ニブルヘイム





火を灯そう
闇夜を払う 猛き篝火を
気高き道を見失わぬように
この魂が 凍てつかぬように










第六話「修行」





 天城市の西のはずれは、小高い山が連なる未開発地域となっている。


 左右に深い森が広がり、その隙間を縫うようにアスファルトが敷かれた林道。

 その路肩に、一台の車が止められていた。

 あまり手入れの行き届いていない、冴えない軽自動車だ。


 そこから数十メートルの地点に、三人の男女が集っていた。

 中学生と高校生と教師というよく分からない組み合わせだ。


 もしこの場に部外者が居合わせたら、この三者の関係を推測するのは至難の業だろう。
 
 さらに彼らが行っているのは、実に常軌を逸した行為だった。

 仕事に励むわけでも遊びに興じるわけでも雑談を交わすわけでもなく、それらとは明らかに異質な行いをしている。


 それは、戦闘だった。





 三枚の木の葉手裏剣が風を切る。


 それらは標的の前方に生えていた樹木に行く手を阻まれ、幹に深々とめり込むことになった。

 樹木を盾代わりに、その間を移動する少年は、息をきらしながら相手を睨んだ。
 

 注目すべきはその右手。


 艶のある紫色の金属が二の腕全体を覆っている。

 それは金属でありながら水飴のように半液状化しており、定まった形はない。

 そして、軟体生物のように不気味に蠢めいていた。

 
 今一度、木の葉手裏剣が放たれる。


 それは走る少年のすぐ先の地面に突き刺さり、少年の動きを止める役目を果たした。

 少年は正面から相手を睨み、異形の右腕をそこに向けた。


 精神を集中し、拳に思念を込める。

 ゆるやかに蠢いていた金属の動きが活性化し、不安定だったものが何かの形を創ろうとした。
 

 だがそれまでだった。

 それ以上変異が進展することはなく、逆に元の不安定な水飴へと戻っていく。


「くっ……!」

 自分の行為が失敗に終わったことを悟った少年は歯軋りしながらも、即座に次の行動に移った。


 素早い動作で先ほど地面に打ち込まれた手裏剣を引き抜く。

 それを見よう見真似で持ち主に向けて放った。

 
 少年が手裏剣を拾う前に、相手の女性は防御行動をとっていた。


 彼女の袖の下から無数の桜の花びらが流れるように放出され、正面に薄く大きな円盾を形成した。

 それは当然の如く手裏剣を弾き飛ばす。
 

 見た目は鮮やかだが、実はこれはあまり意味がない。

 むしろ非効率的である。


 素人の手裏剣など彼女にとっては身を反らすだけで避けれるし、術を使う分だけ余計な力も使う。

 その上円盾の大きさのせいで、自分の視界がふさがれてしまう。


 にもかかわらずこんな手を使ったのは、相手の出方を見るためだ。

 また、相手にわずかながら勝機をくれてやるためでもある。
 

 案の定、少年はこの機を逃さなかった。


 視界をふさぐ円柱の裏から女性に接近する。

 そして全力をこめて、金属に包まれた右腕で円盾を殴りつけた。


 彼自身の筋力はたかが知れているが、金属の硬度と重量が上乗せされているため拳打はそれなりの威力を発揮し、盾を破壊した。

 元は花びらだった細かい破片が女性に向けて飛び散り、彼女に一瞬の隙を作った。


 少年はこの隙をつき、金属を鈍器にして相手を殴りつけようとする。

 しかし互いの力量差もあり、それが決定打となることはなかった。


 女性は素早く、右手に持っていた短い木刀で少年の攻撃を軽やかに捌く。

 互いに後方に跳んだため、両者の間には再び間合いが開いた。


 一瞬の攻防の後に訪れた、一瞬の硬直。
 

 ここで先手をとったのは、女性の方だった。

 彼女の指先が、淡い光を帯びる。


 突如少年の足元から這い出した木の根が、彼の右足を絡めとっていく。

 少年は驚愕に満ちた表情でもがいたが、もう遅い。
 

 女性の得意技の一つ。

 あらかじめ地面に仕込んでおいた“種”を遠隔操作で発芽させ、相手の足を絡めとる捕縛術だ。

 
 彼女はそのまま、移動を封じられた少年との間合いを一瞬で詰める。

 そして少年の胴に、体重を乗せた強烈な掌ていを叩き込んだ。
 

 第三者として試合を見守っていた最後の一人は、痛ましげに眼を閉じた。





 朝倉早人は痛みに堪えかね、地面に両手と両膝をついてうずくまっていた。

 綾瀬紗百合はそこに歩み寄り、無表情で見下ろす。


「立ちなさい、早人君。もう一度試合をします」

 その声は冷酷と呼べる程冷たく、その眼は怜悧といえるほど鋭い。

 普段彼女がまとう、おっとりした雰囲気は微塵もなかった。


「早く立ちなさい。この程度で音を上げてどうするんです」

 早人は面を上げながら苦しそうな顔を紗百合に向けた。


 だが今の彼女に同情の二文字は存在しない。
 
 むしろ逆に、眼光に剣呑な光を宿らせた。


「立ちなさい」
 
 決して語気が強まったわけではない。

 だがその一言には確かな力がこもっていた。


 思いがけない酷薄な言葉に早人は震え上がりながらも、力のこもらない足をなんとか制御し、よろめきながら立ち上がる。


「まだまだ……こんなのどうってことないさ……」
 
 それは強がりだった。

 見ていて哀れに思うほどに。


 少し離れたところに、水城優也はいた。


 紗百合の車に積んできた小さな折り畳み式の椅子に腰掛け、持参した雑誌やら漫画やらを暇つぶしに読んでいる。

 学校を休んでいるにもかかわらず青いブレザーを着用しているのは、彼のファッションセンスの問題である。


 そして時たま、今のように二人のやりとりを盗み見ていた。

 その顔は、早人に対する同情と、紗百合に対する微かな畏怖を浮かべていた。


 あの女、普段はおっとりしているが、いざ人を鍛える時となると性格が百八十度変わる。


 容赦ない手段で相手を肉体的、精神的に追い詰めていき、弱音を吐くことを許さない。

 はっきり言って、かなりのスパルタだ。
 

 そして強い。


 前回は三対一ゆえに圧されていたが、こうして一対一の勝負となればその強さが実感できる。


 多種多様な技を状況に応じて使い分け、変幻自在の戦術で敵を追い詰める中距離型。

 自分でも勝てるか否かは微妙なところだろう。
 

 自分が早人の立場でなくてよかったと、水城は少しだけ思ったりした。





 時間は数日前に遡る。





 ヴァルホルを破壊した翌日。朝食の席でのことだった。


「特訓!?」

 早人は驚きのあまり、持っていた箸をテーブルに落としてしまった。

 木製の箸とテーブルがふれあい、空しい音を奏でる。


「ええ、これから数日間、キミを強くするための秘密特訓を行います」
 
 紗百合はいつもの澄まし顔で決定事項を伝えた。

 伝えられたほうは、ネズミとりにかかったネズミのような顔になる。
 

 特訓……それが自分に必要なことはわかっている。


 今の自分の力量では、はっきりいって、役立たずやらお荷物やらの表現が素敵にぴったりマッチしてしまう。

 過大評価して、「いないよりはマシ」といった程度だろうか。
 

 それは重々承知しているのだが、どうしてもここで生来の横着者根性が足枷となってしまう。

 体を動かすことは苦手な上に嫌いだった。


「なんだ、それくらいは覚悟してくれてるものかと俺は思ってたがね」

 気取った姿勢でモーニングコーヒーを啜りながら、水城は言った。


 この困った隣人は、なぜか今日も食事に同席していたのである。

 しかし紗百合も、もはやツッコむ気が失せたのか、暗黙のうちに了承していた。


「でも、特訓って……具体的にどーゆう……」

「これだ」

 早人の言葉が終わる前に、水城は上着のポケットから小さな物体を取り出した。

 それをテーブルに置く。


「これは……」

 光沢のある紫色の金属。

 巧みに彫られた精密な彫刻。


 それは一見すると、一本の巨大な角をもつ軍馬の置物に見える。


「モノケロスのアーティファクトだ。昨日パクってきた」
 
 悪びれた様子もなく、平然と言ってのける。


「射撃による直接攻撃を基本とした遠距離戦型アーティファクト。だが、その威力と形状は持ち主の資質次第。昨日倒した三人のやつの中では、それが一番お前向きかと思ってな」

 言葉を引き継ぐように、紗百合が言う。


「私や水城君が、今からキミに剣術やら体術やらを教えたところでたかが知れています。その点、そのアーティファクトという代物は便利ですよ。使いこなすことさえできれば、誰でも強力な力を手にできますからね」
 
