ニブルヘイム
我々の道に標は無い
行き先を選ぶは、己が魂
我等の道に在るのは常に、見果てぬ闇と
微かな灯火
第三話「魔眼」
柔らかなベッドの感触が心地よい。
周囲を外界から隔離する壁が、今は心強く感じる。
窓から見渡せる青空が……とは残念ながら、そうはいかず今日は曇りだが、これはこれで落ち着くと言えなくもない。
昨夜、命の危機を体験したことで、のんびりと自室に転がることのできる幸せが感じ取れた。
あの事件から、一夜明けた今日、早人は仮病を使って学校を休んだ。
あんな体験をした直後では、呑気に外出する気になれなかったのだ。
父親は、少し前から単身赴任で遠くへいっており、母親もパートに出ているため……今、家には自分しかいない。
先ほどからずっと呆けたような顔をし、死んだようにベッドに横たわり続けていた。
頭の中を、整理する時間が欲しかったのだ。
昨夜、綾瀬紗百合は、朝倉早人にその知識の一端を語った。
気絶した麻里をかついで林から公園に出た二人は、街灯の灯るベンチに腰を下ろして言葉を交わした。
「さて……どこから話しましょうか……」
さすがの彼女も、こういう状況までは想定していなかったのだろう。
少しだけ、何をどう語るか逡巡していた。
「そうですね……まずは、さっきの魔物……あれは“霊獣”と呼ばれる存在です」
思考はまとまったようだ。
滑らかに語り出す。
「あの島……ニブルへイムの住人によって造られた生き物で、人間の魂に憑依して心と記憶を侵食して成長し、やがては素体となった者の肉体と自我を奪って人の皮を被った化け物となります」
いきなり、突拍子もない話から始まったが、早人は黙って聞くことにした。
先程の非常識な出来事を彼に説明できそうな人間は、この隣に座る女教師しかいないのだから。
「奴らの任務は人間を殺してその魂を奪い、あのニブルへイムへと持ち帰ること……」
空を見据えながら語る。
その瞳の奥で何を想い、何を感じているのか、早人にはそれを察することはできなかった。
「魂を持ち帰る……? その、じゃあ……奪われた魂はどうなるの……?」
まだ半信半疑だが、話を聞きだすために早人は問いを続けた。
「二つに一つ……住人たちの奴隷にされて消えることもできないまま永劫弄ばれるか、もしくはあの世界への生贄にされるか……」
「世界への生贄……?」
意味不明な表現に、早人は首をかしげる。
その様子を見て、紗百合は話を違う方向にもっていった。
「さっきから私は魂と言っていましたが、それは決して科学と無縁の魔術や妖術に属する概念ではありません。人間の霊魂……とりあえず便宜的にそう呼んではいますが、ともかくそれに相当するものは科学的な物質として存在しています」
流暢な口ぶりと、他者が理解し易いように選んだ言葉。
今、早人に知識を授けている彼女は、普段学校で教鞭を振るっている時より、はるかに教師然としていた。
「生物が外界からの刺激を感じたり、肉体を動かしたりする原理は脳が発する電気信号で説明づけられていますが、内面的な思考そのものがどこから発生するかは、現代の科学ではまだ解明されていません」
冷涼な夜風があたりを吹き抜け、闇に染まった周囲の木々を不気味に揺らした。
紗百合の唇は、続きの言葉を紡ぎ出す。
「そこで、一部の学者が唱えだした仮説が“幽子”です。私はその道の専門ではないので、細かい説明はできませんが……幽子とは原子核よりはるかに小さな極小の物質で、それが結合することで思考の核となる霊魂を形成している、と言われています」
しだいに、話に真実味がわいてきた気がする。
聞く者を納得させる不思議な気配が、彼女の言葉と瞳にはあった。
その瞳が見据えるのは、天空の巨魁。
「あのニブルへイムは、その幽子で構成されています。けれど幽子はそれ単体のみでは、結合を長く維持することができない……放っておけば、あの島は自然と消滅してしまう。だから、住人たちは同じく幽子結合の技術で生み出した霊獣を使って人間から魂を奪い、それを分解して幽子を供給しているんですよ」
朧げながらも、その構図を理解した時、早人は悪寒を感じた。
神妙に尋ねる。
「じゃあ、これからも人が殺され続けるってこと……?」
「ええ、この地域の年間行方不明者数を知っていますか? 全国平均の約十倍です。今、明るみに出ている遺体など、氷山の一角にすぎない……実際にはもっと多くの人が、霊獣の被害にあっています」
正直ぞっとした。
彼女の言葉が真実なら、先程自分を襲ったような魔物が他に大勢いて、それがこの街に多数潜んでいることになる。
人々は当然のように平和を享受しているつもりが、その実明日命を奪われるかもしれない、綱渡りの毎日を送っていることになるのだ。
