ニブルヘイム
永遠に続く 茨のように
されど進む
罪深き魂に 災いを宿して
第八話「歯車」
あの時のことは、今でも鮮明に憶えている。
自分を見下ろすあの男が、どんな顔をしていたのかも。
自分が何を感じ、何を思っていたのかも。
“強くなりたいか?”
男は問うた。
ひ弱で、無能で、卑しい……奴隷の少年に。
全てを失い死の国にやってきた、生ける屍に。
“強くなって、お前を虐げた者達の上に立ちたいか?”
どこか、少年を試すような言葉。
男は続けた。
“一度狂った運命の歯車を、己が力で元に戻したいか?”
そう……あのとき自分は、確かにこう答えたのだ。
大いなる野心を秘めた眼で、神をも嘲る笑みを浮かべて。
“一度狂った歯車なら、狂ったまま廻し続けてやる”
そして、彼は“レオ”になった。
眼前のモニターには、店内各所の光景が映し出されている。
その内の三つにだけ、人の姿が映っていた。
それぞれの武具を携え、対峙する者達。
この舞台を仕組んだのは彼自身。
だが責任感や、勝敗に対する関心は無いに等しい。
あるのはただ、命をかけた死闘の対する、傍観者としての興味だけ。
彼は微笑みを浮かべながら、自らの部下たちを眺め
「さあ……どうなることやら」
他人事のように、呟いた。
紗百合の眼前に立つ男の変異は、未だ収まっていなかった。
左肩から先の筋肉が、何かの形を成そうと蠢き続けている。
蜥蜴座の称号にそぐわぬ爬虫類的な眼が、溢れんばかりの悪意をもって紗百合を見据えていた。
「驚いたか? 俺のアーティファクトは少しばかり特殊なんだ」
紗百合は相手の男、ラケルタと一定の距離を保ったまま、何も仕掛けずにいた。
相手の力量や戦法が不明だからということもある。
だが最たる理由は、その外見のおぞましさだった。
己の肉をグロテスクに操るあの男には、とても近寄りたいとは思えない。
「他の奴らのアーティファトは剣や槍の形になって直接攻撃するか、もしくは音や熱など外界に何らかの影響を与える力を発生させる。だが俺のは逆に、内部……つまり肉体そのものに影響を及ぼす」
その言葉が終わるとともに、右腕の変異も完成した。
赤黒く変色した皮膚。
はちきれんばかりに膨張した筋肉。
その醜さをさらに引き立てているのが、全体に散在する数多の“口”だ。
どれもが鋭くいびつな犬歯をもち、吐息を吐き、涎を垂らしている。
見る者に生理的な嫌悪感と、恐怖を与える姿だ。
あんなもので傷つけられたら、いったいどんな傷跡が残り、どんな苦痛を味わうのか、とても想像できない。
隻腕の右腕と異形と化した左腕が奇妙なコントラストを成していた。
「……体内内蔵型」
実験用ラットを観察する研究者のように無機質な顔で、紗百合は呟いた。
ラケルタの笑みが大きくなる。
「ほう、知ってやがったか」
「通常の彫像型アーティファクトと異なり、体内に直接埋め込むことでアーティファクトの力を肉体と同化させ、術者を人外の者に変えるアーティファクト。しかしその代償として、術者は何らかの障害を負う諸刃の剣……違いますか?」
体内内蔵型アーティファクトの存在は、紗百合も以前から知っていた。
内蔵型には彫像型にはない利点が二つある。
一つは戦闘中に敵に奪われる心配がないこと。
もう一つは肉体と能力を同化させているため、不測の事態に際し迅速に対応できること。
にもかかわらず全アーティファクト中内蔵型が少数なのは、内蔵型の抱える重大な欠陥にあった。
アーティファクトは幽子結合を利用した特殊な金属で造られている。
そんな代物と人間の肉体が上手く共存できるはずがない。
拒絶反応により術者に何らかの悪影響を及ぼすのだ。
「そうさ。ちなみに言っとくと俺の副作用は“異常食欲”。アーティファクトに犯されたせいで内蔵か脳味噌がイカレちまったみてえでな。飢えて飢えて仕方ねえんだ。鼠みてえに常に何か喰ってねえと我慢できねえってわけさ。だが後悔はしてねえな。だだそれだけの代償で世の中を思い通りにする力を手に入れたんだからよ」
落ち窪んだ眼を細め、厚い唇を曲げ、歪に並んだ歯を見せる。
その醜悪極まりない笑みが、彼の言葉が本心からのものであることを示していた。
紗百合は理解した。
先ほど見た二つの死体。
あれは殺されたのではない、喰われたのだ。
その証拠にこの男は、今も異形の左腕で自分を喰らおうとしている。
そして、本当におぞましいのはこの男の性根。
こいつは我欲を満たすために誇りも尊厳も捨て、自らを醜い怪物に変えた。
そうして得た力を見せびらかすことで、人間を超えた気になっている。
そんな卑しい心の持ち主に、容赦などいらない。
「欲望のために品性まで捨てるような人には、溝鼠の体がお似合いですよ」
背中から短い木刀を取り出す。
植物を操る能力により生み出された漆黒の木刀。
紗百合が接近戦時に愛用する武器だ。
柄を両手で握り、半身になる。
剣術における突きの構え。
力を流し込むと、木刀は急激に伸びた。
以前木刀を貸し与えられた早人が使ったのと同じ技だ。
ラケルタは鼻で笑った。
彼とてこの程度の攻撃は予想している。
こんな小技、命中したところでさっきの木の葉手裏剣の二の舞だ。
だが本来の術者が用いる時、霊木の刃は真価を発揮する。
突如分裂し、幾つもに分かれる切っ先。
そして刀身からも、幾本もの鋭い枝が出現した。
その姿はもはや木刀ではなく、魔性の大樹そのものだ。
“樹槍ロンギヌス”。
ラケルタの眼が見開かれる。
刀身から伸びる四本と、三つに分かれた切っ先。
計七本の枝に、その体は貫かれた。
貫通箇所は心臓、肺、眉間、両手足。
生身の人間なら、まず即死であろう。
ラケルタの顎が上を向き、上体がのけぞる。
心臓を貫かれてなお生きていたこの男も、これではひとたまりもないのではないか。
紗百合は一瞬そう思った。
しかし淡い期待はあえなく霧散する。
ラケルタの口元に浮かぶ、ふてぶてしい笑み。
「それがてめえの一番の大技か? ぬりいな」
彼はまだ生きていた。
痛みを感じているそぶりすらない。
「悪いが刺突系の技は俺にはきかねえ。内臓も骨も血管も神経も、瞬時に傷口からどかして損傷を避けることができるからな。その気になりゃあ脳味噌と心臓の位置を入れ替えることも出来るぜ」
一時はその身を貫いた枝も、筋肉の圧力に屈してへし折れる。
体内に残る枝の切れ端を取り込みながら、傷口は塞がれていった。
人間に限らず全ての生物は、五体を自在に動かすことは出来ても、体内組織の活動に干渉することはできない。
その摂理に反し、体内の各器官に自らの意思を介入させて自在に操るのがこの男の体内に埋め込まれし、蜥蜴座のアーティファクトの力。
生命の理に逆らう、異端の力だ。
だが……真に恐ろしいのはそこではない、と紗百合は思う。
たとえ臓器や骨を動かせるとはいえ、襲い来る七本もの枝の狙いどころを瞬時に見切り、かつ瞬時に肉体構造を変化させて無傷で済ますなど容易に出来るものではない。
それを可能としているのは、あの男の卓越した技量だ。
面相は醜悪。
態度は粗暴。
人格は下衆。
だがアーティファクト使いとしては紛れもなく一流だ。
一筋縄でいく相手ではないだろう。
「しかし……植物を操る力か……奇妙だな」
突然思い出したように、ラケルタは呟いた。
「実はよ、俺だけじゃなく他の連中もずっと疑問に思ってたんだ。例のガキには盗まれた魔眼の力があるし、コルブスの野郎は元々剣技の遣い手だ。やつらが俺らと闘える理由はわかる。だが、最後の一人……元は霊獣狩りだった奴が闘える力を持ってた理由がわからねえ」
自説を披露する学者のような様子で、言葉を続ける。
「最初はゾルダートの誰かがやられてアーティファクトを奪われたか、またはまだ使い手が見つからずに保管されているアーティファクトが盗み出されたのかと思ったが、植物を操る代物なんざ十二の魔眼を含めた全八十八のアーティファクトの中には存在しねえ」
「何が言いたいんです?」
紗百合は柳眉をつり上げる。
対照的に、ラケルタは愉しげだ。
植物を操る能力。
存在しないはずのアーティファクト。
彼の中で、その答えは既に出ている。
「ひょっとしてそいつが……“オリジナルアーティファクト”って奴か」
紗百合の顔面の筋肉が微妙に動いたことを、ラケルタは見逃さなかった。
「図星みてえだな」
嬉しそうに笑う。
「知ってるぜ、今のニブルへイムの前身となった組織のことはよ。その時代に作られた旧式のアーティファクトなら、そんな芸当が出来ても不思議じゃねえよなぁ」
紗百合は肯定も否定もしない。
だがその態度が暗黙の肯定であることは明白だった。
「だが……」
呟きと同時に、ラケルタは動いた。
異形と化した左腕を振るい、紗百合を襲う。
紗百合は回避と同時にしなかな足捌きで相手の斜め後方に回った。
木刀を脳天に叩き込もうとする。
だがラケルタの追撃のほうが早かった。
腕だけを後方に回し、歪んだ弧を描く。
外から内に向かうという人間の攻撃原理の逆をいく、内から外へと向かう一撃。
自身の能力で関節を捻じ曲げているのだろう。
人体構造を無視した奇怪な体術だ。
紗百合が間合いを空けたとき、右手の木刀は柄から先が消失していた。
異形の左腕にへし折られた……否、喰われたのだ。
左腕に散在する口の一部が、ぼりぼりと音をたてて食い破った木刀を咀嚼していた。
「どんな手を使ってそんなもんを手に入れたか知らねえが、所詮は一昔前の二級品だろ?より改良されたアーティファクトを極めた俺様の敵じゃねえよ」
木刀を貪り続ける左腕を向ける。
次にこうなるのはお前だと言いたげに。
未だ餌を与えられていない口は若い女の肉を求めるように、醜い嗚咽を漏らしていた。
「さあて、それじゃあじわじわと……」
「あなたの言う通りですね」
ラケルタの台詞を遮り、紗百合は平然と言った。
「残念ながら私のは旧式の二級品のポンコツだから、あなたに勝てる見込みはまったくありません」
意外すぎる台詞だった。
流石のラケルタも呆気にとられて表情を消す。
紗百合はいたってマイペースに、身を翻した。
「だから遠慮なく逃げさせていただきます」
そう告げて、全速力で駆け出していった。
あっという間に棚の角を曲がり、死角へと消えていく。
一瞬狐につままれたように呆然と立ちすくしていたラケルタだったが、すぐに怒りに表情を歪めた。
これではまるで、自分が小馬鹿にされたようではないか。
「野郎!逃がすかぁ!」
歯を剥き出し、逃げる獲物を追っていった。
無論、紗百合は恐れをなして逃げたわけではない。
これは戦略上の一時的撤退……いや、移動だ。
ラケルタを倒すための算段は、彼女の中で既に練られている。
描かれる、銀と黒の二つの弧。
衝突し、火花を散らす片刃と諸刃。
水城とヘルクレスは、鍔ぜりの形で密着した。
技巧の介入する余地のない単純な力比べ。
ここで利を得たのはヘルクレスだった。
「ハッ!」
掛声とともに、水城の細い体を後方へ押し飛ばす。
そして間髪入れず、次の攻撃に移った。
腰を落とし、刃を水平に構えての突き。
両刃の直刀という自身の得物の形状を生かした一手だ。
水城は柄から右手を離し、半身になることで回避する。
柄を握る左手に握力をこめ、ヘルクレスの側頭部を狙った斬撃を放つ。
ヘルクレスは素早く手元に剣を引き寄せ、金属製の柄で襲い来る刃を防いだ。
一進一退。
互いに一歩も譲らない。
一瞬の攻防が過ぎ去り、両者の間に僅かな間合いが空く。
とはいえ依然互いの間合いの内に踏み込んでいることに変わりはない。
広い通路を横切るように、互いに平行して駆ける。
鋭い双眸を交差させたまま。
ここで先手をとったのは水城だった。
ふいに、ヘルクレスの視界からその姿が消える。
高速無音移動術“仙流”の効果だ。
だがヘルクレスの顔に驚愕は浮かばない。
冷静に、剣を背に負う鞘に収めるように、自身の背面に回す。
直後に響き渡る、鋼の触れ合う音。
その構図は奇妙なものだった。
ヘルクレスの右斜め後方に位置し、身をかがめた姿勢のまま、右手に握る刀でヘルクレスの背中を斬りつける水城。
その刃を先程の体勢そのままに受け止めているヘルクレス。
見開かれた水城の眼を、怜悧な双眸が見据える。
「“夜叉咬”か……無駄だ、貴様の剣は見切っている」
火花とともに、再び両者の間合いは空く。
水城流壱の太刀、“夜叉咬”。
その奇怪な斬撃の全貌を、ヘルクレスは既に見極めていた。
仙流で相手の背後をとり、そこから仙流自体に回転をかけることで自らの体をも回転させる技。
これによって、移動から即座に相手の背を狙った横薙ぎの斬撃に移行することができる。
一瞬のうちに背後をとる疾さと、遠心力の上乗せされた斬撃の切れは相当なものだ。
だが常に背後から斬りかかってくるという習性を心得ておけば、捌くのはそう難しくない。
そして彼は、これまでの短い攻防で水城の剣技の短所を見出していた。
それはすなわち、必要以上の片手持ちと、片手斬りの多用。
