ニブルヘイム





遠い空を見つめていた
遠い遠い、届かぬ空を……










第十一話「追憶(前編)」





 雪が降っていた。


 黒々とした雲から白い塊が零れ落ち、地表を包んでいく。

 それは見方によっては幻想的で、美しい光景だったのだろう。

 だがその時は、ただ寒い、痛い、としか感じることはできなかった。


 降り積もる雪の、只中にいたから。





 理由は、もう憶えていない。


 家事が上手くこなせなかったからとか、兄に意見したとか、そんな類のものだった気がする。

 叱られた自分は、家に入れてもらえなかった。


 寒空の下、庭で夜を過ごすことを命じられた。

 逆らおうとは思わなかった。


 逆らえば、もっと辛い罰が待っているから。


 目の前の部屋には明かりが灯されていた。

 家族一同は、楽しそうに夕餉の時間を過ごしていた。

 その輪の中に、自分は入れてもらえなかった。


 この日だけではない。

 後にも先にも、あの輪の中に、自分は入った記憶はない。


 白く冷たい地面に、裸足で立っていた。

 身を裂くような寒さに堪えながら、目の前にある、暖かそうな空間を眺めていた。


 愚痴は零さなかった。

 聞いてくれる者などいないから。


 涙は流さなかった。

 いくら泣いても、何も変わりはしないから。






 屋根瓦の上に、一羽の鴉がいた。

 それだけは、何故だか鮮明に憶えている。


 夜空と同じ色の、漆黒の翼。

 無駄のない、引き締まった肢体。


 誰もが醜いと蔑むその姿に、何故だか見惚れた。


 そいつは、自分を見下しているようだった。

 冷たい大地から足を離せず、狭い世界の外に行くことのできない小さな人間を、嘲笑っているようだった。


 そいつは闇色の翼を広げ、何処へと飛び立っていった。

 姿が見えなくなっても、そいつが消えた方角を、ずっと見据えていた。


 憧れと嫉妬を、胸に抱いて。





 できることなら、自分も行きたかった。

 遠い遠い、空の彼方へ……





 夢が終われば現実が始まる。


 水城優也は重い瞼を開けた。


(夢……か……)


 視界に映るのは、まだ見慣れない空間。

 意識が覚醒するごとに、朧げな記憶が鮮明になっていく。


 ここは草加兄妹の家。

 一昨日から自分はここに泊まっているのだった。


 だが本来あの二人の生活の場であるここに、自分の分の寝具が用意されているはずもない。

 仕方なく、居間のソファーを寝床代わりにしていたのだった。


 おっくうそうに上体を起こし、額に手を当てる。

 熱はないはずなのに、大粒の汗が張り付いていた。

 気が付けば、呼吸も荒い。


(なんで今になって……あんな夢を……)


