はそいつの家だ」

 水城は微かに眉をひそめる。

 今の一言で、おおよそのことは理解できた。


「やっぱりいたんだな。俺以外にも協力者が」
 
 初めて知る事実だったが、さほど驚きはしなかった。

 元々依頼をもちかけられた時から、協力者が自分だけというのは仕事の規模に較べて不釣合いだと思っていたのだ。


「そいつなら、俺やお前らの負傷を治すこともできる」

「闇医者か? そいつ」

「いや……だが、医者よりよほど使い物になる。この程度の傷なら、一晩かそこらで完治させてくれるだろう」

 その言葉には、流石に水城も驚いた。


 片桐は比較的軽傷だが、自分たち三人の傷は決して浅くない。

 それを一晩で治すなど、最先端の医療技術を駆使しても不可能だろう。


「そういう能力の持ち主だ。詳しいことは会ってみればわかる」

 そう言った後、最も重要なことを告げた。


「そしてそいつこそ、俺たちをあのニブルヘイムまで連れて行くことのできる力の持ち主だ」

 早人と水城が驚愕の表情を浮かべる。

 空ろだった紗百合の眼までが、一瞬だけ見開かれた。


 その者の姿を、その力を、片桐は脳裏に浮かべる。


「そいつの名は……」

 四人を乗せた車は、風を切り裂き、闇路をひた走る。


 新たな仲間のもとへと。





第8話 第10話

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