ニブルヘイム





刃が在れば 骸は生まれる
修羅が歩めば 道は血塗られる
鴉が鳴けば 災いは訪れる










第五話「処刑」





 暗闇の道を、一台の軽自動車がいく。


 表通りから外れた河川沿いの道のため、前後に他の車は見当たらない。

 右側には闇に染まった清音川が静かに流れ、その先には隣町の明かりが並んでいる。


 朝倉早人と綾瀬紗百合の二人は、街外れの廃工場……“ヴァルホル”へと向かっていた。

 当然ながら、紗百合が運転席でハンドルを握り、早人が助手席に腰掛けている。


「先生、右腕は大丈夫?」

 早人は紗百合の右腕に視線を向ける。


 そこには白い包帯が巻かれていた。

 昼間の事件での傷跡だ。


「ええ、かすり傷ですよ」

 紗百合は前を見たまま短く答えた。


 命がけの闘いを前に、彼女も思うところがあるのだろう。

 鋭く引き締まった、普段とは違う顔を覗かせている。


「それより問題は、敵の質と量ですね。動いたのが、例の “コルブス”だけとは考えにくいですね……リーダー格の幹部が動くことはないにせよ、恐らく他の数名のゾルダートも投入されていると見るべきでしょうね」

 夕刻、例の果たし状を眼にしたときの紗百合の決断は早かった。


 即座に、敵地に乗り込む準備を始めたのである。

 一度身元が割れてしまった以上、組織全体に知れ渡る前に始末をつけねばならないと判断したためだった。


 早人も、その意見に異論は無かった。


 紗百合と同じ道を選んでしまった以上、遅かれ早かれ闘いは避けられない。
 
 ならば、ここで退くわけにはいかなかった。


 とはいえ緊張はあった。


 これから自分たちは、敵の前線基地とも言うべき場所に乗り込むのだ。

 今通っているこの道を、生きて帰ることができるとは限らない。


 緊張を紛らわすために、彼は会話を続けることにした。


「そういえば気になったんだけど……“コルブス”ってどういう意味なんだろ?」

 敵の名乗る名にそれほど関心があったわけではない。


 ただ、紗百合と言葉を交わしていたかった。

 唯一の味方であり、実力も経験も備えた彼女と会話していれば、少しだけ勇気がわいてくるからだ。
 

 答えはすぐに返ってきた。


「鴉座のラテン語読み……ゾルダート・クラスの称号の一つです」

「鴉座?」

 聞きなれない単語に、早人は眉をひそめる。


「そういう星座があるんですよ。ゾルダート以上の幹部たちには皆、星座に由来したコードネームが与えられています。それに対応したアーティファクトもね」

「……アーティファクト?」

「魔法の道具を意味する言葉で、ニブルへイムの住人が作った武器はそう呼ばれています。幽子結合を利用した特殊な金属で作られていて、個々にそれ独自の能力が備わっています」