 早人は一角獣の彫刻を手にとった。


 金属特有の重量感と冷たい感触を感じる。

 艶のある表面に反射して、観察する自分の顔が映った。


「これが……アーティファクト……」
 
 こうして触れている限りでは、普通の置物と何ら違いを感じない。

 とてもこれが、昨夜の連中が使っていたような武器になるとは想像できなかった。


「ぼくにも使えるの、これ?」

「はっきりいってわからん。素質のある奴でも武器の形にできるまでには相当手間取るっていうし、元々素質の無い奴が使ったら何も起こらない。現に俺なんかはいくらやってもぴくりとも動かせなかった」

 元ニブルへイム唯一の非アーティファクト使いのゾルダートは、そう語った。

 続いて、アーティファクト操作の先輩が言う。


「ただ、可能性はあると思います。キミはその魔眼も自由に操作できたでしょう? なら、同じニブルへイムの産物であるアーティファクトを発動させる資質はあると思うんです」
 
 そう言われたものの、自分にこの材質も仕組みも不明な物体が扱えるとは、早人にはとても思えなかった。


「ただ……先日の件で、敵の上層部がさらなる刺客を送り込んでくるのは確実でしょう。水城君の話ではまだ私たちの素性は伝えられていないそうですが、それも知られるのにそう時間はかからないと思います」