 最悪の夢だった。

 おかげで今の気分も最悪だ。


 夢とは架空の物語であるはずだ。

 目覚めれば忘却の彼方へ行くはずだ。


 だが今のは、そのどちらでもない。
 
 過去の出来事の再現である上に、目覚めた今も頭に染み付いて離れない。


 以前からこのような夢を見ることは幾度かあった。

 だが最近はその傾向も薄れていたため、最早見ることはないと思っていた。


 そうしたらこのザマだ。

 どうやら自分のトラウマとやらは、随分と危険な域まで達しているらしい。


「下らないな……本当に……下らない……」

 それが、この日の第一声となった。


 テーブルに置いておいた愛用品に手を伸ばす。

 二年ほど前から着用している伊達眼鏡だ。


 これをつければ自分も頭良さように見えるかもしれない、というのが愛用の理由である。

 まあ似合うかどうかは、見る者の判断に任せるが。


 立ち上がり、背伸びする。

 窓の外には、暖かな太陽が顔を出していた。




「あ、水城さん。おはよう」

 食い物を求めて台所に行くと、早人が立っていた。


 複数の男女が雑居している現在、朝昼の食事は各自が自由に摂ることにしている。

 もっとも、二階で静養中の紗百合だけは自分から食事を摂ろうとしないので、他の者が何かしらを運んでいってやっていたが。


「顔色悪そうに見えるけど、どうしたの?」

「少々寝覚めが悪くてな……」

 嫌な夢を見た、とは言いづらいので気取った言い回しを用いる水城だった。


 冷蔵庫に手を伸ばし、冷酒の小瓶を取り出す。

 一昨日ここに来る前に仕入れておいたものだ。


「あ、朝からそんなのいっちゃうの……?」

 驚く早人にも構わず、水城は小瓶の蓋を開け、中身を直接喉に流し込み始めた。


 お世辞にも上品とは言い難い呑み方である。

 というよりそれ以前に、朝からアルコールに手が伸びる時点でどうかしていると早人は思う。


 水城は軽く息を吐き、言った。


「世の中呑まないとやってられないことが多過ぎる」

「……オヤジ臭い台詞」

 思ったことを率直に口にする早人だった。

 だがこの時の水城が、本当に疲れているように見えたのも事実である。

 
 瓶の底に僅かばかり残った酒を、水城は何気なく揺らした。

 飲酒を嗜むようになったのは三年ほど前……実家を離れた後だ。


 無論普段は朝からこんなものを呑みはしないが、無性に気分の悪い時は別だった。

 陰鬱な気分は、大抵酒で紛らわすことにしている。


 気を取り直して、他愛の無い話題を口にした。


「しかし……おっさんの奴はどこ行ったんだろうな……あの野郎、人には外出は控えろとか言っといて自分だけもろ単独行動しやがって」

 昨日の朝から、片桐は何処へと姿を消していた。


 本人の置手紙によると、今後の計画のことで少々用意するものがあるらしい。

 二、三日のうちには帰ってくるとのことだった。

 
 あの男がどこで何をしようと別に興味はないが、人には外出禁止令を出しておきながら自分だけ好き勝手に出歩くというのは少々腹が立つ。


「さあ、どこ行ったんだろうね」

 早人の返答はそっけない。

 片桐の話になったとたん、その顔つきは一気に不機嫌なものになっていた。


「あのおっさんと何かあったのか?」

「別に」

 彼には珍しい、愛想のかけらもない返事をする。

 その声色はとても「別に」といったものではない。


 水城にとっては少々意外なことだった。


 確かに自分はあのいかつい中年男が嫌いだが、少なくとも早人だけはあの男とそれなりにまともな関係が保てると踏んでいたのだ。

 事実一昨日までは二人の関係は比較的まともだった。


 そういえばあの晩外で早人の怒鳴り声が聞こえた気がしたが、あの時は眠かったのでよく聞いていなかった。

 まあこれ以上詮索したところで答えはしないだろう。


 ひとまず放っておくことにした。


「まあいいや、それよかいい加減引きこもり生活にも飽きてきたな。何か暇潰しになるものないか?」

 外出が禁じられている以上、彼らはこの草加邸に留まっているしかない。

 つまりはすることがない。


 二日くらいは寝転んだり菓子を貪ったりテレビを見たりして過ごすことができたが、三日目ともなると流石に退屈になってくる。

 そうした怠惰な日々を送っている間にも学校の出席率などは相当危険なものになっているはずだが、それはこの際気にしないことにした。


「草加さんに言えば何とかなるかもしれないよ。……まあ無駄だと思うけど」

 自ら草加のことを口にすると、早人は疲れた表情になった。

 少々含みのある言い回しを、水城は訝しむ。


「どーゆー意味だ?」

「僕も昨日同じようなことを聞いてみたんだけどね……あの人の趣味はちょっと……」

 ますます含みある台詞が帰ってきた。

 水城は眉をひそめながらも、真相を確かめるため二階への階段を上っていった。





 街の大通りは、昼時という時間もあいまって賑やかな活気に包まれている。


 その喧騒の中を、一人静かに歩む者がいた。

 その者の纏う静謐な気配は、周囲の喧騒には些かそぐわない。


 誰にともなく、そっと呟く。


「うるさいな……」

 別に“下界”は嫌いではないが、生来騒がしい場所は好きではない。

 多分自分は、不特定多数の人間というものが苦手なのだろう。


 道行く者はこちらの容貌がそんなに物珍しいのか、大抵一度はこちらに視線を投げかけてくる。

 正直少し不快だったが、いちいちこの腐るほどいる老若男女に怒りを向けていたらきりがない。


 彼らを意識の外に追いやり、静かに歩を進めることにした。


(いつ以来かな……こうして陽のあたる街を歩くのは……)