どのタイミングで、どの角度からの斬撃を放てば、水城はどこに逃げ、柄から片手を離すか、それは既に分かりきっている。
脳内に描いたシュミレートを、卓越した技量をもって実行に移した。
まず囮の一太刀目。
水城は予測通りの回避を見せ、柄から左手を離した。
そこを狙った本命の二撃目。
下段から斜め上方にすくい上げるように振るわれた剣は、見事刀の腹に命中した。
激しい衝撃を右手一本で受けきることはできず、刀は主の手から弾き飛ばされ、地面を転がる。
「終わりだ」
丸腰となった相手に、止めの一撃を放つ。
大きく振りかぶった上での、横一文字の斬撃。
これで決着がつくものと、ヘルクレス自身は信じて疑わなかった。
だがそれは水城の頭上を通過することになる。
水城は大きく腰を落とし、上体を屈めることで回避したのだ。
さながら、地に伏す虎のように。
掌底を叩きつけるように、床に右手をあてがう。
仙流は足の裏から“力”を放出し、地面を滑走する不可視の“膜”を形成する秘術。
ならばその技術の応用で、掌に膜を形成することも可能。
右手一本で逆立ちする体勢になり、膜に回転をかける。
するとそれに乗った肉体もまた、竜巻のように回転する。
仙流の変化形により生み出される、回転式上段蹴り。
水城流体術・“夜叉車”
大きく開脚した両足が鋭い弧を描き、ヘルクレスの顔面を襲った。
ヘルクレスはとっさに身を退くことで直撃を避けたが、右頬を鋭くはたかれ、血を滲ませることになった。
水城は流麗な動作で地に足をつけ、悠々と刀を拾い上げる。
「たかが技一つ捌いた程度で見切ったとは笑わせる」
半身になり、眼鏡の蔓を中指で上げ、刀の切っ先を相手に向ける。
「少々の浅知恵をつけたくらいで凌ぎきれる程、鴉の爪は鈍かないってことだ」
“処刑人”の異名にふさわしい、人を食った冷笑を見せた。
ヘルクレスの眉間に深い皺が刻まれる。
あと一歩深く踏み込んでいれば、自分は倒されていた。
今にして思えば、あそこであっさりと刀を手放したのも、あのカウンターを叩き込むための布石だったのだろう。
(侮れん……)
奴は素早い動きと剣技だけでなく、卓越した体術と敵の隙をつく術を身につけている。
武器は刀一本、接近戦しかできない能無しだと思い侮っていたが、その認識は甘かったようだ。
奴は唯一の得手である接近戦に相当長けている。
だが怖れることはない。
所詮奴の霊刀とやらはよく斬れるだけの業物。
自分の魔剣“ダインスレフ”は、ただの剣ではない。
「どうした? まさかこの程度で手詰まりってわけじゃないだろ」
余裕の表情で敵を挑発する水城だったが、内心はそれほど緩んではいなかった。
むしろより警戒の度合いを強めている。
今の夜叉車で仕留めきれなかったのは少々痛い。
あれは多分に一発技の要素が強いから、二度目は通じないだろう。
早急に次の手を考えねばならない。
人を小馬鹿にした態度や不敵な冷笑は、彼にとって己を強く見せ、敵を挑発するための仮面にすぎない。
本当の彼は、常に歴然の軍師のような冷静さで、相手の力量や特性を観察している。
できれば今の攻防で勝負を決めておきたかった。
まだ相手が自分を見くびり、剣技だけで勝負を挑んでいるうちに。
だが最早そうもいかないだろう。
今度こそあの手に握る“魔剣”とやらの能力を使ってくるに違いない。
「認めてやろう。貴様は大した剣士だ」
覆面の下から余裕に満ちた声が発せられた。
黒光りする刀身を、自らの眼前に掲げる。
「だが、ただの剣士である限り、どう足掻いても俺に勝つことはできん」
鍔元から切っ先までが、紫色の魔力に包まれた。
「この魔剣“ダインスレフ”の力、篤と味わうがいい」
漆黒の魔剣を彩る、禍々しき紫の波動。
それはやがて柄を握る腕に転移し、次いで胴体、足元へと移ってゆく。
やがて地面に吸い込まれるようにして、消え失せた。
それが何を意味するのか、水城には分からない。
彼は見ていなかった。
ヘルクレスの足元に落ちる黒い影。
それが微かに蠢いたことを。
ヘルクレスは動いた。
剣を大仰に振りかぶり、袈裟斬りを放つ。
刃が振りかぶられる前から、水城は回避することを決めていた。
まだ敵の能力がつかめていない。
まずは様子見だ。
眼前を通過していく漆黒の刃を全神経をこめて注視した。
剣速は先程と変わらない。
剣撃の威力が増したようにも見えない。
では奴の能力は、何なのか。
以前倒したヒドラのような追加効果型なら恐ろしくはない。
喰らわなければいいだけの話だ。
半端な飛び道具を使われたところで、かわしきる自信はある。
最も注意すべきは、何か特殊な攻撃方法をもつタイプだ。
その思考を中断させたのは、突如襲ってきた痛みだった。
思わず足の動きが止まる。
視線を落とすと、左足の脛に、ぱっくりとした裂け目があった。
(馬鹿な……!)
確かにかわしたはずだ。
切っ先は自分の数センチ先を走り抜けていった。
だがこの傷は、この痛みは、紛れもなく本物だ。
水城に熟考する暇を与えぬよう、ヘルクレスは再度剣を振るった。
今度は横薙ぎの斬撃である。
水城は、今度は防御を選択した。
魔剣の正体を確かめるために。
二つの刃が衝突する。
水城は刃を斜に構えることで、膂力に勝るヘルクレスの一撃を殺した。
高い技術に裏打ちされた見事な防御だ。
だがヘルクレスは覆面の下で、薄く笑う。
先程に勝る激痛が水城を襲った。
「ぐうっ……!」
たまらず後方に退き、左膝をついてうずくまる。
右足の大腿が、深く斬り裂かれていた。
流血が制服の青いズボンを赤く染めていく。
「勝負あったな。その足ではもはや先程までの速さは生み出せまい」
苦痛に喘ぐ水城を、ヘルクレスは冷酷に見下ろす。
絶好のチャンスを掴みながら第三撃を放たなかったのは、獲物の苦しむ様を観察するためだった。
「無様だな。コルブス」
両足に傷を負い、自慢の速さを半減させられた水城。
それを悠然と見下ろすヘルクレス。
この時点で、既に勝敗は決したかのように見える。
「一度はアリエス様にその剣腕を認められゾルダートにまでなっておきながら、大局を見誤って牙を剥いたあげくにそのザマだ。これを喜劇といわずに何という?」
ゆるやかに、漆黒の刀身を上方に掲げる。
赤く濡れた刃は更なる血潮を求めて禍々しく煌いていた。
「だが、最後の相手がこの俺ならそれなりに格好もつくだろう。今楽にして……」
その言葉を遮るように、水城は呟いた。
「影に潜むもう一つの刃……」
ヘルクレスの表情が変わり、動きが止まる。
「……それが魔剣とやらの正体か」
痛みに耐え、傷ついた足で立ち上がる。
それは苦痛に喘ぐ敗者の顔ではなかった。
刃のような闘志を宿した、戦士の顔だ。
二撃目の瞬間、彼は見ていた。
弧を描く漆黒の刃……その下に落ちる影から、黒く細長いものが出現したことを。
それが自分の足をかすめ斬ったことを。
「自分の影の中に、影に化けた幽子の刃を潜ませておく。そして斬撃の際、相手の眼が切っ先に集中している隙に、影の刃が一瞬だけ立体化して相手の足を薙ぐ……そんなとこだろ?」
ヘルクレスは切っ先を下ろし、覆面の下で微笑した。
「フッ……気付くのが少し遅かったな」
彼の足元から伸びる影……その右手が握る二次元の剣が、突如立体と化し三次元の世界に現れた。
術者の握る本物と瓜二つの、漆黒の刀身。
ダインスレフは二枚刃の剣だった。
「確かにこの魔剣ダインスレフは影に扮したもう一つの刃を作り出すことが出来る。通常の斬撃に加え、足元からも襲い来る刃を防ぎきるのは容易に出来ることではない。大抵の奴はその仕掛けに気付く前にあの世行きだがな」
彼の言う通り、戦闘中にダインスレフの仕掛けを見極めるのは容易なことではなかった。
武芸の達人になればなるほど、相手の剣を注視するものである。
さらに言えば真剣が振るわれている最中に切っ先以外を見ている者はいない。
影からの奇襲は単純だが効果的な戦法といえた。
だがそれが効果を発揮するのは、あくまで奇襲であるが故だ。
「ほざけよ。いくら少々手傷を負ったところで、タネの割れた手品が俺に通用すると思うか?」
水城は自信をもって述べる。
影の刃に斬られてしまったのは、今までその正体が不明だったからだ。
仕組みが分かった今となっては、彼の技量をもってすれば対策の立てようはある。
しかしヘルクレスは、それを一笑に伏した。
「笑止な。貴様はまだ我が力の片鱗を見たに過ぎん」
そう言って、漆黒の刃を床に突き立てた。
再び刀身から紫色の魔力が迸り、影へと吸い込まれてゆく。
すると、刃だけでなくそれを握る腕、次いで体までもが三次元の世界に浮き上がってきた。
黒い髪、黒い眼、黒い衣装、黒い体表。
だがその姿形は紛れもなく主と同様である。
表面に艶はなく、闇そのもののような漆黒に包まれていた。
影から生まれ出でし、もう一人のヘルクレス。
二人の剣士は寄り添うように並び立つ。
「ダインスレフの能力はもう一つの刃を作り出すことではない。影を模したもう一人の自分を創り出すことだ」
自信に満ちた眼差しでヘルクレスは告げた。
これは影の刃を用いた奇襲のような小細工とはわけが違う。
一人の人間が二人に増えたのだ。
彼が“影傀儡”と呼ぶこの分身は彼の意思で自在に動かせる操り人形である。
膂力も速さも、本体とほぼ同等。
そして彼は、この人形を操作しながら自身も剣を振るえるよう修練を積んでいた。
単純に考えて、これは一対一が二対一に変わったことを意味する。
「見たかコルブス、これが俺と貴様の差だ。同じ剣士で腕もほぼ互角でありながら、アーティファクトを操る資質を持つか否かがこれだけの差を生む」
二組の双眸が冷ややかな眼差しを向けた。
「偉大なる陛下が創造したアーティファクトの生み出す力は強大だ。その恩恵を受けられぬ者がいくらもがいたとて無駄なこと。剣技とアーティファクトの双方を会得した俺の敵ではない」
侮蔑まじりの尊大な台詞。
もはや自身の勝利は揺ぎ無いという確信からくる言葉だ。
だが水城はとりたて憤るようなそぶりは見せなかった。
かわりに、その顔に笑みが戻る。
「能書きはそれで終わりか? 三下」
ヘルクレスの顔が微かにひきつる。
それから水城の起こした行動は、真剣勝負においては異様なことだった。
切っ先を眼前に立つ二人から背け、刀身を腰に差す鞘にあてがったのだ。
「なら、ここからは……」
ゆるやかに刃を滑らせ、納刀する。
「処刑の時間だ」
四階の一角にて、早人とエリダヌスは静かに睨みあっていた。
しかし両者が動かない理由は大きく異なる。
早人が相手の意外な容貌にとまどい、得体の知れない能力を警戒して慎重になっているのに対し、エリダヌスにはあえて相手に先手を譲ろうとしている余裕すらある。
「下のほうじゃ……もう始まってるみたいだね」
「そのようですね」
階下ですでに戦闘が行われていることは、アーティファクト使いの二人には容易に察知できる。
階下の者達のアーティファクトが放つ独特の波動は、肌をひりつかせる微かな気配として伝わってくるからだ。
「で、あなたは攻めてこないのですか? こないならこちらから行きますよ」
エリダヌスは前に踏み出そうとする。
それを遮るように、早人は言った。
「聞きたいんだけど、どうして君みたいな女の子がニブルへイムなんかにいるのかな?」
「あなたに教える義理はありません」
そっけない返答が返る。
早人は砲身を向けつつも、説得を試みた。
「できれば退いてくれないかな……? 女の子を傷つけたくなんかないよ」
「論外ですね。一度抹殺を命じられた以上、それを果たせなければ私に待っているのは組織の制裁のみ。ここで引き下がるわけにはいきません」
「……」
早人はそれ以上言葉を続けられなかった。
彼女の言っていることは事実なのだろう。
ここで自分を倒せなければ、彼女は処罰を免れない。
そもそもそう簡単に引き下がってくれるような覚悟で、こんな戦場に出てくる者などいない。
エリダヌスは相手の軟弱な態度を叱咤するように、言った。
「それに……そういう台詞は、自分が力量で相手に勝っている時に言うものですよ」
不意に、彼女の眼光に宿る闘気が増した。
相手の心臓を鷲掴みにするような、威圧的な眼差しだ。
鋭く、深く、濃密な視線。
それは小柄な体に潜む強大な力を無言のうちに物語っていた。
早人は理解した。
この少女は……強い。
さっき倒したムスカなどとは比較にならない。
冷厳な意思を宿した本物の戦士の眼をしている。
やらなければ、こちらがやられる。
一歩、エリダヌスは前に踏み出す。
青き魔槍を携えて。
もはや逡巡している暇はなかった。
殺さないように手を抜くなどおこがましい。
この相手は明らかに自分より格上だ。
全身全霊をこめて挑まなければ、勝つことはできない。
狙いを定め、撃った。
放たれた一筋の閃光が、エリダヌスの胴体を襲う。
この期に及んでも、彼女は眉一つ動かさなかった。
