ニブルヘイム
遥か彼方に見た幻は
追い駆けるにはあまりに遠く
背を向けるには、あまりに眩しい
第一話「代償」
この世界が見たい……
生まれたときから全盲の少年にとって、それは自然な欲求だった。
草や木はどんな形をしているのか?
赤や青とはどんな色なのか?
海が波打つさまや空を雲が流れるようすは、どんなものなのか?
自分は、どんな姿をしているのか……?
その全てを――知りたいと思った。
まだ見ぬ世界に思いをはせ、想像のおもむくままに色や形を与えていくのは楽しかった。
だがそれは、所詮自分だけが見る「虚像」にすぎない。
世界の「真実」の姿が知りたいという願いが、消えることはなかった。
その願いはとても強く――そして、純粋なものだった。
世界には、それほどの価値があるのだろうか?
それほどまでに、美しいものだろうか?
それほどまでに……尊いものなのだろうか?
何かを犠牲にしてまで、「光」を得る意味はあるのだろうか?
だが、それに答える者はいない。
そして……少年は知る。
犠牲にしたものの、大きさを――
「……何を見ているの?」
背後からの声に、朝倉早人はわずかに首を向けることで応えた。
その手は、相変わらず赤い花の花弁をつまんでいる。
眼の周りに包帯を巻いた少年だった。
歳は十四。
同世代の平均より体格は小柄で、顔立ちも幼さが残っている。
やや長めのくすんだ銀髪が特徴だった。
これは染めているわけではない。
眼と同様に生まれつきだ。
「ん……ちょっとね……」
やや照れくさそうに、歯切れ悪く返事する。
相手の少女は、自分からはそれ以上言及しようとはしなかった。
たいてい、いつもそうだ。
この少女は話しかけることはあっても、無闇に早人の内面に踏み込もうとはしない。
こちらが進んで語るまで、静かに待っていてくれる。
早人にとっては、もっとも話しやすい相手だった。
「この花も、もう見納めかなぁ……とか思ってさ」
そう言うと、少女がクスリと笑うのが耳に届いた。
「なんだよ、笑うことないだろ」
「ごめんなさい。でも、なんだかおかしくて」
不服そうに口を尖らせる早人だったが、内心はそうでもなかった。
見えずとも感じる、少女の微笑み。
彼は、それが何よりも好きだった。
少女の名は「ヒリカ」という。
どんな字で書くのかは、盲目の早人の知るところではない。
無論、どんな姿をしているのかも知らない。
だがその声は澄んだ泉のようで、美しかった。
だから、早人は彼女が好きだった。
彼女にだけには、どんなことでも話すことができた。
「今、触れている、この花……」
赤い花に触れたまま、淡々と語る。
「僕は今まで、これの姿を勝手に思い描いて……それだけを、ずっと「見て」きた……でも本当のこの花は、そんな勝手な想像とは違う……絶対に違う」
その表情には、明らかな憂いがあった。
普段から気弱なところのある少年だが、それをこうして言葉にするのは珍しい。
彼が抱えているのは、光のない世界を生きてきた者特有の、不安と恐怖だ。
それは長いつきあいとなるヒリカには、その不安が手にとるように感じられる。
「……怖いの?」
全てを見透かしたような問いを受け、少年は薄く微笑む。
「正直言って……少し怖いよ。仮に、この眼が治ったとして……この眼に映る世界が受け入れられるかどうか……自身がない」
二十一世紀を迎えて十四年が過ぎた現在、医療技術の加速度的な進歩により、全盲の治療も不可能ではなくなっていた。
しかし、それはまだごく稀な例であり、実際に光を得られるのは一握りだけだった。
だが、それでもわずかな可能性に賭け、手術を受ける者は後を断たなかった。
朝倉早人もそんな一人で、今夜、手術を受けるためこの総合病院に滞在している。
今、二人がいるのは、その中庭の花壇だ。
微風が吹き、赤い花びらを宙に舞わせる。
その中で、ヒリカは諭すように言った。
「見たくないなら、眼をつぶっていればいい……それだけよ。どんなものでも見るのは難しいけれど、見ないでいるのは、簡単だから……たとえ見える眼をもっていても、それをどう使うかは、あなたの自由よ」
染み入るような、静かな声だった。
早人は、彼女の年齢を知らない。
彼女は、時には早人と同年代のようにふるまいながら、時として、遥か年長のような雰囲気を垣間見せることがあった。
ただ一つ言えることは、その言葉は、常に早人を勇気づける力となっていた。
「ありがとう。ヒリカに言われると、なんとかなりそうな気がしてくるよ」
明確な「答え」などいらない。