 初めて聞く事実だった。


 早人はまた一つ、ニブルへイムのことを知った気分になる。

 今のように、紗百合はこちらから聞かない限り必要以上の情報は教えてくれない。


 もっとも、聞いても答えてくれないことのほうが多いが。
 

 そしてここで、ある疑問と推測が生まれた。

 紗百合と出会ってから、ずっと気になっていたことだ。


「それじゃあ……先生のその、草や木を操る力も……アーティファクトってやつなんですか……?」

「……」

 紗百合は何も答えなかった。


 ただ静かな顔で前を向いたまま、肯定も否定もしない。

 答える必要などないと思っているのか、それとも答えたくないのか。


 いずれにせよ、無言の圧力に圧されて早人はそれ以上の追及はやめておいた。


「それにしても先生……車持ってたんですね」

 紗百合が車に乗っている姿は初めて見た。


 普段、彼女は徒歩で学校に通勤している。
 
 今度の質問には、紗百合は澄まし顔でさらりと答えた。


「親類の家から、ちょっと無断で拝借してきたんですよ」

 それは、れっきとした窃盗罪というものではないだろうか。


 そう考えたとき、さらなる考えが頭に浮かんだ。


 そういえばさっきから……否、出発した当初から妙に運転が荒い気がする。

 速度は二十キロは確実にオーバーしているし、曲がりかたがやたらと大回りでブレーキも急だ。
 

 非常に嫌な予感が、急速に肥大化していく。


「あの、つかぬことをお伺いしますが……先生……車の免許は?」

「今は非常事態です」

 紗百合は澄まし顔で即答した。


 早人の顔が情けない具合に青ざめる。


「いや……だから……免許……」

「今は非常事態です」

 紗百合は機械的に繰り返した。


 道路交通法を無視し、暴走車は夜道を突き進んでいく。

 助手席に座る約一名は、青い顔で祈らずにいられなかった。


 どうか後ろから、パトカーが追ってきませんように。





 清音川沿いに聳え立つ廃工場。


 そこが“ヴァルホル”の一つであることは、紛れもない事実だった。
 

 そして内部には、すでに臨戦態勢を整えた三人がいた。
 
 電灯の明りが、広い空間の隅々までを照らしている。


 戦闘用の視界を確保するためであり、やってくる二人に自分たちの居場所を知らせるためだった。


「もうじき……奴らが来る頃だな」

 腕時計に視線を向け、待ち焦がれたようにヒドラが言った。


「それはいいけどね、肝心のコルブスはどうしたのよ?」

 カシオペアが聞くと、モノケロスはわざとらしく肩をすくめた。


「“俺の仕事は舞台を用意するだけ、手柄はあんたたちのものでいいから、後は休ませてもらう”……だとさ」

「ハッ、まったくいいご身分だぜ……」

 ヒドラは呆れたように鼻を鳴らした。


 彼は三人の中で、最もコルブスを毛嫌いしている。


 あの気取った物腰と、一人飄々とした態度。

 そして新入りの分際で、なぜかリーダーの“アリエス”に高く評価されていることが、一番の理由だった。
 

 対照的に、カシオペアはさほど不満は感じていない。


「いいじゃない、所詮相手は二人だし。それに……あいつが指定したこの舞台も、なかなか悪くないわ」

 彼女ら三人は、コルブスの提案を受け入れてこの場に集結していた。

 コルブスの説明通り、この場の条件は自軍の勝算を高める効果があると判断したためだ。
 

 だが、ヒドラにはそれが面白くない。


「所詮は女とガキの二人……俺一人でも充分だろうがな……まあいい」

 彼の右手には、蛇を模ったブレスレットが嵌められていた。


 全体を碧に塗られた、金属の毒蛇。


 思念を込め、自らのアーティファクトを解放する。


 毒蛇の双眸が輝き、その身を急激に変異させた。

 膨張した金属が、主の二の腕までを覆っていく。


 無数の鱗に包まれた、碧の装甲。

 ゆるやかに湾曲する銀の刃。


 ヒドラのアーティファクトは、三本の鉤爪をもつ篭手だった。


 切っ先を壁面にあてがう。


 力も速さもこめていないその刃は、いともたやすく壁に刺し込まれた。

 泥沼に沈み込むように。
 

 そして、その切り口は醜く歪み、液化していた。


 水滴が一滴、地面に零れ落ちる。

 床を這っていた蜘蛛はそれを体に受け、あわてて逃げ去ろうとする。


 そして、いくらも進まぬうちに……息絶えた。


 先程までとは一転し、ヒドラの顔は獰猛な笑みを形作る。


「久々の戦だ……腕が鳴るぜ」





 廃工場の裏手には雑草の生い茂る空き地が広がっている。


 午後十時。

 ミステリー捜査部の面々はそこに集合していた。


 ただ一人を除いて。


 他の三人はそれぞれの手に懐中電灯を持ち、最後の一人を待ちながら雑談を交わす。


「なんかこうして見ると……いかにもって場所だなぁー……」

「それくらいのほうが、やる気も出るってもんだろ」

「まあな。けど……これでなんもなかったら、俺らそーとーな阿呆だよなー」

「今更そんなこと言うなっての……」

 たわいもないやりとりを交わす二人をよそに、一人はデジタル式の腕時計を見る。


「……にしても、遅いなー……あいつ……」

 既に約束の時間は過ぎている。


 最後の一人は時間は確実に守る男だけに、この遅刻は意外だった。

 刻々と時計の針が進むごとに、皆の苛立ちがつのってくる。


 そして、それは唐突にやってきた。


「え……?」

 かすかに夜風が吹き、草がそよいだ瞬間、風と共に人影が三人の死角から飛び出てきた。


 勢いを殺さぬまま、手刀を振るう。
 
 指一本動かす暇も与えない、高速の当て身だ。

 それが三人の首を鋭く、そして柔らかく叩いていった。


 相手の顔を見る間もなく、彼らの意識は闇に飲まれていった。





 空き地へとつながる林の中を、早人は駆けていた。


 その眼の奥には既に、渦巻く光の奔流が顕現されている。


 紗百合は一緒にいない。

 工場前に到着した後、彼女の指示により別行動をとったのである。


 その内訳は、こうだった。


 戦闘力に秀でた紗百合が正面から工場に乗り込み、敵の注意をひく。

 そして夜目が利き、透視や遠隔視のできる早人が工場の裏手から潜入し、罠や伏兵の調査を行い、機会があれば紗百合の援護に回る。
 

 以上の作戦を、早人は渋々承諾した。
 

 紗百合についていったところで、現時点の自分では足手まといにしかならない。

 ならば、たとえ地味な任務でも、確実に出来ることをこなすべきだと自分に言い聞かせた。


 紗百合と同じ道を歩きながら、いまだにろくな力になれない自分が、無性に悔しかった。
 

 別れる前に、早人は護身用の武器をいくつか授かった。

 今右手に握っている黒い木刀もその一つで、紗百合の“力”によって生み出された物だ。

 鉄骨くらいの強度はあるから、気休め程度にはなるだろうと彼女は言っていた。
 

 木々を避け、湿った土を踏みしめ、夜道を走る。


 やがて林は果て、目の前に広大な空き地が広がった。

 敵に見つかる可能性が高い場所だが、あいにくここを通らねば“ヴァルホル”に辿り着けない。


 荒れた息を徐々に鎮めながら、慎重に進んでいった。
 

 ふいに、つま先が何かに触れた。

 石や木とは違う、弾力のある感触。

 
 足元を見て、絶句した。

 
 雑草の上に、三人の少年が倒れていたのだ。

 主の手を離れ地面を転がる懐中電灯が、その容貌を映し出している。

 
 それは、昼間会った高校生たちだった。


「ど、どうしたんですか!? しっかり!!」

 早人はあわててしゃがみこみ、一人の体をゆする。

 しかし完全に意識を失っており、反応は無かった。


 代わりに、闇の彼方から声がした。


「安心しな、殺しちゃいない。気を失ってるだけさ」
 
 落ち着いた、若い男の声。


 それは聞き覚えのある声だった。

 
 そういえば、この場に倒れる少年は三人。

 昼間会った少年は四人。


 一人足りない。


 草を踏みしめる足音が、しだいに近づいてきた。


「それにしても……せっかく昼間止めようとしてやったのに、のこのこやってくるとは……困った奴らだ」
 
 電灯の明かりが灯る場所へ、男は歩み寄る。


 月明かりが生み出す、自らの黒い影を連れて。


「好奇心が悪徳だとは思わないが……やはり前段階として、己の身を守れる程度の力量は備えてほしいものだな」
 
 言葉とは裏腹に、その声色は愉しげだ。

 獲物を見つけた狩人のような愉悦が、そこに込められていた。
 

 機械人形のように硬い動きで、早人は声の方に眼を向ける。
 
 男の姿は、そこにあった。
 

 青いブレザー。

 それを纏う女性のように細い体。
 
 月明かりに淡く映える栗色の髪。

 面を飾る銀縁の眼鏡。
 
 そしてその奥に潜む、鋭き双眸。
 

 早人の唇から、乾いた声が漏れた。


「水城さん……」

 風が吹き、静寂の草原を不気味に揺らす。


 円月を背に、“コルブス”……水城優也は不敵に笑った。


「待ちくたびれたよ。さあ、死合いを始めよう」





 迷いのない足取りと、隙の無い気配。

 綾瀬紗百合は廃工場の敷地内を進んでいた。


 幾つもの建物が並立する廃工場はそれなりの規模を誇っていたが、明かりが灯されている建物は一つだけだったので、見つけるのは容易だった。

 そして自分を中に招き入れるためだろう、扉は無造作に開かれていた。


 何かの罠かという可能性もあったが……いずれにせよ、敵を倒すにはこちらから近づかねばならない。

 仮に罠が仕掛けられていたとしても、対応の仕方はある程度考慮している。
 

 しかし、そうした勘繰りは杞憂に終わった。

 中に踏み込むと、すぐに一人の男の姿が眼に映ったのだ。


「今は十時十分……果し合いに堂々と遅刻とは、いい度胸じゃねえか。こっちは待ちくたびれたぜ」

 にやついた笑みを浮かべながら言う。


 金色に染めた鳥頭が印象的な男だった。

 歳は十八・九程度だろう。

 黒い革ジャンとブラックジーンズという格好で、耳や首をピアスやネックレスで飾っている。


 外見だけ見るなら、街のごろつきと大差ない。

 だがその眼光には、常人にはない凄味があった。
 

 そして右腕には、鋭い鉤爪をもつ篭手を装着している。


「あなたがコルブスですか?」

 紗百合の問いを受けた男は、白々しく肩をすくめた。


「おいおい、あんな鴉野郎と一緒にしないでくれ。俺は海蛇座……ヒドラだ」

 何の小細工も仕掛けることなく、ヒドラはその姿を現した。


 確実に勝算ありと踏んでのことか、それとも単なる自身過剰ゆえか、紗百合には判然とつかない。

 とりあえず後者だと思っておくことにする。


 さりげなくあたりに視線を走らせると、ここが元は倉庫の類であることがわかった。

 規模はかなり大きく、墨のほうに廃材が山積みになって置かれているが、その他の場所にはドラム缶程度しか置かれていない。


「しかし……噂の霊獣狩りがこんなキレーなお姉さまだったとはな。残念だ、殺すには惜しいぜ」
 
 紗百合は何も答えない。

 こういう輩とまともに口をきいたところで、時間の無駄だと考えているからだ。
 

 ヒドラはかまわず一人で話を進める。


「相棒のガキはどうしたよ? 怖気づいて、ここにゃ来れなかったか?」

 ここでも紗百合は何も言わない。

 下手なことを口走って、早人の居所を知られでもしたらやっかいだ。


 気持ちを戦闘だけに集中させる。


「話すことはねえってわけか……まあ俺のほうも、そっちのがてっとり早くていい」

 会話が成立しないとみるや、ヒドラはつまらなそうに無駄話を切り上げた。

 半身になり、構えをとる。


「それじゃ、とっとと死んどけや」
 
 地面を蹴り、ヒドラは駆け出した。


 一直線に相手との間合いを詰めていく、単純な突進だ。

 動きもそう速くはない。
 

 紗百合にとっては恰好の標的だった。


 左腕の袖から、幾本もの太い茨が這い出す。

 相手の動きを封じる、彼女の得意技だ。


 茨は完璧に統制された動きで、突進してくるヒドラの四肢を絡め取ろうとした。
 
 ヒドラの鉤爪が幾つかの弧を描く。


 茨は全て切断された。

 熱湯が水に注がれたような、奇妙な音を伴って。
 

 驚愕を浮かべる紗百合の胸に、鋭い爪が差し込まれた。
 
 ヒドラは勝利の笑みを浮かべたが、それはすぐに驚愕へと変わる。


 爪を打ち込んだ先に、肉や骨の感触がなかったのだ。

 手ごたえがない。
 

 紗百合かと思われたのは、紅い花びらで作られたダミーだった。

 攻撃されたことで色と形を無くし、もとの姿に戻って地面に広がる。
 

 ヒドラは本体の位置を探ろうとした。

 だがその前に、反撃はやってきた。


 右斜め後方、彼の死角から三本の木の葉手裏剣が襲ってきたのだ。

 
 しかし、彼も伊達にゾルダートの一人に列せられていない。

 その程度の攻撃は瞬時に察知し、手甲を盾にすることで防いだ。
 

 視線を向けると、紗百合本体はいた。


「なかなか小技がお上手じゃねえか、殺し甲斐がありそうだ」

 皮肉をこめた嘲笑をヒドラは浮かべる。


 紗百合は切られた茨の断面を見やった。
 
 断面は刃物で切られたそれとは異なり、僅かに液化していた。


 視線を移し、ヒドラのアーティファクトを注視する。
 
 あの独特の音、そしてこの切り口。


 ならば答えは、一つしかない。


「そのアーティファクト……能力は“酸”ですか」

 指摘すると、ほお、とヒドラは感嘆の声を上げた。


「流石だな、こんなに早く見極めるとは」

 見破られたところで、自分が不利になるとは微塵も思っていないようだった。


 自慢げに自らの武具をかざす。

 その爪からは透明な液が滴り落ち、地面を少しずつ溶かしていた。


「だがな、忠告しといてやるとただの酸じゃない。この海蛇座のアーティファクトは“毒”と“酸”の性質をあわせ持つ薬物を自己精製できる。この意味がわかるな? その液に浸されたこの爪はどんなものでも溶かし斬れる上に、かすっただけでも敵を殺せる優れものってわけだ」

 ニブルへイムの戦士が用いる、アーティファクトと呼ばれる魔具にはそれぞれ固有の能力が備わっている。


 今ヒドラが語ったのは、その一つだった。
 
 生物でも金属でも幽子でも溶かすことのできる酸と、僅かな量で生物を死に至らしめる神経毒。


 その二つをあわせもった鉤爪の攻撃力は、ゾルダートの中でも上位と言えた。


「それに、相手が一人だと思わないほうがいいぜ」

 歯を剥き出し、意地の悪い笑みを浮かべる。


 紗百合の死角、右斜め頭上から何か小さなものが接近してきた。

 即座に感づいた紗百合は身を翻すと同時に、木の葉を一枚放つ。


 狙い違わず、手裏剣は標的に打ち込まれた。

 小さなものは、あえなく地に落ちる。
 

 それは、髑髏を模した顔をもつ、醜悪な化け物だった。


 顔の両側から蝙蝠のような羽が生え、顎の下からは昆虫を思わせる六本の足が生えている。
 
 大きさは人間の頭一つ分程度。


 眉間を手裏剣に貫かれ、足と羽をばたつかせて苦しげにもがいていた。
 

 笑みを浮かべて立つヒドラの後方から、女の声がした。


「……そいつは小型の霊獣でね。主に身軽さを生かして、偵察や情報伝達に使われるのよ」
 
 入り口から、新手の敵が姿を現す。
 

 伏兵がいるであろうことは当然紗百合も予想していた。

 ゆえに動揺の色は見せない。


 紗百合と同年代に見える、赤いスーツを着た女だった。


 表の職業はOLか何かだろう。

 セミロングの髪をした美人だが、やや濃い化粧と悪意に満ちた表情が、その美貌を損ねていた。
 

 両手に短い横笛を持ち、それを口につけている。

 金属製と思われる、繊細な装飾の施された青い笛だった。

 
 そして彼女の周囲には、今倒した霊獣の同類が十数体存在していた。

 姿形に微妙な違いはあるものの、みな一様に蝙蝠や羽虫を模した羽を持ち、宙に浮かんでいる。


「だけど、このカシオペア座のアーティファクトがあれば話は別よ。この“魔笛”で私が動きを操作してやれば、戦闘に用いることも可能になる」

 化粧に覆われた顔を歪め、カシオペアは愉しげに笑った。

 周囲をとりまく霊獣たちも、主に賛同するように笑った。

 
 紗百合は半身になりながら、頭の中で冷静に戦略を組み立てていく。


 今眼前に現れている敵は二人。

 ニブルへイムの部隊は、幹部一人とゾルダート数名という構成。


 まだ、足りない。
 

 自分と早人を呼び出した“コルブス”と、さらにもう一人。

 昼間自分を襲撃し、この右腕の傷を負わせた者。
 

(やつらは……どこに……?)
 
 さして考える間もなく、片方の答えは明らかとなった。


 紫色の矢が廃材の山を貫通し、紗百合めがけて襲ってきたのだ。
 
 紗百合は後方に跳躍してかわす。


 矢は床を砕き、突き刺さった。


「流石に素早いな。普段のすっとろさが嘘のようだ」
 
 男が物陰から現れた。


 その声、そしてその容貌を見たとき、紗百合の表情が微妙に変化する。


 紺のスーツを纏った若い男。

 それはよく見知った顔だった。
 

 自分と同じ職場で働き、席が隣同士の同僚。


「佐山先生……あなたが……」
 
 男は矢をつがえ、弦を引き絞り、矢じりを紗百合に向けて構える。


「モノケロスと呼んでもらおうか、霊獣狩り。ここを貴様の墓場にしてやる」

 愉しげに言い放つその顔には、同僚に対する一片の感慨も浮かんでいなかった。

 そこにあるのは、獲物を射殺す情熱に燃えた狩人の愉悦だけだ。

 
 紗百合は一瞬だけ悲痛な眼差しを向けたが、すぐに冷静さをとり戻す。

 
 闘いおいて、余計な感情は無用だ。

 敵への感傷やら失望やらは、後でせいぜい抱けばいい。

 
 自分に向けられる三つの殺気に怯むことなく、悠然と立つ。
 

 ゾルダート相手に、三対一。


 彼女にとっても、抜き差しならない状況となった。
 
 しかし、負けるわけにはいかない。


 果たさなければならない、目的があるのだから。





 真円の月の下、二人の少年は対峙する。


 一人は、驚愕と狼狽を、もう一人は、凍てつくような冷笑を浮かべて。


「信じられないってツラだな。そんなに意外か?」

 水城はからかうように声をかけた。


 彼の右肩には白く細長い布袋がかけられている。

 その中身が早人の命を奪うための凶器であろうことは一目瞭然だ。


「あなたが……コルブス……!?」

 野良猫のような警戒心を発しながら、罠にかかった鼠のような表情で、早人は問うた。

 その思考は、未だ目の前の現実に追いつけずにいる。


「そう。わかってるとは思うが、階級はゾルダート。この地区の諜報活動を任務とした部隊の一人さ」

 鴉が地上の獣を見下ろすような余裕をもって、水城は答えた。


 気取った物腰。

 己以外の全てを嘲るような冷笑。

 研ぎ澄まされた隙のない気配。


 どれをとっても、昼間学校にいた柔和で大人しい少年とは似ても似つかない。

 剥き出しになった内面が、顔つきまでも一変させている。


 本当に同一人物かどうかと疑ってしまうほどに。

 夜の彼は、饒舌さと獰猛さをあわせもつ魔物と化していた。


 幾分落ち着きを取り戻した早人は、苦虫を噛み潰すような顔で言う。


「あなたが敵だなんて思ってもみなかったよ。昼間の顔は芝居だったってことか……」

 出会ったのは今日。

 それほど多く言葉を交わしたわけではない。

 しかしそれでも、優しい先輩に見えた水城が敵だったとはショックだった。
 

 そんな思いを見透かしてか、水城は穏やかに否定する。


「違うね、あれはあれで俺なんだ。確かにつとめて大人しくしていたが、まんざら演技だったわけでもない。誰だって、時と場合に応じて表層に現れる人格は変わってくる。そういうもんだろ? もっとも……逆に言えば、誰しも根っこのところは一つだってことだがね」