かわりに、十文字の穂先が激しい流水を放つ。
水は主の前に移動し、閃光の進路上に立ちふさがった。
そして激しく回転する。
渦巻く、流水の障壁。
閃光はあえなく上方に弾かれ、天井に大穴を穿つことになった。
渦は解かれ、薄い膜に姿を変えた水が、天女の羽衣のように少女の周囲を漂う。
「“エリダヌス”とはギリシャ神話に登場する川の神……その名を冠する私のアーティファクトもまた、水を司る力を具えています」
戦慄を覚える相手に、自らの能力を告げた。
水を自己精製し、意のままに操る……それがエリダヌス座の魔槍の力。
分子同士の結合が緩い液体は、器の形状に応じてさまざまに姿を変える。
術者の魔力という器によって制御される水の形状は、まさしく自由自在と言えよう。
そして、たかが水と侮ってはならない。
水は生き物に潤いを与え、数多の命を育むが、時として数多の命を奪い去る自然界最悪の凶器にもなりえるのだ。
エリダヌスは槍を振るった。
するとその軌跡から、三日月状の水が放たれる。
少量の水を高速で放つ、水圧カッターだ。
早人がかわすと、彼の後方にあった柱に裂け目が刻まれた。
無駄な罅割れ一つ無い、磨き上げたように美しい傷痕だ。
(飛び道具まであるのか……油断できないな)
早人は即座に巨砲を構え直し、反撃に転じようとした。
だがエリダヌスのほうが、一瞬速い。
第二撃が放たれる。
これには早人も面食らった。
あわてて巨砲を盾代わりにし、水の刃を防御する。
刃が弾けて生まれる水飛沫を浴びながら歯ぎしりした。
破壊力なら自分の巨砲のほうが断然上だが、連射性では相手のほうが一枚上手だ。
狙いも正確である。
このままでは自分は攻め手に回れない。
続いて第三撃が放たれると、早人はもはや正面から張りあうことを放棄した。
回避と同時に背を向けて駆け出し、物陰に隠れる。
それを見て、エリダヌスは攻撃の手を止めた。
彼女の技とて使用限度はある。
無駄撃ちは決してしない。
早人は物陰に身を潜めながら荒い息をついていた。
刻星眼の透視能力なら顔を出さずとも相手の様子が覗える。
見たところ、どうやらこちらに近づいてくる気はないらしい。
これ幸いにと、落ち着いて戦略を練ることにした。
あの少女の能力は脅威だ。
自分と同じ射程でなおかつ連射のきく遠距離攻撃をもち、少々の攻撃なら弾き返す防御術も具えている。
他にもどんな技を隠しもっているか知れたものではない。
だが最初に仕掛けてきた背後からの一撃は、速さも重さも大したものではなかった。
特訓で水城や紗百合と試合をしてきたからそれはよくわかる。
彼女は水を操る術には長けているが、槍術はさほどの腕ではないのかもしれない。
刃を怖れず懐に飛び込んでいけば、勝てる見込みはあるかもしれない。
その時ふと、女の子の懐に飛び込んでいくという発想が別の意味で危険なものであると気付いた。
もしこの場に第三者がいたら、非常によからぬ誤解を招きそうである。
あわててかぶりを振る。
そんなことを気にしている場合か。
今は非常事態だ。
だから仕方ないのだ。
……多分。
傍らに浮かぶ相棒に目をやる。
こいつの頑丈さは折り紙つきだ。
かなり練習不足だが、あの手でいくしかない。
エリダヌスはその場に立ちすくしたまま、相手の出方を覗っていた。
早人の考察通り、彼女は接近戦には長けていない。
勢いに任せて、相手が待ち伏せしているかもしれない場所にわざわざ踏み込むような愚は犯さない。
しかし、いい加減じれてきたのも事実だ。
いったいいつまで待たせる気だろうか。
そろそろ何か言葉をかけようとしたとき、早人の反撃はきた。
彼女の斜め上方から、閃光ではなく巨砲そのものが襲ってきたのだ。
主は同伴していない。
(遠隔操作……)
主は物陰に身を潜めたまま、巨砲だけをエリダヌスの死角から大きく迂回させてよこしたのだろう。
なかなか器用な小細工ができたものだ。
通常の射撃では効果がないとみて、あの巨砲の硬度と重量で自分を撲殺または圧死させる戦術に切り替えたと見える。
身を縦にして襲い来る巨砲を水の刃で迎撃しようとしたが、思い直してやめた。
あんな分厚い金属の塊を破壊するには、相当な力を消費してしまう。
この局面でそれは賢明な判断ではない。
何よりあの巨砲、外見通りパワーはあるのだろうが、動きはそれほど早くはない。
充分回避できる速度だ。
しかしエリダヌスが跳び退くと、巨砲は瞬時に方向転換し、彼女を追撃した。
再び回避しても、また追いすがってくる。
どうやらどこまでも自分を追撃するつもりらしい。
(よし……ここまでは作戦通りだ)
誘導ミサイルのように追撃を続ける巨砲。
それにエリダヌスの注意を引かせることが早人の狙いだった。
巨砲を遠隔操作しながらでも早人本人が動くことはできる。
エリダヌスが巨砲を注視している隙に、すでに物陰から物陰へと移動していた。
エリダヌスがこちらに近寄り、背を向けた瞬間を狙うつもりだ。
不意をついて組み敷いてアーティファクトを奪ってしまえば、彼女はただの少女に戻る。
そうすれば大人しく降伏させることもできるかもしれない。
そして、その瞬間はやってきた。
まさに望んだ通りの形で、エリダヌスは致命的な隙を見せる。
その機を逃さず、早人は物陰から飛び出した。
まだエリダヌスはこちらに無防備な背を向けている。
いける。
そう確信した直後だった。
唐突に、強烈な衝撃を背中に感じた。
濡れるような冷たい感触を感じる。
(これは……!?)
それはまさしく、圧縮された水の塊だった。
死角から誘導弾を放っていたのは早人だけではなかったのだ。
精密な操作を要する技ゆえ水圧カッターのような殺傷力はなかったが、相手を一瞬よろめかせる程度の威力はあった。
エリダヌスはその機を逃さない。
鮮やかに身を翻し、槍を一閃させる。
早人の胸が横一文字に裂かれ、鮮血が舞った。
体勢を崩し、地面に尻をつく。
幸い傷は浅い。
だが手の内を見抜かれ、逆手にとられたというショックが大きかった。
彼女は、わざとこちらの動きに気付かないふりをしていたのだ。
逆に自分が奇襲を仕掛けるために。
エリダヌスは酷薄な眼でこちらを見下ろしていた。
「それで不意討ちのつもりですか? それとも二方向から同時に攻めればどちらを標的にするか私が迷うとお思いで?」
侮蔑をこめ、辛辣な言葉を発する。
さらに後者の答えを、自ら解説した。
「あなたのアーティファクトは自動操縦でなく主の意思による遠隔操作型。そういった代物は主が傷つき、集中を乱せば機能しなくなります」
それは事実だった。
早人の巨砲は主が斬られると同時に、魂の抜けたように地に落ちていた。
エリダヌスはアーティファクトの熟練者である。
その特性も、弱点も、使い手の思考パターンも、全て把握している。
最近アーティファクトを操る術を覚えた早人ごときの浅知恵が通用する道理はなかった。
「私を倒すには稚拙な戦術でしたね。……これで打ち止めです」
迸る水流を纏った穂先が、標的に向けられた。
異形の左腕が、紗百合の胴を無残に喰いちぎった。
だが手ごたえはない。
傷口から血も臓物も飛び散らない。
紗百合の形をしていたものは無数の花びらへと姿を変え、四散していった。
ラケルタは忌々しそうに舌打ちする。
「チィ……! やはりダミーか」
さっき死角に身を隠したときに囮役の分身と入れ替わったのだろう。
本体は今頃どこぞに逃げおおせたというわけだ。
ラケルタは一時的に獲物を見失った。
(だがさっきの口振りからして、ただ逃げただけとは思えねぇ……どこかに隠れて俺を待ち伏せする気だな……上等じゃねえか)
姑息な手で一杯食わされたことで、彼の闘志に火がついた。
何としてでもあの済ましたツラを恐怖に歪めてやろうという暗い情念が湧いてくる。
彼は決して力押しだけが能の単細胞ではない。
たとえ隠していようが、相手のアーティファクトの放つ微かな気配を感じ取り、おおよその位置を察知することはできた。
臭いをたよりに動く猟犬のように、獰猛に移動する。
辿り着いた先には、銀色の扉が待ち受けていた。
店内の外れに位置する、普段客のくぐることの決してない扉である。
この奥は商品の詰まったダンボール箱などが山積みにされている倉庫……いわゆるバックルームというやつだ。
死角が多く、待ち伏せにはおあつらえ向きの場所かもしれない。
慎重に扉に手をかける。
薄っぺらな扉は音も無く開かれた。
そこでラケルタの眼に飛び込んできたのは、異様きわまりない光景だった。
壁から壁、壁から天井へ、太い茨が張り巡らされている。
四、五本どころではない。
数え切れないほどの茨が、それこそ足場もないほど綿密に張られていた。
それは例えて言うなら、縦横無尽に張り巡らされた蜘蛛の巣と言うべきだろうか。
そして文字通り茨の道の奥、ラケルタの真正面に紗百合は立っていた。
「意外だな。てっきりどこぞに隠れてブルブル震えてるのかと思えば、こんなちゃちな小細工張るのに精出してたとはよ」
ラケルタは嘲笑を浮かべて挑発する。
紗百合は静かな顔を崩さずに、冷静に告げた。
「さっきあなたに背を向けたのはこの“結界”を用意する時間と場所が欲しかったから……こうなった以上もはやあなたに勝機はありません」
相変わらずの無表情だが、その様子には己の技への確かな自信があった。
ラケルタは警戒を強める。
紗百合が“結界”と呼ぶこの奇妙な茨の群れ。
一見するとただでたらめに茨を張り巡らしたようにしか見えない。
これにどれほどの効力があるというのか。
「ハッ、結界だかなんだか知らねえが、こんなもの……」
左腕を振り上げ、手近にあった茨の線を断ち切ろうとする。
だが、茨は大きくしなるだけで傷一つつかなかった。
かえってラケルタの左腕のほうが棘に刺さり血を流す。
「チィ……!」
「あなたが来るまでの間に私の力をたっぷりと与えて強化しておきました。そう簡単には切断できませんよ」
そう言って、紗百合は反撃を開始した。
張り巡らされる茨の隙間を移動しつつ、得意の木の葉手裏剣を放つ。
この程度でいちいち内臓を動かすのも面倒と思い、ラケルタは回避を選択した。
左に動こうとする。
だがそこに存在していた茨の線のせいで、その動きは阻まれた。
その隙をつく形で、手裏剣は右腕の上腕部に命中する。
神経の移動が間に合わなかったため、鋭い痛みがラケルタを襲った。
紗百合は既に彼の左側に移動している。
「野郎!」
怒りに任せて左腕を振るう。
だがまたも茨に阻まれて、攻撃が届かない。
対照的に紗百合の放つ手裏剣は茨の間を易々とすり抜け、ラケルタを刺す。
「ぐうっ……!」
痛みに顔を歪めつつ、ラケルタはこの結界の効用を悟った。
これは、こちらの動きを制限し、奴だけが自由に動くための舞台装置なのだ。
茨の線だらけの空間という経験したことのない地形のため、自分は満足に移動もできず、攻撃も繰り出せない。
だが奴は違う。
奴はこれを仕掛けた張本人だ。
おそらく茨の配置をすべて記憶し、その隙間を自由に移動する訓練を積んでいるのだろう。
この“結界”内においては自分の戦闘力は最小限に抑えられ、奴のそれは最大限に高められる。
「味なまねを……!」
眼を血走らせ、歯を食いしばった。
「だが俺の生命力は知ってるはずだぜ、ええ! こんなもんいくら飛ばしたところで俺を殺れやしねえぞ!」
己の肉体を操作できる彼の生命力は常人の比ではない。
手裏剣程度が数本刺さったところで致命傷には至らない。
だがその程度は紗百合も計算の内だった。
「そのようですね……なら、こうするまでです」
突然ラケルタとの間合いを詰め、掌ていを繰り出す。
ラケルタはまさか相手のほうから近づいてくるとは思っていなかったので、一瞬反応が遅れた。
とはいえ接近戦での技量ならラケルタのほうが上回っている。
掌ていは脇腹をかすめるだけに留まった。
繰り出される反撃を、紗百合は上に跳んでかわした。
そのまま空中で一回転し、茨のない場所に悠々と着地する。
「何のまねだ、今のはよ。奇襲のつもりか?」
ラケルタはふてぶてしい笑みを浮かべた。
今の掌てい、かすっただけとはいえ衝撃はほとんどなかった。
それに今のは不意をつかれたため喰らってしまったに過ぎない。
今の一撃だけで、接近戦においては自身のほうが一枚上手であることを実感できた。
「そんなぬるい体術……」
言いかけて、表情が強張った。
左肩に、確かな痛みを感じる。
打撃の類を受けたときとは異なる、いうなれば筋肉痛などに近い痛み。
体の内部からやってくる痛みだ。
その正体はすぐに判明した。
肩の肉を裂き、幾本もの木の根が出現する。
それは生き物のように蠢き、左腕の肉を蝕んでいった。
「がああああぁぁ!」
手裏剣とは比較にならない激痛を味わい、醜い絶叫を上げる。
左腕に存在する数多の口もまた、苦悶のあまり涎を撒き散らした
なぜ、自分の体からこんなものが。
こんなもの、いつ仕込まれた?