 そう思うと、少しだけ感慨も湧いてくる。

 多分下界の人間が火星にでも降り立ったら、こんな気分になるのだろうか。


 だが自分の立場を考えれば、余計な油を売っている時間はない。

 手早く用を済まさねばならない。


 これから自分の成すこと、その先に予想される結果は二つ。

 どちらに転んでも、組織にとって害はない。


 だが個人的には、片方の結末にはなってほしくないものだ。

 まあどちらに転んだとて、受け入れるつもりでいるが。


 雑踏をかきわけるように、無言で歩む。


 その眼が見据えるのは前方だけ。

 その脳裏に浮かべるのは、ただ一人。




「おはよー。ずいぶんお寝坊さんだったね」

 二階に行くと、盆を手にした草加鈴枝がいた。


 どうやら紗百合に食事を運んであげていたらしい。


「やあ、草加は?」

「おにいちゃんならあたしの部屋だよー」

 鈴枝は二階にある三つの扉の一つを指差した。

 そこにはアルファベットで主の名が書かれたネームプレートがかけられている。


 水城がそこに向かおうとした時……


「おにいちゃんの部屋は今お姉さんがいて使えないから、昨日はおにいちゃんと一緒に寝たんだよー」

 踏み出しかけた足がぴたりと止まる。

 ぞくりとした悪寒が背筋を駆け巡っていった。


「へ、へー……寝たんだ……あいつと……」

「うん!」

 元気よく返事され、水城の悪寒はより強烈なものになった。


「……何かヤバいことされなかったかい?」

「ヤバいことってなーに?」

 不思議そうに小首をかしげる鈴枝。


「い、いや……なんでもないよ……」

 そう言ってごまかすと、鈴枝はとてとてと一階へ降りていった。


 水城は頭が痛そうに額に手を当てる。


(一歩間違えば犯罪だぞ……あの野郎……)


 もしかしてこの展開を狙って紗百合を自分の部屋に入れたのかもしれない。

 だとしたら確信犯だ。


 あんな男が保護者である少女がやたらと不憫な気がする。


 何はともあれ、当初の用件を果さねばならない。

 扉の前に立ち、軽くノックした。


 返答はない。


「おーい、草加」

 声をかけてみる。

 しかし返答はない。


 仕方ないので、ドアノブに手をかけた。


「入るぞー」

 ガチャリと扉が開く。


 その先にあったのは、未知の領域だった。


 カーテンが閉められ、電灯も灯されていないため薄闇に包まれた空間。

 その一角で、一人の男がノートパソコンのディスプレイと向き合っていた。

 ディスプレイには二次元の美少女キャラが映し出され、何やら危険な会話が展開されている。


 プレイヤーはうっとりした顔でマウスをクリックし続けていた。


「ウフフ……」

 ディスプレイの光に照らされ、その笑みより醜悪なものに映る。

 歳相応の少女らしい清楚な部屋が、一人の男の存在により、おぞましいものへと変わっていた。


(怖ッ……!)


 思わずたじろく水城だった。

 あまりの衝撃的な光景に、開けたドアを速攻で閉めようかと思ったほどだ。


 草加の方はといえば、画面にのめりこむあまり水城の存在に気付いていないようである。

 かなり嫌だったが、仕方なく声をかけることにした。


「なあ草加……」

「やっぱツインテールはいいなぁ」

「おいってば」

「やっぱスク水は……」

「聞けやコラァ!」

 しびれをきらした水城は、瓦が数枚は割れそうなチョップを相手の脳天に見舞った。


「げふあっ!」

 当然の如く草加は床をのたうち回る。

 痛みをこらえつつ、ようやく水城のほうを向いた。


「なんだ……誰かと思えば人生終わったようなツラしたメガネか」

「朝っぱらからギャルゲーにやってる奴に言われたかねーよ!」

 激しく抗議する水城だった。


「で、何の用だよ?」

「いやな、暇をもてあましてるんで何か暇潰しになるものはないかと思って…」

「ならそこのベットの下に本があるぞ」

 草加はベットの下を指差す。


 何故ベットの下なのかと疑問に思いながらも、水城は身をかがめて手を伸ばした。

 出てきたのは、数十冊の本が詰まった箱だった。


 水城はその中身を確認して……即座に押し込めた。


 並べられた書籍のジャンルがあまりに偏ったものだったからだ。

 例えて言うなら、今パソコンのディスプレイに映っているのと同類の存在である。


「……本はいい。……ゲームとかないか?」

「それならここだ」

 草加はポケットから鍵を取り出し、机の引き出しの穴に差し込む。


 そこから出てきたのは、またも同類の代物供だった。

 無論水城は速攻で引き出しを閉めさせる。


「……ビデオとかは?」

「わがままな奴だな。ビデオはここだ」

 草加は今度は床に敷かれたカーペットをめくり上げた。


 現れた床には、普通ありえるはずのない取っ手が備えられていた。

 床蓋が開けられると、中の狭い空間にはビデオがぎゅうぎゅうに詰められていた。


 書かれたタイトルは、もはや一瞥をくれるにも値しない。


「……もういい。つーか勘弁してくれ……」

 さっき早人の言っていたことが十二分に理解できた。

 この眼前の男の世界には、自分は到底ついていけそうにない。


 そこまで考えて、ここが草加でなく彼の妹の部屋であることに思い至る。


「つーか……何で妹の部屋にお前の私物がこんな置いてあんだよ?」

「ほんの一部だって。俺の部屋に入りきらなかった分だよ」

「……」

 またしても聞いてならないことを聞いてしまった。

 ますます頭が痛くなってくる。


 丁度良く、以前片桐が言っていたことが脳裏をよぎった。


(なるほど……確かに人間として最低だ)