 気取った仕草で額に人差し指をあてる。


 人を小馬鹿にしたその態度に、早人は嫌悪を覚えた。


「友達を襲っておいてよく言うね」

「人聞きが悪いな。俺は彼らに対して、それなりに友情は感じてたよ。だから、こんな危険な場所に来ないように昼間止めようとしたし、今もこうして親切に気絶させてやったんだ。あのヴァルホルに足を踏み入れたら、生きては帰れないだろうからな」

 どこまでも飄々とした態度を続ける水城に、早人の思考はついていけなかった。


 この男のペースは自分には理解できない。
 
 これから殺し合うというのに、どうしてここまで落ち着いて、楽しげで、そして親しげなのだろうか。
 

 未知の恐怖が、全身を駆け巡った。


「さて、どうせこれから命を奪い合う仲だ。お喋りはこれくらいにしよう」

 静かに眼を閉じ、水城は宣言した。


 そして、閉じた瞼を開くとともに隠していた殺気を開放する。


「やはり……いくら気取ってみても、戦闘を前にしたこの昂りは抑えきれない」
 
 それまで両者の間にあった奇妙に緩んだ気配は消滅し、鋭利な針がぶつかりあうような緊迫感が生まれた。


 対照的なのは、早人がその緊迫に必死に堪えているのに対し、水城はむしろ緊迫を愉しんでいることだ。


 早人は木刀を構えた。

 剣術の基礎さえろくに知らない彼がとったのは、いわゆる正眼に近い構えだった。


 無論形だけで、構えは硬く、隙も多い。
 

 水城はそれを、子供の悪戯をあしらうような眼で見た。

 彼ほどの使い手ともなれば、構えだけで相手の力量を見て取ることができる。
 

 慣れた動作で、肩から布袋を下ろす。


「いいぜ、かかってきな。その木刀で俺と……」

 布袋の口を縛っていた紐が解かれ、漆黒の柄が姿を現す。

 鯉口を切り、抜刀する。


 暗き闇夜に、煌く白刃が現れた。


 ゆるやかに反り返った刃。

 一点の歪みなき直刃の刃紋。

 漆黒の柄と、朱塗りの鞘。

 その先端を飾る、銀のこじり。
 

 刃物に関心のない早人でさえ、思わず魅入ってしまうほどの、美しい刀だった。


「この霊刀“鴉翼”に挑む勇気があるならな」

 白刃はその身に降り注ぐ月光を受け、本物の鋼を象徴する鈍い輝きを放つ。

 その妖艶な煌きは、見るものに怪しい魅力と畏怖を与えた。


 早人は一歩後ずさり、体勢を整える。


 相手はニブルへイムのゾルダート。

 闘いの基本も知らない自分がまともにやりあっても、勝ち目はない。


 視線を手元に向ける。


 ここは、紗百合から授かった武器たちを活用するときだ。
 
 魔性の力によって作られた木刀は、思念を込めることで刀身を伸縮させることができる。


 本来の使い手でない早人にも、そのくらいの芸当は可能だった。


 意表をつく奇襲。

 これで仕留める。


 構えを保ちながら、相手の出方を覗う。


 水城は抜いた刀を構えようともせず、だらりと右手に握り、自然体で早人に歩み寄っていった。

 早人の視線と木刀の切っ先は、狙いどころである水城の額に向けられる。


 一歩、また一歩。

 水城の足は進む。


 あと一歩。


(今だ!)

 漆黒の切っ先が、標的に向けて一直線に伸びた。


 完全に射程距離内。

 狙いも正確だった。


 だが水城は、首をわずかに傾けるだけでそれをかわした。

 そして第二撃が放てぬよう、瞬時に切っ先を掴んで止める。


「二十点」

 意味不明の言葉が発せられた。


「奇襲のイロハがまるでなっちゃいない。こういう芸をするなら、もう少し相手がかわしにくい間合いに踏み込むまで辛抱することだな。それに……お前の場合、視線や構えでどこを狙っているかバレバレだ」

 師が弟子に教えを説くような口ぶりだった。

 状況に不似合いな発言に、早人はかわされたこと以上にとまどう。
 

 水城はかまわず続ける。


「いいかい、奇襲ってのは……」

 ふいに、木刀の先端が自由になった。

 掴んでいた水城が手を放したのだ。


 そして本人の姿は、何処へと消えていた。


 早人は首を左右に振って消えた相手を探す。

 完全に見失ってしまった。


 あまりに突然のことで、刻星眼でも追いきれなかった。


(どこに……!?)

 突然、左斜め前方、数メートル先の草が音を立てて揺れた。

 大地を蹴るような足音も聞こえた。

 
 反射的に、視線がそちらを向く。

 そこには何もない。


 注意を向けるために仕掛けられたフェイント。


 冷たい感触が、首筋に伝わる。

 肌に触れ合う、細い鋼。


「こうやってやるもんだ」

 水城は早人の背後に立ち、その首に刃をつきつけていた。


 完全に虚をつかれた早人は硬直する。

 真っ白になりかけた頭を、必死に現実に?ぎとめた。
 

 この男、今素早く自分の死角に隠れ、あの場所でわざと物音をたて、それから背後に回ったというのか。


 ありえない。

 そんなことは、できるはずがない。
 

 人間の足の速さでは。


 我に帰った早人は、あわてて刀の間合いの外に逃げた。


 水城はその場に立ちすくしたまま、それを観察する。

 そして、再度評価を下した。


「今度は十五点だ、反応が遅すぎる。せっかく寸止めしてやったんだから、さっさと反撃するなり間合いを開けるなりしろ」
 
 不可解だった。


 今の一撃、彼さえその気なら勝負はついていたはずだ。

 なのに、なぜ寸止めなとどいう酔狂なまねをしたのか。


 それに、二十点……十五点……
 
 これから殺す相手に、そんな評価をつけてどうする気なのか。


「さて、今度は正面から攻めてやろうか」

 言うなり、水城は早人に向けて突進していった。


 今度は先程とは比べ物にならないほど遅い。

 感覚も肉体も、充分追いつける範囲だった。


 水城は刃を振りかぶり、袈裟斬りを放つ。

 早人は木刀でそれを受け止める。


 木と鉄がぶつかりあう音が空き地に響いた。

 防御に成功した早人は、相手の刀身を見て、我が眼を疑う。


 刀の峰は返されていた。

 峰打ちだ。


 なぜ。

 どうして。


 そんな疑問を抱く間もなく続く第二撃がやってくる。

 続いて第三、第四と、水城の峰打ちは続く。


 早人は刻星眼によって強化された動体視力で、それをなんとか受け続けていた。


「フフ……流石に魔眼をもってるだけあって、守りに関しちゃそれなりだな」
 
 打ち込みを続けながら、水城は器用に喋る。


 その様子からも、彼が本気でないことは明白だった。
 
 一方的に攻められ続ける早人に、しだいに怒りの念がこみ上げてくる。


「この……!」

 小さな体の筋力を振り絞り、反撃の一撃を放った。

 しかしそれを、水城は軽く捌いて受け流す。


 両者とも、そこで間合いを開けた。


「甘い甘い、三十点だ。肩に力をこめれば重い一撃が放てるってもんじゃない。攻撃がぶつかるのは一瞬。その一瞬だけに力を集中させればいい。それ意外の時に無駄な力を込めるのは、体力の無駄遣いだけでなく、技の勢いを殺すことになる」