ただ、背中を押してくれる「言葉」が欲しかったのだ。
憂いを消し、明るく微笑んだ。
ヒリカもまた、微笑み返す。
「そうよ、この世にどうにもならないことなんてないわ。ただその人が弱気になったり諦めたりするから、どうにもならなくなるだけ。心を強く持てば、どんな時でも……前に進めるわ」
そう語ると、今度はからかい半分といった笑いが返った。
「最後はいつも説教臭くなるのが、タマにキズなんだけどね」
「あら、私に相談するなら、それくらい覚悟してくれなくっちゃ」
すかさず反撃が返る。
その後、二人は、いつものように談笑した。
昨年の夏の思い出話。
これまでの、互いの間抜けな失敗談。
病院の食事が不味いという、早人の愚痴。
そして、眼が治ったら何をしようかということ……
それらの他愛のない話を、楽しそうに語り合う。
穏やかな晩夏の、平和なひと時だった。
いくらかたった頃、早人は言った。
「この眼が治ったら……ヒリカの顔も、見れるね」
ヒリカはクスリと微笑み、いらずらっぽく返す。
「だったら、今のうちにショック死しないよう、心の準備してなさい」
二人とも、吹き出して笑った。
心の底から、笑った。
冗談として流されたが……ヒリカの顔を見たいという願いは、本物だった。
早人には、ヒリカ以外に“大切な人”と呼べる存在はいない。
盲目を嘆き、己の殻にとじこもっていた……
差別を恐れて、人との関わりを避けてきた……
そんな少年の友達になってくれて、今まで励まし続けてくれたのは、この不思議な少女だけだった。
だから彼女の姿を、一度この眼で見たかった。
他の何よりも……それが、一番の望みだった。
たとえ眼に映るヒリカがどのようであれ、それだけは確実に受け入れるつもりでいた。
「その眼が見えるようになるのを祈ってるわ、早人」
「うん」
ヒリカが優しく語りかけ、早人が明るく応えた。
この時二人は、紛れもなく幸せだったのだ。
だが、二人の「願い」には、確かな隔たりがあった。
二つの想いの交錯が、一つの物語を生む。
何かを得るとは、何かを失うこと。
遠い過去より続く、世界の理。
その日の夜は、美しい満月だった。
上天には数多の星々が煌き、地上には心地よい夏の夜風が吹き抜ける。
青月の光が、無骨なコンクリートの巨魁を淡く照らし出す。
その屋上に来訪した男は、静かに歩を進めた。
すでに俗世を離れて久しい彼が、こんな場所に姿を現すなど、本来ならありえぬことだ。
特に捜すまでもなく、待ち人はすぐに見つかった。
柵の前に立ち、闇に溶け込むように佇んでいる。
「待たせたな、ヒリカ」
ヒリカはわずかに振り向き、男を見た。
「“リブラ”……」
それが、男の「称号」だった。
ヒリカは、彼の名を知っている。
それを、あえて称号で呼んだことが、彼には少しだけ悲しかった。
もっとも、そんな哀愁を表に出す彼ではない。
完璧に統制された声で言った。
「お前の望み通りにしてやるよ。だが忘れるな、お前のわがままにつきあってやるのもこれで最後だ」
「ありがとう……感謝するわ」
そう応えるヒリカの眼は、もう男を見ていなかった。
“リブラ”の称号をもつ男は、静かに少女の背後に立つ。
「しかし、本当にいいんだな? あれをやったら、もう後戻りできないぞ。お前も……あの子供も」
ヒリカの視線の先には、小さな窓があった。
そこから見えるベッドの上には、一人の少年が寝かされていた。
眼に包帯を巻かれた、銀髪の少年。
月明かりが、幼い顔を淡く照らす。
「最期の忠告をしておいてやる。やめておけ、お前たちには荷が重い」
冷淡なようだが、それが彼なりの優しさだった。
彼は、ヒリカが苦難の道を選ぶことを望んでいない。
たとえ前に進まずとも、生きる道はあるのだから。
しかし、ヒリカの瞳に迷いが浮かぶことは無かった。
「私は、もう……覚悟はできてる。早人も……きっと、受け入れてくれると思う」
凛とした、だが悲しげな声だった。
最後の忠告を終えたリブラは、その決意を受け入れる他なかった。
代わりに自らの掌を見る。
そこには、白銀に輝くものがあった。
闇夜の世界で、もう一つの月のように神々しく輝いていた。
「この光がもたらすは……輝ける明日か……あるいは終焉か……」
今宵、自分たちは「罪」を犯す。
自分たちの「掟」の上では、許されない罪だ。
もし、このことがあの「“レオ”や“アリエス”の知るところとなれば、事態は混沌を招くだろう。
だがそれでも、彼は少女の決断を信じることにした。
天を仰ぎ、人知れず願う。
か弱く儚き者たちに、星々の加護があらんことを――
