ニブルヘイム





光を見れば、影に欺かれ
影を見れば、光を失う
卑しき理は、未来永劫不変に続く











第二話「天国」





 あれから、ひと月がたった……


 現代医療では奇跡ともいえる全盲からの回復を果たした早人は、すぐに盲学校から通常の中学校への移籍が決まった。

 今まで閉じこもっていた殻から抜け出し、健常者に囲まれて暮らす生活が始まったのである。


 とはいえ光を得たことで、背負うことになった課題は多い。


 まず、生まれた時から全盲だった彼は、点字は読めても目で文字を読むことはできない。

 したがって、まずはひらがなカタカナの勉強から始めなくてはならなかった。


 それに世界の色や形を知らなかった彼にとっては、目に映るもの全てが未知のものだった。

 漠然としたイメージはもっていても、それを眼に映る実物と重ね合わせるのが困難なのだ。


 そのため、日常生活や会話に支障をきたすことも、少なくなかった。






 だが、それらは所詮些細なことだった。


 ヒリカがいなくなったことに比べれば……


 あの日以来、ヒリカが早人を訪ねてくることはなかった。

 くる日もくる日も彼女を待ち続けた早人だったが、ついに待ちきれなくなって、自ら探しに出た。

 朝から晩まで、足に血豆ができるまで、街中を探し回ったこともあった。


 しかし、彼女は見つからなかった。


 途方にくれて、恥も外聞も捨てて彼女の名を叫んだ。


 しかし、何も起こらなかった。


 自分一人を除いた誰の記憶にも残ることなく、ヒリカはこの世界から姿を消していた。

 光を得て一番見たかったのは、空でも大地でも他の誰でもなく……彼女だった。

 それが叶わぬ以上、少年が望み得た光は半ば意味を成さなかった。


 一人の少女の消失が、少年の心にぽっかりと穴を開けていた。





 そして、彼の眼に映る世界にはもう一つの謎があった。


 天空に浮かぶ、あの「島」だ。


 うっすらとだが、その姿はまぎれもなく眼に映る。

 規模は、この街の何割かはあるだろう。


 そんなものが宙に浮いているというのに、誰一人としてその存在を認識していないようなのだ。


 あの島を見た直後から、早人は老若男女問わず周囲の人間に聞いて回った。

 しかし、誰もその問いを理解できる者はいなかった。


 誰も知らない、自分だけに見える島。


 その神秘性は、ヒリカの消失により生まれた穴を、わずかながら埋めていた。


 あの島の正体を知りたい。


 そう思うのに、さして時間はかからなかった。

 いつしか早人は、空を眺める時間が多くなっていた。


 それは、教室の窓際の席に腰掛ける今も同じだった。










「朝倉くん、いませんかー?」

「あっ、はい!」


 教師の間延びした声が耳に届く。

 名を呼ばれたことに気付き、あわてて意識を現実世界に戻す。


 そういえばここは学校、そして今は朝のホームルームの最中だった。


 あやうく欠席にされそうになった彼を、一人だけ茶化す者がいた。


「ダメだよ朝倉くん。あっちの世界にばっかりいってちゃ〜」

 となりの席の相原麻里だ。


 やや小柄な少女で、茶色みがかった髪をポニーテールにしている。

 性格は明るく、茶目っ気に溢れている。


 早人が転校してからというもの、よく話し相手になってくれていた。


「ゴメン……ちょっと眠くてさ……」

 早人は作り笑いで、要領悪く答える。


 以前まで人と交わることを拒否していた彼は、はっきりいって会話が苦手だ。


 まして、相手が女の子ならなおさらである。


 それでも最近は、彼なりにコミュニケーションをとる努力をしていた。


「あー、さては夜ちゃんと寝てないね? そんなんじゃ、ちゃんと背ぇ伸びないよー」