 相変わらずの教師口調だった。

 自分が激しく息をきらしているのに対し、彼は汗一つかいていない。


 早人は疲労の浮かぶ顔で、水城を睨みつけた。


「なぜ……殺す気でやってこない……!」

 自らの内の憤りを言葉にする。


「あなたは僕を殺しに来たんだろ! なぜそんなふざけた闘い方をする!?」

 水城の言動は矛盾に満ちている。


 刺客として表れ、殺し合いを宣言しながら、本気で責めてこないのだ。

 自分など一瞬で殺せる力をもちながら。
 

 これほど不可解な闘いはなかった。


 一瞬だけ、水城の顔から表情が消えた。

 しかしそれはすぐに消え去り、さらなる冷笑が浮かぶ。


「……見たいか?」

 今度は早人が表情を消す番だった。


 脳裏に、暗い予感がよぎる。


「俺の斬撃を、見てみたいのか?」

 底冷えのする冷笑だった。


 長いこと爪牙を隠していた獣が、それを使う場を見い出したような愉悦が、そこに映っていた。

 早人は自分の言葉が、敵を本気にさせてしまったことを悟る。


 しかし失言を悔いても、もう遅い。


 水城は斜め下段に構えをとり、滑らかな指使いで刃を返す。

 峰打ちとは比べ物にならない疾さで筋肉を動かし、斬撃へと移る。


 その刃が、上方へと振り上げられたとき、早人には見えた。


 銀の翼が、天空へ羽ばたいたように。





 その大地にも、夜は来る。

 その大地にも、風は吹く。


 天城市上空に浮かぶ巨魁、ニブルへイム。

 その東端に、二人の人物が立っていた。


 一人は最高幹部の一角、“アリエス”。

 もう一人はその盟友たる男だった。


 先にその話題を口にしたのは、男の方だった。


「今頃……お前の部下達が、霊獣狩り共と交戦している頃だな」

 彼らの足元には草むらが広がり、そのすぐ先は空との境界線である絶壁の崖となっている。


 眼下に広がる夜の町並み。

 赤や黄をはじめとした数多の人工の光が、下界を染め上げる。


 文明を手にして以来、数千年の時の果てに人類は、天空の星々にも勝る輝きを大地に灯す術を得た。

 そして科学を超えた領域に達した存在は、それを“下界”と呼び見下ろすことができる。


 この夜景は、彼らの如き超越者のみに許された眺めだ。


「しかし……本当に奴らだけで充分か? 一声かけてくれれば、ウチの奴らも動かしたものを」

 薄い笑みを浮かべながら、男は友を見やった。


 アリエスの脳裏に男の配下たちの姿が浮かぶ。


「あの連中は腕は確かだが、人格に多大な問題がある。そう簡単に動かすわけにはいかんよ」

 男の配下たちの“質”の高さはアリエスも承知している。


 その危険性も。


 彼らに比べれば、“命令したことだけ”を行う分、自分の率いる者達はまだ大人しいほうだと言えた。

 感情のない顔で、“ヴァルホル”の位置するあたり――現在戦闘が行われているであろう場所を見る。


「心配はいらない……あのコルブスがいる限り、負けはない」

 その言葉は、男にとって少々意外なものだった。


 彼の知るアリエスは通常、他人にたいして極めて無関心だ。

 侮蔑も嫌悪もしない代わりに、評価も信頼もしない。


 だが今の一言には、自らの腹心に対する確かな信頼が込められていた。
 
 男は興味深げな眼差しを向ける。


「例の新入りか……随分と高く買ってるようだな。どんな奴だ?」

 男はコルブスと面識がない。

 通常、彼らのような幹部は直属の部下以外と会う機会はあまりないからだ。
 

 アリエスは暫し、答えるか否か、あるいは何を語るかを思案していたようだったが、やがて静かに口を開いた。


「本人が言うには、出雲地方に伝わる古流剣術の遣い手らしい」

 少し間をおいて、抑揚のない声で続ける。


「彼はゾルダートの中で一番の変わり種だよ。なにしろ……アーティファクトを使う資質がまったくなかったのだからね」

 その言葉には、流石の男も眉をひそめた。


「……アーティファクトが使えない? なぜ、そんな奴をゾルダートに任命した?」

 彼らの名乗る「称号」が星座に由来するのと同様、アーティファクトもまた星座の数だけ存在する。


 アーティファクトを使う資質を持つことが、ゾルダートになる必須条件のはずだった。


「決まっている。それなしでも、充分な実力を備えているからだよ」

 アリエスは自らの記憶から、一つの光景を引き出した。


 それはある日どこからともなく現れ、当時のコルブスを斬り裂き、その称号と地位を奪った男の姿。


「あの研ぎ澄まされた剣技は、アーティファクトにも決して劣らない。そして……それを最大限に生かすもう一つの“力”も彼にはある」
 
 アーティファクトにも劣らぬ剣技、それがどのようなものかは男にも想像できない。
 

 しかし、彼は盟友の慧眼を承知している。

 その盟友の言葉ならば、あえて疑念を持とうとはしなかった。


「例の二人組とやらが、どんな輩かは知らないが……下界の人間風情に、彼を倒せる者はいないよ」

 水晶のような眼は、終止下界の一点を見据えていた。


 アリエスがその瞳の奥で何を想うのか、それは盟友たる男にも知ることはできなかった。





 漆黒の木刀。


 その半身が、宙を舞う。
 
 ゆるやかに回りながら、軽い音とともに雑草の上に落ちた。

 
 木刀の持ち主は、手の内に残った半分、その切り口を凝視する。

 見事な切り口だった。


 まるで最初からそうであったかのように、切断という事実を感じさせないほどの滑らかさを誇っている。

 “斬る”という行為に関する、確かな技術がなければ到底できない芸当だ。

 
 水城は振り上げた刃を下段に下ろし、言った。
 

「捌くことはおろか僅かな反応すらできないとはな。正直言って期待外れだ」

 口元は笑っているが、さきほどまでに比べ明らかに闘気は薄れている。


 待ちわびた獲物のあまりの手ごたえのなさに、落胆してしまったのだろう。


「仮にも魔眼の持ち主だから、もう少しは出来る奴かと思ったが……買いかぶりだったようだな。やはり……お前は俺の役には立ちそうにない」

 彼の意図することは、相変わらず早人には理解できない。


 ただ一つわかることは、今自分は、敵と呼ぶにも値しない存在だと認識されたことだ。
 
 不思議と屈辱は感じなかった。


 この埋めようのない実力差を、自分自身も理解できたから。


「なぜ、お前のような子供に魔眼が埋め込まれたのかは知らないが……そんなことはどうでもいい。そろそろ楽にしてやるよ」

 相変わらずの自然体で水城は早人に歩み寄っていく。


 木刀を失った早人は、紗百合から与えられた第二の武器を取り出した。

 彼女が頻繁に使う、鋭い木の葉手裏剣だ。


 不慣れな動作でそれを投げつける。

 本家ほど正確ではないものの、一応それは標的の方角へと飛んでいった。

 
 水城はそれを難なくかわす。


 彼の体は寸前までいた場所から消え、瞬時に早人の側方に移動していた。

 先程奇襲の手本を示した時と同じ、常軌を逸した速さだ。


 だが、早人もそう間抜けではない。


 今度は敵を凝視していたため、その動きを追うことができた。
 
 しかし眼で感知するのと体が反応するのとでは、明らかな時間差がある。


 急いで第二撃を放ったものの、またも空しく空を切ることになった。
 
 流れるように草むらを移動しながら、水城は言った。


「せっかくだから教えといてやる。これが我が出雲水城流に伝わる秘技、“仙流”だ」

 この時、もし相手が早人でなく、水城と同等以上の使い手なら知ることが出来ただろう。


 彼の足が、ほとんど動いていないことに。

 そしてその足元が、地面から微かに浮いていることに。


「大陸伝来の神仙術の亜種と言うべきか……足元に摩擦力の低い薄い膜を形成し、地面を“滑走”する高速無音移動術。我が流儀の極意は、剣技だけでなくこの移動術にある」
 
 その動きは清流を流れるように優雅で、激流のように速い。


 早人は知る由もないが、これが今朝、交通事故に遭いかけた彼を救った力だった。
 

 今度は早人の背後に出現する。

 そのまま背中に蹴りを入れて吹き飛ばした。


「これによって……音も無く瞬時に間合いを詰めることができ、肉体の動きをほとんど必要としないため、移動から攻撃への移行が容易に行える」

 よろめきながら立ち上がる早人に、水城はさらなる追い討ちをかけた。

 瞬時にその眼前へと移動する。


「こんな風にな」

 容赦ない肘打ちが、無防備な頬に叩き込まれた。


 激しい痛みと衝撃を覚え、早人は横這いに倒れる。

 今度はすぐに立ち上がれる痛みではなかった。
 

 地に手をついて這いつくばったまま、自分の無力さ、そして勝ち目の無さを悟る。

 
(この男、強い……)
 
 研ぎ澄まされた剣技と、疾風の如き速さを生み出す移動術。

 単純だが、これほど相性のいい力があるだろうか。
 

 紗百合でも、勝てるかどうかはわからない。

 ましてや自分などには、到底手に負えない相手だ。
 

 こんな相手に、どうすれば勝てるというのか……

 
 這いつくばったまま動こうとしない獲物に興味をなくしたように、水城はヴァルホルに視線を移した。

 その一点、唯一明かりを灯す建物へと。


「やれやれ、相棒がこの有様じゃあ……むこうの方も、まだ生きてるかどうか怪しいもんだな」

 露骨な揺さぶりに、早人は過敏に反応した。


「先生に何をした!?」

 あまりに単純な反応を可笑しそうに横目で見ながら、水城は答えた。


「別にそう大した罠なんぞは張ってないさ。今彼女は、ウチの部隊の他の三人と交戦してる。俺様には遠く及ばないが、それなりに出来る奴らだからな、容易には勝てないだろう。それに……少々場所も悪い」

 相手が問いを言う前に、流暢に続きを語る。


「詳しくは知らないが、お前の先生とやらは植物を操る能力者だろ? これまでの情報から察するに、奴はおそらく多様な技を使いこなす応用力が売りで、つかず離れずの闘いを得意とした中距離型」

 その口調には、確かな経験に基づいた戦闘への知性が感じられた。


「そういう奴が得意とするのは身を隠す所の多い入り組んだ場所や、地の利の要素が働く起伏に富んだ地形。あの平坦でだだっ広い建物の中はその正反対。対してウチの三人は、そういう広い場所での集団戦で真価を発揮する奴らだ。それにもう一つ……あの場所では、奴の武器となる植物を補給することはできないからな」

 その説明は早人も理解できた。


 確かに紗百合のように力や速さでなく、技術や戦術に依存した使い手は平坦な地形より地の利を生かし易い場を好むのだろう。


 それに彼女の能力の利点の一つに、容易に武器を調達できるという点がある。

 道端の雑草でも落ち葉でも、彼女は武器へと変えることができるからだ。


 だがあの無機質な金属だらけの工場ではそれは望むべくもない。


 何より敵は三人。

 いくら彼女でも、勝ち目があるとは思えない。


「……で、どうする? 俺を倒さなければ、先生を助けには行けないぜ?」
 
 水城は早人に向き直り、言った。

 自分に向かってこさせるためか、両手を広げて自ら隙を作っている。
 

 しかし、当然無闇に襲いかかるわけにはいかなかった。


 何の策のなく突っ込んでは、一瞬で切り刻まれることは目に見えている。

 かといって、この男には飛び道具も通用しない。
 

 可能性があるとすればただ一つ。


 今のような形だけのものでない、本当の隙が生まれた時だけだ。

 だが、そんな隙をどうやって作らせるというのか。


 そんなことができるのなら苦労はない。

 今の状況で、そんな方法があるわけが……


(……!)

 ふいに、ある考えが浮かんだ。


 まだ、手はある。

 あの方法なら、この相手に拳を叩き込むことができるかもしれない。

 
 しかし、上手くいく可能性はかなり低い。


 相手が自分の狙い通りに動いてくれなければならないし、たとえそうなっても、攻撃が成功するとは限らない。
 
 もし失敗すれば、間抜けもいいところだ。
 

 決断を迷い、早人は押し黙った。
 

 その間も、水城は徐々に間合いを詰めていく。

 もし自分がこのまま何もできず手をこまねいているようなら、もう一撃加えて全て終わりにするつもりなのだろう。

 
 また一歩。

 水城は前に踏み出す。


 その足が地に着いたときこそ、彼が設けた時間制限だった。
 
 その直前に、早人は答えを出す。


「……今、いってやる」

 低く、だがはっきりと言った。


 臆せず、正面から相手を見据える。


「あんたを倒して、先生を助けにいく」
 
 何を自分は、体裁を気にしているのだろう。

 自分のような無力な存在が、そんなものを気にする資格などありはしないのに。
 

 自分の弱さは自分が一番よく知っている。
 
 弱い奴がいくら逃げ回っても、何も出来はしないことも。
 

 だから、前に進むしかない。


「いくぞ!」

 勇気を振り絞り、決死の特攻をかけた。


 水城はそれを静かに迎え撃つ。

 先程の言葉とは裏腹に、彼は本気で早人を殺す気はない。


 骨の幾本かでも砕いて、気絶させれば充分だった。

 よって、刀の峰を返す。


 狙いは突っ込んでくる相手の、無防備な胴。

 そこに一撃叩き込めば、この試合は終わりだ。


 恐るべき速さで、刃を返した胴切りが放たれる。

 無論、早人にそれをかわせる速さがあるわけもなく、まともに直撃を受けた。


 勝負は決まったかに見えた……が……


(これは……!?)

 水城の手元に伝わる、奇妙な感触。

 人間の肉や骨ではない、何か硬いものを叩いたような手ごたえ。


 瞬時に、理解の火花が散った。


(胴丸……!?)

 
 早人は、服の下に防具を着込んでいたのだ。


 その正体は、紗百合の力で木の根を幾重にも巻きつかせた、即席の胴丸だった。
 
 ただでさえ本気でない峰打ち、その衝撃は木の胴丸で充分吸収できる範囲だった。


 多少の苦痛を浮かべるも、早人は倒れない。

 攻撃を放ったことで隙の生じた相手の顔面に、渾身の拳打を放つ。
 

 しかしその奇襲も、水城にかわせない一撃ではなかった。


 確かに攻撃が防がれたことに驚愕して、隙が生じた。

 だがそれを差し引いても、早人の拳打は彼をとらえるには遅すぎた。
 

 何の技巧もない、大振りな一撃。


 こんなもの、体術の心得のある自分にしてみれば児戯に等しい。

 頭を少し傾けるだけで、難なくかわせる。
 

 眼をこらせば、その動きまではっきりと見える。


(見え――え……?)

 自分の眼に映るものが、水城優也は信じられなかった。


 スローモーションともいえる、稚拙な拳打。

 しかしその一撃には、明らかな異常さがあった。
 

 気がつけば、もう目の前に拳が来ている。


 一瞬前に見たときは、まだ繰り出された直後だったのに。

 一瞬たりとも、眼を逸らしてはいなかったのに。
 

 その不可思議な現象に眼を奪われたことが、重大なミスとなった。

 反応の遅れたため、かわせたはずの一撃を右頬に受けてしまったのだ。


「くっ……!」

 頭が後方に吹き飛ぶような錯覚を覚え、上体がのけぞる。

 倒れそうになるところを、あわてて踏み留まった。
 

 非力な子供の拳打とはいえ、油断していたところにまともに受けたため、その衝撃は軽くなかった。

 口の中に血の味が広がる。


 見ると、早人は拳を突き出した形のまま荒い息をついていた。


 今の一撃に全てを懸けていたのだろう。

 追撃を行う気力や体力は見うけられない。


「何をした……今……!?」

 頬を押さえた姿の水城が問うと、早人は怪訝な表情になった。

 どうやら問いの意味を理解していないようだ。


(自覚してないのか……?)