 先日の一件の際、水城のチームは早人と紗百合の素性を調べ上げたが、それを上層部に報告することはしていなかった。

“コルブス”だった水城も、元々本名や住居などの個人情報は知らせていない。


 つまり現在ニブルへイムは、三人のゾルダートを倒した犯人を特定できていない状況だった。

 
 しかし本腰を入れた時のニブルへイムの捜査力は、警察などの公的機関に匹敵する。

 早人たちの素性が知られるのに、そう時間がかからないことは明白だ。


「そこで……」

 紗百合は人指し指を立てて言った。


「期限は一週間。その間に、そのアーティファクトを使いこなせるようになってください」





 というわけで、紗百合主導水城同伴による早人強化計画が始まった。


 三人ともここ数日間、各々の学校と職場を休んで朝から晩までこの山中に入り込んでいる。
 
 山の中ならば人気がないため気がねなく特訓することができ、また敵に発見される可能性も低くなる。

 たとえ発見されても、周囲の目や被害を気にせずに応戦できる。


 それがこの場を選んだ理由だった。
 

 早人は初日から、アーティファクトを僅かに動かすことはできた。

 一角獣の彫刻だったものを、不安定ながらも別の形に変異させることはできたのである。

 これは彼が、アーティファクトを扱う才能をもつ証明だった。
 

 しかしこの後が難航した。


 起動させることには成功した早人だったが、それを武器の形にすることはできなかったのである。

 朝から晩までアーティファクトに思念を込め続けても、何ら事態は進展することはなかった。
 

 そこで紗百合が出した案が、実戦形式で早人を鍛えるというものだ。

 模擬戦闘を繰り返すことで闘いに必要な体力や技術を培わせることができる。


 そして戦闘という追い詰められた状況ならば、アーティファクトを完全発動させるきっかけをつかめるかもしれない。
 
 よって一昨日から、紗百合を仮想敵とした模擬戦闘が延々と繰り返されていた。


 無論まともにやりあって早人が紗百合に勝てるはずもなく、結果は毎回同じだったが。
 

 水城が雑誌を二ページほど読んでいるうちに、再び人が倒れる音がした。

 見ると、つい先程と同じ光景になっていた。


 倒れてうずくまる早人と、それを見下ろす紗百合。

 もう何度も見てきた構図だ。
 

 早人も体力の限界なのか、今度はなかなか立ち上がる気配を見せない。

 紗百合はそれを無慈悲な眼で見下ろしている。

 
 初めの頃は特訓とはそういうものだろうと割り切っていた水城だったが、流石に見かねて助け船を出してやった。


「あーと……体壊したら元も子もないし、今日はこのくらいでいいんじゃないか?」

 紗百合は水城のほうを見ずに、一人で何やら黙考した。

 そしてふいに、口を開く。


「そうですね……」

 水城は自分の提案が言葉通りに受け入れられたのかと一瞬思ったが、紗百合が同意した理由は少し違ったようだ。


 彼女は腕時計で時間を確認していた。

 どうやら何か時間を気にする用でもあったらしい。


「水城くん、私はこれからちょっと出かけてきます。夕方までには戻りますから、それまで早人くんを見てあげていてください」

 特訓では第三者の位置付けになる水城が常にこの場にいるのは、敵の襲撃に備えてのものだった。

 彼の傍らには愛刀、“鴉翼”の納められた布袋が置かれている。


「ああ……かまわないが……」
 
 水城が答えると、紗百合は車のほうへと歩き去っていった。


 これまで早人を鍛えることに熱心だった彼女が途中でどこかに行くとは、残された二人にとって少々意外だった。
 
 もっとも早人の場合、あのスパルタ教育から解放されたという密かな喜びのほうが強かったが。





 消毒による独特の香りが、広い空間にたちこめる。


 各々、何かしらの傷や病気をもった老若男女があたりを徘徊する。

 特訓を一時中断した紗百合がやってきたのは、市内の総合病院だった。


 今は受付を済ませ、目当ての内科の場所へと向かっている。


 敵の刺客が自分達を捜し回っているであろう時にこんな場所へ一人で来ることはためらわれたが、この機を逃せばもうこうして病院などへ通う暇はなくなるかもしれない。

 だからこれを最後にするつもりで、自分の容態を知りにやってきた。
 

 病人だらけの広い廊下を静かに歩く。


 大きなガラス戸から差し込む陽光が白い壁面を照らし出し、暖かな空気を院内に与えている。
 
 現在天城市の上空には不可視の浮遊大陸が存在し、そこから放たれる魔物によって多くの命が奪われ続けている。


 だが人々にはそんな事実など知る由もないため、表面上の天城市は平和そのものだった。
 

 ふいに、駆けるような足音が背後から聞こえてきた。

 子供がはしゃぐような声も同じ音源から聞こえる。


 おそらく場をわきまえない小さな子供が悪ふざけでもしているのだろう。

 それ自体はさほど珍しいことではないので、特に何の関心も抱かなかった。


 その足音がしだいに自分に近づき、やがて激突してくるまでは。
 

 普段からボーっとしていて、ふらふらと歩く癖のある紗百合である。

 予期せぬ衝撃に反応が間に合うはずもなく、ど派手に吹っ飛ばされた。


 しかも途中で壁に頭を強打するというおまけつきである。
 

 盛大に倒れ伏す相手を目の当たりにし、ぶつかってきた少女も自分のしでかしたことの重大さを悟った。

 そして彼女の都合のいい脳みそは、即座に責任を相棒に転嫁する。


「ちょっとどうしてくれんのよ! 人にぶつかっちゃったじゃない!」

「お、お姉ちゃんがよそ見してるからじゃないか……」

 突然濡れ衣を着せられた哀れな少年は怯えながら反論した。

 しかし理屈の通じない姉相手に、彼に勝ち目があるはずもない。


「なによ! もとはといえばあんたが追っかけてくるからじゃない!」

「いや……それはお姉ちゃんがおいかけっこしようって言うから……」

 幼い姉弟が不毛な争いを続ける中、死体のように倒れていた紗百合はゆっくりと起き上がった。


 無表情な顔で幼い姉妹を見る。

 その眼差しには加害者に対する怒りの恨みの念はない。


 元から自他ともに認める痛覚の鈍さを誇る彼女である。

 この程度のダメージはなんともなかった。

 
 だがその意に反し、姉弟はひどく怯えた眼差しで紗百合を見た。

 どうやらこのような状況では、彼女の無表情は相当怖いものに映るらしい。

 
 見ると、小学校一、二年生くらいの幼い姉弟だった。

 見るからにやんちゃそうな姉と、気の弱そうな弟。

 
 それは紗百合にとって、どこか懐かしい光景だった。


「あ、あの……ご、ごめんなさい」

 恐怖にかられた少女は頭を下げて許しを請う。

 弟も後ろで姉にならっていた。


 それを見た紗百合は少女の頭にそっと手をあてがう。

 そして普段の無表情を崩し、穏やかな微笑みを見せた。

 
 もとより子供相手に文句を言う気はなかったが、この二人の様子を見ると妙に可愛らしく思えてしまったのだ。


「いいんですよ。でも今度から気をつけてくださいね」

 少女の顔がパッと明るくなった。

 思いがけない優しい微笑みを受けて、彼女も素直な表情を見せる。


「うん。ごめんね、おばさん」
 
 少女のその言葉に他意はなかったのだが、それは紗百合の慈母の如き微笑にほころびを入れる結果となった。


 少女の頭にのせられた手にかすかに握力がこもる。

 多くの物事に関心のない彼女だが、一応自分の容姿にはそれなりの自信もっていたのである。
 

 少女も幼いながら空気の変化を感じ取ったが……もう遅い。


「やっぱりお仕置きしておきましょうか?」

「わー!? ご、ごめんなさい、お姉さん!!」





 紗百合が診療室に入ると、医者は露骨に顔をしかめた。


 無理もない。

 自分の体を本気で直す気のない患者の相手をさせられるのは、これで三度目なのだから。


「正直言って……あまり芳しくはありませんね」

 カルテを見て、本人に幾つかの質問をした後、医者は言いにくそうに言った。

 とはいえ三度目ともなれば、他の患者に比べて遠慮もなくなってきている。


「心臓や肺など内臓の各器官が少しずつ疲弊しているようです。時々吐き気を覚えたり、呼吸が苦しくなったりすることはありますか?」

「ええ……」
 
 紗百合が肯定すると、医者の表情の翳りは増した。

 医者の見立てでは、紗百合の容態は既に日常生活に支障がでる域に達している。


「綾瀬さん、やはり入院するべきだ。こんなことを言いたくはないのですが……あなたの症状は自分で思っている以上に重い。しかも原因不明ときている」

 紗百合は神妙な顔で耳を傾けながら、内心で医者の言葉を否定していた。


 確かに自分の症状は軽くない。

 だが原因はわかりきっていた。


 もっとも、それは現代医学を学んだ医者には知る由もないことだったが。


「治療が必要なのはわかっていますけれど、今はまだ入院するわけにいきません……もう少しだけ時間をください」

 予測していた答えを聞くと、医者は困ったように嘆息した。


「……できるだけ早いほうがいいですよ。このままでは、たとえ治ったとしても後遺症が残ることになる」
 
 それは脅しでなく事実だ。


 医療にたずさわる者として、容態の悪化していく患者を見ているのは堪え難い。

 それが適切な治療を施せば助かる見込みのある者ならなおさらだ。
 
 どのような事情があるのかは知らないが、この眼前の若い女が頑なに入院を拒否するのは、彼にとっては自殺も同然の行為に見えた。


 紗百合は自身の不調を微塵も感じさせない表情で問う。


「入院せずにこのままの生活を続けたとして……あとどのくらいもちますか?」

 彼女が病院に通っていたのは治療法を見出すためではない。

 自分に残された時間を知るためだ。


 医者は暫し黙考した後、彼女の精神力を考慮に入れた上での過大評価を下した。


「約三ヶ月……それ以上は危険です」

 それは紗百合にとってのカウントダウンだった。


 この闘いに、決着をつけるまでの。





 スパルタ教師が去った後も、早人は特訓を続けた。


 今は自力でアーティファクトを武器の形へと変えるために、必死に思念を込め続けている。
 

 アーティファクトを起動させ、右腕に覆わせることはできる。

 さらに思念を込めることで、その蠢きを活性化させ、わずかに武器らしい形にすることはできる。


 しかしそこから先へは、どうやっても進めなかった。


 半液状の金属が武器らしくなるのは一瞬のみで、すぐにもとの不定形にもどってしまう。
 
 しかもこのアーティファクトという代物は、ただ右腕に纏わせているだけでも相当な精神力を要求した。


 いざ武器の形へと変えようとすれば、それは頭の奥から響くような激痛へと変わる。

 現に今の早人はほとんど体を動かしていないにもかかわらず、滝のような汗を流し続けていた。


 こんな物をいつまでも扱っていたら、いつか気が狂ってしまいそうな気さえする。


「くうううぅ……!!」

 もう一度思念を込め、わずかな可能性に賭けた。

 だが結果は前と同じ、疲弊している上に半ば破れかぶれとなっている今の精神状態では、成功など望むべくもなかった。


「くそっ……!」
 
 停滞する時代に嫌気のさした早人は、ついに物にあたりはじめた。


 手近な木を右腕で思い切り叩くが、そんなことで溜まった鬱憤が晴れるはずもない。

 ただ右腕が痛いだけ。
 

 相変わらず読書にふけっている水城は横目でその様子を見て、軽く嘆息した。

 早人は暫し肩で息をしながら立ちすくし、何かいい打開策はないかと考えたが、そんな都合のいい方法が思い浮かぶはずもない。


 ついには、精魂尽きて大の字になって寝転んでしまった。


 主が集中力を解けば、アーティファクトも形状を維持していられない。

 右腕から離れ、元の一角獣の彫刻となって地面に転がった。


 黄昏に染まりつつある空を見つめ、早人は自嘲気味に笑う。


「ハハ……だめだなぁ、ぼく……やっぱり才能ないのかなぁ……」

 弱々しい、相当落ち込んだ声だった。

 仕方なく水城は、横から励ましの言葉をかけてやった。

「心配するな。何かを体得しようと努力すれば、誰でも一度はそう思うもんだ。それを乗り越えられるか否かで、努力が実を結ぶかどうかは決まる」

 腹黒の性格破綻者を自認する彼が、アメとムチのアメの役割を果たすという少々奇妙な状況だった。

 早人は空を仰いだまま、力なく応える。


「そうだよね……そういえば、前にも同じようなこと言われたなぁ……」

 瞼を閉じ、一人の少女を思い浮かべようとした。

 たが、この眼で見たことがないため、その姿が浮かんでくることはない。


 わかりきっていたことだが、今はそれがどこか切なかった。


「ねえ水城さん……ニブルへイムにいたときにさ、“ヒリカ”って名前を聞かなかった?」

 予期せぬ問いに、水城は眉をひそめた。


「ヒリカ……? いや、知らないが……」

「そっか、そうだよね……」

 一人で納得したように呟く早人に、水城は疑問と好奇心を抱いた。


「女の名前みたいが聞こえるが……それはどこの誰のことだ?」

 早人は空を見つめながら、暫し考えた。

 この出会って間もない相手に、自分とあの少女のことを語ってよいものか否かを逡巡したのだ。


 それでも結局は素直に語ることにした。

 何だかんだ言って、自分は誰かにこの話を聞いてほしかったのかもしれない。


 盲目だった自分がヒリカと出会ったこと。

 彼女が自分の眼が治ると同時に何処へと消えたこと。

 そして誰もが彼女のことを憶えていなかったこと。

 昔を懐かしむ老人のように、それらを語った。


 そういえば、紗百合にもこんな話をしたことはなかったと、今更ながらに思い出す。

 そして最後に、自分が密かに抱いた予感を語った。


「もしかしたらあの子はニブルへイムの人で、あそこへ帰っていったんじゃないか……勝手にそんなふうに思ってさ。ハハ……馬鹿みたいだよね」

 証拠はない。

 根拠もない。


 ただなんとなく、彼女のもつ不思議な気配は、ニブルへイムの神秘性と通じる部分があるように思えただけ。
 

 いや、自分はそう思いたかっただけかもしれない。
 
 あの未知の世界を残されたわずかな希望にして、それにすがりついていたかったのかもしれない。
 

 そう思うと、自分がどうしようもない道化に思えた。


「眼が治ったとたんに消えた……か……なかなか奇妙で興味深い話だな」

 もしかしたらその少女は、早人の眼に仕込まれた“刻星眼”と何らかの関係があるのでは……そう思った水城だったが、まだ確証も何もない以上、言葉にするのは控えておいた。

 何より早人が求めている答えは、そんなものではない。


「まあそう落ち込むな。まだ俺が知らないってだけさ。俺は所詮ゾルダードだったからな……ゾルダードは一部の例外を除いてニブルへイムには入れないし、機密事項を知る権限もない。その子がどこかいる可能性も否定できないんじゃないか」