それは、今までの人生感が変わるほどの衝撃だった。
そんな気持ちを察したのか、紗百合はいたわるような眼をした。
「安心して。奴らとて、自分たちの姿が明るみになることは避けているから、白昼堂々襲ってくることはありません。用心して、光のあたる場所でだけ暮らしていれば、まず大丈夫ですよ」
それが気休めであることは、早人にも分かった。
用心していようが、襲われる時は襲われる。
でなければ、幼い子供も含めて街中でこれほどの被害が出ているはずがない。
しかし、そう言ってやるほか方法がない。
そんな思いも理解できた。
「いつか……」
そこで言葉を区切り、紗百合は自らの想いを語った。
「いつか私が霊獣も、ニブルへイムも……全てこの世から消し去りますから……それまで辛抱していてください」
その眼には切実な思いと、強い決意が宿っていた。
その後、綾瀬は早人と麻里を家まで送っていってくれた。
早人はニブルへイムのことについて多くを尋ねたが、綾瀬はそれ以上何も教えてくれなかった。
早人の通う中学校の二階。
職員室。
多くの机が居並ぶ、雑然とした空間。
そこでは、多くの教員たちがそれぞれの仕事に励んでいた。
その中で、一人仕事に励んでいない者がいた。
「眠そうですね……綾瀬先生……」
隣に座る同年代の男性教諭が、見かねて声をかけた。
当の本人はというと、先ほどから頬杖をついたまま、ちびちび緑茶を啜っている。
そのまま、一向に動く気配を見せない。
そのとろんとしたやる気のない眼は、いかにも眠そうだった。
山積みの書類などは、きれいに机の端にどけられている。
ステキな職務怠慢ぶりであった。
「……昨日、八時間しか寝てないんですよ」
「へぇー、そりゃたいへ……ってちょっと」
あやうくのせられそうになった同僚だが、ツッコミどころに気づいて訂正する。
いったいこの女は、何時間寝れば気が済むというのか。
そこまで考えて、もう一つの事実が頭に浮かんだ。
「てゆうか先生……この時間、授業あるんじゃ……」
「……今行きます」
やる気のない声で、のんびり応える。
時計の針は、既に授業開始時間から十五分を経過していた。
露骨に難色を示す同僚など意に介さず、紗百合は自らの思索にふけり続けた。
彼女は今、一つの問題と一つの疑問について考えを巡らせていた。
まずは問題の方。
昨日倒した霊獣は、今まで始末したのと同じ雑魚に過ぎなかった。
奴の台詞ではないが、末端の霊獣を一体一体始末したところできりかない。
彼女が始末する以上の早さで、霊獣は生産されていくのだから。
奴らを一網打尽にするには、一刻も早く“ヴァルホル”の場所をつきとめねばならない。
しかし、それには“ゾルダード・クラス”以上の者を引っ張り出して、口を割らせねばならないだろう。
しかし、連中がそう簡単に重い腰を上げるかどうか…
こうしている間にも命は失われていく……何か手を打たねばならない。
そして疑問とは、昨夜助けた教え子、朝倉早人のことだった。
あの時、相原麻里にとり憑いていた霊獣が彼を襲ったのは、彼への好意が歪んだ形で現れた結果なのだろう。
ニブルへイムが見えること自体には、霊獣はさほど関心を抱いていなかった。
だが、考えてみればこれは異常なことだ。
幽子の結合体であるニブルへイムが見えるのは、あそこの住人か、もしくはそれによって造られたもの、あるいは自分のように特殊な「力」をもった人間のみに限られる。
朝倉早人は、平凡な家庭に生まれた平凡な少年。
特異な血筋でもなければ、特殊な訓練も受けていないことは調べるまでもなく明らかだ。
その彼が、あのニブルへイムが見えるのはなぜなのだろうか?
昨晩から紗百合はそのことばかり考えていた。
なぜかそのことが頭の隅に引っかかり、離れることがなかった。
もう一度、昨晩の彼の言動を振り返る。
「この眼が見えるようになってから……ずっと見えてる……」
たしか、そう言っていた。
彼は生まれた時から、盲目の少年。
それが一ヶ月前、手術によって常人並みの視力を手にしたという。
盲目だった眼……見えるようになった眼……あの島が見える眼……
まさか……
だとしたら……
漆黒の眼が見開かれた。
そのまま即座に席を立つ。
突然のイスが倒れる音に、他の教員たちの視線が紗百合に集まった。
彼女はかまわず部屋から駆け出し、全速力で学校から出ていった。
残された同僚は事態が把握できないまま、呆けた顔でそれを見守っていた。
一人で何かをすることは認められなかった。
一人でどこかへ行くことは許されなかった。
自分は弱いから。
眼で見ることのできない、劣った人間だから。