「べ、別にいいだろ…背は……」


 盲目だった早人とて、年頃の男の子である。

 自分が平均より小柄なのは、少なからず気にしている。


 それが目の前にいる女の子より低いなら、なおさらだ。


 密かに、毎日牛乳を大量摂取しているのは……誰にも言えない秘密である。


 早人の過敏な反応を見て、麻里はクスクスと笑った。

 この少女は、内気でおどおどしたところのある早人をよくからかってくるが、悪びれたところがないため早人は嫌気を感じていない。

 むしろ積極的に親しくしてくれる相手として、好感を抱いていた。


「えー……今日は、みなさんにお知らせすることがあります」

 壇上に立つ女教師がそう言うと、一旦生徒たちの視線が彼女に集まった。


 しかし、その後にあったのは……数秒の静寂。


 生徒一同が眉をひそめる中、教師は澄まし顔でトチ狂ったことを言った。


「……何でしたっけ?」

「「「知らないって!!」」」


 全員のツッコミが見事に重なる。


 そんなことは意に介さず、二年C組担任……綾瀬紗百合は、とぼけた顔で記憶の糸をたぐっていた。


 艶やかな長い黒髪と、漆黒の瞳。

 化粧っ気がなく、肌は雪のように白い。

 ややつり目気味だが、非常に端麗な顔立ちをしている、校内でも評判の美人だった。


 しかし、彼女はそれと同じくらい評判の……天然だった。


 国語教師のくせに、やたらと字を間違える。

 宿題の存在を生徒全員が覚えていても、出した本人は忘れている。

 たまに、平日と休日を間違えて学校に来ない……などなど、赴任してからの短い期間で犯した事件は数知れない。


 この春大学を出たばかりという新米教師だが、赴任一年目にして早くも「いつかクビになる」と囁かれる変わり者だった。


「えーと……そうでした。先日、清音川の河川敷でまた例の変死体が発見されたそうです。手口は不明ですが、警察は殺人事件とみて捜査しています。ですから……夜遅くに外を出歩くのは危険なので、部活動は五時半頃までにしてくださいね」

 上からの指示でとりあえず事件の話をした綾瀬だったが、その話はすでに大部分の生徒が知るところだった。





 近頃、この街では、奇怪な事件が続いている。


 街の各所で、次々と謎の腐乱死体が発見されるのだ。


 死体の身元は老若男女関係なし。

 幼い子供から老人にまで及んでいる。


 全ての犠牲者が行方不明となってから数日以内に発見されるという点。

 そして……この事件で最も奇妙な点は、全ての犠牲者が行方不明となってから数日以内に発見されるにもかかわらず、全ての死体が激しく腐食してしまっているということだった。


 先日発見されたというのは、その十八体目である。

 警察は、これを連続無差別殺人事件とみて、捜査を進めていた。





 生徒たちがそれぞれの反応を示す中、麻里は隣の少年に言った。


「……怖いよね」

「うん……」


 とりあえず首肯したが、早人は別段なんとも思っていなかった。

 所詮は対岸の火事だろうと、たかをくくっていたのだ。


 綾瀬はそれ以上事件について話すことなく、行動を自らの本職に移行した。


 彼女は国語教師。


 今日の一限目は、国語である。





「それじゃあ、授業を始めますね。まず、この前やった漢字テストを返しましょう」

 そう言って、紙の束をとり出し始める。

 しかし、生徒たちはそんなものを見た覚えはない。


「あれ、そんなんやったっけ?」

「センセー、それいつのやつ?」

 口々に声が上がる中、綾瀬は澄まし顔で答えた。


「四月にやったあれですよ」

 ちなみに、今は九月である。


(((それは「この前」じゃねえええええっ!!)))