 彼の知る限り、“ヒリカ”などという称号は存在しないし、そんな名を聞いたこともない。


 だが、ヒリカという少女が存在しないと断言することはできない。

 スパイ活動をしていたとはいえ、彼の得た情報などたかが知れているからだ。


 ニブルへイムは彼にとっても未知の領域だ。


 あの浮遊大陸の奥にはどんなものが潜んでいるのか、知れたものではない。


「しかし……フフ……」
 
 突然、水城は肩を震わせて笑い出した。


「お前が彼女持ちだったとは意外だな……ショタっぽいツラしてなかなかやるじゃないか」
 
 早人の顔が真っ赤に染まる。


「な……!? ち、違……そんなんじゃないって!!」
 
 あわてて否定しようとするが、もう遅い。

 既に相手は水を得た魚のように生き生きとして、意地の悪い笑みを浮かべていた。


「照れるなよ。それよりもっと楽しい楽しい思い出話を聞かせてくれ。ぶっちゃけどこまでいったんだ?」

「う、うるさいな! ああもう、茶化さないでよ!!」

 早人は拗ねたようにそっぽを向いてしまった。

 その様子を見て、水城はまた可笑しそうに笑う。


 うまくからかわれてしまったものの、早人の表情は穏やかだった。
 
 今まで胸の内に押し込んでいたものを人に話したことで、幾分気が楽になった。


 今なら前よりはましな気持ちで特訓に励めるかもしれない。
 
 傍らに転がっていた軍馬の置物を右手で掴み、静かに立ち上がる。
 

 右腕を、前方へと突き出す。

 そのまま静かに眼を閉じた。

 
 光を得て以来、眼に映るものばかりに心を奪われ、まともに直視することのなかった闇の世界。


 だが自分は元々この世界の住人だ。

 恐怖や違和感など、感じることはない。

 
 そして彼女の声が聞こえてきたのは、まだ自分がこの世界にいる頃だった。


『自信をもって。何かを成すことは、まず自分を信じることから始まるんだから』


 早人の弱気は今に始まったことではない、幼い頃から彼は自分に自信がなかった。

 それはただ一つ、盲目という事実に起因していた。


『もしあなたが本当にダメな人なら、誰もあなたを相手にはしないわ。私だってこうして話かけたりしない』


 闇の彼方から、澄んだ声が聞こえる。


『もし何かがあなたを暗い世界に閉じ込めているのなら、それは盲目なんかじゃない。あなた自身の弱さよ』


 それは、過去からの声。

 長い間記憶の底に沈んでいた言葉。


『自分の限界を自分で決めては駄目。諦めたら、そこが限界になる。諦めなければ……人はどこまででも行ける……』


 なぜだろうか。


 この声を聞いていると、心が安らぐ。

 暗闇の道を怖れない気力が湧いてくる。


 眼を閉じ、思考を停止させたことで、痛みや疲労から来る雑念を捨てることができた。


 今まで感じなかった微弱な空気の流れを感じる。

 小鳥や虫の微かな鳴き声が聞こえてくる。


 今なら出来るかもしれない。

 否、出来るのだと、強く念じる。


 手に握るアーティファクト。


 その表面でなく、内部に手を差し込む感覚。

 暗い闇の奥底に潜む、微かな輝きを掴み取るイメージ。


 それを思い描いたとき、眼を見開いた。


 淡い燐光を放ち、アーティファクトが変異を始める。

 それは今までと同様に、右腕にまとわりついていった。


 しかし今までとは明らかに違う。


 何かを求め、あるいは何かを目指すように、金属が必死に次の段階へ移ろうともがいていた。

 今まではすぐに消えてしまった脈動が、今は消えることなく続いている。

 
 必要なのは……あと一歩、前に踏み出す意思。


「聞け……」

 小さく呟く。


「お前はぼくの分身だ。ぼくはお前の主だ」

 自身の右腕に語りかける。


 冷たい金属の奥に眠る「何か」を、呼び起こすために。


「だから、ぼくの命に従え」

 主として認めさせるため、力強く命じる。


 それが、完全発動の引き金となった。


 金属が右腕を離れ、空中へ移動したのだ。

 そして不定形だったものが、何かの形を成すことを目指して、規則的に変異していく。


 それまで座りこんでいた水城も、思わず身を乗り出す。

 わずか数秒で、この世にただ一つ、早人だけの武器は顕現された。


「で、できた……!」

 それは、想像を絶する異様だった。


 鉄柱を連想させる、太く長い外観。

 無骨極まりない、八角形の砲身。

 その周囲を覆う、青い装甲。

 細かな金の装飾。

 全体の貴重となる色は、透き通るような銀。


 そして奇妙な点は、その外観にはグリップも引き金も無い点だ。

 主の腕に支えられるのではなく、自己のみで空中に浮遊している。


(銀の……巨砲……!?)

 目の当たりにした水城は、そんな感想を抱いた。


 あのアーティファクトはとにかく巨大だ。

 モノケロスの使っていた弓など比較にならない。


 長さは小柄な早人の身長を超えており、丸太のように太い。
 
 そして発する威圧感は、先の使い手の弓を凌駕していた。


 主に与える影響も。


 自分の身にふりかかる想像以上の負荷に、早人はたじろいだ。

 必死に暴れまわろうとする猛獣を押さえつけている感覚というべきだろうか。


「くっ……!? やめろ! 静まれ……!!」

 努力も空しく、巨砲は主の制御を離れて暴走した。


 宙に浮きながらルーレットのように回転する。

 そしてルーレットの針は、丁度水城を指したところで停止した。


 水城の顔が青ざめる。


「え……?おい、ちょっと……!?」

 彼の嫌な予感は、不運にも的中した。


 銀の砲身が火を吹く。

 金色に煌く閃光が、昏い森を走り抜けた。


 それは必死の形相で飛び退く水城の頭上を通り抜け、その先の樹木に着弾した。
 
 大轟音が鳴り、周囲の小鳥が何処へと飛び去っていく。


 早人が目を向けると、樹木の太い幹には大きな円形の穴が穿たれていた。


 閃光は樹木を貫通し、さらにその先まで飛び去っていったようだ。
 
 残された僅かな幹では木の自重を支えられるはずもなく、一拍の間を置いて折れた樹木は大地に倒れた。
 

 一度火を吹いて落ち着いたのか、巨砲は砲身から煙を吐きながら静止している。


「これ……ぼくがやったのか……」

 早人は水城を撃ちそうになったことも忘れ、呆然となる。


 あまりの凄まじい威力を目にし、開いた口が塞がらなくなった。

 そしてその驚愕は、やがて歓喜へと変わる。


「す……すごい!!」
 
 大木を一撃で薙ぎ倒す威力。

 遥か彼方まで撃ち抜く射程。


 信じられないほど強力な力だ。

 これが自分の生み出したものとは、到底信じられない。
 

 惚れ惚れするように、自らの分身を見つめる。


「やったぞ! ハハ……これなら……!!」
 
 彼にしては珍しく自分の力に浮かれていた。

 先の見えない暗い道に、わずかながらも光明が見えたのだから無理もない。


 しかしその幸せな時間は、唐突に終わりを告げる。
 

 背後に出現する、不穏な影。

 背筋にすさまじい寒気を感じた。
 

 そういえば、約一名の存在を忘れていた……


「ほう、それはよかったな少年。キミの成長を見れて、俺も嬉しいよ」

 皮肉たっぷりの口調に、押し殺した殺気が感じられる。

 おそるおそる後ろに目を向けると、ひきつった笑みを浮かべた水城がいた。


「だが何かな? あの狙いすましたとしか思えない超精密射撃は?」

 両手の鉄拳で頭を万力のように圧迫する、容赦ないグリグリ攻撃が始まる。


「わー!? ごめんなさい!! 偶然です! 事故です! アクシデントです!!」

 情けない悲鳴が、静かな森に響き渡った。





 この日もまた、普段通りの夜が訪れる。


 特訓から帰った後、早人は泥のように眠った。


 今日で五日目。

 肉体的にも精神的にもそろそろ疲労が蓄積してくる頃だ。


 水城と紗百合は隣のダイニングルームにいた。

 紗百合はテーブル脇の椅子に腰掛けたまま裁縫にいそしみ、水城は勝手に人の家の冷蔵庫をあさり、奥から日本酒の小瓶を発掘する。


「これもらっていいかい?」

「どうせダメと言っても、勝手に呑むつもりでしょう?」

 未成年の飲酒云々については面倒なのでつっこまない。


 水城は微かに微笑み、立ったまま酒をおっ猪口に注いで美味そうに呑んだ。

 紗百合は針と糸から目を放さずに言う。


「早人君は……私のやり方に何か不満を言っていましたか?」

 意外な言葉に、水城は少々目を丸くした。


 容赦なく弟子を鍛えているように見えても、やはりどこか後ろめたいところはあるらしい。

 自分のやっていることは正しいのか、早人に拒絶されはしないか、不安なのだろう。

 
 それを察した水城は笑って言ってやった。


「いーや、全然。なんだかんだ言っていい根性してるよ。愚痴一つなく必死にとりくんでる」

「そうですか……」

 心なしか、その返答は力なく聞こえた。

 普段から静かな声で喋る女性だが、今は特に弱々しい感じがする。


「特訓なら俺が見ててやるから、たまには職場に行ったらどうだい? 流石に先生がそう何日も休んじゃまずいだろ?」

 紗百合があまり職場でいい目で見られていないことを早人から聞いていたので、気をつかって言ってやった。

 紗百合は抑揚のない声で返す。


「かまいませんよ。奴らを倒せるのなら……他は全て些細な問題です」

 一瞬の静寂が訪れた。

 水城は静かに酒を啜り、紗百合は無言で針と糸を操る。


「この闘いに勝てれば、あとはどうなってもいい……か……?」

「……」

 紗百合は答えなかった。その横顔を、水城は見つめる。


「なあ、一つ聞きたいんだが……あんたがそうまでしてニブルへイムを潰そうとしてる理由はなんだい?」

「……この街の人達を守るためですよ」

 一瞬の間を置いて紗百合は答えたが、水城は即座に否定した。


「嘘だね。俺もそれなりにいろんな奴を見てきたからわかる。失礼な物言いになるが……あんたは悪人じゃないが、自分を犠牲にしてまでその他大勢のために尽くすほど正義感に溢れた人には見えない」