誰もそうは言わなかったが、誰もがそう思っていることを知っていた。
だからあの日、一人で外に出た。
行き先はない。
目的もない。
ただ、一人で何かができることを認めさせたかった。
証明したかった。
自分を縛りつける大人たちへの、初めての、小さな反抗だった。
そしてそれは、見事に失敗に終わった。
もともと周囲の景色を知ることの出来ない身で、あてもなく彷徨えばいずれ道に迷うのは当然だった。
それすら気付くことのできないほど、この時の自分は無謀で、愚かだった。
最初は周囲にあった人々の声も聞こえなくなり、自分がどこにいるのかわからなくなった。
足は疲れ、喉は渇き、腹は飢えてきた。
初めは暖かかった空気も、しだいに肌寒くなってきた。
多分、気付いた時には既に夜になっていたのだと思う。
もう帰ることはできないのではという恐怖が生まれ、一人で外に出た後悔がつのり、人恋しさにうちのめされた。
幼かった自分はその重圧にたえられず、終いには泣き出した。
それからどれほど泣いただろう……涙も枯れ果てた頃、その声は聞こえてきた。
「どうしたの? こんな夜中に……」
女の子の声だった。
静かに澄みきった綺麗な声。
どこか他の人間とは違う響きをもつそれは、どこか神秘的でもあった。
「キミ、迷子?」
泣きながら頷くと、少女は優しく微笑んだ。
「じゃあ、一緒にお家へ帰ろう」
そっと差し伸べられた手を、恐る恐る掴んだ。
その手はとても小さく、とても暖かかった。
暗い夜道を、二人で歩いていった。
それが、あの少女との出会いだった。
それから彼女は何度も逢いに来てくれて、何度もいろんな言葉を交わした。
キミはどこから来たの? と聞いた。
彼女は答えてくれなかった。
キミはどこに住んでるの? と聞いた。
彼女は答えてくれなかった。
家族や友達はいるの? と聞いた。
彼女は答えてくれなかった。
どこか悲しそうな気配をしていた。
キミは誰なの? という問いには、いつも答えてくれた。
「私はヒリカ。あなたの友達よ」
そう言われたとき自分は、嬉しそうに笑っていた。
誰もろくに相手にしてくれない、自分の友達だと言ってくれることが、ただ嬉しかった。
彼女が何を考え、何を想っているかなど考えたことは無かった。
何も、わかってはいなかった。
早人は、重い瞼を開けた。
どうやら寝転んでいるうちに、本当に眠ってしまったらしい。
時計の針は、さっき見たときより大分進んでいた。
今見ていたのは夢だったのか……それとも追憶だったのか……それは彼自身にもわからなかった。
いつまでもこんなことをしているわけにいかないな、明日はちゃんと学校に行こう……と思う。
学校に行けば、また新しい友達もできるかもしれない。
運がよければ、この先ずっと化け物に襲われないかもしれない。
運がよければ……またヒリカにも逢えるのだろうか……?
その時。
玄関のチャイムが鳴った。
甲高い音が、小さな家に響きわたる。
宅配便か?
それとも来客だろうか?
いくら動きたくないからといっても、これくらいは出ねばならないだろう。
宅配便ならハンコの一つでも押せばいいし、平日のこんな時間に自分を訪ねてくる相手には心あたりがないから、目当ては父か母だろう。
今は二人とも家にいないのだから、適当に一言二言でお引取り願えばいいだけの話だ。
怠けて重くなった体を持ち上げ、階段を下っていった。
ドアを開いて絶句する。
予想は後者が正解だった。
しかし、相手は自分の知り合いだった。
「あ……その、こ、こんにちは……」
相原麻里は、しどろもどろにそう言った。
早人はどう反応すればよいかわからず、硬直する。
「相……原…さん……」
かろうじて、それだけが唇から出た。
それ以外に、かける言葉が思いつかなかった。
麻里は、深々と頭を下げる。
「昨日は……その……ご、ごめんなさい! 」
謝ってすむことではないが、そう言う他ない……そんな思いが伝わってくる態度だった。
「私、どうしても朝倉くんに謝りたくて……許してほしくて……それで……」
ひどく思いつめた、今にも泣きそうな声。
それは、昨日までの元気ではつらつとした彼女とは、ひどく対照的だった。
早人は、対応について逡巡する。
あの教師は、憑き物が消えた彼女はもう無害だと言っていた。
本当だろうか?
たしかに、人を殺すことのできるような力はなくなったのだろう。
しかし、こうも言っていた。
あの魔物の行動には、彼女の意思も影響していた、と。
それは即ち、自分を殺そうという意思は、彼女自身のものだったということではないだろうか?
霊獣が消えたからといって、彼女を信用していいものだろうか?