「最初に“ロンギヌス”をその身で受けた時から、あなたの敗北は決まっていたんですよ」
紗百合は冷ややかな眼で苦しみ悶える相手を眺めていた。
ラケルタは先程七本もの枝に貫かれた瞬間を思い出す。
「じゃあこいつは、あの時の破片か……!?」
「ええ。あなたの体内の残された枝の切れ端は、私の魔力次第で再び成長することができます。ほん少し、この手があなたの体に触れるだけでね」
樹槍ロンギヌスは、二段構えの技だった。
たとえ最初の刺突に耐え抜かれても、体内に枝の残骸が残っていれば、再び致命的な損傷を与えることができる。
体を内部から引き裂く攻撃に耐えられる者はいない。
事実先程の一撃は、ラケルタに相当なダメージを与えていた。
もう一度喰らえば、たとえラケルタの生命力でも致命傷は免れないだろう。
「なるほどな……てめえの真の狙いはこれだったわけか……つくづく大したアマだぜ」
肩膝をつき、荒い息を吐きながら、ラケルタは素直に相手を勝算した。
そのらしくない態度に、紗百合はある種の疑念を感じる。
「だが悪いな。……やはり勝つのは俺だ」
醜い顔に、醜い笑みが戻る。
紗百合は自身の側面に、何かの気配を感じた。
ずるりと、何かが地を這うような音が聞こえる。
視線を向けたときには、遅かった。
小さなものが突如飛来し、彼女の首に命中する。
「かはっ……!」
生暖かい感触。
首筋を締めつける圧迫感。
それは、人間の右腕だった。
二の腕から先がなく、ただそれ自体で浮遊している。
「ヒヒヒ……」
右腕の主は卑しい笑い声を上げた。
この男は隻腕ではなかった。
右腕は確かに存在していたのだ。
「俺が隻腕の戦士なんて格好のいいもんだとでも思ってたか? 俺は手足のような生命活動に無縁な器官なら体から切り離して遠隔操作できるんだよ。その点を失念してたのがてめえの敗因だ」
本体から切り離されているというのに、その右腕には確かな握力がある。
とても紗百合の細腕では引き離せない。
「このまま絞め殺すこともできるが……さんざん手こずらせてくれた礼だ。てめえはこの程度じゃ済まさねえ」
すぐに窒息死させないように、ラケルタは握力を加減していた。
より残忍な手段で相手を苦しめるために。
上半身各所が蠢き、何かの力で引っ張られたかのように、いたるところから肉が突起のように伸張する。
やがてそれらは本体から分断され、小さな数多の肉片となった。
皮膚から下の僅かな肉……生命活動に支障が出ない程度の部分だけを切り離したのだ。
そのため本体の醜さは頂点に達した。
両手や胴、顔に至るまでところどころの皮膚と肉が欠損し、赤い肉や白い骨が顕わとなっている。
長い舌で唇を舐めた。
「俺の体の養分になりな」
数多の肉片が、紗百合めがけて飛来した。
一糸乱れぬ、完璧に統率された動きだ。
それらは紗百合の手に、足に、胴に張り付く。
べちゃり、という不快な音と、生暖かい感触を全身に感じた。
直後に、焼けるような痛みが全身を襲った。
肉片たちは張り付きながらもなお活発に蠢き続けている。
紗百合は理解した。
この肉片どもは、自分の肉体を喰らっているのだ。
接触部から消化液を出して皮膚と肉を溶かし、血まで吸引している。
いわば自分は、肉を喰らう吸血ヒルに全身を覆われたようなものだ。
自らの肉を用い、相手の体を捕食する。
それがラケルタの奥の手にして、最も残酷な殺人技。
「いいぜ、ゾクゾクする……やはり女が苦しみ悶えて死ぬとこは、最高の見世物だ」
欲情したように息を荒げる。
彼にとって若く美しい女が恐怖と苦しみに顔を歪める姿は、いつ見ても快感だった。
それを眺めるときは、最高の優越感を感じられる。
自らの奥底でどす黒く渦巻く支配欲を満足させられる。
「さぞや屈辱だろ? なにせその綺麗な体が、俺なんぞの糞袋に納まっちまうんだからよ」
死にゆく者に卑猥な言葉を浴びせかける。
その顔を、さらなる屈辱と絶望に染め上げるために。
「だが安心しな、顔だけは傷つけずにおいてやる。首から切り離して、くずぐずに腐るまで飾っておいてやるよ」
どこか螺子の外れた哄笑が、裂けた口から迸った。
生きたままじわじわと喰われる苦しみ。
それは並の神経で堪えられるものではなかった。
上手く呼吸ができないから悲鳴も出せない。
綾瀬紗百合は死を覚悟した。
求めるものがある。
成し遂げなくてはならない使命がある。
こんな所で、こんな奴に、負けられない。
負けたくない。
けれどどうしても、体が動いてくれない。
……だんだん痛みも感じなくなってきた。
死の兆候だ。
萎えかけた意思が、命の灯火を奪ってゆく。
それを遮るのは、彼方からの声。
記憶の奥底から甦る、過去からの呼び声。
(痛い……痛いよ……)
……誰だ。
私を呼ぶのは、どこの誰……
(助けて……)
幼い声。
か細く弱々しい声。
これは……
(お姉ちゃん……!)
……ああそうか。
私は“お姉ちゃん”だった。
そう呼んでくれる者がいた。
だから……私は……
体はまだ原型を留めている。
だが、もはやぴくりとも動かない。
そろそろ痛み堪えきれずショック死したか。
ラケルタがそう思った矢先だった。
放たれる、漆黒の魔力。
極寒の地を連想するような、冷たく、濃密な気配。
毒霧に蝕まれるような激しい悪寒を感じ、全身に鳥肌がたつ。
思わず目を瞠った。
悪寒の源は、あの死に損ないだったからだ。
うつむき加減な顔で、何かを呟いている。
「……奪われるものは、もう奪われてる……」
体中から、何かの植物が芽吹く。
体内から皮膚を裂いて出現したのだ。
「だからもう……何も失うものはない。怖れるものもない」
芽は肉片を穿ち、主の肉体から切り離す。
そして今度は逆に、肉片を喰らっていった。
右腕もまた同様に、喉から生えた植物の餌食となっていく。
「だから今度は……お前たちから……私が奪う」
燃え滾る闘志を宿した眼光で、倒すべき敵を射抜く。
綾瀬紗百合が初めて見せる、命を燃やし尽くす姿。
ラケルタは戦慄を覚えた。
奴のあの芽は紛れもなく体内から芽吹いてきている。
アーティファクトはあくまでも、外界に影響を与える力。
自らの体に植物を宿すなど、いかなる達人にも不可能なはずだ。
そんなことができるのは、ただ一つ……
思わずはっとなる。
そういえば自分は、奴のアーティファクトの姿を見ていない。
服の下にでも隠しているのかと思ったが、そうではなかった。
「まさかお前も、体内内蔵……!」
言い終えぬうちに、紗百合は動いた。
前方を遮る幾重もの茨を低い姿勢でかいくぐり、ラケルタの懐に飛び込む。
そして全力をこめた掌ていを、みぞおちに叩きつけた。
空気と血反吐を吐き出し、ラケルタの動きが一瞬止まる。
それが、決着の時だった。
「アアアアァァァ!!」
紗百合は魂の奥底から、猛き咆哮を上げる。
掌から、漆黒の魔力を全て相手の体内に注ぎこんだ。
それを受け、体内に潜むロンギヌスの欠片は爆発的に成長した。
肉を裂き、骨を砕き、数多の枝が出現する。
ラケルタは断末魔を上げる間もなかった。
血は噴き上がり、眼球は飛び出し、脳漿は弾け飛ぶ。
一瞬の出来事だった。
全てが終わった後……それまでラケルタのいた場所には、一本の木が残されていた。
床に根を張り、天井を穿つ、血まみれの大木だ。
たちこめる死臭が、闘いの終焉を告げる。
紗百合は肩膝をつき、荒い息をつく。
「待ってて……もう少しだから……」
この場にいない者に語りかける。
答えなど無いと知りながら。
「挫けない……きっと、やり遂げてみせるから……」
あるいはそれは、自らに向けた言葉だったのかもしれない。
勝利の余韻などない。
あるのはただ、前に進む意思のみ。
自らの背負うものへの、消えることなき想い。
「淳也……」
静かに呼んだ。
奪われたものの名を。
居合い。
水城の構えを目にし、ヘルクレスは瞬時にそう悟った。
流派によって若干の差異はあれど、原理は同じ。
納刀した状態から鞘走りを用いて刃を振り抜く、日本剣術最速の技。
それが奴の奥の手なのだろう。
ダインスレフの能力を知って通常の斬り合いは不利と悟り、一撃必殺の技に全てを賭ける気になったのか。
それとも単なるハッタリか。
いずれにせよ、怖るるに足りない。
「今更そんな陳腐な技でどうするつもりだ。見ての通りこちらの体は二つある。たとえお得意の早抜きで片方を斬れたとしても、もう一つの刃は凌ぎきれんぞ」
嘲りをこめて言い放つ。
たが水城の表情には一片の気後れも浮かばなかった。
「試してみろよ」
微笑みながら、短く返す。
刃のように鋭く、真っ直ぐな眼をしていた。
自分を信じきった者の眼だ。
逆にヘルクレスの方が言い知れぬ不安を抱いてしまう。
水城とて愚かではないから、安易な判断で生半可な技に頼ってはこないだろう。
それだけ奴は、あの居合いに自信をもっているということだ。
自分が負けるなどとは思わない。
だが用心に越したことはないだろう。
ヘルクレスは影傀儡を操作し、水城に斬りかかるそぶりをさせた。
だがそれはフェイクだ。
本当の狙いは手裏剣による威嚇射撃。
上着から諸刃の刃を取り出し、左手で放つ。
相手の虚をつく絶妙な一撃。
狙いも正確だ。
手裏剣は前に立つ影傀儡の脇の下をすり抜け、水城の顔面を襲う。
水城はわずかに、ほんの少しだけ首を傾けた。
冷たい刃が右頬を擦過していく。
ヘルクレスとてこんな小細工で相手を仕留められるとは思わなかったが、一瞬体勢を崩させ、集中を乱させる程度の効果はあると踏んでいた。
だが水城は一瞬だけ首を傾けたのみで、足元も上体も微動だにしない。
頬を深々と裂かれ鮮血が滴り落ちても、眉一つ動かさなかった。
まるで微風が通り過ぎただけのように、涼しい顔をしている。
眼差しは終止微動だにせず、眼前の敵だけを見据えていた。
ヘルクレスは再び認識を改める。
自信をもっているどころではない、こいつはこの技に全てを込めている。
勝利を掴むにはこの技しかないと悟り、そこに全身全霊を込める覚悟を決めているのだ。
こうなれば、自分も迂闊な攻めはできない。
どんな小さな獣でも死と背中合わせになれば鋭い爪牙を繰り出す。
今の水城はまさにそれだ。
追い詰められた獣の力を侮る気はない。
考えようによっては、死地に立たされているのは自分も同様だ。
こちらも全身全霊をこめて挑まなければ、勝利は掴めないだろう。
「……」
悪くないと思った。
手に汗にぎる緊迫感。
互いの力量を較べあう高揚感。
自分が求めていたのは、まさにこれだ。
ヘルクレスは飢えた狼だった。
人並み外れた剣腕をもちながら、それを生かす場は今の世の中に存在しない。
生かす場がなければ、誰もその価値を認めはしない。
認めなければ、誰も必要としない。
平和な世の中において彼は無用の長物であり、紛れもないはぐれ者だった。
だからニブルヘイムに入った。
自身の剣技を生かすために。
自分の唯一輝ける場所……戦場を得るために。