自らの手で、白い包帯に触れる。
ゆっくりと、だが確実に、双眸を覆っていた薄い布はほどかれる。
やがて顕わになる、閉じられた眼。
その薄皮が、光を遮る最後の砦だった。
わずかな逡巡の後、勇気をふりしぼって瞼を開く。
瞬時に流れ込んでくる、眩しい輝き。
世界を照らす朝日だ。
一夜明けた、病室の一角。
早人は複数の人間に囲まれていた。
「見える? 見えるの? 早人……」
傍らに立つ女性の姿が、眼に映る。
その声から、自分の母親だとわかった。
いつも言葉を交わしていたのに、顔を見るのは初めてというのは妙な気分だ。
少年は眼を細め、優しく微笑む。
「うん。見えるよ……母さん」
とたんに、周囲から喜びの声が上がった。
父や医師、看護婦の姿が見える。
白いカーテンや、窓の外の青空も見える。
母の流す涙の一粒一粒まで、見ることができた。
朝倉早人の眼は、「光」を得た。
「よかった……早人……早人……」
母はこみあげる感動を抑えきれず、息子に抱きついた。
当の本人は、照れくさそうに頬を掻く。
医師や看護婦は感嘆の声を漏らし、父は母とともに祝福してくれた。
早人自身も、今この時を至福に感じた。
初めて見る世界は、彼の空想とは若干の差異をもちながら、それでもなおあまりある輝きを放っていた。
これから先、無限の未来が広がるのだと信じて疑わなかった。
だがそれは、やがて霧散する。
「そうだ……ヒリカに、早くこのことを……!」
その一言で、浮かれていた場は静まりかえる。
何とも形容し難い不穏な空気が、あたりを流れた。
母が不思議そうな顔を、息子に向ける。
「ヒリカ……誰なのそれ? 知り合い?」
「え……?」
ひんやりと冷たい感触が、背筋を走る。
自分の体から、血の気が引く感覚があった。
「何言ってるんだよ母さん、ヒリカだよ。僕をずっと訪ねてきてくれた……」
「へんなこと言わないでよ。知らないわ、そんな子」
とても、演技とは思えぬ口ぶりだった。
心に開いた穴が、しだいに大きくなる。
心臓が激しく脈打ち、冷たい汗が頬をつたう。
自分の記憶が確かなら、母とヒリカはもう何度も面識があったはずだ。
こんなことは、絶対にありえない。
この現実を否定する念と、これが現実だと認識する念が渦を巻く。
「そんなはずはない……! 僕とヒリカはずっと一緒だったじゃないか……! ほら、先生だって見たでしょ、僕とあの子が一緒にいるところ……」
医師に助け船を求めたが、医師は首を横に振るだけだった。
もはや、ただ呆然とする他なかった。
「そんな……そんな……」
ヒリカを憶えている者は、誰もいなかった。
誰の記憶にも残ることなく、ヒリカはこの世界から消えていた。
まるで、最初からこの世に存在しなかったかのように……
両親とともに、早人は病院を出た。
息子の眼の完治を喜ぶ二人とは対照的に、早人の表情は暗かった。
うつむき加減に歩き、一人事を呟き続けている。
「なんで……こんな……」
これは、現実なのだろうか?
自分は、何か悪い夢でも見ているのではないか?
ヒリカのいないこの世界が、彼には受け入れられなかった。
眼など見えなくともいい。
彼女が傍にいてくれれば、他に何もいらない。
もはや叶わぬ望みを、彼は延々と反芻した。
いくら考えても、思考がそこから抜け出ることはできなかった。
答えを求めるように、天を仰ぐ。
何もあるはずのない、はるかな虚空を。
そして……思考が停止した。
どこまでも続く蒼天、風に乗って流れゆく雲。
その中に、明らかに異質なものが存在していた。
透けるほど薄く朧げだが、たしかに見える。
色も形も、認識できる。
大地をくりぬいたかのような、無機質な厚い岩盤。
その上に生い茂る、数多の緑。
大地は起伏に富み、隔たりを繋ぐ橋や塔が見える。
そして、遥かに聳える、白亜の宮殿。
規模は、ここからではただ大きいとしか言いようがない。
この街の何分の一かはあるだろう。
そんな巨大な物体が、天空高くに浮かんでいた。
同時刻、市内。
繁華街の裏通りの一角にて、一体の亡骸が発見された。
被害者は、サラリーマンの中年男性。
遺留品から、身元はすぐに判明した。
失踪したのは一作日前……にもかかわらず遺体は腐食が激しく、骨と皮だけの状態だったという。
似たような事件は、以前からあった。
今年に入って、これで十七件目。
彼方からの悪意は……少しずつ、世界を蝕む。
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