 組んでから数日だが、彼は綾瀬紗百合という人間をある程度理解している。


 彼女は他人に関心がない。

 自己と他者を割り切って考えられる種類の人間だ。


 そういう者は、トラブルを避け、見たくないものには目を背けて器用に世間を渡っていくことができる。

 そんな人間が、赤の他人たちのために身を投げ打つようなまねをするとは思えない。
 

 もしその心を動かす理由があるとしたら、それは……


「あんたがこの件に関わるのは、もっと偏狭な枠組みの……個人的な理由じゃないか?」

 紗百合に微かな変化が生じた。

 表情が見えず、不自然な動きもないが、明らかにそれまでとは異質な気配を纏っていた。


 確証なく口にした自分の言葉がそれほど的外れでなかったことを、水城は悟る。


「……私のそれを知って、どうするつもりですか?」

「別に他意はないさ。ただの好奇心だよ」

 その言葉に嘘はない。

 あえて言うなら、組む相手の腹の内を知っておこうといった程度だろうか。


 紗百合は初めて、水城の方を向いた。

 その顔を見て、水城は愕然となる。


 整っているが、どこか怜悧な印象のある顔立ち。

 だが今そこには、ひび割れた仮面のような不安定さがあった。


 普段より、かすかに細められた眼。

 そこに宿る厳然たる意思の奥には、ひた隠しにされた弱さが見え隠れしている。


 言葉はない。


 だが、それが拒絶の意思であることは明らかだ。

 自分の硝子細工のような内面に土足で上がりこもうとする者への、確かな拒絶だった。
 

 水城は静かに眼を閉じる。

 今の紗百合と眼を合わせているのは、なぜだか堪え難かったからだ。


「人様の事情にとやかく言うとは……少々無粋だったな。忘れてくれ」

 そう告げて、玄関へと歩き去っていった。


 水城が去った後、部屋には静寂が訪れた。


 紗百合は立ち上がり、戸棚の引き出しに手をかける。

 狭い空間に所狭しとひしめきあう数多の私物。


 その一番奥に、最も大切な物があった。
 
 手に取り、穏やかな眼で見つめる。

 
 額縁にはまった小さな写真。


 そこには十歳にも満たないであろう二人の子供が映っていた。
 
 少女は照れ隠しのような澄まし顔で佇み、少年は屈託のない笑顔を浮かべていた。
 

 他に誰もいない、一人だけの空間で、紗百合はそれを抱きしめた。


 残酷な現実から……過ぎ去った遠い日を、守りぬくように。





 水城優也は本屋が好きだ。

 彼自身が本好きだということもあるが、それとは別に、彼は本屋がもつ独特の雰囲気が好きだった。


 本屋は静かな場所だ。

 たとえ他の客が何人いようと皆一様に書物に目を向けているので、うざったい喧騒は一切ない。


 その中をマイペースにうろつき、店内に流れる流行の曲を聴きながら本を物色しているだけで優雅な気分になれる。
 

 というわけで、ストレスがたまったり暇をもてあましたりすると近場の本屋に駆り出すことにしていた。

 一時間やそこら居座るのは当たり前、今までの最高記録は三時間弱に及んでいる。


 今は漫画と趣味関係のコーナーで、読む気はあるが買う気はさっぱり無い漫画の週刊誌とモデルガンのカタログを読破した後、隅の宗教のコーナーに移動して密教の本を熟読していた。

 なかなか風変わりな高校生である。


 勉強はそれなりにできる方だが、机に拘束されて興味もない話を聞かされるのは大嫌いだった。


“学”とは誰かの価値観をおしつけられたりするのではなく、このように数多のものの中から自らの価値観で選択して学びとるものだというのが彼の持論だ。

 勉強嫌いと言われればそれまでなのだが、撤回する気はない。


 だが難解な密教の本を読破する根性があるはずもなく、あと数ページ読んだところで眠くなって放棄するであろうことは本人も自覚していた。


「よう、文学青年」

 唐突に、背後から男の声がした。


 他の誰かを呼んだものなどとは露ほども思わずに水城は振り返る。

 よく知っている声だったからだ。


「学校サボって何こんなとこで油売ってんのかな、このメガネくんは?」

 案の上、相手は学校の友人だった。


 斉藤という長身の少年で、水城とは仲がいい。
 
 この時間に制服でいるところから見て、学校が終わってからどこかで遊んできた帰りといったところだろう。


「サボってるとは失礼な。個人的な事情により少しの間休学させてもらってると言ってほしいね。それに本屋に入り浸るのは、俺の数少ない娯楽の一つなんだ。これをやらなくては、俺は人生がつまらなすぎて死んでしまう」


「ビデオ屋に入り浸ってるときも、似たようなこと言ってなかったか?」

 斉藤がツッコミをいれると、二人は互いに苦笑した。


「てゆーか、学校行ってないのに何で制服着てんだよ」

 当然といえば当然の疑問だった。

 制服以外の服を着ている水城を斉藤は見たことがない。


「それは俺がこのコスチュームを気に入ってるからだよ。やはり俺のような知性と品性溢れるステキなメガネ様には、これが一番しっくりくる」

「はいはい……さいですか」

 何言ってんだかこのインテリもどきは、といった具合に斉藤は肩をすくめた。


「なんかさー……ほら、この前廃工場の調査とかいって夜中集ったじゃん。お前が来なかったやつ。あの時さー、何か俺ら変な奴に闇討ちされて気絶させられたんだよ。けど起きたら財布も何も盗られちゃなかったしさー、いったいなんだったんだろうな、あいつ」


「ハハ……そりゃ大変だったね……」

 すまん……それは俺だ。

 と、心の中で言っておく水城だった。


「そんなわけで、じゃあまた」

「ほい、ちゃんと学校来いよー」

 適当に会話を切り上げると、その場から歩き去っていった。


 少々つきあいが悪いと思われるかもしれないが、今は世間話に興じる気にはなれなかった。
 
 義務教育すら受けたことのない彼が高校に入ったのは、表の社会で生きるための学歴を得るため。


 友人をつくったのは、学校という閉鎖空間の中での居場所をつくるためだった。

 ほんの数人、それなりに話ができる程度の相手がいればそれでよかった。


 だが彼がどう思おうと、相手は彼を知ろうとし、親交を深めようとしてくる。

 一人の学生として学校に通ううちに、彼はそれを知ることになった。
 

 それは別に悪い気はしないのだが、少々望ましくないことだった。

 
 他人と敵対することは馴れている。

 だが、友好につきあうことは苦手だった。

 
 人ごみは嫌いだが、人間が嫌いなわけではない。

 人間関係がうっとおしいわけでもない。


 彼は……ただ……

 
 感傷めいた思考は、唐突に終わりを告げる。


 本屋から出たところで、聞き慣れた電子音が鳴った。

 上着から銀色の携帯電話を取り出す。


 新着メールが一通。

 内容は、簡潔な命令文だった。


 『状況を報告しろ。それによって今後の方針を決める』


 それは、彼をこの事件に巻き込んだ“依頼人”からのものだった。





 翌日の午前。


 早人が訪れたのは、奇しくも先日紗百合が訪れたのと同じ病院だった。

 霊獣に襲われ重体となっていた母の意識が戻ったと聞いたので、面会にやってきたのだ。


 帳簿に名前を記入し、病室へと向かう。

 その表情には安堵と後ろめたさが入り混じっていた。
 

 意識が戻ったとはいっても、依然療養が必要な状況に変わりはない。

 一緒に襲われた相原麻里にいたっては、未だ意識が戻っていない。

 
 それにあの二人が命の危険にさらされたのは、ある意味自分のせいだとも思う。

 そしてあの時の自分は、彼女らが襲われるのをただ見ているしかないほど非力だった。


(まあ……くよくよしても仕方ないか……)
 