自分には彼女を非難し、追い返す権利がある。
だが、彼にはどうしてもそれができなかった。
それが、朝倉早人という少年の人を許すことのできる「強さ」と「優しさ」だった。
表情を和らげ、半身になる。
「上がりなよ。少し話そう」
今、家に家族はいないので、早人は麻里を一階の居間に案内した。
長細いテーブル越しにイスに座る。
自分が寝間着姿だったことを思い出して少々恥ずかしくなったが、それは些細な問題だった。
「何か飲む?」
「ううん……いい……」
そのやりとりはぎこちない。
昨夜の出来事で、親密になりつつあった二人の間柄は、気まずいものとなっていた。
そのまま、何をすることなく、長い静寂が続いた。
そして、ついに麻里が覚悟を決めたように、胸の内を語る。
「朝倉君……私ね……キミのこと、その……すごくいい人だって思ってた。素直で……裏表がなくて……どんな話でも聞いてくれて……そんな人今までいなかったから……」
「だから、僕を……あそこに連れていこうとした……?」
言ってから、早人は自分の失言に気付いた。
一旦、口を開きかけた麻里は、また暗い顔でうつむいてしまった。
早人の言葉を、彼女は否定したくても、できないのだ。
かわりに、力なく言葉を紡ぐ。
「半月くらい前……私も霊獣に襲われたの」
突然の告白だった。
反応を選びかねている相手に、彼女は過日の出来事を語る。
三日月の輝く夜だった。
霊獣に襲われた時、麻里は泣いて命乞いをした。
すると別の人物が現れ、彼女を喰らおうとする霊獣を止めた。
何も知らない彼女の眼にも、その人物は目の前の霊獣より、明らかに格上に映ったという。
その人物は麻里に、『命を助ける代わりに、新たな霊獣の宿主になれ』という取引を提示した。
「霊獣を造るためには、素体になる人間が必要だからって……そう言ってた」
麻里は、その申し出を受けた。
死にたくなかったし、霊獣の宿主になるという話には、どこか魅力的な響きがあった。
彼女は常々、平凡な日常に飽きていた。
だから、現状に満足する級友たちと意思疎通が上手くいかず、親しい友人も作れなかった。
霊獣の宿主になれば、霊獣の力を我が物にできる。
そうすれば、自分は他人より一歩上の存在になれると思った。
そして彼女はその身に霊獣を授かり、ニブルへイムについて彼女の知るべき最低限の知識を与えられた。
その後は、見ての通りだと言った。
「私ね……昨日の記憶があるの。ううん、霊獣に憑かれたときから記憶はちゃんとあった。だからどんな考えでキミに近寄ったのか、あのとき何を考えてキミを連れて行こうとしたのか……しっかり憶えてる。霊獣の影響もあったんだと思う……でも、キミを犠牲にしようとしたのは霊獣じゃなくて、私の意思だったんだと思うの……霊獣はその背中を押しただけ……」
少女の抱える苦しみは、早人にも察せられた。
彼女は、霊獣を自らの心が生んだものと考えている。
事実、昨夜の紗百合も同じようなことを言っていた。
霊獣の人格は、素体の影響によって形成されるもの。
だから、その行いを自らの罪と同一視しているのだ。
そんな彼女を、早人は嫌ったり憎んだりすることができなかった。
友達として、許せなければならないと思った。
「いいよ、そんなこと……僕だって、とり憑かれてたりしたら何をしてたかわからない。きっとみんなそうだと思うよ。だから気にすることなんてない」
穏やかに微笑みかける。
そうやって人を安心させるのは、かつていた少女から学んだことだった。
彼女の言葉や行いは、今も早人に影響を与えている。
「先生のことは……?」
「あの人が出てきたとこまでは、憶えてる。でも、霊獣が私から離れたら、何もわからなくなったの……素体から分離すると、霊獣は別個の存在になるみたい」
つまり、あの時紗百合に襲いかかったのは、この少女ではなかったのだろう。
そう理解する。
「その後、先生が霊獣を倒してくれたんだよね……」
「うん……何か、妙な力をもってて、信じられないほど強かった」
「あの人、何者なのかな……?」
「わからない。でもいつか、自分が霊獣たちを消してみせるって言ってた……」
昨夜の会話が脳裏に浮かぶ。
彼女は、本気で霊獣たちと闘う気なのだろうか?
誰の手も借りず、一人で。
なぜ、そんなことをするのだろうか?
なぜ、彼女には霊獣と闘える力があるのだろうか?
なぜ、あんな知識を持っていたのだろうか?
思い返せば、疑問は尽きない。
麻里は、何かを決意したように言った。
「……私に憑いていた霊獣は“ヴァルホル”の場所を知らなかったみたいだけど、実は……私はうっすらと覚えてるの。正確な場所はわからないけど、どんなところだったかくらいは、覚えてる」
突然、謎の話題が来た。
しかし、麻里は早人が心得ているものと思ったのだろう、相手の困惑に気付かず続けた。
「私、このことを先生に言うわ……そうすれば、あの人なら……」
何かを期待するような、切実な眼差しだった。
彼女の言う“ヴァルホル”とやらが何なのか、早人は尋ねようとする。
そして、それは唐突にやってきた。
「ふざけるなよ」
突然の声。
早人でも麻里でもない、第三者のものだ。