 無意識に近い状態で使った力。

 ……そういうことだろうか。


 “魔眼”と呼ばれる存在について、彼はさほど多くのことは知らない。
 

 ニブルへイムが所有するアーティファクトは八十八。

 その中でも最高位に位置する十二のアーティファクトが、“魔眼”なのだと聞いている。
 

 その中の一つ、刻星眼は、全てを見通す眼。

 この世に存在する全てのものが見えると言われている。
 

 その力を応用すれば、あのような芸当も出来るのだろうか?


「……」

 魔眼の力とは、少し違う気がする。

 かといって、単純に奴の拳が速かったわけではない。


 知覚できないほど速い一撃を受けたのなら、この程度のダメージで済むはずがないからだ。


 あれは、速さや幻覚とは違う。

 もっと奇妙で、異質な力……


 水城の顔から冷笑が消えた。

 血反吐を吐き出し、射抜くような眼差しを向ける。


「俺に一撃入れたことは褒めてやるが、まだまだ甘い。四十点ってとこだ」

 確かに、予想外の一撃を受けた。


 だがそれだけだ。


 少々手傷を負ったところで彼の勝利が揺らぐことは決してない。

 だが攻撃を受けたことは僅かながらも屈辱であり、それが表情を険しくしていた。


「まず、今の一撃で俺を仕留められなかったのが致命的だ。俺が二度同じ手にかかるような間抜けに見えるか?」

 片手で柄を持ち上げ、白刃の切っ先を標的に向ける。


 身の程を知らぬ罪人に、死刑宣告を下すように。


「それに……今お前が立っている位置、そこはすでに俺の間合いの内だ……もはや逃がしはしない。その気になれば、お前が瞬きする間にその首と胴を切り離すこともできる」

 容赦のない眼光と、言葉による威嚇。

 それは彼が本気で刀を振るう前の、相手に対する最後の警告だった。
 

 だが、もはや早人の眼には一片の怯えもない。


「やってみろよ」

 感情を排した、怜悧な声。


 普段の彼からは想像もつかないような鋭い双眸で、相手を見据えていた。


「……あんたの剣が速いことくらいわかってるさ。けど、逃げ回ってばかりじゃ何もなりやしない。近づかなければ、あんたを殴れないからな」
 
 鋭く細められた眼。

 彫像のように引き締まった表情。


 それは見る者に、確かな威圧感を与えるものだった。
 

 こいつにこんな顔ができたのか。
 
 と水城は内心で思う。


 だが、無論そんな感情は表に出さない。

 鋭い眼光で相手を睨み続ける。


「この間合いで、素手で俺に勝つ気でいると?」

「ああ」

「根拠は?」

「……」

 答えられるはずなどない。


 早人と水城の実力差は歴然としている。

 まともにやりあえば、勝機など一片もないだろう。


 それを知る水城は、問いを変えた。


「ならば訊くが、なぜお前はここに来た?」
 
 糾弾のようではない、ただの問い。
 

 表情にも、殺気めいたものはない。

 だがその声には、半端な答えを許さない力があった。


「闘い方も知らない、仲間もろくにいない……そんな非力な身で、なぜこんな勝ち目のない闘いに挑む?」
 
 静寂が、あたりを支配した。
 

 一足一刀。


 わずかに踏み込むだけで、互いに攻撃ができる距離にいるというのに、どちらもその機を覗おうとはしない。
 
 そこにいるのは……ただ問う者と、答える者。
 

 閉じていた口が、静かに開く。


「僕の友達は……あんたたちに利用されて化け物にされた。母親も、あんたたちの造った霊獣に襲われて深手を負った……」

「その復讐か?」

 問いは続く。


 答える義務などないが、早人は口をつぐまなかった。

 ここで答えられなければ、自分は本当の意味で、この闘いに敗北してしまう気がしたから。


「確かに、ニブルへイムの奴らは許せない……でもそれ以上に、大切な人が傷つけられても何もできなかった自分が……ぼくは何より許せない。だからもう、そんな思いは味わわないって決めた」