 済んだことを悔やんでも始まらない。


 今自分は、その後悔を消し去るために修練を積んでいる最中なのだ。

 それにせっかくの見舞いで暗い顔を見せても、母は喜びはしないだろう。
 

 そう考えた早人は、できるだけ明るい表情をつくろうと決めた。

 何気ない足取りで病室に入り、気さくな感じで語りかける。


「やあ母さん、お見舞いに来たよ」
 
 母はすでに個室から二人部屋に移っていた。

 もっとも今は隣のベットが空きになっているので、実質的に母が一人で部屋を使っている。


「あら、ありがとね」

 長い髪を一つに結わえた女性だった。

 歳は三十代半ばと中学生の息子をもつ身としては若い。


 少しやつれてはいたが、それでも表情は落ち着いていた。


「一時はどうなることかと心配したよ。でも無事でよかった。後遺症とかもないんでしょ?」

「ええ、でも退院にはまだ何週間かかかるって。ごめんね」

「いいよいいよ。ゆっくり休んでて」
 
 優しげに笑いかける。

 それが今できる精一杯の親孝行だった。


 それに母はこのまま入院していたほうがいいかと思う。

 人の多い病院なら霊獣に襲われることもないだろうし。


「で、差し入れは?」
 
 一拍の間。

 笑顔にヒビが入る。


「……忘れてた」

「フフ……いいのよ。お小遣いろくにあげてないんだもの」
 
 息子の反応が可笑しくて母は苦笑した。

 冗談が出ることからして、もう大分回復したようだ。


「あの先生のとこにお世話になってるんですってね。ご迷惑はかけてない?」

「う、うん……まあ……多分…」

 少々ひきつった笑顔で答える。

 迷惑ならたくさんかけられたけど……とは言わないようにした。


 それから先は、普通の親子らしい会話が続いた。


 学校にはちゃんと行っているか。

 友達はできたか。

 何か楽しいことはあったか。


 それらの問いに、早人は明るい顔で答えた。

 たとえ嘘でも、自分が平和に暮らしていると思わせて安心させてやりたかったからだ。


 話が一段落つくと、母は当然の疑問を口にした。


「ところで今日平日だけど、学校どうしたの?」

「う……」

 そういえばそれも忘れていた。

 まさか、秘密特訓していて学校には行ってませんなどと言えるはずもない。


 だが母は深く言及しようとはせず、言葉を続けた。


「ねぇ早人、答えてほしいんだけど……」

「……?」

 穏やかだった母の表情に翳りが差した。


「私を斬ったあの生き物……あれは何?」

 早人の顔が強張る。


 そういえば彼女は霊獣の姿を見ていたのだ。
 
 しかし、だからといって、あれをどう説明しろというのか。


 そもそも話して信じてもらえるようなことではない。


「ぼくだって、あの時は突然だったから……何が何だかわかんないよ……」

 仕方なくそう答えてはぐらかそうとする。

 しかし親が相手ではそんな猿芝居は通用しない。


「相変わらず嘘が下手ね」

 母はにっこり微笑んだ。

 どこか物憂げな笑顔だった。


「あの時ね……体が麻痺して動けなかったけど、少しの間意識はあったの。だから、あなたとあの先生のやりとりも聞こえてた」

 意外な事実だった。


 母が見たのは、霊獣の姿だけだとばかり思っていたからだ。

 そのくらいならどうにか誤魔化せると思っていたのだが、これではもうどうしようもない。


「でも……あなたとあの人が何を知ってて、何をしようとしてるのか、正直私にはよくわからないの……教えてくれない?」

 唐突に迫られた選択に、早人は迷った。


 もうここまできたなら、話すべきなのかも知れない。そのほうが彼女も安全なのかもしれない。

 
 だが全てを話したら、彼女はいったいどんな顔をするだろう。

 自分が命懸けの道を歩んでいるなとど知られたら、なんと言われるだろうか。

 
 そう思うと、胸が締めつけられるようだった。


「ごめん母さん……今はまだ、話すわけにいかない。……でも、約束する。全部終わったら、ちゃんと全部話すから」

「そう……」

 静かに呟く。

 その横顔はとても悲しげだった。


「でもこれだけは言っておくわね。決して無茶だけはしちゃだめよ。あなたの身になにかあったら悲しむ人はたくさんいる。どんなときでも、自分自身を一番大切になさい」


「うん……」

 早人は悟った。


 母は薄々感づいているのだ。

 我が子が、明日死ぬかもしれない危険な道を歩んでいることを。

 
 それを知りながら、あえて無理に止めずにいる。


 信じているからだ。

 我が子が強い意思と目的をもって、その道を選んだのだと。
 

 自分は一人では生きていない。

 自分を信じてくれているこの人のためにも、生き続けなければならない責任がある。
 

 母は窓の外の青空に視線を向けた。


 そこに位置する浮遊大陸は彼女には見えない。

 ただ純粋に空の青さを眺めながら、言った。


「昨日ね……変な夢を見たの……」

「夢……?」

「小さい頃の早人が出てきてね、どこかの女の子と楽しそうに話してたの……ただそれだけよ。一緒にいた子がどんな子か顔を見ようとしたら、そこで目が覚めちゃたわ……フフ……変でしょう?」

 自嘲気味に母は笑う。

 早人は自らの表情が凍りつくのがわかった。


「目が見えるようになったとき言ってたわよね? “ヒリカ”って子のこと。あの時は何のことかわからなかったけど……今なら少しだけわかる気がする……そういえばそんな子もいたかもしれないなあ、って……」

 人知れず、鼓動が脈打つ。


 消えたわけではなかった。

 存在しなかったわけではなかった。

 あの少女のことは、自分以外の心にも、確かに残っていたのだ。

 たとえ、どんなに朧げでも。


 母は眼を細めて、夢の話を締めくくった。


「でも、いくら考えても思い出せないの……顔も、声も……目が覚めたら、どんな夢を見てたのかわからなくなったみたいに……」

「……」

 確証はない。

 手がかりもない。


 だが、まだ希望が消えたわけでもない。

 自分がこの道を歩み続ける意味は、確かにあるのかもしれない。





 普段は静かな森に、何度も何度も、轟音が轟く。


 木の枝が折れる音。

 土が弾ける音。

 石が砕ける音。


 銃口が火を吹く度に、それらの音が交互に鳴る。
 
 この人里からそう離れていない山中で、身の丈ほどの巨砲を乱射している少年がいるなど、いったい誰が予想するだろうか。


 先日見事アーティファクトを完全発動させた早人は、特訓の第二段階へと移っていた。


 彼のアーティファクトは射撃武器である。

 どんなに威力と射程があろうと、照準を合わせられなければ意味がない。

 そこで山の木や石を的代わりにして、射撃練習を行っていた。


 今日は朝から紗百合が体調不良を訴えているので、彼女の姿はない。

 相変わらず水城は早人の後方で、その様子を観察していた。

 
 既に十数発が放たれ、幾本かの木に穴を穿ち、土煙を舞わせている。

 大分自然破壊を助長したが、この際それは気にしないことにした。
 

 早人の巨砲は、威力は申し分ない。

 破壊力だけならニブルへイムの幹部に匹敵するだろう。


 射程距離も長い。

 接近型の自分、中距離型の紗百合に続く遠距離型として育てればバランスのいいメンバーになる。
 

 問題は、その手数にある。

 既に数時間この場にいながら十数発しか発射できていないのが何よりの証拠だ。
 

 あのアーティファクトは強大な威力とひきかえに使用者に対する多大な負荷を強いることになってしまったようだ。

 三、四発撃つだけでもう息が上がってしまい、回復にはかなりの時間を要する。


 特訓で体を慣らしたとしても、一度の戦闘で撃てるのは、五、六発が限度だろう。
 
 その弱点を補うには、射撃技術を向上させて少ない弾を確実に命中させられるようにするのが一番だ。


 今のところ特訓の成果は、まあまあと言えた。
 
 最初は制御し損ねて自分の方に飛んできた閃光も、徐々に命中精度が上がり、今では一応的のある方向に撃てるようになった。
 

(うむ……なかなか上達したな、えらいぞ少年)
 
 などと心の中で褒めておいてやると……


「ああっ!? 水城さん危なーい!!」

 などとほざいて、また自分のほうに撃ってくるから困りものである。


(……こいつ、ひょっとしてワザとやってんじゃないのか?)