そして今、最高の相手に巡り会えた。
似合わない伊達眼鏡をかけ、派手な日本刀を腰に差す、自分と同じはぐれ者。
自分より歳も背丈も下なくせに、小生意気な言動をとり、癇に障る薄ら笑いを浮かべ続ける少年。
だが……
「いいだろう。相手にとって不足はない」
この少年は、本気で自分と闘う気でいる。
自分を倒すべき敵と認め、全力をもって勝利を掴もうとしている。
それはヘルクレスにとって、何よりも尊敬に値することだった。
「勝負だ、コルブス!」
柄を両手で握りしめ、鋭い眼光で標敵を見据え、影人形とともに動いた。
水城は構えを維持したまま、静かに迎え討つ。
理屈も損得勘定もない。
怨みも憎しみもない。
正真正銘、ただの勝負。
ヘルクレスは影傀儡を先に走らせた。
自らはその真後ろに続く。
水城の抜刀の速さを警戒してのものだ。
もし二人同時に襲い掛かったら、水城は迷わず本体を狙ってくるだろう。
そうなれば相討ちになってしまう公算が高い。
だからこの手を選んだ。
これは影傀儡との連携による二段構えの攻めだ。
先に仕掛ける人形はいわば囮。
あえてこいつを斬るために刀を抜かせ、そうして生まれた隙をこの自分が突く。
無論奴とてその程度は予測しているだろう。
奴の居合いは初太刀を放った直後に二の太刀を放てる型のものに違いない。
だがどんなに技を研磨し動きを洗練させても、初太刀を抜いた直後に一瞬動きが止まるのは避けられない。
その間を計算に入れれば、自分の追撃のほうが若干速いと思われる。
その可能性を信じて、ヘルクレスは攻めかかった。
水城は動かない。
自らの太刀の間合いは熟知している。
ぎりぎりまで相手を引き付けてから抜くつもりだ。
唇を僅かに開き、静かに深く、大気の流れを体内に注ぎこむように、息を吸い込む。
最速の一太刀を放つために。
一歩。
また一歩。
二人のヘルクレスは間合いを詰めてくる。
影傀儡が剣を大きく振りかぶり、視界が黒一色に染まったとき、水城の眼は見開かれた。
銀光が閃く。
一筋の光に裂かれる闇の如く、影傀儡は両断された。
世界から消失していく影の塊。
その先から攻めかかる、覆面の剣士。
二人は真っ向から対峙する形となった。
最大限に振り抜いた体勢から瞬時に刀を上段に掲げ、両手を添えて振り下ろそうとする水城。
両手で柄を握り締め、突きを放とうとするヘルクレス。
この時になって、ヘルクレスは自身の勝利を確信した。
自分の刃がもう伸びかけているのに対し、相手はまだ上段斬りの体勢を整えきれていない。
やはり自分のほうが一瞬速かったのだ。
突き抜ける刃と、振り下ろされる刃。
二人の姿が交差した。
二人は互いに背を向けあい、元は互いがいた位置に入れ替わりに立つ。
刃を振り切った姿で。
「くっ……!」
片膝をついてうずくまったのは水城だった。
滝のような汗をかき、荒い息をついている。
「……なぜだ」
ヘルクレスは言った。
「なぜ……お前のほうが速い……」
赤い滴が、床に零れ落ちる。
彼の体は、肩口から腹にかけて深々と裂かれていた。
白かったコートは大半が赤く染まっている。
力なく倒れ伏す。
その眼はまだ、自身にふりかかった出来事を信じきれずにいた。
「“飛鴉仙流”」
荒い呼吸に乱れた声で、水城は言う。
「一瞬……ほんの一瞬だけ、神域の速さを手にする技……俺の奥の手だ」
その言葉の意味が、ヘルクレスには上手く理解できない。
分かるのは、自分がこの勝負に完敗したという事実だけ。
「貴様……それだけの“速さ”を持ちながら……なぜ今まで隠していた……?」
「俺はお前と違ってタネ明かしするのは好きじゃないんだ。相手を仕留めるまではな」
死にゆく者の問いかけに、水城は皮肉をもって答える。
首だけを後ろに向け、唇の端をつり上げた。
「能ある鴉は爪を隠すものさ」
二人の視線が交錯する。
ヘルクレスが吐血に濡れた覆面の下で笑ったように、水城には見えた。
満足そうな笑みだった。
「フッ……この悪党が」
「そりゃお互い様だろ」
それが二人の交わした最後の言葉だった。
命を失くした手から、漆黒の魔剣が零れ落ちる。
眠るように静かに、ヘルクレスは息絶えた。
物言わぬ遺体となった相手に、水城は無言で敬意を表す。
この男、ヘルクレスは紛れもない強敵だった。
未完成の秘技を使わなければならないほどに。
“飛鴉仙流”は通常の“仙流”とは大きく異なる。
仙流が体外にいわば“気”のようなものを放出するのに対し、飛鴉仙流はそれを体内に循環させる。
そうして体組織の活動を活性化させ、さらに独特の呼吸法と自己暗示で脳に眠る人間の潜在能力を一瞬だけ覚醒させるのだ。
覚醒した脳は神経系統を介して、肉体に限界を超えた速さを与える。
つまり仙流と飛鴉仙流の相違点は、加速させる“速さ”の質。
前者が移動力を上げるならば、後者は剣速そのものを向上させる。
だがこれは絶対無敵の技などではない。
むしろ欠点だらけである。
人間の肉体が普段潜在能力を封印しているのは、その爆発的な力に筋肉や骨格が耐えきれないからだ。
ゆえにこの技は仙流のように気軽に連発できない。
一日に一回が限度だろう。
その上実質的に加速がつけられるのは一秒にも満たない一瞬に過ぎない。
タイミングをしくじれば、待っているのは死だけだ。
水城流において秘中の秘とされる奥義だが、その扱いの難しさと人体に与える多大な負荷のため、長い歴史の中で禁じ手とされた。
幼い頃偶然発掘した文献からその存在を知り、以来修練を続けてきた水城も、未だ完全に会得してはいなかった。
今彼の体は、許容範囲を超えた酷使により悲鳴を上げていた。
もはや立つこともままならない。
「こんな裏技に頼らないと勝ちを拾えないとは……処刑人が聞いて呆れるな」
弱々しく呟き、自嘲気味に笑った。
早人や紗百合の様子を見に行きたいのはやまやまだが、この体では足手まといになるのがおちだろう。
しばらくこうして休んでいるしかない。
脳裏にあの二人の姿を浮かべた。
「俺がガラにもなく必死こいて闘ったんだ……勝ってくれなきゃ困る」
勝ってほしいと思う。
生きてまた逢いたいと思う。
自他ともに認めるひねくれ者としては少々納得がいかないが、それが今の素直な気持ちだ。
その時だった。
突如として銀光が閃き、彼の腕が、足が、胴までが紐状の物体に絡めとられる。
それは数多の節をもつ、金属の鞭だった。
(これは……!)
思うや否や、皮膚にまで食い込んだ鞭が引き抜かれ、血飛沫が舞った。
水城は悲鳴を上げる間もなく、その場に倒れ伏す。
これは……
このアーティファクトは……
「クヒヒヒ……」
死力を尽くした闘いの余熱も、勝利の余韻も、全てを台無しにする下卑た笑いが聞こえてきた。
聞き覚えのある声だ。
「まさかヘルクレスまでやられるとはネェ……どうやらキミたちを甘く見てたようだヨ」
退いてく鞭の先に眼をやると、見覚えのある男が立っていた。
もう二度と見たくもなかった奴だ。
「でも詰めが甘かったネ。獲物が息絶えたのを確認するまで油断しちゃいけない。猟師の間では常識だヨ」
「ムスカ……!」
ピエロを模した衣装は埃まみれとなり、破れた腹部から赤黒く焼け爛れた皮膚が見える。
面が剥がれて顕わとなった醜い素顔には、吐血の跡が見られる。
だがそれでも、ムスカは生きていた。
その内面に、どす黒い怨念と執念を渦巻かせて。
「ったく、この期に及んで三下様の再登場か……悪いがお呼びじゃねーんだよ」
上体を起き上がらせた水城は皮肉をこめて言い放つ。
だが今の彼が何を言っても無力だった。
うなりをあげる鞭に傷ついた体が打ち据えられる。
「それは残念。ならお詫びとして、その三下の鞭で嬲り殺してあげるヨ」
「……」
屈辱だった。
この道化もどきは本物のクズだ。
負傷さえなければこんな奴に負けはしない。
そんな奴に、これから自分の命が刈り取られようとしている。
「つまんない意地張ってないで素直に泣いて命乞いしたらどうだい? 慈悲深い僕の気が代わるかもしれないヨ?」
「ふざけろよ、蝿野郎。ぐだぐた喋る前にその汚いツラをどうにかしろ」
容赦ない蹴りが水城の腹に叩き込まれた。
「……フン、まあいいサ。お前の首を手土産にすればレオ様も先の失態を許してくれるだろうしネ。いや、そういえばあの生意気なガキもどこかで闘ってるんだったネ。どうせだからあいつの首も同じようにいただいてしまおう」
水城は血を吐きながら、壊れた高笑いを聞くしかなかった。
あのぶざけたツラを今すぐ斬り裂いてやりたいところだが、あいにく刀を握る手に力がこもらない。
どうやら、最期の時が来たようだ。
俺は、死ぬのか。
こんなところで、こんな奴の手にかかって。
やれやれ……我ながら情けない最期だ。
泣きたくなる。
だが致し方ない。
これも運命と思い受け入れるとしよう。
裏の世界で生きる道を選んだ時から、いつかこんな日が来るとは覚悟していた。
だがそれにしても、最後の相手がこいつというのは少々ひどい。
こいつに殺られたんじゃ到底成仏できそうにないな。
どうせ死ぬなら、レオって奴とやりあって華々しく散りたかったな……
まあ、死に様にこだわっても仕方ないか。
早人に、綾瀬先生。
せめてお前らは、俺みたいに無様に死んでくれるなよ。
静かに眼を閉じ、死を覚悟した。
「死ね」
止めの一撃を放つため、ムスカは鞭を振り上げた。
しかし、その手は途中で止まる。
かわりに側方に剣呑な視線を向け、叫んだ。
「誰だ!」
一瞬遅れて、水城はその意味を悟る。
この付近に、自分たちとは別の気配があった。
それは徐々に、こちらに近づいてきている。
静かで、氷のように冷涼な気配。
石壁のように分厚い存在感。
こんな気配を放つ者を、水城は一人だけ知っている。
「ククク……」
知らずうちに、乾いた笑いが漏れた。
諦念に染まっていた顔に生気が戻る。
「俺の悪運が強いのか……それともお前がツイてないのか……まあ何にせよ、ここでくたばるのはお前の方らしい」
「何だと……!?」
予想外の発言にムスカは眼を剥いた。
気配を隠そうともしない何者かは、二人のやりとりを無視して進んでくる。
足音がしだいに聞こえてきた。
「少しはまともな働きをしているかと思い見に来てみれば……やれやれ、相変わらず世話の焼ける奴だ」
太く重厚な声。
男の声だ。
「あんたも相変わらずの毒舌ぶりだな。ったく、誰のせいでこんな命懸けの闘いしてると思ってんだか……」
水城は笑みを浮かべて返す。
言葉とは裏腹に、声色は楽しげだった。
「つへこべ言うな。助けて貰えるだけありがたいと思え」
男の姿が顕わとなる。
三十代半ばと見られる長身の男だ。
落ち着いた紺のスーツ。
それを纏う重厚な肉体。
オールバックに固められた髪。
鋭い切れ長の眼。
瞳の奥に宿る、冷厳たる意思。
その姿を眼にし、水城は安堵の表情を浮かべた。
「来るのが遅せーんだよ、おっさん」
ムスカの顔に、一転して動揺が浮かぶ。
(なんだこいつら……知り合いか……!?)