 数日前、紗百合に語ったのと同じ想いを、眼前の敵に語る。


「だから闘うんだ」

 決意を込めた声が、夜の草原に響いた。


 冷涼な風が、二人の間を吹き抜ける。


「命を捨ててでもか?」

 水城は言葉による追い討ちを緩めない。

 元々他人の言葉などに揺らぐ程度の決意なら、聞く価値はないからだ。
 

 それを見透かしたように、答えはすぐ返ってきた。


「捨てるつもりなんかないさ、あんたたちなんかには絶対に負けない」

 二人の視線が交錯する。


 恐怖を押し殺し、必死に自分を睨みつける眼を、水城優也は静かに見据えていた。


 なんのことはない、ただの子供。


 ただ人より、少しだけ優れた眼を持つだけ。

 戦い方さえ知らない、戦士というには程遠い未熟者。


 この剣をほんの一振りするだけで、その命は刈り取れるだろう。


 だが、なぜだろうか……それができる気がしない。

 容易いことのはずなのに、それを行った後のイメージが、なぜか浮かばない。


 否。


 自分は、それをしたくないのだ。

 こいつを斬りたくないと、心のどこかで思っている。


 曇りのない、真っ直ぐな眼。

 無知と、愚かさと、非力さの象徴のような眼。


 だが不思議と、底の見えない深みを感じる。

 揺るぎ無い覇気を感じる。
 

 今は非力でも、やがて大きく成長する可能性を秘めているかもしれない。

 賭けてみる価値は、あるかもしれない。


 水城の顔に笑みが戻った。


 標的に向けられていた切っ先が、静かに下ろされる。
 

「……訂正してやるよ、八十点にな」
 
 突然の変化にとまどう早人に、穏やかに笑いかけた。
 

 遥か彼方の天空では、金色の月が煌々と輝いていた。


「気に入ったよ。朝倉早人」





 工場内部では、三対一の闘いが繰り広げられていた。


 待ち受ける紗百合に対し、ヒドラが果敢に特攻をかける。

 三人の中で接近を仕掛けるのはこの男の役目だった。
 

 容赦なく右腕の鉤爪を振るう。

 紗百合は軽やかな動きでそれをかわした。


 彼女の手には既に、早人に与えたのと同じ木刀が握られている。

 それを、無防備なヒドラの頭部めがけて振るった。
 

 だが、割って入った小物がその攻撃を妨害する。
 
 カシオペアの操る小型霊獣だった。


 霊獣はあえて木刀をその身に受け、命と引き換えにヒドラの盾となる。

 ヒドラとカシオペアの顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。
 

 攻撃を止められことで生じた一瞬の隙をついて、ヒドラは再度斬撃を繰り出す。

 胴体を狙った横薙ぎの一撃だ。


 紗百合は何とか回避したものの、服一枚分かすめ斬られた。

 後ほんの一瞬反応が遅れていたら、彼女の命はなかっただろう。
 

 反撃の隙を与えぬよう、今度はカシオペアが攻め手に回る。


 小型霊獣数体を標敵の周囲に配置し、多角的な攻撃を繰り出させた。

 小兵とはいえ、その爪や牙には確かな殺傷力がある。


 前後左右から襲い掛かる攻撃を、紗百合は必死にかわしていった。
 

 無論、ただ逃げ惑っているだけではない。

 両手に木の葉手裏剣を容易し、動き回りながらも的確に霊獣たちを射抜いていった。


 後方で指揮をとるカシオペアは眼を細める。


 ろくに体勢も整えず、死角から襲いくる敵を射抜いていくとは大したものだ。

 どうやら自分の通常の攻め方では、仕留めることはできそうにない。
 

 だが、自分の戦術は変幻自在。

 他にいくらでも手はある。


 定められた形の指使いをしつつ、笛に息を吹き込む。


「融合」

 発せられた特異な音波は、小型霊獣たちに次なる指令を伝えた。
 

 彼らは攻撃を中止し、ある一点に寄り集まる。

 そこで互いの身を寄せ合い、群れを形成した。


 やがて個々の体はどろどろに溶けだし、溶接するようにつながってゆく。
 
 またたく間に、数体の小型霊獣は一体の大柄な霊獣と化した。


 二メートルを越す身の丈と盛り上がった筋肉はかなりの迫力を感じさせる。
 
 顕現された霊獣は、紗百合めがけて突進していく。
 

 小技の連発では成果が上がらないと見て、攻撃力を集中させた力攻めに移行したのだろうか。

 それとも……
 

 紗百合にほとんど考える暇を与えず、霊獣は覆いかぶさるように飛びかかっていった。

 紗百合は木刀をもって迎撃しようとする。


 巨体にとびかかられたせいで、一瞬だけ彼女の前方の視界はゼロとなった。
 
 その瞬間、真の攻撃はやってきた。


 霊獣の腹を貫通して襲い来る、紫色の矢。

 モノケロスの攻撃だ。
 

 カシオペアの狙いはそこだった。

 彼女にとっては道具に過ぎない、使い捨ての霊獣ならではの戦術だ。
 

 霊獣を融合させたのは膂力をもって紗百合をねじふせるためではない。

 彼女の視界を遮る壁を作るだめだった。
 

 二人の連携による奇襲攻撃。

 狙いは心臓。


 早人のような探知能力をもつか、もしくは紗百合のように事前にその可能性を予期していた者でなければかわせない一撃だった。


 しかし紗百合も完全にかわしきることはできず、左肩を深々とかすめ切られた。

 迸る鮮血が、床を赤く染める。
  

 滑らかな指使いで魔笛を奏でながら、カシオペアは妖艶に笑った。
 

 彼女の笛は音を一切発しない。

 霊獣にしか聞こえない超音波を発するのだ。

 
 その音色をもって小型霊獣に催眠術をかけ、体の支配権を奪って意のままに操る能力。

 
 正面きっての戦いに向いた能力ではない。

 事実、彼女の戦闘力は他の二人に比べて劣る。


 だが……このような集団戦ともなれば、話は別だった。
 

 味方の身代わりとしての防御。

 死角からの威嚇。

 敵の注意を引くための囮など、彼女の能力の用途は広い。


 戦闘の補助において真価を発揮する中距離型。

 それがカシオペア座の“魔笛”だ。
 

 腹を貫かれたことで大柄の霊獣は倒れ伏した。


 そのまま元の数体へと分離していく。

 今の一撃によって二体ほど絶命したようだが、気にする者はいない。
 

 肩から血を流しながら、紗百合は動き続けた。


 止まっていれば一気に狙い撃ちにされてしまう。

 ゆえに体力の消費を知りながら動き続ける他なかった。
 

 この連中、個別で見ればかなり隙がある。

 一体一の勝負なら自分に分があっただろう。


 だが集団戦でのこの三人は、かなりの手練だ。
 

 接近型のヒドラ。
 
 中・遠距離型のモノケロス。

 補助能力に長けたカシオペア。


 それぞれの欠点を補いあい、無駄の無い攻めを繰り出してくる。

 集団戦での訓練を積んでいるのだろう、その連携には一分の乱れもなかった。
 

 正直言って、かなり圧されている。


 休むまもなく襲いくる三人の攻撃をかわし続けたため、体力はかなり消耗したし、手傷も負ってしまった。

 このままでは、やがて力尽きるのは明白だった。
 

 激しい疲労と傷の痛み。

 そして見えない勝機が、彼女の注意力を鈍らせていた。


 突如足元の地面が割れ、そこから紫色の矢が出現する。

 矢は斜め上方に飛翔し、紗百合の胴を襲う。


 無論、紗百合は回避を試みたが、一瞬間に合わずに脇腹をかすめ斬られた。
 

 矢にはそれまでにない、鋭い回転がかかっていた。

 その回転が、傷口をより深刻なものにする。

 
 飛来する矢には注意を払っていた紗百合だが、射手の動きにはさほど関心をもっていなかった。

 モノケロスはそこをつき、高速回転をかけた矢で地面を掘り進ませ、下からの奇襲をかけたのだ。
 

 今度の傷はかなり深かった。

 致命傷とはいかないまでも、戦闘力の低下は否めなかった。
 

 染み入るような痛みが、一瞬意識を朦朧とさせる。

 足元がおぼつかなくなり、上体が揺れた。


 このままでは、負ける。

 ……そして死ぬ。


 自分が死んだら、早人もすぐに殺されるだろう。

 自分は彼の命も背負っている。


 負けるわけにはいかない。


 成し遂げねばならないことがある。

 果たさなければならない義務がある。


 それを成就させるため……自分は全てを捨て、この血塗られた道に足を踏み入れたのだ。

 まだ、死ねない。


「……」

 やむえまい……まだ使いたくはなかったが、“奥の手”を使わなければもはや勝ち目はないだろう。

“奥の手”を使えば、目の前の連中など敵ではない。


 だが自分が支払う代償も、また大きい……





 そんな紗百合の思惑など知る由もなく、モノケロスは勝利を確信していた。


 疲労と痛みのあまり、敵は目に見えて動きが悪くなっている。

 もはや仕留めるのは時間の問題だ。


 ならば、みすみす手柄をヒドラやカシオペアにくれてやることはない。

 この一角獣座……モノケロスの矢で、幕を引いてやろう。


 ゾルダートにおいて、最強クラスの射程と貫通力を誇るこのアーティファクトこそ、奴の首をとるにふさわしい。

 矢をつがえ、照準を相手の心臓にあわせる。


 狙いは完璧。

 この距離なら、かわされることはありえない。


 これで、終わりだ。


「死ねぇ」

 狩人を気取った顔が、醜く歪んだ。


 その時……背後からの声。


「お前がな」




 彼の時間が静止した。


 弦を引こうとする指に、なぜだか力がこもらない。

 腹のあたりに、なぜか冷たい感触がした。


 ぽとり、ぽとり。


 水滴が零れ落ちる音が聞こえる。

 下を向くと、答えはそこにあった。


 細く長い鋼が、自分の腹部から突き出ていたのだ。

 それを伝い、本来自分の体を巡るはずの赤い液体が、床に滴り落ちていた。
  

 認識とともに、堪え難い痛みはやってくる。 

 力を振り絞って、首を後ろに向ける。


 見開かれた眼に、よく見知った者の姿が映った。


「コル…ブス……」
 
 乾いた唇が、かすれた声を紡ぎ出す。


「貴様……なぜ……」
 
 それが、最後の言葉だった。


 白刃がゆるやかに引き抜かれる。

 モノケロスの称号を持つ男は、自らの作った血溜りの中へと撃沈していった。
 

 主の手を離れた弓と矢は地面に転がる。

 やがてそれらは激しく収束していき、元の一角獣の彫像へと戻っていった。
 

 異変に気付いた三人は急遽戦闘を中止し、視線を集中させる。
 

 倒れゆくモノケロスの体。

 その先に立つ、血塗られた刃を持つ者。


「「コルブス!?」」

 ヒドラとカシオペアの叫びが重なった。


 彼らの眼前に現れたのは、彼らがコルブスと呼ぶ男だった。

 刃についた血を丁寧に拭き取りながら、冷笑を浮かべて彼らを眺めている。
 

 紗百合はおろか、ヒドラとカシオペアですら事態が飲み込めず呆然となった。

 あまりにも唐突に同胞が倒されたと思いきや、手を下したのが姿を消していたもう一人の同胞だったのだ。
  

 戦慄に満ちた空気が、その場を支配する。


「なんのつもりだテメエ!? 気でも違ったか!?」

 いち早く思考を再開したヒドラが、激しい怒号を上げた。

 水城は意に介さず、飄々と答える。


「気でも違った……ね……万年トチ狂ってる奴に言われるのも心外だな。ご心配なく、俺はいたって正常かつ冷静だよ」
 
 本心の見えない不敵な笑みと気取った台詞は、さらなる不気味さを周囲に与える。


 今度はカシオペアが問い詰める番だった。


「あんた……自分のやったことがわかってんでしょうね? ニブルへイムを裏切る気!?」

「裏切りってのは、一度本心から結んだ信頼関係を崩すことだろ。俺の場合……予定通りのことをしてるまでさ」


 “予定通り”……その言葉に皆が反応した。


 それが真実なら、水城は最初からこの展開を予期していたことになる。

 では、この戦い自体がこの男が仕掛けた茶番だとでもいうのだろうか。


「そういうことらしいよ、先生」

 ふいに別の声がした。


 紗百合が振り返ると、入り口に銀髪の少年……早人が立っていた。

 ところどころに戦闘の痕らしき負傷が見られるが、表情は落ち着いている。


「早人くん!?」

 驚きの声をあげる紗百合に、早人はゆっくりと歩み寄っていく。


「どういうことなんです……これは?」

 尋ねられると、早人は困ったように語尾を濁した。


「えーと……あの水城っていう人がぼくらを呼び出したコルブスで……さっきまで闘ってたんだけど……突然、僕たちの味方になるって言い出して……」

 ひどく要領の悪い説明は、彼もまだ事情はほとんど知らされていないからだ。


 あの後……唐突に水城が試合を放棄したかと思えば、自分たちの味方になると言い出したのだ。

 到底信じ難い申し出だったが、実力で適わない以上交戦を続けるわけにもいかなかった。


 あとは、言われるがままにここについてきただけである。


「綾瀬先生だったか? 三対一で、ここまでもちこたえるとは大したもんだ。期待通りの使い手でうれしいよ、組む価値はありそうだ」

 水城は紗百合のほうを向き、親しげに語りかけた。

 その様子からは、本気で仲間になる気でいることが覗える。


 だが穏やかな眼は、敵の接近とともに再び細められた。


「予定通りとか言ったな……それじゃあ何か? テメエは最初から、こいつらに寝返る気でいたってことかよ!?」

 落ち着きを取り戻したものの、ヒドラの表情は険悪そのものだ。

 もとから犬猿の仲だったこともあいまって、それは憎悪の域まで達している。
 

 水城は表情を変えずに答えた。


「そうさ。元々、俺の本職はあの二人に近いんだ」


 そこまで言うと、カシオペアの脳裏に理解の火花が散った。
 

 そう言えば、この男の言動。

 この手口。

 
 最近になって、組織に入り込んだのは誰だったか。

 抹殺命令が下るまで、一人霊獣狩りの討伐に消極的だったのは誰だったか。


「まさか……最近暴れまわってた、もう一人の霊獣狩りってのは……!」

「俺に決まってるだろう。阿呆が」

 あっさりと、水城は肯定した。


 最初の霊獣狩り、綾瀬紗百合より後に現れた、もう一人の霊獣狩り。


 元祖に劣らぬ実力を持つとされ、わずかな間に多くの霊獣を葬った人物。
 
 抹殺命令が下ると同時にカシオペアたちは調査を続けたが、発見することはできなかった。
 

 当然だ。


 捜す側の人間が犯人では、見つかるはずもない。

 何食わぬ顔で組織の一員と化していたこの男こそ、その正体だったのだから。
   

 この男が霊獣狩りに無関心を装っていたのは、面倒事を嫌ったからではない。

 自身とその同類である紗百合に、討伐の手が伸びることを避けるためだ。
 

 それに気付くことのできなかった己の不明を、カシオペアは悔いた。
 
 そしてここまでくれば、もう一つの事実にいきつくのも容易なことだ。
 

 この舞台を用意したのは誰だったか。

 ここに自分たちを集めたのは誰だったか。
 

「じゃあ……あんた……ここを戦場に指定したのは……!」
 
 今頃全てを悟った相手に、水城は嘲笑を浮かべて答えた。


「そう、“お前ら”を始末するためさ」

 真の標的は、早人たちではなく、三人のゾルダート。

 罠にかかったのは、罠を張って待ち構えている気でいた者達だった。


「誰かを始末する前に、自分たちが始末される可能性を考慮しておくべきだったな……世の中、どこに敵が潜んでいるかわからないもんだぜ?」

 冷酷に告げる。


 その手に握る霊刀“鴉翼”の放つ妖しき輝きは、主の殺気に呼応するかのように輝きを増した。


 水城は言葉を発した。

 愚かな獲物たちへの、別れの言葉を。


「さあ……処刑の時間だ」





 張り詰めた空気が場に満ちる。


 ヒドラとカシオペアから驚愕の色が失せ、かつてないほどの殺気が放たれた。
 
 彼らの敵意は、先程まで交戦していた相手より優先に、同胞を殺した裏切り者に向けられる。

 
 ヒドラが前に踏み出し、カシオぺアを手で制した。


「手を出すなよ、カシオペア……こんな野郎、俺一人で充分だ」
 
 カシオペアは無言で了解の意を示す。


 水城の実力がどの程度なのか彼女は知らないが、ヒドラの力量は信頼している。


 何より、ヒドラは以前から水城を敵視していた。

 自分の手で始末をつなければ、気が済まないのだろう。


 わずかな間合いを境に、両者は睨み合う。


「てめえが敵になってくれたのはある意味うれしいぜ……これで遠慮なく、そのふざけたツラを斬り刻めるからよ!」

「気が合うじゃないか。俺も、お前の馬鹿ヅラを拝まなくて済むようになるのを喜んでたとこだ」

「ほざけ!」

 ヒドラは一足跳びで間合いを詰め、鉤爪を振りかぶった。


 三本の毒牙が弧を描く。

 防御は不可能。


 皮一枚斬られることさえ許されない斬撃だ。


 奴にできることはただ一つ、お得意の素早さを生かしてかわすこと。

 よってヒドラは、水城が逃げる場所に目星をつけ、追撃の方法を既に決めていた。
  

 そのため、甲高い金属音が鳴り響いた時、彼の眼は見開かれる。


「馬鹿な……!」

 水城は回避ではなく防御を選択していた。


 しかも彼の刀は鉤爪と接触しながら、少しも溶けることなく刀身を維持していた。
 
 こんなことは、ヒドラの経験上ありえないことだった。


「この霊刀・鴉翼は出雲水城流伝家の宝刀……数百年前の人間が造ったアーティファクトみたいなものか……まあ何にせよ、お前如きの力で溶かせる代物じゃない」

 魔性の刃は触れ合う鉤爪を威圧するように、銀の輝きを帯びていた。

 その内側には、今にも迸りそうな妖気を潜ませている。


 一方、一時屈辱が浮かんだヒドラの顔だが、それはすぐに笑みへと変わる。


「それがどうした? 爪を防いだところで、俺の毒液からは逃げられねえぜ?」

 その意味を水城が推測する前に、ヒドラのアーティファクトは変異した。

 手首を覆っていた装甲が外れ、その裏から第二の武器が出現する。


 細い筒状の物体。

 その先端が、水城に向けられる。


 これが意味するのは……


「喰らえ!」

 突如出現した砲身から、大量の液体が噴射された。


 鉤爪を浸していたのと同じ、毒と酸の性質をもつ液体だ。

 碧の篭手の内部には、それが大量に蓄えられていた。


 放たれた液体は水城のいた場所を覆い尽くし、地面へと広がる。

 半径一メートル程の範囲が、液化して地形を変えた。


 もうそこに、人のいた形跡はない。


「ハハハハハッ! 思い知ったか鴉野郎!! 俺らに歯向かったこと、どろどろになって反省しな!!」

 勝ち誇った哄笑が、部屋中に響いた。


 二つの性質を具える魔性の水。

 それを一気に噴出するこの技こそ、彼が長年隠していた奥の手だった。


 いかなる生き物とて、まともに受けて生きていられる者はいない。


 まともに喰らえばの話だが。


「随分とご機嫌だな」

 背後からの声。


 振り返ると、そこに冷笑を浮かべた水城が立っていた。

 体はおろか服にさえ傷一つついていないことが、彼が毒液を完璧にかわしきったことを物語っている。


 あの一瞬で毒液を避け、ヒドラの背後に回ったのだ。

 ヒドラはおろか、端で見ていたカシオペアでさえ呆然となる速さだった。


「チィ! 読んでやがったか……!!」

 忌々しげに舌打ちするヒドラに、水城は得意の毒舌でさらなる追い討ちをかける。


「いーや全然。そんな隠し芸があるとは知らなかったよ。ま、お前如きの小技、見てからかわすのでも充分間に合うってことさ」
 
 己の技への最大限の侮辱を受けたことで、ヒドラの怒りは頂点に達した。

 もはや技も策もなく、無謀な斬撃をしかける。
 

 その瞬間こそ、水城の狙いだった。

 相手が冷静さを失った隙に、必殺の一撃を放つ。

 
 水城流壱の太刀・“夜叉咬”