 生徒一同の魂の叫びが、再び重なった。


 そんな調子で、二年C組の一日は過ぎていった。










 早人の住む天城市は、人口二十万人程度の地方都市である。


 南は海に面し、東は太い河川によって隣町と分断され、北と西には小高い丘陵地帯が広がる地形をしている。

 昔はどこかの大名の城下町だったらしく、その名残を偲ばせる城跡などが今に残っている。


 それ以外は、特に有名な名所や名物があるわけでもない……良くも悪くも平凡な街。
 

 謎の連続変死体事件が少々話題になっているものの、表面上のこの街は平和そのものだった。
 
 それは、この市立中学のグラウンドで球技を楽しむ子供たちを見れば、一目瞭然といえよう。
 




 四時限目の体育の時間。


 二年C組の面々は、グラウンドでサッカーやテニスなどの球技を行っていた。

 早人はソフトボールのグループに属し、センターを守っている。


 しかし、それは彼が望んでのことではなかった。
 

 本当はサッカーにいきたかったし、ソフトボールをやらされるなら一番球のこないライトあたりにいきたかった。

 だがどちらも叶わず、ジャンケンの勝敗やらその場の流れやらの結果こうなってしまった。


 よって彼のこのゲームにおけるやる気は皆無だった。
 

 もともと、彼は体を動かすことが好きではない。

 疲れるのが嫌だという年寄り臭い主張が、その理由だ。


 テレビゲームやボードゲームなどのインドア系には興味があるが、アウトドア系にはまったくといっていいほど関心がない。
 
 というわけで、他のプレイヤー達が打球が飛んだ飛ばないだので一喜一憂する中、約一名は冷めた眼でやる気のなさを全身で表現していた。


 もはや、打席のほうを見てさえもいない。


「あーあ……早く終わんないかなぁ……」

 呆けたように青空を見上げ、漠然と見つめる。


 あの白い雲のように、大空をプラプカ浮かべたら気持ちいいだろうなぁ……と、少し現実逃避臭い思考にふけっていた。


 その時ふいに、それまで雲すらなかった空の一角に、白いものがうっすらと見えてきた。


 小さな丸いもの。

 それがしだいに大きくなってくる。


「いったぞー!」

 チームメイトの叫びに我に帰る。


 後ろを振り向くと、白球が眼前に迫っていた。

 あまりに気を抜いていたため、打球が自分のほうに飛んできたことに気付かなかったのだ。

 
 ようやく危機を感知したものの、もう遅い。


 普通ならもろに球を喰らうか、紙一重で避けるかしかないタイミングだった。

 野球経験のない中学生では、まず取ることは不可能だろう。
 

 しかし、次の瞬間……早人はボールを掴んでいた。


 グローブをつけていない左手で。


「あっ……」

 自分のしたことに、自分で驚く。


 勿論、今の瞬間を見ていた何人かも目を丸くしていた。
 
 無駄な動作のない、静かなキャッチだった。
 

 早人自身、あの瞬間は確実にぶつかると思った。

 だが意外にも、眼前まできていたボールはなかなか進んでこなかった。

 
 動きがゆっくりと見えたのだ。

 だから取ることができた。


 何はともあれ、今のアウトで攻守は後退し、早人チームの攻撃となった。

 そして三回裏を迎えたこの時、最初のバッターは早人だった。


 チーム内での打順は一番最後。


 このことからも、周囲の彼に対する期待の薄さが伺い知れよう。
 
 無論、本人も必死こいて打つ気などさらさら無い。


 適当に三回バットを振って「ハイお終い」にするつもりだった。

 
 ソフトボールとはいえ、相手チームのピッチャーは野球部の少年が務めているので、球はけっこう速い。

 それに当たったところで、早人の技量とやる気では内野ゴロが関の山だろう。


 そういうわけで、この時まともな当たりが出ることは、自他ともに期待していなかった。
 

 ピッチャーが初球を投げる。

 早人はそれを真面目に見ていなかった。

 
 だが、見えた。


 ボールはさっきと同様にゆっくりと近づいてくる。

 そのため、縫い目まではっきりと見える。
 

 この奇妙な出来事に驚きつつも、反射的にバットと振るっていた。

 ゆっくりと近づいてくるボールの真心に、スイングの軌道をあわせる。
 

 甲高い音が鳴った。

 
 彼自身の腕力は同世代の中でも低いほうだが、完璧なクリーンヒットだったためボールはけっこう飛んだ。

 大きな放物線を描き、センターの少年の後ろに落ちる。
 

 ピッチャーは勿論、それまで何気なく傍観していた両チームの面々も、これには少々驚いた。

 ホームベースに帰ってきた早人のまわりを、興味深げに取り囲む。


「すげえじゃん、お前!」

「どっかで野球やってんの?」

 彼らが口々にのたまう言葉の前に、早人は困ってしまった。


「ハハ……マグレだよ、マグレ。もう一度やれって言われても無理」

 苦笑いを浮かべて、そう答えるしかなかった。


 一人になった後、今の二つの出来事を少し真剣に考える。

 自分は決して運動神経がいいほうではない。


 ……むしろ悪い。


 現に、少し前にやった百メートル走の記録では、下からトップクラス(ワーストとも言う)に位置していた。

 なのに……何故ボールをとったりバットを当てたりすることになると、こう上手くいくのだろう。
 

 そのあたりが、少々不思議だった。
 

 もっとも、結局は単なるまぐれだと思って片付けてしまったが……












 夕刻の住宅街。


 茜色の空が広がり、夕日が家々を眩しく照らす。

 銀髪の少年とポニーテールの少女は、肩を並べて歩いていた。


「……っんとにサイアクだよねー、あいつら。いいトシなんだから、自分のことくらいキチッとやりなっての」

「まあまあ……今更言ってもしょーがないよ」


 不機嫌そうに愚痴をこぼす麻里を、早人が苦笑いを浮かべてなだめる。

 少々いびつだが、ほほえましいと言えなくもない光景だった。


 なぜ、彼らがこんな遅くに二人で下校しているのかというと、時間は帰りのホームルームに遡る。

 早人の座る列の面々は、綾瀬教諭から廊下のワックスがけという大任を仰せつかったのだが、約一名を除く全員が即時撤退を決行してしまったため、残る一名にそのツケがまわってきた。