それが、どこからか二人の耳に届いた。
二人とも、眼を見開いてイスから立ち上がる。
声の主は続けた。
「小娘。てめえに憑いてた奴の気配がなくなったから、何事かと見に来てみりゃあ……ヴァルホルの場所を人間に教えるだと? ふざけるのもたいがいにしやがれ」
ふいに、早人の後方の壁が変異を始めた。
正確には壁そのものでなく、そこから何者かが這い出てきたのだ。
水面から現れるように、硬い壁に波紋を生んで。
現れたのは、人外の者だった。
白い体表。
長い尾。
額を飾る角。
赤と黒の眼。
早人も麻里も、心臓が止まる思いだった。
霊獣だ。
先日の者より幾分筋肉質で背が低く、眼は大きな一つ目という容貌であるが、その外見的特徴は、紛れもなく霊獣そのものだった。
「出損ないの裏切り者が……どうやら仕置きが必要のようだな」
低く濁った声で言った。
その眼には、剣呑な光が宿っている。
「相原さん! 早く!」
その眼光を見るがいなや、早人は麻里の手を掴んで駆け出した。
一刻も早く、人通りの多い場所まで逃げなくてはならない。
しかし、数歩も進まぬうちに、その足は止まる。
いつの間にか、廊下にいたもう一体。
こちらは対照的な長身痩躯で、右腕に刃を備えていた。
二の腕から拳にそって伸びる、分厚い片刃だ。
「逃がしやしねーよ。てめーらはここで死ね」
非力な二人にとって、絶望的な状況となった。
この狭い家に、霊獣が二体。
挟まれた二人は、身を寄せ合うように背中合わせになる。
霊獣たちはじり、と間合いを詰めてきた。
麻里は震えていた。
遅かれ早かれ、こんなことは起こるかもしれないと思ったが、いざそれが現実の光景となると震えが止まらない。
それでも、彼女は勇気と責任感を振り絞って言った。
「お願い! 殺すなら私だけにして! この子は関係ないのよ!!」
悲痛な叫び。
しかし、霊獣たちにそれを受け入れるような情はない。
「関係ねえな。裏切りは極刑、そしてガキだろうが何だろうが、ニブルへイムの秘密の一端でも知った者は始末しろってのが、上からのお達しだ」
刃の霊獣が言い放った。
彼は、そのまま向き合う形になる早人に刃を振り上げる。
その時だった。
玄関の扉が、無造作に開けられたのは。
「早人ー、帰ったわよー」
パートに行っていた母親が帰ってきたのだ。
彼女は呑気な顔で廊下を数歩進み、そして繰り広げられている光景を目撃して絶句した。
平和なはずの我が家で息子と知らない女の子が、白い化け物に襲われている。
彼女が認識できたのは、そこまでだった。
次いで顔がひきつり、甲高い悲鳴を上げる。
刃の霊獣は冷徹な目で、吐き捨てるように言った。
「馬鹿女が」
右腕の刃が一閃され、母の体を切り裂いた。
肉は裂けず、血も流れない。
だが、母の顔には明らかな痛みが映っていた。
霊獣の中でも格付けはある。
上位の者には、それ固有の特性や特技を持つ者も存在した。
この霊獣の場合は右腕の刃がそれだ。
通常の物体を破壊せず、体内の幽子そのものにダメージを与える能力。
相手の防御を透過ことができ、また外傷を作らずに標的を殺せる暗殺型能力だった。
「早…人……」
息子に向けて手を伸ばしながら、母はうつ伏せに昏倒した。
そのまま微動だにしない。
早人の中に、恐怖を忘れるほどの怒りがこみ上がった。
「貴様ぁ!! 」
肉体という、唯一の武器を使って決死の特攻をした。
右肩を使って体当たりを叩き込む。
虚をつかれた霊獣はまともに喰らって多少のけぞったが、そこまでたった。
即座に、怒りを顕わにして反撃に転じる。
「ガキが!! 」
左の裏拳を叩き込む。
その一発で少年の小さな体は宙に浮き、後方の壁に激突した。
崩れ落ちるように尻をつく。
生まれてはじめて味わうような痛みに、早人は動けなくなった。
刃の霊獣は、止めを刺そうと歩み寄る。
そこへ、麻里が早人を庇うため割って入った。
「お願い! これ以上関係ない人を巻き込まないで!!」
霊獣は、それに対して何も言わなかった。
何の返答も、警告もなく、無言で少女を刺し貫いた。
「あっ……」
短い呻きとともに、麻里もまた母と同じく倒れ伏した。
その後頭部を、霊獣は容赦なく踏みつける。
「手間取らせんじゃねえよ、ガキが。クズはクズらしく大人しく死んでろ」
大きく分厚い足で、少女の髪をかき乱す。
命に対する、最大限の侮辱だった。
早人の中で、何かが切れた。
痛みも恐怖も忘れて吠える。
「やめろぉぉぉー!!」
再度、敵に向かっていった。
霊獣は刃を振りかぶり、その特攻を玉砕しようとする。
その刹那……
十近い刃がリビングのガラス戸を貫き、その全てが霊獣の体に命中した。
木の葉を硬質化した、鋭利な手裏剣だ。
まともに喰らった霊獣は、あえなくその場に倒れる。
ついで現れる、新たな来訪者。
どこからどうやってきたのか、綾瀬紗百合は砕けたガラスを踏みしめ、朝倉家に登場した。
「幸か不幸か……ほぼ、予想通りでしたね」
狭いリビングルームに、五体もの生き物がその身を置く。
その内の一人は、床に横たわる教え子を痛ましげに見つめた。
そして、倒すべき二体を鋭く見据える。