会話を聞いているとそうとしか思えない。
今回の任務で倒すべき敵は三人だったはずだ。
こんな奴が出てくるなど話が違う。
いいしれぬ不安から、水城を仕留めるのをやめて一歩下がった。
それを見て、男は言い放つ。
「失せろ」
「何……?」
「お前のような雑魚に用は無い。アーティファクトを置いてどこへでも消えろ」
それは男のせめてもの慈悲だったが、ムスカは最大限の侮辱と受け取った。
醜い顔がさらに歪む。
「言ってくれるネ、どこの馬の骨か知らないがいい度胸じゃないカ。雑魚はどちらか思い知らせてあげるヨ」
そうだ。
先の闘いに敗れたとはいえ、自分は栄えあるレオ部隊のゾルダートだ。
こんな素手の中年男相手に何を臆することがある。
そう自分に言い聞かせ、鞭を振るった。
銀の鞭は風を切り裂き、男を打ち据えようとする。
そして、無惨に砕かれた。
男の隣の床が。
「なっ……!」
ありえないことだった。
確かにあの男を狙って振るったはずだ。
術者の意思を汲み取り自由自在に動くこの鞭が、狙いを外すなどありえない。
男は鞭など気にもとめずに、悠々とムスカに近寄っていく。
ムスカはあわてて第二撃を放った。
しかしこれも見当違いの場所を叩くだけ。
狙いを外したというよりは、男に当たる直前で、軌道が曲がったという感じだ。
だが男に何かをしたそぶりはない。
「馬鹿な……馬鹿な……」
続く第三、第四撃。
男が徐々に近づいている分間合いは狭まっているはずなのに、かすりもしない。
むしろ近づかれるほど狙いが大きく外れていっている気さえする。
「なぜだ! なぜ当たらない……!」
わけがわからなかった。
この男は絶対に何かをしている。
その何かが分からない。
指一本動かさずに迫り来る鞭を払いのける力。
そんなものがあるのだろうか。
「……今一度だけ言う」
男は足を止め、怜悧な眼でムスカを睨んだ。
「失せろ」
抗い難い力があった。
語気を強めているわけでも怒気を孕んでいるわけでもないのに、その声色には聞くものを萎縮させる厳格さが滲み出ている。
ムスカは追い詰められた鼠の心境で、吠えた。
「黙れぇ!」
主の命をうけた鞭が一直線に伸びる。
鋭い先端で、男を刺し貫くために。
その時ムスカは、初めて眼にした。
男に現れた変化を。
双眸に宿る、蒼き十字。
蒼炎のように、淡く煌く。
鮮血が噴き上がった。
鋭利な先端に貫かれたのは、ムスカ自身だった。
男に命中する寸前に鞭は百八十度軌道を変え、主に向き直ったのだ。
自分で柄を握り、そこから伸びる先端に胸を貫かれるという、皮肉な光景である。
「この力……まさか、お前が……」
全てを理解した時には、何もかも遅すぎた。
「“リブラ”……」
それが最後の言葉となった。
今度こそ正真正銘、ムスカは絶命した。
倒れ伏した体は、もう立ち上がることはない。
彼が最後に口にした名……
それは“天秤座”を意味する称号だった。
「立てそうか?」
男は水城の傍らに立ち、視線を落とす。
「どうせ無理だっつっても無理やり叩き起こす気だろうが」
「当たり前だ、何のためにお前を雇ったと思ってる。少しは役に立て」
雇い主の立場にある男は、辛辣な言葉を投げかける。
哀れな雇われ者は、うんざりしたように嘆息した。
「やれやれ……人使いの荒いおっさんだぜ。はした金で命張らされる俺の身にもなってほしいもんだ」
「嫌なら降りてもいいんだぞ。俺に借りを作ったままでいいならな」
水城は「俺の飯が不味いなら食うな」と主張する料理人を見るような顔をした。
早人たちの前では金で雇われたとうそぶいていた彼だが、事実は少々異なる。
彼は眼前の男に、ある“借り”があった。
それを帳消しにするために男の提示した依頼を請け負ったのである。
そうでもなければいくら金を積まれたところで、こんな命懸けで、しかも勝算の薄い仕事に手を出すはずがない。
「それといい加減おっさんはやめろ。俺は片桐だ」
「てめえなんざおっさんで充分だ」
ぶすっとした顔で水城は言い放つ。
片桐琢磨。
それが彼の雇い主の名だった。
警察組織に身を置く、れっきとした刑事である。
階級は警視。
だがこの男の正体はそんな社会的地位とはかけ離れたものだ。
元ニブルヘイム最高幹部“セクステル”の一角にして、“リブラ”の称号をもつ戦士。
以前セクステルから脱退した七人目とは、この男のことだった。
「ま、それはさておき“俺が動けば面倒なことになるから俺はぎりぎりまで動かない”……じゃなかったのかい? おっさん」
片桐がこの件に絡んでいると知れれば、もうニブルヘイムも遊んではいない。
本腰を入れて主戦力を投入してくることは火を見るより明らかだ。
ゆえに最後の作戦まで片桐は表立って動かず、代わりに水城ができるだけ敵の戦力を削いでいくというのが二人の交わした取り決めだった。
「事情が事情だからな。お前らだけではどうあがいてもレオには勝てない」
片桐は煙草を咥え、ライターで火を灯す。
良くも悪くもプライドの高い水城だが、この時ばかりは気を悪くすることなく片桐の言葉を受け入れた。
確かにこの男の力なくして、あのレオ相手に闘えるとは思えない。
「そんなに強いのか? レオって奴は」
「ああ」
即座に片桐は肯定した。
「あんたよりもかい?」
「……さあな」
静かに紫煙を吐き出す。
余熱の残る煙草を足元に落とし、靴の裏で踏み消した。
「確実に勝てる保証などない。だが奴はここで倒す。……必ずな」
その眼には鋼のような決意が宿っていた。
全てを捨ててでも目的を成し遂げようとする者の決意だ。
元はセクステルに名を連ねたこの男が、なぜニブルヘイムを抜けたのか。
なぜ今こんなことをしているのか、水城は聞かされていない。
所詮は他人の事情だ。
知りたいとも思わない。
ただ一つ言えることは、今自分はこの男の無謀な闘いに協力する立場にあるということだ。
「ま、一度乗りかけた船だ。つきあってやるさ」
足の痛みを抑えて立ち上がる。
それを一瞥すると、片桐は歩を進めた。
奴だけは自分でなければ倒せない。
自分が倒さなくてはならない。
決意と使命感を胸に、片桐は進む。
かつて自らの過ちが生んだ、最強のアーティファクト使いを倒すために。
球形に圧縮された水の塊が、早人を襲う。
すんでのところで身を床に転がせて回避した。
かわりに水弾を受けた床は無残に砕け、水に浸される。
エリダヌスはそれを見て、半ば呆れ顔になった。
「往生際が悪いですね。あなたの力量ではどうあがいたところで私には勝てませんよ」
早人は荒い息をつきながら立ち上がる。
その眼はまだ勝負を捨ててはいない。
「だから……諦めろっていうの?」
「ええ」
「やだね。僕はまだ闘える。なのに勝手に勝ち目がないと決めこんで勝負を捨てるようなまねはしない」
きっぱりと拒絶すると、エリダヌスは聞きわけのない子供を諭すように言った。
「弱い者が必死になってあがいたところで……無様なだけです。強き者との差がその場限りの努力で埋まるのなら、誰も苦労はしませんよ」
抑揚のない声だった。
それは彼女の経験からくる思想であり、人生観でもある。
「そうかな……僕はそうは思わない。たとえどんなにカッコ悪くても、必死になってあがく意味はあると思う。そうしなければ前に進めない時は、誰にだってあると思う」
真っ直ぐな眼で、静かな表情を見せる早人。
対してエリダヌスは相手にしようとしない冷めた眼を見せる。
「下らない精神論ですね。そういうのを世の中では馬鹿というんですよ」
「馬鹿でかまわないさ。腰抜けって言われるよりはね」
二人の会話はどこまでも噛み合わない。
むしろ言葉を交わす度に険悪な方向へと移っていった。
これ以上何かを口走れば、物理的な反撃を招くかもしれない。
それを承知で、早人は言った。
「それともキミは、そんな馬鹿になりたくないからニブルヘイムにいるのかな?」
エリダヌスの表情がわずかに変わる。
早人は続けた。
「強い者に反抗するのを諦めて、大人しく従ってるほうが利口だと思うから、だからこんなことをしてるの?」
エリダヌスは何も言い返さなかった。
早人の言葉は、ある意味で真実をついていたから。
かわりに、瞳に殺気を宿す。
「どうやらあなたとは……とことん分かり合えないみたい」
口調を一変させ、冷淡に呟く。
それは事実上の、死刑宣告だ。
十文字の穂先が再び水流を纏う。
そのまま穂先を床に叩きつけ、床面をこすりながら弧を描いた。
軌跡にそって、地を這う水の膜が放たれる。
それはあたかも小さな津波のようだった。
早人は顔の前で腕を交差した姿勢で堪え凌ごうとする。
この波の威力自体は大したものではないと判断したからだ。
おそらくこれは目眩ましで、その隙に槍で突き殺そうという算段なのだろう。
それなら臨むところだ。
自分の刻星眼の力なら、奇襲を見切って反撃に転じる自信はある。
しかしそれは所詮、浅はかな読みだった。
波の威力は大したものではなかったが、それは目眩ましではなかったのだ。
体を叩いた水がそのまま流れていかない。
まとわりつくように早人の体を覆ってゆく。
気付いた時には手遅れだった。
これは、自分を束縛するための技だ。
“波”の型をとっていた水は、標的を中心とする一点に収束していく。
やがてそれは巨大な球体に変化し、早人を包み込んだ。
「身の程を知らない弱者はそうなる運命よ」
エリダヌスの冷淡な声は、もはや早人の耳には届かない。
敵を束縛し、呼吸を奪う、水の牢獄。
囚われの身となった早人はもがいた。
所詮は水だ。
手足をばたつかせて移動すれば外に出られるかもしれない。
だが無理だった。
幾らもがけども、体はいっこうに前に進まない。
結界の内部に自分を押し戻す流れが生み出されているからだ。
全方位から押しつぶされるような感覚に、肉体が悲鳴をあげる。
ならばここから巨砲を操作してエリダヌスを攻撃しようと思ったが、それも無理だった。
アーティファクトの操作には多大な集中力を要する。
呼吸困難の苦しみに支配された精神ではそんな集中力は維持できない。
窒息という、この世で最も苦しく緩慢な死が、静かに手招きを始めた。
口から気泡を吐き出しながら、苦悶に表情を歪める少年。
エリダヌスは最初それを無機質な顔で眺めていたが、しだいに後ろめたいものを感じ始めていた。
つい頭に血を上らせてしまったが、思えばあの少年に恨みはない。
よくよく考えればそれなりにいい奴かもしれない。
気絶したあたりで解放してやってもいいかもしれない。
しかし、すぐに頭を振る。
何を甘いことを考えている、このお人好しが。
そんなことが上層部に許されるはずがないだろう。
敵に半端な情けをかけたら、お前の身まで危険に晒されるぞ。
今更何をためらうことがある。
もう既に、この手で人の命を奪っている。
もはや後戻りはできない。
「……」
眼前に到来する“死”から目を背けるように身を翻す少女。
その顔はどこか寂しげで、悲しげだった。
九つの時、両親が離婚した。
唐突だった。
二人の間に何があったのかはわからない。
それを知る権利すら、自分には与えられなかった。
自分は母と一緒にいきたいと泣き喚いたが、結局親権は父のものとなった。
すがりつく自分を、うっとおしそうにはねのけた時の母の顔は、今でも忘れられない。
母にとって自分は、新たな人生を送る上での足枷でしかなかった。
そして父に連れられ、父の故郷であるこの国にやってきた。
この地は自分に、苦い思い出しか与えてくれなかった。
父が自分を引き取ったのは、我が子への愛情でも、親としての責任感でもなかった。
奴にあったのはただ、吐き気のするような欲望だけ。
学校にいても、幸せを感じることはできなかった。
まだこの国の言葉を上手く話せなかったから、他の子供たちとうちとけることができなかった。
金の髪に青い眼、白い肌という他と“違った”容貌は、疎外される理由にしかならなかった。
誰とも交われない、どこにも属せない者には、それ相応の仕打ちが待っている。
ずっと堪えてきた。
自分を疎み、否定し、虐げる、……そんな周囲の圧力に、ずっとずっと堪えてきた……
それでも、限界の時はきた。
ある日、度を越した父の暴行に堪えかねてついに反抗した。
頬をはたき、悪態をついた。
それは父の心には届かなかった。
さらなる暴行を呼ぶだけだった。
心の中で、何かが弾けた。
胸の奥に溜まっていたおぞましいものが、一気に染み出してくる……そんな感覚だった。
簡単なことだった。
近場にあった包丁を手にとり、それを前に突き出すだけ。
ただそれだけで、父は死んだ。
あっけない最期だった。
自分の未来は、そこで終わった。
社会を律する法律は、いかなる理由であれ殺人を許してはくれない。
これからの自分にあるのは、長い間牢獄に閉じ込められ、そこから出た後も、他人に後ろ指を指され続ける。
そんな人生だけ。
嫌だ。
半狂乱になり、その場から逃げ出した。
暗い夜道を、一人走り続けた。
あの時、闇色に染まった世界の全てが敵に見え、黒い泥沼のように自分を飲み込もうとしていたように思えた。
やがて冷たい雨が降り出し、逃げ続けることができなくなった。
辿りついたのは、一件の廃ビルだった。
そこでニブルヘイム最高幹部“アリエス”に出会ったことが、自分の運命を変えた。
廃ビルは市内に数箇所ある“ヴァルホル”の一つで、アリエスは偶然そこの視察に来ていたのだ。
アリエスは自分の話を聞いてくれた。
そして二つの選択肢を与えてくれた。
このまま人としてこの世界に残るか、死せる魂となって自分についてくるか。
迷う余地などなかった。
どんなに歪んだ道と知りながらも、後者を選ぶ他なかった。
不幸中の幸い、自分はアーティファクトを使う才能に恵まれていた。
アリエスの下で腕を磨き、早くから頭角を現し、やがてゾルダートでは屈指の実力者との評価を得た。
そしてゾルダートの中では有数の武闘派が集まるレオ部隊に配属された。
そして今に至る。
歪んだ道で歪んだ者達に抗うことなく、彼らの流儀に従っていれば、彼女には力と権力が与えられた。
少女は理解した。
この世には強者と弱者というどうしようもない隔たりがあることを。
自分は弱い方。
だから強い者に抗うことは許されない。
抗えば、さらなる災いがふりかかるだけ。
弱い自分が生きていくためには、強い者に従うしかない。
自分で自分を守れないなら、守ってくれるモノにすがりつくしかないのだ。
強者の側に与していれば、自分も強者でいられる。
そうすれば、もう傷つくことはない。
苦しむことも。
悲しむことも。
だから、彼女は闘う。
遠のく意識の中で、早人は必死に自我を?ぎ止める。
自分の非力な体でこの結界から逃れることは不可能だ。
ただいたずらに体力を消耗するだけ。
それよりも、今は静かに水中を漂い、精神を集中させる。
考え無しにもがくのではなく、冷静な判断で、確実な反撃を仕掛けるために。
自分をかばって犠牲になった少女。
我が子が危険な道を歩むと知りながら、見守ってくれた母。
自分に想いを託して消えていった霊獣。
自分を共に闘う仲間だと認めて、この闘いを任せてくれた仲間達。
彼らは自分を助けてくれた。
信じてくれた。
けれど自分はまだ、彼らの何にも応えていない。
こんなところで、諦めるわけにはいかない。
不意に、エリダヌスの背後で物音がした。
振り返ると、それまで死骸のように地に落ちていた巨砲が、静かに浮き上がっていたのだ。
主の思念が水の膜を通り越し、巨砲を動かしている。
(こいつ……まだ……!)