 それを見かねた少女が、救援の手をさしのべたという成り行きである。


「だめだよ朝倉君、イヤなこととかあったらはっきり言わないと」

「ハハ……」


 困ったように苦笑する。





 とはいえ、麻里が自分を心配して世話を焼いてくれるのはうれしかった。

 理由は分からないが、どうも自分は麻里に気に入られている節がある。

 それに彼女は学校で他に親しい者がいないのか、明るい性格のわりにあまり特定の誰かと親しくしているところは見かけなかった。

 その辺が、どことなく不思議といえなくもない。





 そんな疑念を知ってか知らずか、麻里は自分のペースで会話を続ける。


「そういえば……朝倉くんって、少し前まで目見えなかったんだよね? やっぱさ〜、点字とかわかるの?」

「うん、だいたいね。それに……家から学校くらいまでなら、杖とかあれば目をつぶっても普通に行き来できるよ」

「へぇー、すごいじゃん! じゃ、盲学校ってどんなとこだったの?」

「そうだねー……」

 自分の知識と経験の範囲内で、あたりさわりのない説明をした。

 もっとも、盲目だった頃いつも傍にいてくれていた少女の話は意図的に省いたが。
 

 そんな時……





 ガアッ、ガアッ。


 頭上からした烏の鳴き声に、何気なく上空に視線を向ける。

 一面茜色の中、謎の「島」は変わらぬ輪郭を描いていた。


 雲は時と共に流れゆくが、あの「島」が動くことは決してない。

 常に、この街の上空に蓋するように留まっている。


 早人の横顔を覗く麻里の眼が、わずかに細められた。


「ねぇ……朝倉くんは……ひょっとしてあれが見えるの?」

 探りを入れるような口調だった。


 早人は目を見開き、足を止めてその場に立ちすくす。


 対照的に、麻里は破顔した。


「やっぱりねー。いつも空ばっかり見てるから、もしやとは思ったんだー」

 同じ趣味をもつ相手を見つけたような、楽しげな様子だった。


 本当に、嬉しそうだった。


「それじゃあ……キミも……?」

 突然の事態に、早人は言葉を失う。

 まさかこんな身近に、自分と同じ存在がいるとは予想していなかった。


 麻里はクスリと微笑み、相手の瞳を覗き込みながら言った。


「教えてあげるよ。あの“島”への行きかた」










 その者は見ていた。


 共に歩を進める、二人の姿を。


 そして聞いていた。


 少年は、驚愕の色を浮かべ、少女は優しく微笑みながら続けるやりとりを。

 どうやら、自分の読みは正しかったらしい。


 成すべきことは、これで決まった。










 天城市内、某大学病院。


 近隣地域唯一の大型総合病院であり、一月前、全盲の患者を治療した実績をもつことで知られている。

 その内部、消毒の臭いのたちこめる無機質な建物の一角。


「ではお大事に」

 初老の医師が告げると、老婆は頭を下げて退室していった。

 それが今日最後の患者だった。


「さあて……終わりか……」

 人気のなくなった診療室にて、医師は背筋を伸ばして欠伸をする。


 傍らに立つ看護婦は、思いつめた様子でそれを眺めていた。

 そして、医師が立ち去ろうとすると、心を決めて問うた。


「先生……突然ですけど……その、本当によかったんでしょうか……」

「何のことかね?」


 怪訝そうな顔をする医師に、看護婦はためらいながらも自分の疑問を口にした。


「あの子……あのまま退院させてしまって……」


 その一言で、医師は看護婦の意図を察した。

 自らの抱える数多の患者の中でも、思い当たる節は一つしかない。


 極めて奇怪な、一例だけしか。


「しかたないだろう。理由はどうあれ、ああなったんだ。万事めでたしじゃないか」


「……」

 看護婦は、何も言い返せなかった。


 確かに医師の言う通り、病状の癒えた者をいつまでも拘束しておくわけにはいかない。

 医師は、静かに退室していく。


 そして背を向けたまま、静かに言った。


「本当に……あれは、奇跡としか言いようがないよ」

 一人残された看護婦は、いい知れぬ不安を感じた。





 朝倉早人の手術は……明らかな失敗だった。


 なのに、彼の眼は「見える」ようになっていた。





 それは、現代の医学では説明できない出来事だった。










 市の南西部に位置する、比較的規模の大きな公園。

 早人が麻里に連れてこられたのは、その脇の林だった。

 当然ながら人気はなく、既に日も落ちきったため、その風景は外界と遮断された山中と大差なかった。


 肌寒い夜風が、木々を揺らす。


 二人を照らすのは、公園の街灯から差し込むかすかな明かりだけ。


「ねぇ……ほんとにこんなとこから、あの島に行けるの?」

 ここに案内されるまでほとんど口を閉ざしていた早人だが、ついに疑問を口にした。

 天高く聳えるあの場所への入り口にしては、ここはあまりに殺風景で芸が無い。


 一方の麻里はいたずらっぽく笑い、屈託なく言った。


「うん……て、ゆうよりね。基本的に、あそこへはどこからだって行けるの。ただ、行くのに……ちょっとだけ儀式がいるだけ」

「儀式……?」


 まさか、ここで魔法陣でも描いて呪文でも唱え始めるのだろうか?