その手には既に、漆黒の木刀が握られていた。
手裏剣を受けた刃の霊獣は、よろめきながらも立ち上がっていた。
ガラスのせいで威力の落ちた手裏剣では、致命傷を与えるには至らなかったのだろう。
「今の力……さてはお前がそこの小娘の霊獣を殺った奴だな」
一つ目の霊獣が言った。
そして続ける。
「てめえも、あの人達と同じ“アーティファクト”使いか……そんなもん、どこで手に入れやがった?」
紗百合は冷静に目を細めた。
二体一でも、臆する気配はまったく見せない。
「ニブルへイムの住人だけが、幽子操作の技術を握っているわけではない……というだけの話ですよ」
その言葉で、二体の顔色が明らかに変わった。
それまでの緩んだ気配を消し、露骨な警戒態勢をとる。
「……どうやら、殺ったのは一体だけじゃないらしい。最近暴れまわってやがる霊獣狩り……てめえの仕業だな」
「……」
紗百合は答えない。
二体は、それを肯定の沈黙と受け取った。
それは、後方に控える早人も同様だった。
霊獣狩り……
そういえば、似たようなことを昨夜の霊獣も口走っていたことを思い出す。
どうやら紗百合は、ニブルへイムからも一目置かれる存在らしい。
刃の霊獣が進み出た。
「俺にやらせろ。さっきのカリを返してやる」
手を出すな、といった態度に一つ目は無言の肯定を返した。
霊獣は刃を振り上げ、紗百合に斬りかかる。
紗百合は、木刀でそれを捌こうとした。
早人は、母と麻里が斬られた瞬間を思い出す。
「先生、そいつは……!」
早人の言葉を聞くより早く、紗百合は防御を回避に変更していた。
瞬時に半身になり、木刀を透過してやってくる斬撃をかわす。
闘い慣れした彼女は、相手の微妙な表情の変化から、刃に隠された特性を見極めたのだった。
「フン、さすがにそう簡単には殺れねえか……だが、捌くことのできないこの刃から、いつまで逃げ回れるかな?」
霊獣は愉しげに笑った。
種を見破られたからといって、自分が負けるとは思っていない。
再度、斬撃を放つ。
しかし描かれた弧は、いとも簡単にすり抜けられ、木刀による反撃が彼を襲った。
痛烈な打撃をまともに受け、その場にうずくまる。
「雑魚霊獣相手に、守りに回る必要などありませんよ」
紗百合は、冷徹に言い放った。
彼女にとって、何の技巧もない大振りの斬撃をかわすことなど造作もない。
霊獣は目を剥くいて逆上し、再び斬撃を放ったが、それは空しく風を切った。
紗百合と相棒が交戦する中、一つ目は気配を殺し、静かに佇んでいた。
やはり、あの女は相棒一人では手に負えない。
自分が手を下す必要がある。
ずぶり。
その足が床に沈んでいった。
泥沼に沈み込むように。
こいつは自分の敵ではない。
闇雲に刃を振り回す相手を見据え、紗百合はそう判断した。
そろそろ反撃に転じて、仕留めようとする。
そのとき、すでに異変は起きていた。
早人も紗百合も、その事実に気付いた。
もう一体の、一つ目の霊獣。
あいつがいない。
紗百合は、刃の霊獣への警戒を怠らずにあたりに眼を配らせた。
だが、どこにも見当たらない。
逃げたのだろうか。
いや、先程の言動からしてその可能性は薄い。
どこかに身を隠して、不意を突こうとしているのだろう。
だとしたら、早くその場所を把握しなければならない。
一つ目は、内心ほくそ笑んだ。
血の気の多い相棒と異なり、彼は霊獣としては洞察力と判断力に長けた方だ。
決して、相手を侮りはしない。
確実に仕留めるため、慎重に動いていた。
なるほど、確かに同胞たちを十数体も始末してきただけはある。
戦い慣れしていて、動きに無駄がない。
その実力は、彼らの上位者であるゾルダード・クラスの者にもひけをとらないだろう。
相棒に注意を引かせておかねば、こうして隠れることもできなかった。
相棒と同様、この霊獣にも特性はあった。
無生物……つまり、岩や鉄などと同化して、その中に潜むことのできる能力。
それは、このような狭い屋内でこそ、真価を発揮する。
今、彼が潜んでいるのは、紗百合の真上の天井だった。
ここから奇襲をかけて、仕留めてやる。
頭上は人体にとって最大の死角、防御も回避ももっとも困難な場所だ。
まだ、奴はこちらの位置に気付いていない。
今なら殺れる。
眼前の敵が健在な以上、紗百合は一つ目の探知に意識を集中することができなかった。
かわりに早人は、必死に紗百合の“眼”になろうとした。
自分にできることは、それくらいしかないのだから……
たが、見つけられるはずもない。
必死にいたるところに視線を泳がせるが、どこにも見えない。
時は無情に、刻々と過ぎてゆく。
奴はいつ襲ってくるかわからない。
もはや時間がない。
心の底から、強く願う。
このままでは、先生がやられる。
母のように。
麻里のように。
自分を救おうとしてくれた人が傷ついていく……
そんなのは……もう嫌だ。
そんな悲しいものは……もう見たくない。
見たくないんだ。
強い“願い”。
それは時として、何かの引き金となる。
双眸に灯る、白銀の光。
瞳の奥底で、人知れず輝きを放つ。
全てが見えた。
自分をとりまく、周囲の世界が。
紗百合の、頭上に潜む人影が。