 某ハリウッド映画風に上体をのけぞらせてかわしながら、半ば本気でそう思う水城であった。


 ともあれ、いくらかましになってきたことは確かだ。

 丁度自分も、ただ見ているのに退屈してきた頃でもある。


「なぁ早人」

 呼ばれた早人は、撃つのを中断して水城を向く。

 水城は楽しげな笑みを浮かべていた。


「俺と試合してみないか? この前のリターンマッチだ」

「ええ!?」

 突然の申し出に、早人は震え上がった。

 今の時代に平気で日本刀を振り回すような男の相手をしたら、どうなるかわかったものではない。


「む、無理だよ! 勝負になるわけないって!!」
 
 嫌だ、とは言わないようにした。


「安心しな、刀は使わない。素手でやってやる。お前はそいつを好きなだけ使っていい」

「で、でも……」

「時間は限られてるんだ。今のうちにできるだけ実戦経験を積んでおいたほうがいい。でなければ、次の闘いで死ぬことになるぜ」

 早人はごくりと唾を飲む。


 たしかに残された時間は少ないだろう。

 その間に少しでも強くなるためには、戦闘経験を積むことが一番だ。


 多分言った本人は、単に自分が試合をしたくなったから適当な理由をつけただけだろうが……


「……わかった。当てる気で撃つから、上手く避けてね」

 水城は微笑する。

 早人は銀の砲身を、その顔に向けた。





 同時刻。

 紗百合の部屋。


 ベットに寝転んでいた紗百合はゆっくりと起き上がった。

 おぼつかない足取りで居間へと歩く。


 その顔色は控えめに言っても健康的とは言い難い。
 

 思ったよりも早く、体にガタがきはじめてしまったようだ。

 食欲がなく、体が重く、慢性的な吐き気がする。

 寝ようとしても上手く寝つけない。

 
 テレビでも見れば、少しは気が紛れるかもしれない。

 そう思った紗百合は、リモコンのスイッチを押した。





 幾本かの木が地面に倒れ、地形が幾らか変化していた。


 早人は地面に大の字になり、水城は地面に座り込んで背後の木に背を預けていた。

 二人とも疲労の色が濃い。


「ハァ……ハァ……やっぱり強いね、水城さんは」

 明確な勝敗こそなかったが、試合の内容は早人が劣勢だった。

 体術だけでも水城は相当強い。


 結局、今日はかすり傷一つ入れることができなかった。


「馬鹿言わないでくれ。俺はお前の半分にも満たない歳の頃から鍛えてきたんだ。昨日今日特訓を始めたばかりの奴にやられたら、話にならない」

 荒い息をつきながら、説教とも自慢ともつかぬ口調で水城は答えた。


 彼の“強さ”は一朝一夕で手に入れたものではない。

 幼い頃からの血の滲むような鍛錬の賜物だ。


 だから彼は自らの強さに誇りをもっている。


「とはいえ……ハンデつけ過ぎたな……マジで疲れた……」

 二日酔いに苦しむ中年のような顔で幹にもたれかかる。

 早人は藍色に染まった空を見つめながら、静かに呟いた。


「やっぱり水城さんや先生も、それだけの強さになるまで相当訓練したんだよね……」
 
 紗百合や水城がどんな修練を積んで今の実力に至ったのかは知らないが、きっとそれは並大抵の努力ではなかったのだろう。


 それに較べて、自分はついこの間まともな特訓を始めたばかりだ。

 そんな身でこれから強大な敵に立ち向かおうとしている。
 

 二人に比べ、自分の努力はひどく薄っぺらいものではないだろうか。
 
 この程度をつらいと感じている自分は、ひどい甘ったれなのではないだろうか。

 
 彼らを見ていると、ふとそんな風に思えてしまう。
 

 水城は遠い目をして言った。


「あの人はどうだか知らないし、俺も単純な比較はできないな。俺は誰かに鍛えられた経験はないからな……」

「どうゆうこと?」

 興味を示した早人を見て、水城は少々口滑らせてしまったことに気付いた。だがこの際なので、一応語ってやる。


「全部自主トレだよ。人のやってるのを見よう見真似で憶えたり、古い文献やら何やらを読みあさったり……そんなとこさ。だから“水城流”っていっても、俺のは多分に我流混じりだよ」