 この非常識な展開と状況を前に、本気でそんなことを考えてしまう早人だった。

 だが麻里の次の言葉は、そんな予想とはかけ離れたものだった。


「ねえ、朝倉くんは“天国”って信じてる?」


 一瞬の、静寂。


 言葉に込められた意図が解せず、返答に詰まる。


「て、天国ってあの……死んだあとに行くっていう……?」

「うん」

 麻里は、平然と頷いた。


 それはふざけているようでも、相手をからかっているようでもなく……自然体だった。

 だからこそ、なおさら早人は困惑する。


 麻里は天を仰いだ。


 文明が撒き散らす汚物に浸された、昏い夜空を。

 薄い雲が散らばっているため、星はほとんど見えない。


「私はね……昔は天国も地獄も信じてなかった。誰でも死んだらそれまで。ただ消えてなくなるだけだって……」


 唐突な言葉。


 詩でも詠うような口調だった。


 その視線がとらえるのは、月明かりに映える、天空の巨魁。


「でもね……ほんとはあったんだよ、天国が」

 早人の心に、いいしれぬ不安がよぎった。

 本能的に、奇妙な危機感を感じた。


「あの島はね……その天国なんだよ。あそこはとてもステキなところ……きれいな花が咲き乱れて、澄んだ泉があって、白い宮殿があって、神様がいて……」


 饒舌な口ぶり。


 その様子は、自分の言葉に酔いしれている節すらある。

 それだけではない、飄然とした佇まいも、深みのある気配も、普段の彼女なら持たないものだ。


 そして、彼女の顔がこちらを向いた。


「朝倉くんも……行きたいでしょ? そんなところ……」


 赤い目だった。


 瞳孔まで開かれた大きな眼球が、闇の中で煌々と輝いていた。

 唇は僅かに開かれ、大きくつりあげられている。


 これまで見た彼女の笑顔の中で、最も醜い微笑みだった。


 背筋に凍てつくような悪寒がよぎる。


「ぼ、ぼくは……」

 早急に身を翻し、この場を走り去るという選択肢も浮かんだ。


 しかし思いついた時には、すでに実行不可能だった。


 右足が動かないことに気付く。

 目を向けると、地面から這い出した長いものが右足首に巻きついていた。


 表面は鈍色で、先端は円錐状に尖っている。


「ダメだよ、もう後戻りはできない。キミは、私と一緒にあそこに行くの」

 麻里の体からもまた、鈍色の長いものが生えていた。

 尻から伸びるそれは、彼女の背後の地面に埋まっている。


 早人の足を搦めているのは、彼女の“尾”だった。


 笑みを浮かべたまま、ゆるやかに歩を進める。


 恐怖に怯える、少年のもとへ。


「き、キミは……誰……? な、な、なんでこんなこと……」

 少女の変異は尾だけにとどまらず、全身に及ぼうとしていた。

 皮膚から鈍色ものが染み出し、確かな形と質感をもって新たな体表となる。


 額に生える、円錐上の角。

 白目が黒く、黒目が赤く変色した眼球。

 裂けた口と伸びた四肢を飾る、鋭い爪と牙。


 早人の眼前に行き着くころには、彼女は完全な魔物と化していた。


 獰猛で、醜悪な、夜の住人に。