まだ、現実となっていない。
攻撃の軌道が。
それが見えたとき、思考より先に、叫んでいた。
「先生! 上だっ!!」
その絶叫に、紗百合は頭で考えるより先に反射的に従っていた。
視線を天井に向け、飛び出してきた霊獣の爪を紙一重でかわす。
霊獣と、紗百合自身の眼が、驚愕に見開かれた。
紗百合は、すかさず木刀を霊獣の喉元に突き立てる。
勝負は、そこで決まった。
「な、なんで……!?」
霊獣は、絶命する瞬間まで、攻撃が見切られた理由を悟ることができなかった。
紗百合の視線は、早人に集約する。
そこで彼女は、自らの予感が事実であったことを悟った。
宇宙のように、果てしなく深い……
闇そのもののような、漆黒の双眸。
銀河のように、渦を巻く……
瞳の奥で迸る、光の奔流。
間違いない、あれは……
「十二魔眼」の一つ。
全てを見通す眼……
「刻星眼」
紗百合は愕然とした。
予想はしていた。
しかし、それが現実となると、やはり驚愕は隠せない。
しかし、時間は止まってくれない。
彼女が我にかえったときには、相棒がやられて逆上した霊獣が、早人を標的にしていた。
「このガキ!!」
素早く背後に回りこみ、斬撃を浴びせようとする。
紗百合は助けようと身を乗り出したが、彼女の位置では間に合うはずがなかった。
刃が大きく弧を描く。
紗百合のような手錬ならいざ知らず、ただの少年にかわせる攻撃ではなかった。
しかし魔の瞳は、全てを見通す。
背後から襲いくる刃の姿。
その軌跡。
その全てが、時が止まったように、ゆるやかに見える。
大きく身を引き、紙一重でかわした。
分厚い刃が鼻先を通り過ぎてゆく。
霊獣は、刃を振るった姿勢のまま硬直する。
「もう誰も……お前らなんかに傷つけさせない! させてたまるか!!」
荒い息をつきながら、滝のように汗をながしながら、それでも早人は鋭い眼差しで言った。
「一度かわしたぐらいでいい気になるんじゃねえ!! ぶっ殺して……」
「させると思いますか?」
霊獣が言い終えぬうちに、紗百合は行動に移った。
彼女の右腕の皮膚を破って、幾本もの紐状のものが飛び出す。
それは「力」によって強化された、鋭い棘をもつ茨だった。
それらが霊獣の全身を絡めとり、瞬時にその動きを封じる。
「ガッ……!」
醜い呻き声が漏れた。
茨はただ動きを封じているだけではない、万力のような力で締め付けているのだ。
紗百合にとって茨は捕縛用の技だが、弱い相手ならそれのみで殺すことも可能だ。
「人の教え子を傷つけた罪、地獄で償いなさい」
冷徹な言葉とともに、茨に力を込める。
霊獣は断末魔を上げる間もなく、その身を無残に千切られた。
戦闘が終結すると、早人はその場にへたりこんだ。
緊張の糸が切れたのだ。
どんなに特異な力が宿ろうとも、彼自身は平凡な少年なのだから無理もない。
傍らに横たわる麻里を抱えて、涙を流した。
「相原さん……しっかり……!!」
かろうじて麻里の息はあったが、それはひどく弱々しかった。
すぐ隣で、紗百合も早人の母親の様子を診ていたが、こちらも息はあるが重体なのは間違いなかった。
紗百合は、気化していく二つの亡骸を見る。
先程の言動を見ても分かるように、どうやらこの二体は、相原麻里を始末しにきただけだったようだ。
しかし、朝倉早人が「魔眼」をもつことが上層部の連中に知れれば、自分が危惧したように刺客が放たれることは確実だろう。
自分の手で、守らなければならない。
母と麻里は、救急車によって病院に搬送された。
救急隊員に倒れた理由を尋ねられたときは、二人とも外傷はなかったので、突然原因不明の発作で倒れたと言ってごまかした。
隊員は訝しんだが、それ以上追及してはこなかった。
二人とも重体だが、命に別状はないらしい。
早人と紗百合は、複雑な胸中で去っていく救急車を見送った。
今、二人は朝倉家の小さな庭に佇んでいる。
既に、時刻は夕暮れ時となっていた。
「ねえ、先生……先生は霊獣を倒すために、闘ってるんだよね……」
静寂の中、先に口を開いたのは早人だった。
紗百合は神妙に答える。
「正確には、ニブルへイムそのものを消し去るためです。邪悪の根源が消えない限り、この街の人々を救うことはできませんから……」
「あの島がある限り……今日みたいに、人々が傷ついていく……」
呟くようなその言葉に、紗百合は何も返せなかった。
東の空はしだいに青みを帯び、頭上では烏が鳴いていた。
「早人君……私にも理由はわかりませんが、キミの眼には私と同じような……特殊な力がそなわっています」
確かに、理由は分からない。
だが、それが何の力であるか彼女は知っていた。
ニブルへイムが造り出した十二魔眼の一つ。
「刻星眼」
全てを見通す力だ。
「それは、ニブルへイムの住人にも匹敵する力ですが……連中がそのことを知れば、間違いなく刺客を差し向けてくるでしょう。キミの眼……正確には、そこに宿る力を奪うためにね」
紗百合の言葉を、早人は疑うことなく聞いた。
自分の眼に、何かの異変が訪れたことは、彼自身も本能的に自覚している。
まだそれが何で、どのようなものなのか、理解することはできなかったが。