 音も無く、水城の姿が消えた。
 

 一閃される、銀光。

 吹き上がる、赤き鮮血。

 
 一瞬にして、ヒドラの背は斬り裂かれていた。
 
 その背後に立つは、刃を振り抜いた姿の水城。


「ガ……アッ……」

 言葉にならない呻きだけを残して、ヒドラは絶命した。

 血を撒き散らしながら、あえなく倒れ伏す。
 

 一瞬の出来事だった。
 

 水城がヒドラの背後に瞬間移動したとき、既にヒドラは絶命していた。

 紗百合とカシオペアの眼には、そんなようにしか見えなかった。


 だが優れた動体視力をもつ早人には、確かに見えた。
 
 あの奇妙な太刀筋の正体が。
 

 人知れず、唾を飲む。

 やはりあの男、自分とやりあったときは手を抜いていたのだ。

 
 そして……これが本気の力。

 
 音も無く敵を瞬殺する……美しくも、残酷な剣術。


「さて、と……残るはあんただけだな、カシオペア」

 冷酷な眼は、最後の獲物に向けられた。


 認めたくなかった。

 だがカシオペアの体は、隠しようのないほど震えていた。

 
 あのヒドラが、まるで相手にならなかったのだ。

 自分にどうこうできるはずがない。


 だが、もはや周囲を三人に囲まれている。

 撤退するにも、交戦する以外に手はない。


「くそ……!」

 笛を吹き、霊獣たちに攻撃させようとする。

 しかし、彼女の手足となり動くはずの霊獣たちは何の反応も見せなかった。

 呆けたように、何もせず宙に浮かんでいる。


「な……! そんな……!?」

 こんなことはありえない。

 この魔笛がある限り、霊獣たちは自分の意のままに動くはずだ。
 

 アーティファクトの故障?

 そんなことはありえない。


「さっきあなたが向こうの試合に見入っている間に、霊獣たちに“種”を植え付けさせてもらったんですよ」

 淡々と、紗百合が告げた。


「種は対象の体内深くに潜入し、私の意志で自由に発芽できます。……こんなふうに」

 紗百合の右手が淡い燐光を放つ。


 すると霊獣たちの小さな体を突き破り、シダ植物のようなものが一斉に出現した。

 血肉を蝕む、魔性の植物だ。

 
 霊獣たちは瞬時に絶命し、次々と墜落していった。
 
 唖然とする相手に、紗百合は歩み寄る。


「無駄な抵抗は止めなさい、もうあなたに勝ち目はありません。大人しくしていれば……再起不能にはなってもらいますが、命まではとりませんよ」

 ニブルへイムのゾルダートは、アーティファクトで武装した人間たちだ。


 そのためアーティファクトさえ破壊すれば、ただの人に戻ってしまう運命にある。
 
 だから紗百合は、寛大な提案をしてやった。

 
 カシオペアは暫し屈辱に顔を歪め、激しい憎悪をこめて三人を睨んでいたが、やがて開き直った笑みを浮かべた。


「馬鹿言わないでよ……」

 スーツのポケットから、小さな折り畳み式ナイフを取り出す。


 そんなもので何が出来る、そんな内容の言葉を紗百合と水城が口走ろうとしたが、カシオペアの狙いは違った。


 抜き身の刃を、迷うことなく、自らの心臓に突き刺したのだ。


 その行為を目にした時、その場の他の誰の表情にも、明らかな衝撃が映しだされた。

 およそ理解し難い、常軌を逸した行為だ。


 仰向けに倒れるカシオペアに、三人は駆け寄る。

 小さな刃はカシオペアの胸を深々と貫いていた。


 完全な致命傷だ。

 もはや助からない。


「馬鹿なことを……」

 憐れむような眼を向ける紗百合に、カシオペアは笑ってみせた。


「フフ……あたしだって、半端な覚悟でこの世界入ったわけじゃないんだ……敵のお情けで永らえるくらいなら……自分で死んでやるよ……」

 死を間際にした彼女の表情は凄絶だが、不思議と嫌悪を覚えるような毒気はなかった。


 そこには彼女が初めて見せる、歪んだ道に踏み込んだ者なりの、覚悟と誇りが映し出されていた。

 視界に映る小さな窓から、夜空を見上げる。


 その先にある、偽りの孤島に想いを馳せて。


「あたしはいつか功を立てて、アリエスたちと同じになりたかった……あの空に浮かぶ天国の住人になりたかった……それが叶わないなら、もう生きてる意味なんてないよ……」

 自嘲的な笑み。

 そしてその声は、どこか悲しげだった。

 
 かすんだ眼で、水城に視線を移す。

 鋭く細められた水城の眼は、逸らすことなくそれを受け止めていた。


「コルブス……あんたニブルへイムにたてついたのを……必ず後悔することになるよ……あんたたち如きがもがいたとこで……あのアリエスには勝てやしない……ビスケスにも、タウルスにも……」

 血に染まった唇がかすかに動き、呪いの言葉を紡ぎ出す。


「せいぜい……あがくといいよ……」


 その言葉を最後に、カシオペアは息絶えた。


 物言わぬ亡骸を、水城は無表情に見下ろした。

 紗百合は開いたままの眼をそっと閉じてやった。

 早人は複雑な思いで、立ち尽くしていた。


 沈黙を破るために、水城は息を吐く。


「さて、と……それじゃ、もう一つの目的を果たしにいくか」

 その一言で、紗百合は水城の意図を察した。


「やはりここは “ヴァルホル”の一つなのですね」

「まあな。装置はこっちだ、ついてきな」

 水城は踵を返し、先頭に立って歩いていった。

 紗百合もそれについていく。


 早人は一人残される形で、足元の亡骸を見据え続けていた。


 カシオペアという称号以外なにも分からない、名も知らない女。

 彼女もかつては、家族や友人のいる普通の女性だったのだろう。


 そんな彼女が何のために、何を思って、ニブルへイムの戦士などになったのだろうか。

 彼女は、ニブルへイムの住人になりたいと言った。


 それが意味するのは何なのか。

 彼女が望んだことは何なのか。

 あの島には、どんな価値があるというのか。


 自分はまだ、何も知らない。

 答えを得るためには、先に進む以外にないだろう。


 これから先も、多くの敵を作り、多くの苦難を越えていく道を……


「早人くん」
 
 先をいく紗百合が、早人に向き直った。


「残酷なようですが……敵の死に心を痛めていては、この先やっていけませんよ」

「……わかってる」

 神妙な表情で答える。


 紗百合はもう一度、確認するように言った。


「こうなってしまった以上、もう後には退けません……私たちか奴らか、どちらかが滅びなければこの闘いは終わりません」
 
 その言葉は、早人の心に重くのしかかった。
 

 頭にこびりつく雑念を振りほどき、前をゆく二人を追っていく。
 
 まだ、何も終わってはいない。
 

 ゆっくりと感傷に浸れるような日は、まだ遠い。





 霊獣生産施設“ヴァルホル”……その核となる装置は、今しがた戦闘の行われた建物の真下にあった。

 床の一部がカモフラージュの蓋で、そこから地下への階段が続いていたのである。
 

 埃まみれの足場と、カビ臭い空気。
 

 それはこの施設に、もうしばらく人の手が加えられていないことを物語っていた。

 最低限の照明は備えられているものの、道は灰暗い。
 

 階段を下りきると、そこに広い部屋があった。

 学校の体育館の半分程度の規模はあるのだろうが、その大半を占拠するもののせいで、あまり広さを感じない。
 

 あたりを占める、機械。

 機械。

 機械。

 
 飛行機の管制塔、あるいは宇宙船の内部のように、部屋中を金属の塊が埋め尽くしていた。

 市販のものと思われるパソコンから、正体不明の計器類、はては何かを貯蔵するタンクまで、その種類は多岐にわたっている。
 

 それらの大半が誰の手も借りずに自動で動き続け、不気味に鳴動していた。


「これが……霊獣を生み出す装置か……なんていうか、すごく物々しいね……」

「B級SF顔負けのショボさだろ? ま、秘密結社気取りの連中のやることなんざ、実際はこの程度さ」

 素直に感嘆する早人に対し、水城は冷めた口調で言った。


 数多の機械の中で、ひときわ異彩を放つ存在が、最奥部にあった。


 それは一見すると“樹”としか呼びようのないものだった。

 床の一部が花壇のようになり、そこから天井までとどく太い樹が生えていたのだ。


 その樹皮は黒みがかった緑。

 葉はなく、むき出しの枝が縦横無尽に広がっている。


 さらにそこから、枝の太さに不相応なほど大きな丸い実が垂れ下がるように生っていた。


「あれは……樹……?」

「あれが、霊獣生産の大本となる装置 “ユグドラシル”だ。あの木の実みたいに見えるのがあるだろ? あれが霊獣の卵だ。あそこから生まれた奴を、そこらから引っ張り出してきた人間に憑依させて霊獣を造るってわけさ」

 よく見ると、木の実に見えた物はかすかに揺れ動いていた。


 中で霊獣の胎児が蠢いているのだ。

 その様子を眼にし、早人は生理的な不快感を覚えた。
 

 そして、部屋にはなにやら妙な臭いがたちこめていた。

 肉が腐ったような、鼻につく刺激臭。
 

 あたりを見回すと、右側の壁に奇妙な穴があった。

 大人一人が潜れそうなほどの、四角い穴。


 臭いはそこから放たれているように感じる。


「あそこは……?」

 好奇心で近寄ろうとした早人だが、その前に肩を掴まれた。


「――見ないほうがいい」

 水城は神妙な顔をしていた。

 彼がはじめて見せる表情だ。


「あそこには、出来損ないの霊獣やら……霊獣の憑依に適合できなかった人間やらの死骸が、山積みになって放置されてる。流石の俺も、あれを見たときは吐き気をもよおしたよ」