エリダヌスは顔をしかめた。
ありえないことだった。
水中で呼吸困難と闘いながらアーティファクト操作に充分な集中力を維持するなど、並の使い手にできることではない。
だが現に、あの銀色のアーティファクトはこちらに砲身を向けている。
エリダヌスは身を翻して身構えた。
おそらく自力で結界からの脱出は不可能と見て、自分を仕留めることで結界を解かせようとしているのだろう。
望むところだ。
脳に酸素が行き届いていない奴のコントロールなどたかが知れている。
自分はあいつが息絶えるまでの僅かな間、その雑な攻撃を凌ぎきればいいだけの話だ。
巨砲は閃光を撃つことなく、自らの体でエリダヌスに突進をかけた。
だがあいかわらず速度は遅い。
エリダヌスは難なく回避する。
だが今回ばかりは、エリダヌスは読み違いをしていた。
巨砲の標的は彼女ではなく、その先にある結界だったのだ。
水の膜を突き破り、巨体が水中に侵入する。
大海原へ還ってゆく鯱のように。
巨砲の主は、あろうことかその砲身にしがみついた。
主を伴い、巨砲は反対側の水膜から突き抜ける。
そして主とともに地に落ちた。
「何っ……!」
エリダヌスの顔に初めて驚愕が浮かぶ。
まさかあんな方法で結界を脱出されるとは、予想だにしていなかった。
早人は苦しげにうずくまり、体内に溜まった水を吐き出す。
「諦めないさ……」
疲労で倒れそうになる体を抑え込み、言葉を紡ぐ。
「ぼくは一人で生きてるんじゃない……みんなが力を貸してくれて、信じくれたから、だからここまでこれたんだ。そうやって助けられて、守られてきた命を、一人で勝手に終わらせるなんてできない」
立ち上がり、巨砲を構え、正面からエリダヌスを見据えた。
「どんなに無謀でも、無様でも、あがき続けてやる」
迷いのない表情。
偽りのない言葉。
この時エリダヌスは、初めて早人に気圧された。
「ハナから強い者に反抗するのを避けて、臆病で無気力な自分を正当化してる……キミみたいな人には絶対に負けない」
その言葉で、エリダヌスの全ては否定された。
彼女の思想を、歩んできた道を、一刀のもとに斬り捨てる力があった。
時の止まったような静寂が、あたりを包む。
それはある意味で、嵐の前の静けさだった。
「……あんたに何がわかる」
物静かで理知的だったエリダヌスの仮面が剥がれ落ち、隠していた感情が溢れ出す。
「重たいもの背負いこんだ気になって……ヒーロー気取りで軽々しく戦場に出てくるあんたなんかに、あたしの何がわかるのさ!」
眉間に皺を寄せ、目を血走らせ、怒声を飛ばす。
だが口汚く罵られた早人は、不思議と不快にはならなかった。
それは感情のない人形のようだったエリダヌスが始めて見せた、人間らしい表情だったから。
「誇りも、望みも、信念も……そんなもの捨てようと思えば簡単じゃない! いつだって放り捨てて逃げ出せるわよ!」
自分が激昂のあまり、らしくない暴言を吐いていることはエリダヌスも自覚していた。
だが溢れ出る感情を止めることはできなかった。
「あたしはあんたと違って逃げることは許されない! 勝てなきゃ終わりなんだ!」
暴走を始めた精神は、彼女から冷静な思考力を奪っていった。
本当は闘いたくなどない。
誰も殺したくない。
たがそうしなければ生きていけないから。
そうせざるをえないから、だからこんな戦場にいるんだ。
自分は被害者だ。
何も間違ってなどいない。
自分を虐げた者達が、奈落の底に突き落とした運命が、自分をこんな風にした。
そんな自分を罵り、否定するような奴は許さない。
そんな奴は……殺してやる。
エリダヌスの殺意は極限まで膨れ上がった。
魔槍の柄を地面に突き立て、両手で強く握り締める。
通常の槍術にはない、奇怪な構えだ。
十文字の刃が蒼く輝く。
魔槍の全身から信じられない程大量の水が噴き上がった。
それは上空に留まり、形を結ぶ。
やがて顕わとなったその姿を見て、早人は戦慄を覚えた。
(龍……!)
蛇のように長い全身。
後頭部を飾る二本の角。
裂けるように開いた顎。
猛獣を思わせる鋭き眼。
それはまさしく、神話の世界に住まう大海の支配者のよう。
“海皇レヴィアタン”
エリダヌスのもつ技の中で最強の破壊力を誇る、正真正銘最大の大技だ。
単純な攻撃力ならレオの“赤輪眼”をも上回る。
全身全霊を込める技のため一発限りだが、これを防ぎきれるのはレオを初めとするセクステル・クラスの者しかいないだろう。
水より生まれ出でし巨竜にエリダヌスは命じた。
眼の前にいる少年、あいつを喰らえと。
数多の水しぶきを撒き散らし、水竜は猛進する。
あんなものをまともに受けたら水圧だけで即死だ。
そう判断した早人は横に逃げた。
「無駄だ!」
エリダヌスが叫ぶ。
水竜の眼は標的を追い、首を向き変えた。
魔槍の穂先から伸びるこの水竜は、主の意思に従い自由自在に動く。
敵に命中するまで決して消滅することはない。
進路上にあるものを薙ぎ払いながら、水竜は標的を追尾する。
こいつからは逃げられない。
そう悟った早人は足を止めた。
エリダヌスはそれを死を覚悟したのだと解釈する。
「終わりだ!」
小さな獲物を飲み込むため、竜の顎が最大限に開かれる。
早人の眼は、それを真っ直ぐに見据えていた。
諦めない、自分はそう言った。
自分に嘘はつかない。
逃げるのをやめたのは闘うため。
正面から、水竜に打ち勝つため。
砲身を向け、瞼を閉じる。
初めてアーティファクトを発動させた時と同じ感覚。
深い泥沼の底に手を差し込む感触。
その最奥に眠る、“何か”を手にするために。
銀の奔流を宿す眼が見開かれる。
巨砲が一時的に分解され、余分なパーツが外されていく。
二つに割れた銀の砲身の中から、細身の砲身が現れた。
変形を遂げた巨砲は、全体的に細身で身軽な姿になっていた。
バズーカ砲が狙撃手のライフルに変わったようなものだ。
標的に応じて閃光の射出形態を変える。
それが早人のアーティファクトの真の力。
細身の砲身から、凝縮されたエネルギーが放たれる。
広範囲を押し流すエリダヌスの技とは対照的な、一点集中破壊。
一筋の光条は水竜に正面から衝突し、厚い水の壁を貫通する。
さらに勢いを緩めることなく、その先の術者を襲った。
十文字の穂先が、三つに分かれ宙を舞う。
軽い音を立てて、主の足元に落ちた。
閃光はエリダヌスの持つ魔槍の穂先を穿ったのだ。
あまりに一瞬のことで、エリダヌスは指一本反応できなかった。
標的に衝突する寸前に水竜は水竜としての形を失い、ただの水の流れとなる。
それは相手を押し流すことはできても、殺傷する力は残っていなかった。
「あ……あ……」
エリダヌスは刃を失くした槍を凝視する。
あの十文字の穂先は水を制御する役割を担っていた。
それを失くした今、彼女は水を操ることができない。
たとえ水を生み出せてもそれは単純な“力”であり、それをコントロールして“技”へと昇華させることができないのだ。
そうでなくても、彼女は先の“レヴィアタン”で力のほとんどを消費している。
もはや立っているだけで精一杯な状況だった。
この時点で、もはや勝負は決したと言っていい。
「そんな……」
エリダヌスの顔から血の気が引いていった。
彼女の唯一の武器であり心のよりどころだった魔槍は、今壊れたのだ。
戦闘能力の喪失。
それは上層部に切り捨てられる充分な理由であり、彼女が最も恐れていたことだった。
「……ぼくはキミのことは分からない」
水竜の余波を受けずぶ濡れになった体で、早人は立ち上がる
「キミがどんなつらい経験をして、悲しい思いをしてここまできたのか、それはぼくにはわからない……」
怒りも憎しみもない、静かな表情で語る。
「でも、ぼくにはぼくの想いがある。自分の意思でこの道に入って、自分の意思で今ここにいる。……だから退けない」
強い眼だった。
どんなに罵られても、はねつけられても、それでも屈しない強い意思があった。
「キミの言う通り、ぼくは逃げようと思えば逃げられるのかもしれないね……でも、ぼくは絶対にそうしない。一度やり遂げるって誓ったから……自分にだけは嘘をつきたくない」
それは素直な気持ちだった。
一度誓ったことは曲げない。
自分の心に嘘はつかない。
それが、自分が今ここにいる理由だから。
「もう一度言う……退いてほしい」
早人は確かにエリダヌスを否定した。
だが命を奪いたくはなかった。
彼女が抱える苦しみと悲しみは、確かに伝わってきたから。
魂が抜けたようになっていたエリダヌスに、意識が戻る。
「できるわけないじゃない……」
その声は震えていた。
「言ったはずよ……逃げることは許されない……勝てなきゃ終わりなのよ……」
折れた槍を、力の限り握り締める。
制御能力を失った魔槍から溢れ出る水は、もう以前のような形を成さない。
飛び道具は使用不可能。
柄の先に僅かな渦を作ることはできたが、そんなものでは大した役には立たない。
それでもエリダヌスは特攻をかけた。
勝利にしがみつく、悲しい特攻を。
「うあぁぁぁぁ!」
精神のたがが外れた彼女は自暴自棄になっていた。
刺し違えてでも早人を殺す気でいる。
突進してくるエリヌヌスに銃口を向けながら、早人は巨砲に撃てと命じることができなかった。
アーティファクトの力を失ったエリダヌスを撃墜することは容易い。
だが、それをやれば、彼女は確実に死ぬ。
あの少女に悪意はない。
ただ自分の存在を守るために闘っているだけ。
そんな相手を撃つことができるのか。
早人はまだ決断を出せずにいた。
玉砕覚悟のエリダヌスはためらいなく猛進してくる。
標的までの距離は、あとわずか。
あと一瞬で、どちらかが生き残り、どちらかが死ぬ。
生死の境目。
その寸前……
爆発。
「うわっ!」
「きゃあ!」
早人とエリダヌスの間の空間。
そこに突然、爆炎が爆ぜた。
二人は悲鳴を上げて瞼を閉じる。
吹き上がる風圧が、互いの髪をかきあげた。
「諦めろエリ、お前の負けだ」
爆音が去りし後、第三者の声が響きわたる。
エリダヌスの顔から闘志が失せ、驚愕と恐怖に染まった。
この声。
この能力。
そして自分を“エリ”などという略称で呼ぶのは、この世にただ一人しかいない。
「レオ様……」
向かい合う二人の側面から、レオは歩を進めてきていた。
その眼は既に真紅に染まり、周囲を彩る漆黒の紋が浮き上がっている。
突然の事態に呆然となる早人に、穏やかに微笑みかけた。
「やあ、はじめまして」
ラケルタ戦の後、紗百合は床に座りこんで休息をとっていた。
本当ならすぐにでも上階へ上り、早人たちの救援に向かいたかったのだが、体が思うように動かなかったのだ。
ラケルタから受けた傷もあるが、先程あれだけ膨大な力を使ったのが一番の要因だ。
もとから疲弊していた自分の体には、あれは明らかなオーバーワークだった。
体中が軋むように痛み、脱力感が消えてくれない。
それでも彼女は束の間の休息を終えて、立ち上がった。
疲労を忘れ、痛みをこらえ、駆け出す。
その脳裏には、先程垣間見た光景が未だくすぶっていた。
彼女の弟は、ニブルへイムの霊獣に殺された。
彼女の目の前で襲われ、目の前で八つ裂きにされたのだ。
あの時弟は、恐怖に顔を歪め、涙を流して姉に助けを求めていた。
そんな弟を、彼女は見捨てた。恐怖にかられ。泣き叫びながら一人で逃げ出した。
それ以来、綾瀬紗百合は生ける屍になった。
弟を見捨てた罪悪感。我が身かわいさに逃げたことへの自己嫌悪。最愛の肉親を失った喪失感。
負の感情が積み重なり、彼女の心を命を終えた老木のように朽ち果てさせていった。
何もする気が起こらない。何かを始めても続かない。ただ時だけが過ぎてゆく。そんな日が続いた。
転機が訪れたのは四年前。
ある経緯により、彼女はニブルへイムに関する正確な知識を得た。
その時知った“奴隷”という存在……それは朽ち果てた心に微かな希望を与えた。
もしかしたら弟は、それになったのではないだろうか。肉体は死しても、魂は未だ存在しているのではないだろうか。
今もあの島に囚われたまま、自分の助けを待っているのではないだろうか。
何の根拠もない、ただの推測。希望的観測であることはわかっている。だがそれでも、僅かな可能性に賭けてみたくなった。
それからは、ニブルへイムの実態を解明すべく調査を進めた。その過程で、ニブルへイムの前身となった組織の存在を知った。
そしてその“遺跡”の一つを探索した結果、二つの収穫を得た。
一つはコンピューターのデータファイル。
驚くことにそれは、ニブルへイムを創造した者達が残した代物だった。そこには幽子操作の理論、霊獣やアーティファクトの製造方法、組織の内部構造にいたるまでの資料が、事細かに記載されていた。
もう一つは、失敗作として廃棄されていたアーティファクト。星座の名を冠する八十八のアーティファクトが製造される以前に造られた初期試作品……オリジナルアーティファクトの一つだ。