「私には、二つ選択肢があります。キミを連中の目の届かない、遠くへ逃がすか……それとも、私と一緒に連中と闘ってもらうか」
早人は、神妙な面持ちになる。
それは、彼の人生を決める、大きな分岐点だった。
どちらを選ぼうと、先の見えない暗い道であることに変わりはないが……
「どちらがいいか、キミが決めてください。今すぐに」
二つの選択。
そう言った紗百合だが、自分が本心では後者を期待していることは自覚していた。
早人の「魔眼」の力を鍛えれば、自分にとって大きな戦力になるかもしれない。
しかしそれは、後戻りできない修羅の道に、彼を引き込むことになる。
だから本人の決断に、全てを委ねる他なかった。
早人は口を開く。
「僕は臆病だよ……ずっと前から弱虫だった……」
唐突な言葉。
紗百合はその真意が見えず、呆然となる。
「見えない世界を一人で歩き回るのが怖いから、家にとじこもって……盲目を馬鹿にされたり見下されるのが怖いから、誰ともろくに話せなかった……一人じゃ、怖くてなにもできなかったんだ」
幼い頃、いつも一人だった自分。
どこへも行かず、誰とも交わらなかった自分。
そして今日、恐怖に怯えて自室に閉じこもっていた自らが、脳裏に浮かんだ。
「今だってそうだ……またあんな化け物たちと関わるのは、怖くてたまらない……痛いのは嫌だし、死ぬのも怖い……」
臆することなく、心情を吐露した。
今まで、ただ一人にしか心の内を語れなかった少年が、初めて見せる素顔だった。
以前の彼には、自分の弱さを認める勇気すらなかったのだ。
「でも、もう嫌なんだ……自分の殻に閉じこもって、大切な人が傷つけられても、隠れて震えてるのは……そんな自分が、僕は許せない」
うつむいていた面を上げ、紗百合の瞳をまっすぐに見据える。
紅の空を背に、静かに告げた。
「先生と一緒にいくよ。奴らを倒そう」
強い眼だった。
そこに宿るのは、強要されたわけでも流されたわけでもない、朝倉早人の確かな決意だった。
「それは、つらくて厳しい道ですよ。耐えられますか?」
覚悟の程を確かめるため、紗百合は問うた。
生半可な決意では、この道は進むことができない。
早人の脳裏に、かつての少女の姿が浮かぶ。
その言葉が、心に響いた。
それを、自らの言葉にする。
「どうなるか分からない明日に怯えて諦めたら、どうにもならない……僕はそう思う」
その顔には、微笑みが浮かんでいた。
「友達の受け売りだけどね」
紗百合は一瞬きょとんとした後、普段の無表情を消して微笑んだ。
進むべき道は決まった。
互いにもう、迷うことはない。
早人は、沈みゆく西日を眺めた。
紗百合に告げた言葉に、偽りは微塵も無い。
しかし、彼には言葉にできない、もう一つの想いがあった。
まだ予想とすら言えぬ、朧げな直感。
しかし、それは心に染み付き、離れることはなかった。
消えたヒリカ……
誰も顔も名も知らない少女……
もしかしたら、彼女は……あそこに……
日はやがて沈み、夜の世界がやってくる。
未来永劫、その理は変わらない。
金色の月の下、銀の弧が鮮やかに描かれた。
宙を舞う、霊獣の首。
重力に引かれ、ぼとりと地に落ちる。
他の霊獣たちが、驚愕に眼を見開いた。
「あ……あ……」
少女は、震えながら声をもらした。
驚愕と恐怖が混ざり合った表情のまま立ちつくしている。
彼女は、先程まで一人で夜道を歩いていた。
そこへ突然、化け物の群れが現れ、自分に襲いかかった。
そして、鋭い爪が自分の命を刈り取るかと思った瞬間……突如現れた男が、その爪の持ち主を斬り裂いた。
男の手には、一振りの太刀が握られていた。
月明かりに映えるその白刃こそ、霊獣の首を刎ねた兇刃だ。
「だ、誰……?」
「何もんだてめぇ!?」
前後から投げかけられる誰何に、男は微笑で応える。
「何……たいしたもんじゃないさ。ただの通りすがりの……極悪人だよ」
愉しげな声と、皮肉な台詞。
四体もの霊獣を前にしながら、臆するどころか余裕に溢れている。
それは光を避け、影に潜み、夜の世界に生きる、修羅の気配だった。
「ふざけんな! ぶっ殺してやる!!」
霊獣の一体が、果敢に向かっていった。
だがそれは、男の眼には無謀な特攻としか映らなかった。
「殺す……お前ら如きが、俺を……?」
言葉とともに、刃が一閃される。
霊獣の爪が標的に届く前に、その体は一刀のもとに切断された。
今一度、その場に戦慄が走り抜ける。
それを愉しむかのように、男はさらなる冷笑を浮かべた。
「面白い。死にたい奴からかかってきな」
霊獣たちの動揺は、ひどいものだった。
人間に恐怖と絶望を与えるはずの自分たちが、その逆の立場に立たされるなど、本来ならありえぬことだ。
特に構えることもなく、男は無造作に進み出る。
その顔から、冷笑が消えることはない。
むしろ刃を振るうごとに、嬉々としたものへと変わっていった。
今この時を、心底愉しむように。
月明かりを受け、銀の刃が妖艶に煌く。
「さあ……処刑の時間だ」
闇夜の世界で交わる魂が、また一つ……
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