「私は、神様から遣わされた天国の使い。キミみたいないい子をつれて帰るのが、お仕事なの」

 早人の肩を掴み、力任せに押し倒す。

 草むらの上に、小さな体が倒れこんだ。


 早人は抵抗できなかった。


 自分を押さえつけるこの腕力は、明らかに少女のものではない。

 そしてそれ以上に、深い困惑と恐怖と絶望が、全身の筋肉を痙攣させていた。

 眼からは涙が滴り落ちる。


 そんな恐怖に染まった顔を、魔物は愛でるように眺めた。


「それに言ったでしょ、あそこは天国だって……だから、だからね……生きてる人は行けないの……あそこに行くには……私と同じにならなきゃ……」

 狂気に染まった眼。

 どす黒く歪んだ愛情が、そこに映っていた。


「さあ……一緒にいこう……」

 鋭い犬歯の並ぶ口が、視界を覆うほどに開かれた。


「うわぁぁぁぁ!!」

 少年の悲鳴が、静寂の森に響きわたった。










 一閃。





 鋭い何かが視界の隅を走り、一筋の軌跡を描いた。

 そしてそれは、魔物の右腕に命中する。


「グガアッ!」

 開かれた口は標的を噛み砕くことなく、醜い悲鳴をあげた。

 それとは対照的な凛とした声が、闇の彼方から聞こえた。


「随分と、醜い天国の使いもいたものですね」

 魔物の顔に、明らかな動揺が走った。

 敵意に満ちた眼を、声の主に向ける。


「誰だ!!」

「あなたほどの相手に、名乗る必要もないでしょう」

 その声は、早人にも聞き覚えのあるものだった。


 震えた唇が、かろうじて言葉を紡ぐ。


「せ、先生……」


 黒のセーターに、象牙色のロングスカートのいでたち。

 長い黒髪。

 闇そのもののような、漆黒の瞳。


 綾瀬紗百合は、闇の中から姿を現した。


 怜悧な双眸で、魔物を見据えて。










 この時点で、朝倉早人の思考はまともに機能しなくなった。





 同級生の少女が「島」のことを知っていて、それが実は人の皮を被った化け物で、自分を殺そうとして……

 そして、担任の教師が助けにやってきた。





 この状況を把握するなどできるわけがない。


 後半は魔物も同様なようで、獲物を襲うのを休止して突然の来訪者に警戒を向けた。

 右腕に刺さったものを引き抜く。


 それは、一枚の木の葉だった。

 木の葉が何らかの「力」を帯びて、鋼のように硬質化されていた。


「何であんたであんたがここに……いやそれより、今の“力”は……」

 忌々しげに木の葉を握りつぶす。


 そんな魔物に綾瀬は冷静な面持ちで、淡々と告げた。


「尾けさせてもらったんですよ。あなたの様子が、あまりにも不審だったものでしたからね……」

 手馴れた作業をこなす、事務員のような口調だった。

 場慣れしたものだけが持つ、余裕と冷静さをあわせもった佇まいだ。


「近頃、あなたの様子がおかしいことは、薄々感づいていました。いくら記憶を侵食しても、完全に素体そのものになりきることはできない……そこの彼に不自然に近づいたことで、確信がもてましたよ」