魂に火がついた。
枯れ果てていた心が、再び蘇った。
生きる意味が生まれた。
成すべき目的が生まれた。
それから紗百合は必死になって二つの“遺産”を研究した。
データを独力で解析し、ニブルへイムやアーティファクト関する知識を集めた。
手に入れたアーティファクトを研究し、修練を積んだ。
そしてついにニブルへイムに立ち向かう力を手に入れた。
自ら過去への贖罪の念。
弟を助けなければならないという使命感。
ニブルへイムへの復讐心。
さまざまな感情が重なり、彼女を無謀な闘いへと踏み切らせた。
紗百合は思う。
自分は卑しい人間だと。
街の人々を守るだとか、教え子たちを傷つけさせないだとか、そんな大義名分を唱えたところで、自分は結局のところ、たった一人を救いたかっただけなのだ。
そんな自分の身勝手な闘いに巻き込んでしまった早人のことを思うと、ひどく心が痛む。
だがそれでも、立ち止まるわけにはいかない。
最後までやり遂げなくてはならない。
この先に待ち受けるのは、かつてないほど強大な敵だ。
ニブルへイム最高幹部“レオ”。
最高幹部会“セクステル”において、最強の二文字を背負う男。
だが勝たねばならない。
遠い昔に狂ってしまった運命の歯車を、元に戻すために。
その男が近づく度、エリダヌスの顔から血の気が引いていった。
組織に入った時から死は覚悟していたつもりだった。
だがいざその時になると、震えが止まらない。
この眼前の男は、瞬きする間に自分を消し炭にすることさえできるのだから。
「も、申し訳……」
震える声が口から漏れる。
眼の端に涙が浮かんだ。
長い指をもつ右手が伸ばされとき、反射的に眼をつぶり、びくりと震えた。
しかし命を奪うと思われたその手は、彼女の金の髪をそっと撫でただけだった。
「いいさ、咎める気はない。何もしないから安心しろよ」
意外な一言だった。
驚いて眼を開けると、レオは幼子をあやす父親のように優しげな笑みを浮かべていた。
力なくよろめくエリダヌスの背中と膝の裏を持ち、両手で抱える格好になる。
「疲れたろ? あとは俺がやるからその辺で休んでろよ」
エリダヌスの頬が微かに赤らむ。
これはいわゆるお姫様だっこというやつだ。
レオは少女を壁際まで運んでいき、壁によりかからせて座らせた。
そして、身を翻す。
砲身を向ける早人と視線が交錯した。
「さて、というわけで選手交代だ。当初の約束通り、俺自ら相手をしよう」
身構える早人に対し、レオはあくまで自然体。
両手をだらしなく下げ、緩い姿勢で立っている。
およそこれから殺し合いを始める気とは思えない佇まいだ。
「エリを倒した相手に“小僧”では失礼だな。名前を聞かせてくれ」
「……朝倉早人」
答える義理などないが、早人は名乗った。
レオは嬉しそうに微笑む。
「そうか、では早人。まずは礼を言っておこうか」
「え……?」
レオは飄々と肩をすくめた。
「さっきの一撃、槍じゃなくエリを狙ったほうが簡単に勝負はついただろ? だがお前はそれをしなかった。だから礼を言う。それだけだ」
早人は驚きを隠せなかった。
確かに指摘されたことは事実だが、まさか敵の首領であるこの男にそんなことを言われるとは思ってもみなかった。
それに言っていることに、嘘はないのだろう。
先ほど爆破を起こしたのは、自暴自棄になったエリダヌスを死なせないためだとしか思えないからだ。
「あんた……変わってるね……」
「ん?」
「ニブルヘイムの最高幹部なんていうからどんな奴かと思ったけど……仲間を助けたり敵に礼を言ったり……なんからしくないと思ってさ」
それは本心からの感想だ。
嘘も脚色もない。
水城から話を聞いたとき、そして先刻の放送を聞いたとき、早人はレオに対しての漠然としたイメージを、幾つかのパターン抱いていた。
だがこうして実際に会ってみると、それらのイメージはどれも的外れだったことがわかる。
早人にとってレオは、これまで会ったことのない人種だった。
均整のとれた長身に、結わえられた山吹色の長髪。
体中を飾るアクセサリーに、着崩したワイン色のスーツ。
派手で豪奢な装いながら、不思議と攻撃的、威圧的といった印象はない。
むしろ外見にそぐわない穏和で理知的な雰囲気を感じさせる。
自然体で何気なく立つ姿は、隙だらけのようでもあり、一分の隙もないようでもある。
そして何より特異なのは、この男からは毒気を感じないことだ。
今まで対峙した敵が多かれ少なかれ持っていた悪意や敵意のようなものを、この男からは感じない。
穏やかに笑いかけるその姿からは、年上の親しい友人のような印象しか湧いてこなかった。
「変わってる、か……よく言われるよ。口の悪い奴は、馬鹿正直だとか手ぬるいだとかと言うな。どうにも俺のスタイルは、他人には理解され難いらしい。まあ、理解されたいとも思わないが」
楽しげに言いながら、腰に右手を当てる。
そんな動作一つとっても、おそろしく様になっていた。
「まあ、そう身構えるなよ。まだ俺の方から仕掛ける気はない」
「……どういう意味?」
「エリの後に連戦……おっと、ムスカの奴も含めれば三連戦か。それじゃ流石にきついだろ? 何より、先に部下をけしかけて弱ったところを叩きのめしたなんて言われたら俺の格好がつかない。だからお前が回復するまで、もう少し待っててやるよ」
意外な申し出だった。
およそ敵の首領とは思えぬ台詞を、レオは平然と言ってのける。
「……案外、体面を気にするタイプなんだね」
「体面……というよりは己のプライドかな。いずれにせよ、根が馬鹿なんだろうなぁ俺は。だが、馬鹿の戯言に乗ってやったほうが得する時もあるぞ、早人」
やんわりとたしなめるように、続ける。
「待ってれば、お仲間の二人が駆けつけてくるかもしれないだろ? そうなったら三人一緒に仕掛けてきてかまわない。まあ安心しな。たとえ勝ったのがうちの連中だとしても、勝負は俺とお前のタイマンだ。それが勝負における最低限の礼儀ってものだからな」
「……」
早人は無言で従うことにした。
確かにムスカ、エリダヌスと闘い、自分は相当消耗している。
ここで申し出を蹴ってまで、レオに攻めかかる余力はない。
静かに次の言葉を待つ。
「さて、暇潰しに世間話でもしたいところだが、あいにく共通の話題が見つからないな。かわりと言ってはなんだが、少々下らない質問をさせてもらおうか」
また奇妙なことを言い出した。
何か裏があるのか、それとも単に沈黙が嫌いなだけなのか、いずれにせよこの男のペースには上手くついていけそうにない。
「早人、お前はニブルヘイムのやっていることは間違ってると思うか?」
「当たり前だよ」
険しい眼で早人は言い放つ。
「罪もない人達の命を奪い続けて、自分たちの勝手な都合で生み出した霊獣たちも虐げ続けてる。そんな奴らが間違ってないなんて、絶対に言わせない」
語気を強める早人に対し、レオは落ち着いた笑みを崩さない。
その穏やかな佇まいには、教師が生徒の意見や質問に耳を傾けるような包容力があった。
「そうか……ならお前は、自分の生きているこの世界も間違っていると思うのか?」
「え……?」
「ニブルヘイムを否定するってことは、人間の世界をも否定するって意味になんじゃないかってことさ。ニブルヘイムの住人が自分たちの楽園を維持するために罪もない人間を殺すのと同様に、その人間たちもまた、自分たちの食欲を満たすため、あるいは骨や毛皮などを得るために罪もない動物たちを殺し続けてる。ニブルヘイムが人間や霊獣を実験台として弄ぶのと同様に、人間も動物を実験台として弄んでいる。多少の差異こそあれ、両者のやっていることは非常に似通ってると思わないか?」
教壇に立つ講師のように、あるいは宗教の教祖のように饒舌に語る。
まるで、用意された文面を読み上げているような流暢さだ。
「人間は同族殺しを忌み嫌うが、異種族殺しには寛容……というより肯定している節すらある。なぜか? ……答えは簡単だ。他の生き物を自分たちとは異なる存在と認識し、劣った存在として見下しているからだ。だから自分の社会を維持する、あるいは精神的な快楽を満たすためという名目で、ためらいなく殺せる。ニブルヘイムの住人は自分たちを優れた人間と思い込み、下界の連中を劣った人間として見下している。だから遠慮なく生贄にしたり実験台にしたりする。根本的な発想の面で両者にそう違いはない。むしろ規模がこの星に全体にわたっているという意味では、人間の世界のほうが罪科は大きいのではないか?」
口元は微笑んだままだが、眼は笑っていない。
言葉と眼光で、じわじわと相手を追い詰めていく者の眼だ。
「それでもお前は、自分たちは悪くない。悪いのはニブルヘイムだけだと言い切れるのか? ニブルヘイムさえ倒せば、あとは万事めでたしめでたしになると思うのか?」
沈黙が辺りを包んだ。
頭の中が真っ白になったように、早人は硬直する。
それだけ今聞いた話は、心に染み入るものがあった。
今までの彼の価値観を、根底から揺るがすものだったから。
十数秒が無為に過ぎた。
「ぼくは……」
ようやくにして、言葉を紡ぐ。
「……わからない。今まで、ただニブルヘイムを倒すことしか頭になかったから……そんな風に考えたことなかった……」
うつむき加減に、続ける。
「ぼくは何も知らないガキだから……何が正しくて、何が間違ってるのか、正直よくわからない。ろくに考えもせず、安易に口する資格はないと思う。だから……上手く答えられない」
自身の主張の方向性の定まらない、曖昧で、弱々しい答え。
今の早人には、そんな答えしか出せなかった。
すると、突然こらえきれなくなったようにレオは吹きだした。
またもや予想外の反応だ。
「いや、悪い悪い。困らせるようなこと言って悪かったな。実を言うと、本気でこんな問いに答えてもらおうなんざ思っちゃないんだ。ただ、どんな反応してくれるか見てみたかっただけだよ」
年下をからかって楽しむ少年のように、無邪気に笑う。
今まで真面目になって考えていた早人は、いたずら小僧にはめられた気分になった。
「俺みたいな悪党の戯言に、わざわざまともに取り合ってくれるとは……根が真面目で素直なんだろうな、お前は。いや、馬鹿にしてるわけじゃないよ。むしろ俺は自分がひねくれ者な分、素直な奴は大好きだ」
そうは言われても、どこかしてやられた気のする早人は納得できない。
相手の真意を探るため、尋ねた。
「あんたは今の話、自分でどう思ってるの?」
「俺かい? 俺は根本的なところで、良心てやつが欠落してるからな。そんな小難しいことをいちいち考える気はないさ。自他ともに認める悪党が、倫理について考えるほど馬鹿らしいことはないだろ?」
あっけらかんと言う。
ここまでさっぱりした答えを出されては、もはや返す言葉もなかった。
「それに今、さも持論のようにペラペラ話したのは、全部ある奴の受け売りだよ。俺も昔同じようにからかわれたんでな、つい真似したくなったのさ」
「……ある奴って?」
レオは人指し指を立てた。
天空に浮かぶ彼らの居城を指し示すために。
「うちの組織のトップ、“天帝”だ」
「……!」
意外な名を聞き、早人は少々驚いた。
「奴が言うには……」
そこで、開きかけたレオの口が閉じる。
視線を早人から外し、右に向けた。
「もう少し雑談に花を咲かせたいところだったが、どうやらそうもいかないらしいな」
早人は怪訝な顔で同じ方向を向く。
そこには傷だらけの若い女性が立っていた。
彼のクラスの担任であり、闘い方を教えてくれた人物……綾瀬紗百合だ。
「先生!」
早人は歓喜の声を上げた。
紗百合と生きてまた逢えたことが、素直に嬉しかった。
しかし紗百合は、早人を見ていない。
彼女の視線は、その先に釘付けになっていた。
「ラケルタを倒したか……」
レオは呟く。
「相変わらず大した人だよ。あんたは」
懐かしむような、そんな響きの言葉。
それを聞いて、早人とエリダヌスは明らかな違和感を覚えた。
対峙する紗百合とレオ……この二人、どこか様子がおかしい。
これでは……まるで……
「あ……あ……」
紗百合の顔面は蒼白になっていた。
しまりのなく開けられた口からは言葉にならない声が漏れ出している。
これほどまでに動揺する彼女を、早人は未だかつて見たことがない。
震える唇が、ようやくにして言葉をつむぎ出す。
「淳也……」
紗百合は呼んだ。
彼女が求め続けた、最愛の者の名を。
その時、全てが静止した。
紗百合も、早人も、エリダヌスでさえも、頭の中が虚空と化したように、言葉を失い呆然となる。
時が止まったかのように、誰も微動だにしない。
凍てついた世界の中で、優雅に微笑むのはただ一人。
獅子の名を冠する、赤き眼の男だけ。
「久しぶりだな、姉貴」
狂った歯車は、狂ったまま廻り続ける。
どこまでも。
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