 彼に師はいない。


 彼の生家は古流剣術の名門だったが、彼は親族の誰からも剣術の手ほどきを受けたことがない。

 誰かが誰かに何かを教えるというのは、教える側にそれだけの価値があると見なすからだ。


 そして、彼にその価値があると認める者は、誰もいなかった。

 だから自分で自分の師になり、自らを鍛え上げた。


 くる日もくる日も、たった一人で剣を振るい続けた。

 そうすれば、いつかは……


「……」

 それ以上は、思い出さないようにしている。


 昔のことを思い出しても、いいことなど何一つない。

 ひどく冷めた気分になり、やり場のない憤りに悩まされるだけだ。
 

 つまらない過去にとらわれてつまらない気分のまま生きる。

 それは何より下らないことだと彼は考えている。


 だから振り返らない。


 大切なのは、今生きている現在。
 
 そして、その先にある未来だけだ。


「水城さんの家って剣術道場だったんでしょ? 誰か教えてくれる人はいなかったの?」

「……」

 その時、水城の顔が一瞬だけ暗く翳ったのを、早人は見逃さなかった。


 刃のように研ぎ澄まされた眼、氷のように凍てついた表情。

 その奥に在るのは、何かへの嫌悪か、あるいは憎悪か。


「……なんてことはないさ。鴉は嫌われ者って相場が決まってる」

 そう言った時には、既に元の微笑へと戻っていた。


 それはどこか無理に貼り付けたような、作り物のような笑みだった。
 
 早人はそのことに気付いていたが、あえて何も言わなかった。

 
 人はそれぞれ自分だけの重荷を背負って生きている。

 水城の過去の何があったのかは知らないが、それはきっと自分の触れてはならない領域なのだろう。


 だから何も聞けなかった。
 

 その時、ふいに電子音が鳴った。
 

 水城の携帯電話の着信音だ。

 見ると、送信者は紗百合だった。


 早人が携帯を持っていないため、彼女からの連絡は水城が受けることにしている。


「何かあったのかい?」

『早人君もそこにいますか?』

 紗百合は答えず、単刀直入に問うた。

 その声色には抑えきれない焦りが感じられる。


「ああ、どうしたんだいったい?」

『二人ともすぐに帰ってきてください。奴らが現れました』

 突然の宣告に、水城の眼が見開かれる。


「どこに……!?」





 紗百合は自宅の電話を手にとりながら、驚愕と狼狽の混じった表情をしていた。


 その視線は、テレビ画面に映る映像を捉えている。

「それが……」


 紗百合たちは一つ勘違いをしていた。


 確かにニブルへイムは自分たちを敵視し、新たな刺客を放っていた。

 だがその刺客たちは、自力で紗百合たちを見つけ出す気など毛頭なかったのだ。





 国道沿いの一角に、天城市最大の百貨店はあった。


 屋上つきの四階建てで、均整のとれた形は正方形の箱に近い。

 内部には食品店、衣類店、貴金属店、レストラン、書店、CD屋など多くの施設が存在している。


 この日も通常通り午前十時から開店し、多くの客を迎え入れていた。
 
 しかし午後六時を迎えた現在、そこは、ある集団の手に落ちていた。


 静まりかえった店内の片隅で、十数人の人々が身を寄せあって座り込んでいた。

 どの顔にも疲労の色は濃く、面持ちは暗く沈んでいる。


 彼らの周囲は、白い体表と赤と黒の眼をした異形の怪物たちが取り囲んでいた。

 彼らをこの場から逃がさないための見張りだ。


 そして現在店内ではこの怪物たちの同類が我が物顔で徘徊していることを、彼らは知っていた。
 

 そこから少し離れた場所。

 白いロングコートを羽織った男は、眼前に立つ二人の上官に報告を述べた。


「申し上げます、“レオ”。この建物の制圧は完了いたしました。現在この建物に残るは我が部隊とあちらの連中のみです」

 コートの下に紺のセーターを着込み、ベージュのジーンズを穿いた若い男だ。

 黒い覆面で鼻と口を覆い隠しているため、その表情は見えない。


 彼はニブルへイムゾルダートの一人、“ヘルクレス”。

 組織内でも名の知れた歴戦の強者だった。
 

 報告を受けた二人のうち、コンクリートの柱に寄りかかる一人は、楽しげに微笑む。


「ご苦労」

 ヘルクレスとそう大差ない年齢の、若い男だった。


 一流の武術家のように、均整のとれた長身。

 金のネックレスや指輪が、その肉体を飾る。

 ぼさぼさに刈り込まれた橙色の長髪は、後ろで一つに結わえられている。

 それは身に纏うノーネクタイで着崩したワイン色のスーツとあわさって、彼の外見上の印象を赤一色に染めていた。

 溢れるばかりの覇気を感じさせる精悍な顔立ちが、その派手な服装と奇妙な調和をとっている。


 それがニブルへイム最高幹部・“レオ”の姿だった。


 そしてその傍らには、十代半ばと見られる一人の少女が立っていた。


「案外簡単……を通り越して味気ないもんだな、テロごっこってのも。」

 作戦の首謀者でありながら、他人事のように呑気な口調でぼやく。

 その口調には悪意は感じられない。


「しかしよろしいのですか? 客の大半をあのように逃がしてしまって」

 ヘルクレスは疑問を口にした。


 建物を武力により強制的に占拠した際、彼らはレオの指示により逃げ惑う客の大半を放置してしまったのだ。

 そのため事件が外部に漏れるのは極端に早く、既に警察の手が間近に迫っていた。


「かまわないさ。人質は一ダースもいれば充分事足りる。それに、ツラが割れて困るような奴はウチにはいないだろ」

 緊迫感のかけらもない、穏やかな微笑を浮かべながらレオは答えた。

 もっとも彼の力量を考えれば、警察如きを怖れる理由はどこにもない。


「“人払い”は俺がやっておくからお前等は各自配置についていな。指示があるまでその場を動くな。侵入者がいたら好きなように応戦しろ。以上だ」
 
 そう言って身を翻し、歩を進めていく。

 背を向けたまま、それまで黙していた少女に言った。


「さて、行くぞエリ。久々に俺の勇姿を見せてやる」

 少女はレオの後を追いながら、やや不機嫌そうに言う。


「私の称号は“エリダヌス”です。ちゃんと呼んでください」

 やや厚めの眼鏡をかけ、艶やかな金髪を三つ編みに結わえた少女だった。

 金髪碧眼の容貌は、彼女にラテン系の血が流れているためだ。

 歳は十五、六歳程度。

 平均年齢のそう高くないニブルへイム構成員の中でも、彼女の若さは少々目立つ。

 こちらはレオとは対照的に、長袖のブラウスにロングスカートという地味な格好だ。

 
 彼女はニブルへイムゾルダートの一人、“エリダヌス”。

 レオに気に入られ、彼の副官的役割を担っている。


「いいじゃないか。エリのほうが可愛げがあって」

「紛らわしいんです。おかげで本名だと勘違いしてる人もいますし」

「それは大変だ。では近日中に、俺様の豊かなボキャブラリーを駆使して新たな呼称を考案するとしよう」

「……普通に呼んでください」

 上司と部下らしからぬ、威厳も緊張感もない会話である。


 一歩間違えば漫才の域に達してしまうだろう。

 だが彼ら二人の会話はたいていそのようなものだった。


 レオがエリダヌスをからかい、エリダヌスがいちいちそれに生真面目に反応する。

 そのため周囲からはいろいろと奇異な眼で見られているが、残念ながら改まる気配はない。


 そうこうしているうちに、彼らは屋上へと上がる階段にさしかかっていた。


「ところで一つお聞きしたいのですが、なぜ今回このようなテロリストまがいの作戦を実行されたのですか?」

「簡単さ。一度やってみたかったからだよ、テロごっこ」

 楽しそうに即答する上官を見て、エリダヌスは頭が痛くなった。


 彼女の認識では、この男は虚言ではなく、本気で言っている。

 だからこそ始末が悪い。


「この作戦について、何か不満があるのかな?」

「はっきりいって大ありです。こんなまねをしても連中が姿を現すとは限りませんし、何より成功したところで、私たちが得るものはありません。このような非効率的な作戦でいたずらに世間を騒がされては、組織にとって害こそあれ益はありません」

 遠慮など微塵もなく、思ったことをはっきり述べた。

 こういう媚びることのない態度がレオに気に入られている理由なのだが、本心は自覚していない。


 レオは可笑しそうに笑った。


「なるほど、お前らしい合理的な意見だ。やはり組織運営の観点で見るなら、俺よりお前のほうが指揮官に向いてるんだろうな」

 皮肉なのか本音なのか判然としない口調だ。

 笑みを浮かべたまま続ける。


「だが、その点なら問題ないよ。俺はハナから効率のいい仕事なんざする気はないし、他の奴らも俺にそんなお利口な真似は期待していない。だから誰も困ることはない」

 つきあわされる私は困るんですけど……と非常に言いたいエリダヌスだった。


 他愛のない会話を続けるうちに、二人は屋上へと到達した。

 今でこそ無人だが、夏場はビヤガーデンとして開かれている場所だ。


 柵の前に立ち眼下を見下ろすと、あわただしい光景が広がっていた。


 通報と適当に流した犯行声明をうけて駆けつけてきた警官たち。

 それに保護されていく逃げ延びた被害者たち。

 そして、騒ぎを聞きつけて群がってきた野次馬たちが群れを成していた。

 テレビの報道陣の姿も見える。

 
 レオにとってはなかなか好ましい光景だ。

 騒ぎが大きくなればなるほど、彼らの標敵の耳に届く可能性は高まる。


「さてエリ。何故こんな馬鹿げた作戦をするのかについて、少し真面目な話をしてやろうか」

 眼下を見下ろしながら、レオは語り出す。


「昨今の世の中、最も悪しき生き物として諸悪の権化のように語られる人間だが……俺が思うに一つだけ、他の生き物には真似できない美点が存在する」

 奇妙な話だった。

 もっとも彼の気まぐれな性格をエリダヌスは熟知しているので、別段不思議がることはない。


「それは“情熱”をもてることだ。執着や向上心と言い換えてもいいが……動物は生きるため以外のことには関心をもたず、ただ生きるための行為しかできない。だが人間は違う。人間は生きるため以外の、一見無意味ともいえることに関心をもち、時としてそれに生きるため以上の情熱を注ぐことができる。言い換えるなら、“無意味”なことをできるのは人間だけだ。だがその無意味なことの積み重ねこそ、人間が他の生物を支配することができた所以だと俺は思っている」

「……」

 エリダヌスは黙したまま、楽しそうに持論を語る主を見つめていた。

 彼女自身はレオの論理に賛同する気にはあまりなれない。


 だが自分が賛同するか否かなどは、レオにとっては些細な問題なのだろう。

 彼はただ己の気の向くままに自説を披露しているだけなのだから。

 
 そしてそんな彼が、エリダヌスは嫌いではなかった。


 何ものにもとらわれず、何にも縛られず、やりたいことをやり、語りたいことを語る。

 そこには己の力で真の自由を手にした者の、優雅な威風があった。
 

 少なくとも、自分は彼のようにはふるまえないだろう。


「俺が何を言いたいか……それは生きること、そして己の成すことに情熱をもてということだ。情熱を持つことは、どんな策を練るより重要なことだ。下らない精神論と思われるかもしれないが、魂は肉体を超える力を生み出す……俺はそう信じているよ」
 
 その言葉が終わるのを境に、レオは自らの力を解放した。


 迸る闘気が周囲に広がり、大気を振るわせる。

 その猛々しい波動は、さながら熱気を帯びた暴風のようだった。


「だから俺はこの命が続く限り無意味なことを成し続け、それに情熱を傾け続けよう。それが俺の思う人間の生き様であり、俺の信念だからだ」

 エリダヌスの顔が僅かに強張った。


 久々に感じるレオに闘気に気圧されたからだ。

 普段の気取った物腰や軽い言動に惑わされてはならない。


 この眼前に立つ男はニブルへイム最高幹部に名を連ねる者。
 

 全天で最も強く、最も栄誉ある称号をもつ、究極の戦士。


「この舞台も、俺なりのやり方で愉しませてもらうさ。情熱的にな」

 黒い右目が真紅へと変わる。


 その禍々しい輝きは、さながら膨張した恒星のよう。

 右目の周囲の肌に奇妙な紋様が浮かぶ。

 真紅の恒星を彩る、漆黒の紋。


 その視線は百貨店に近づいてくる一台の警察車両に向けられた。

 これから起こる闘いの、開戦の狼煙を上げるために。


 獅子の名を冠する者に与えられし、真紅の魔眼。

 その瞳に宿るは……百獣の王にふさわしい、全てを滅する力。





 魔眼・ “赤輪眼”  発動。





 その眼に見据えられた……ただそれだけで、車は爆裂した。


 周囲に広がる爆音と爆炎が、数多の悲鳴を呼ぶ。

 湧き上がる黒煙は、二人の立つ付近まで立ち上った。


 眼下に広がる凄惨な光景を、レオは満足そうに見下ろす。


 敵の居所。

 そんなものを犬のように嗅ぎ回る必要などない。


 自分は百獣の王の称号をもつ、ニブルへイム最強の戦士だ。

 王者の闘いは、より気高く、そして華やかであるべきだ。


 だからここを選んだ。


 テロまがいの事件を起こせば、正義感に溢れる連中は人質を助けにやってくる。

 自分たちはこの建物を即席の要塞に仕立て、それを向かえ討てばいい。

 
 そのほうが、ただ攻めかかるより面白みがある。

 面白みがあるほうが、自分も情熱をもって闘えるというものだ。


 爆炎の明かりに照らされる、レオの冷笑。

 それは見るものに戦慄を与えるほど禍々しく、見惚れさせるほど美しかった。





第5話 第7話

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