 端で聞く早人を置き去りにした、魔物だけに通じる台詞だった。


 魔物は、殺気を漲らせて押し黙る。


「その子も、あそこの餌にするつもりだったんですか?」
 
 魔物の裂けた口が再び笑みを形作った。


「ちがうよ。そんなことするのはどうでもいい奴だけ……朝倉君はいい子だから、ちゃんとあそこに連れてってあげるの」

「それで、飽きるまであなたたちの玩具……というわけですか?」


 綾瀬の冷徹な指摘を、魔物は否定しなかった。

 代わりに、醜い笑みが一層大きくなる。


 早人は、背筋に悪寒を覚えた。


 飽きるまで、こんな化け物の玩具? 

 ……冗談ではない!


「しかし、その口振り……そうか、あんたがあの……」

 魔物は、一人事態を理解したように呟く。

 無論、魔物の考えなど早人の知るところではない。


「だったらどうなんです?」

「聞いたよ……うちの仲間を何人も殺ってくれたんだってね……これはいい……ここでお前を消せば、あたしもあの人達みたいになれる……」


 魔物の体が不気味に蠢く。

 ずるりと動く白い体は、相原麻里の体を放り捨てるように這い出した。


 魔物は地に立ち、麻里は後方に仰向けに倒れる。


「クヒヒヒ……」

 迸る欲を隠そうともしない魔物を、綾瀬は侮蔑しきった眼で見た。

 剥き出しの殺気を纏い、魔物は綾瀬に襲いかかった。


 武器は鋭い爪と牙。

 まず、右腕が縦に弧を描く。


 綾瀬は、軽やかにそれをかわした。

 追撃として左で横一文字の攻撃を繰り出したが、それも涼しい顔で回避された。


 この二撃で、魔物は綾瀬の動きが容易に捉えられないと悟り、軽く舌打ちする。


 ならば、あの手でいけばいい。


 自ら背後に跳んで間合いを開けた後、大地を蹴って跳躍する。

 人外の身でなければ不可能な、十数メートルに及ぶ跳躍だった。


 そのまま落下の勢いをつけて、上空から綾瀬に襲いかかる。

 しかし、一旦地面を離れた物体は重力に縛られる運命だ。


 端から見ても、これではいい的だった。


 綾瀬は、手の内に忍ばせた木の葉に「力」を込める。

 それは瞬時に硬質化し、先ほどと同様の鋭利な手裏剣となった。

 落下中の魔物を狙って、三枚を同時に放つ。


 夜空に向けて、三つの軌跡が伸びる。


 しかし魔物は、それをかわした。


 落下中に方向転換し、さらに加速をつけて。

 通常の物理法則の範疇では、ありえない動きだった。


 綾瀬の背後に着地した魔物は、彼女を羽交い絞めにする。


「ハッ、思ったより馬鹿だねあんた。幽体のあたしが重力の法則なんぞに縛られるとでも思った?」

 勝ち誇った顔で語りかける。


 どんな優れた技量をもとうが、所詮は人間。

 こうして力勝負に持ち込めば、もう自分の勝ちだ。





 さあ、どうしてくれよう?

 一思いに喰い殺したのでは芸がない。

 じわじわと、分解するように柔らかい肉を千切っていってやろうか?