 それを聞き、早人は自分が見ようとしたものの恐ろしさを知った。


 想像するだけで、身の毛がよだつような思いになる。

 もし本当に目撃してしまったら、相当なトラウマになっていたかもしれない。
 

 水城はその話題を引き摺ろうとはせず、再び呑気な顔になる。


「ともあれ、これだけの装置をぶっ壊すのは一苦労だな」

「そうだね……」

 破壊目的でここまできた二人だったが、具体的にどうやって壊すかまでは考えていなかった。


 頑丈そうな金属の塊はそう簡単には壊れそうにないし、あの不気味なユグドラシルに近づくのはできる限り避けたいというのが本音だ。

 しかしそんな二人をよそに、紗百合は一人黙々と、手際よく何かをセッティングし続けていた。


 二人もようやくそれに気付く。


「先生……もしかして、それは……?」

「ほんの少し勉強すれば、素人一人でもこのくらいのものは作れるんですよ」

 彼女のいう“このくらいのもの”とは、化学肥料などを混ぜて作った爆薬に雷管を仕込んだ代物だった。

 ダイナマイトやプラスチック爆弾に匹敵する代用品だ。


「「マ、マジですか……」」

 青ざめた顔の二人の台詞が、見事にハモった。





 数分後……廃工場の地下から、耳をつんざく爆音が鳴り響いた。


 人知れず造られた悪行の場は、人知れず葬り去られてゆく。





 ヴァルホル破壊に成功した早人たちは、紗百合の部屋に凱旋していた。


 今はテーブルを囲み、遅い夕食をとっている。


 室内を照らす明るい電灯。

 温かい食べ物。

 呑気なバラエティ番組を映すテレビ。


 それらは、心身ともに疲れた三人を癒した。
 

 ……そう、三人である。


「……なんでキミまでいるんです?」

 紗百合の視線は、平然と飯を食う三人目をとらえた。


「ま、細かいことは気にせず。それに言うじゃないか、昨日の敵は今日の友ってさ」

「まだ日付は変わってませんよ」

 珍しく紗百合がツッコミに回る。


 ヴァルホルを破壊した後、水城優也はなぜか早人たちにくっついてここまでやってきていた。

 そればかりか、夕飯まで同席している始末だ。


「まあまあ先生……水城さんがいたから、今回は上手くいったんだし……」

 間をとりもつために、早人は愛想笑いを浮かべた。


 何かと苦労の多い十四歳である。

 近いうちに胃炎持ちになる可能性大である。


 紗百合は緑茶を啜りながら言った。


「まあ、百歩譲ってそれはいいとして……そろそろ語ってくれませんか? あなたが私達の側についた理由を」

 隙の無い眼差しで水城を見据える。

 水城の顔から表情が消える。


 二人の視線が交錯した。


「あなたは最初から連中を裏切るつもりだったそうですね。一度はゾルダートにまでなったあなたが、今更連中を敵に回したのはなぜですか?」

 その後、互いに腹を探り合うような沈黙が続いたが、先にそれを放棄したのは水城のほうだった。


 静かに眼を閉じ、息を吐く。

 かなわないな、といった具合だった。


「俺は元々、内部情報を探る目的でニブルへイムに潜り込んでたのさ」

 味噌汁を一口啜った後、続きを述べた。


「まあ簡単に言えば、ニブルへイムを潰したがってる物好きな野郎がいてね。そいつに雇われたんだよ」

 普通の高校生にあるまじき台詞を平然と言ってのける。


 当然の如く、早人は疑念を抱いた。

 もはや水城が、ただの学生でないことはわかりきっていたが。


「雇われたって……その……水城さんって、高校生じゃないんですか……?」

 その問いには、焼き鮭を口に運ぶ水城に代わって紗百合が答えた。


「彼の通り名は “処刑人”水城……有名な始末屋ですよ」

 当の本人は鮭を噛み砕くと、楽しげに微笑した。


「なんだ、知ってたのか」

「さっき思い出したんですよ。銀縁眼鏡をかけた日本刀使いの始末屋なんて思い当たる節は一人しかいませんからね」

 平然と言葉を交わす二人に挟まれ、早人は青ざめていた。


 始末屋……つまり殺し屋みたいなものだろうか。

 でも先程からの水城の言動を見て取れば、それもわかる気がする。


 さりげなく、数センチほど紗百合寄りに移動した。

 やたらと裏社会の情報に詳しい紗百合も、正直どうかと思ったが。


「……で、あなたの雇い主とは?」

 落ち着いた表情で、紗百合はさらに問う。

 しかし今度は、水城は飄々と受け流した。


「悪いがそれは言えない。依頼人との契約でね」

 紗百合は少々訝しげな顔をしたが、それ以上追求しようとはしなかった。

 水城は足を組み、紅茶を啜る。


「ま、報酬がよかったんでとりあえず請け負って、上手く組織に入り込んだまではいいものの……調べてくうちに、連中が思ったより手強いことがわかってきてな。流石に、俺一人だけで行動を起こすわけにいかなかったわけだ。そこで仕方なく、あんたの真似して末端の雑魚を細々と掃除してたわけさ」

「要するに……スパイ活動始めたはいいけど、途中で怖くなって何もできなくなってたわけですね」

 鋭い指摘を受け、水城は少しギクリとした。


 どうやら図星だったらしい。

 面白くなさそうに口を尖らせる。


「し、慎重に機を覗ってたって言ってほしいね……」

 さしもの彼も紗百合相手ではペースを掴みきれないのか、ヴァルホルの時とは少々異なる表情を見せている。


「……ともかくだ。俺もあんたも少々派手にやりすぎたのか、四日前ついに上層部から抹殺命令が下っちまってね。……まあ、上の連中が本当に見つけたかったのは俺らじゃなく、どこかに消えた魔眼の行方だったようだがね」

 魔眼という単語を聞いて、早人は露骨に反応した。

 しかし、二人はそこに話題を振ろうとはせず、話を続ける。


「そこで、私たちを試すことを思いついたわけですね」

「そう……噂の元祖霊獣狩りと魔眼の持ち主が、本当にニブルへイムに対抗できるほどの使い手なら、上手く味方に引き入れればいい。もし組む価値のないようなクズだったら、そのままやりすごせばいい。どちらに転んでも、俺に損はないからな」

 冗談めかして、とんでもないことを言ってのける。


 溢れんばかりの腹黒さと姑息さが感じ取れる台詞だった。

 いや、ここまで黒い奴がいるだろうか。


「ま、この眼で見てわかったよ。あんたも早人も、充分組む価値のある相手だってことがさ」

 早人は少し怪訝な気持ちになった。


 紗百合が組む価値のある相手だというのはわかる。

 彼女は高い戦闘力と、冷静な判断力を兼ね備えている。


 だが、自分にはそのどちらもない。


 水城と闘ったときも、ただ一発当てるのが精一杯だった。
 
 水城が自分の何を気に入ったのか、彼には理解できなかった。


「そんなわけで……打倒ニブルへイムを目指す者同士、共同戦線を張ろうじゃないか」

 調子のいい話だったが、これは早人にとって嬉しい申し出だった。


 現在自分達は、戦力においても敵の情報においても明らかに不足している。


 腕が立ち、敵の内情にも詳しい水城は願ってもない人材だ。

 三人なら、僅かながら希望も見えてくる。


 しかし紗百合は、未だ胡乱げな眼をしていた。


「……何かなその眼は? 俺が信用できないとでも?」

「金次第で何でもするような人間を、信用しろというのが無理な話ですよ」

 どうやら彼女の眼には、水城は信用ならない奴と映ったらしい。

 その点では早人もやや同意見だったため、表立って反論することはできなかった。


 水城は気を悪くした様子もなく、笑みを浮かべたまま言う。


「ま、そう言うなよ。無事勝利した暁には、俺の報酬の二割くれてやるからさ」

 その時、紗百合の耳たぶがステキな具合にピクッと動いた。

 飼い主からご飯の知らせを受けた雌猫のように。


「水城さん、先生はそんなことのために戦ってるんじゃ……」

 良識的な発言をしようとした早人だったが、それは紗百合によって遮られた。


「三割で手を打ちましょう」

 大真面目な顔だった。


 思わず早人がムンクの「叫び」のような顔になってしまうほど。
 
 本人はそんなことは気にせず、澄まし顔でぬけぬけと言う。


「これから、三人力を合わせてがんばりましょう」


(早ッ……!)

 わずかな交渉で、あっさりかたい絆を結んでしまう二人を目の当たりにし、早人は何も言えなくなった。


 何だか、この二人の仲間であることが無性に情けなくなってくる。

 これが大人の世界というやつだろうか……


 しかし、もう何を言っても無駄なようなので、仕方なく無難な話題を振ってみた。


「そういえば……水城さんはどこに住んでるの?」

 その問いを受けると、水城は待っていたとばかりに微笑した。

 悪戯小僧のような、楽しげな笑みだった。


「なんだ……やっぱり気付いてなかったか……」

 背もたれによりかかり、親指で部屋の壁を差す。


「俺はここの隣の住人だぜ」

 新たに恐るべき新事実が発覚した。


 紗百合はお茶を啜りながらマイペースに聞き流したが、早人はなんとも形容し難い顔で絶句した。


 これが、彼が例の果たし状を易々と投函できた理由だった。

 良くも悪くも世間のことに興味がない紗百合と異なり、彼は隣人の顔と名字をきっちりと覚えていたのである。
 

「とゆーわけで、これからもよろしく」

 奇妙な隣人は、楽しげに言った。

 こうして、三人の共同戦線が出来上がった。





 下界の情報は、小型霊獣により逐一ニブルへイムに伝達される仕組みとなっている。


 コルブスの裏切りと、部下たちの敗北。

 そしてヴァルホルの破壊……それらの惨状は、すぐにアリエスの知るところとなった。
 

 一つ目の小型霊獣は報告を終えると、怒りの矛先を向けられることを恐れて足早に去っていった。
 

 しかしそんな杞憂に反し、アリエスの表情には何の変化も浮かばなかった。

 水晶のような眼は、変わらず下界の明かりを見つめ続けている。


 今伝え聞いたのは、全て予想外の出来事だ。


 いかにアリエスが優れた知性の持ち主とはいえ、先のことを全て予期していたわけではない。

 しかし、その顔が驚愕や狼狽を見せることはない。

 
 アリエスとはそういう人物だ。

 たとえ何が起ころうと、変わらず氷のような冷静さと空虚な気配を保っている。


 仮に今見下ろす下界が火の海に包まれたとて、その心が動くことはないだろう。


「飼い鳥に手をつつかれたってところか……やはり鴉は飼える鳥じゃなかったようだな」

 傍らに立つ男は皮肉な感想を述べた。

 しかし、嘲るような毒気はない。


 むしろ盟友の失態を、穏やかに包み込むような寛容さを示している。


「すまない。彼の造反を見抜けなかった私の失態だ、許してほしい」

 アリエスは素直に非を認めた。

 自らの失態を否認し、いたずらに周囲の反感を買うような愚をアリエスは犯さない。
 

“牡羊座” ……アリエスの能力は万能にして究極だ。


 多様な局面に活かせる応用力と、あらゆる敵を葬り去る攻撃性を兼ね備えている。
 
 しかしアリエスが闘いに身を置くことは、ニブルへイムを統べる“天帝”により禁じられていた。


 今回の事態を報告したところで、許可は下りないだろう。
 
 ならばこの状況をどうするか……二人の間で、それは既に暗黙の了解だった。


 ゆるやかに、男は身を翻す。


「かまわんさ、丁度出番が欲しくて疼いていた頃だ。ウチの連中も、この俺もな」

 歩を進める盟友の背を、アリエスは静かに見据える。

 男は、アリエスの盟友であると同時に、最高幹部の一人でもある。


 その実力はアリエスをも凌ぐ。

 そしてその人望と、組織発展に尽くした功績は、幹部達の中でも群を抜いていた。


 ゆえに “天帝”は彼に、全天において最も強く、そして気高い称号を与えた。


「頼んだよ。“レオ”」

 レオ……獅子座の称号を持つ男は、穏やかな微笑を見せた。

 その瞳に、紅き光を宿しながら。





第4話 第6話

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