 魔物は相手の澄ました顔が恐怖に歪む様を期待し、涎を垂らした。


 だが、綾瀬の口から漏れたのは意外にも嘆息だけだった。


「わかってはいたけど、今度もまた……愚にもつかない雑魚……」

 心底呆れかえったように、醜い面相を見返す。


「本当に……やってられない……」

 その言葉とともに、綾瀬の体が変異した。


 体を構成するもの一つ一つが元の姿をとり戻し、結合を崩していく。

 綾瀬を形作っていたもの、それは無数の紅い花びらだった。


 驚愕に眼を見開く魔物。

 花びらは空しくその足元に山を作る。


 直後に投げかけられる、背後からの声。


「もういいから……さっさと、死になさい」

 そこに、本物の綾瀬が立っていた。

 魔物は、自分が幻像に踊らされていた事実を知る。


 憎悪に顔を歪めた。


「この……!」

 身を翻し、振り向きざま一撃を見舞おうとした。


 しかしそれより先に放たれる、鋭き一閃。

 振り上げた右腕が、二の腕から切断された。


 綾瀬の手には、漆黒の短い木刀が握られている。


「あああっ……!!」

 出血はないが、激痛を受けていることはその悲鳴からも明らかだった。

 あわてて背後に引き下がる。


 裂けた口が先ほどまでとは違う、ひきつった笑みを浮かべた。

 体表からは油汗も滲んでいる。


「ま、待ってよ……もう闘えない、降参だ! その子もあんたも、もう襲ったりしないよ……」

 見え透いた命乞いだった。

 無論、綾瀬は聞く耳などもたず、止めを刺すために前に踏み出す。


「そ、それに今更、あたし一人殺ったところでどうなるもんでもないよ……わかるだろ? ねえ!?」

 また一歩、綾瀬は進み出る。

 命乞いが通じないとみるや、魔物は好条件を提示して懐柔しようとした。


「そ、そうだ……! あの人達に紹介してあげるよ……そうすれば、あんただってあそこに……」

 言い終えぬうちに、綾瀬は間合いを詰めていた。


 怜悧な双眸は魔物を射抜き、口は冷酷に言い放つ。


「一人で行ってな……地獄にね」

 鋭利な刃が 魔物の額を貫く。


 哀れな魔物の断末魔が、林に響きわたった。










 白い体が崩れて形を失い、やがて蒸発するように消えていく。


 数秒後には、そこには骨すら残らなかった。

 綾瀬は少女に歩み寄り、その顔を眺めた。


 かすかな寝息が聞こえる。





 どうやら「一体化」が初期段階だったため、一命はとりとめたようだ。

 裏を返せば……それは、殺すつもりで攻撃したことを意味する。


 ともあれ、殺めずに済んでよかったと思う。

 それより面倒なのは、もう一人のほうだ。





 漆黒の眼は、震えてうずくまる少年を見た。


「もう大丈夫ですよ。怪我はありませんか?」

 少年の前にしゃがみこみ、頬に手をあててやる。

 顔は相変わらず無表情だが、その手にはあたたかなぬくもりがあった。


「せ、先生……本当に、先生だよね……?」

「ええ、あなたのクラスの担任で、いつも字を間違えて、宿題を忘れて、たまに学校をサボる綾瀬先生ですよ。今度は化け物じゃないから、安心してください」

 安心させるためとはいえ、綾瀬の口からは自然と優しい言葉が出ていた。


 彼女は敵には極めて非情だが、そうでない者には優しい。


「相原さんは……どうなったの?」

「あの子は、魔物にとり憑かれていたんですよ。行動を見る限りでは、彼女自身の意思も少なからず影響していたようですが……憑き物が消えた以上、もう大丈夫でしょう」

 草むらに横たわる麻里の表情は、穏やかだった。

 張り詰めていた緊張が解け、年相応の寝顔を見せている。


 綾瀬は、今度は自らの疑問を少年に訊いた。


「私からも聞かせてもらいます。キミは、あの島が見えるんですか?」
 
 あの「島」が見える人間……本来なら、それはごく限られた者のみのはずだ。

 そしてそれが魔物に眼をつけられた一番の要因なのだろう。


 早人は震える声で答えた。


「見えるよ……うっすらとだけど……この眼が見えるようになったときから、ずっと見えてる……」


「だから……あそこのことが、知りたかった?」

「うん……」

 早人は青ざめた顔で頷いた。





 あの美しい島を知ろうとする……

 ただそれだけで、こんな命の危険に晒されるなど思ってもみなかった。

 すでに、あの島に感じる神秘性は未知の脅威に、好奇心は恐怖へと変わっていた。





「ねえ先生……先生は知ってるんでしょ……? あれは何なの……?」


「……」

 綾瀬は立ち上がり、天を仰ぎ見た。

 一面に広がる、闇の海。


 そこには人知れず浮かぶ、もう一つの世界があった。


「あの島の名は“ニブルヘイム” この世に災いをもたらす……死者の国です」










第1話 第3話

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