 もうこの男に頼むのは諦めて、自分で暇潰しを探すことにした。

 去り際に、何気なく部屋を見回す。


 部屋を占拠する変態の存在さえ忘れれば、ここは小さな女の子の部屋だ。

 ベットもカーテンも可愛らしい色でまとめられ、ぬいぐるみなども置かれている。


 本当に一瞥をくれただけのつもりだった。

 しかし偶然、部屋の片隅に目が留まってしまった。


 額縁に収まった小さな紙切れ。

 鈴枝が学校でもらった作文コンクールの賞状のようだ。


 どこの子供でも持っているであろう、ありふれたもの。

 だがそこに書かれていた街の名は、見過ごせるものではなかった。


 水城の表情が、静かなものへと変わる。


「なあ一つ聞くが……ここは何県の何て街なんだ」

 片桐の車でここに来た時、道中ほとんど眠っていたので自分がどこに連れてこられたのか把握していなかった。

 そのため、ここが日本のどこなのかも分かっていなかった。


「なんだ、んなことも知らなかったのか、ここはな……」

 その地名を聞いた時、水城の予感は確信に変わった。


「そうか……」

 呟いて、身を翻す。

 訝しげな顔をする草加に、振り向かずに告げた。


「悪いな、少しばかり出かけてくる」

 随分と気付くのが遅れてしまった。

 まあ気付かないほうが良かったのかもしれないが、気付いたからにはあそこに赴かねばならない。


 それが、自分の義務だから。


「おい、外出は控えろって言われただろーが」

 草加は不愉快そうな顔をしたが、水城は意に介さなかった。


「大した用じゃないさ。すぐに戻る」

 そして、階下へと消えていく。

 残された草加には、どうにも事情が把握できなかった。


「なんだあいつ……?」

 止めるべきなのかもしれないが、そこまで世話を焼いてやる気もない。

 ここは放っておくことにした。


 そうなると、自分がここに残っているのも少し馬鹿らしくなってくる。


「んじゃ、俺も少し外に出るとしようか」





 一階に戻った水城は、コンビニおにぎりの残りを食していた早人に声をかけた。


「早人―。出かけるぞー」

「え、出かけるって……何で?」

「用事を思い出したから」

 玄関で靴を履きながら、水城は簡潔に答える。

 その肩には、愛刀を納めた布袋がかけられていた。


「……外出禁止令が出てたはずだけど」

「修学旅行じゃあるまいし、いちいちあんなおっさん言うこと聞いてられるか」

「……それはいいけど……なんで僕まで?」

 早人は疑問を口にした。

 何故この男の用事とやらに自分が同行せねばならないのだろう。


「おっさんも言ってただろ。今は敵の追っ手が俺らを捜してるだろうから外は危険だってな」

「……うん」

「一人で出歩くの怖いじゃないか」

 ステキすぎる台詞を聞いて、早人は目眩がした。

 心底呆れた顔で息を吐く。


「水城さん……いい性格してるよ」





 食事が喉を通らない。
 
 何もする気が起こらない。


 暗く静かな部屋の中、綾瀬紗百合は寝台に横たわり、毛布にくるまっていた。


 ここに来てからというもの、彼女ほとんどそんな状態だ。

 テレビも見ない、本も読まない、音楽も聞かない、誰とも喋らない。


 ただ寝転がり、自己の内面に向かうのみ。

 もはやその思考すら、正常に機能しているかどうか怪しい。


 服の中に手を差し込み、自身の腹部に触れる。


 硬く、冷たい感触。

 本来あるはずのないものが、存在していた。


 一昨日の会話が思い出される。





 先に治療を終えた早人と水城が出て行った後、気を使った片桐は先に紗百合を治療させた。

 表面上の傷は、すぐに癒えた。


「……ありがとうこざいます」

 深くお辞儀をして、去っていこうとした。

 しかし立ち上がる前に、草加に手を取られる。


「待てよ。あんたの治療はまだ終わりじゃない」

 その時の草加は普段のとぼけた表情を消し、怜悧で厳しい眼差しをしていた。


「……何のことでしょう?」

「とぼけんなよ。あんたのアーティファクトを見せてみろ」

 彼は、もう何もかも見透かしていた。


 紗百合はその追求に抗おうとはしなかった。

 服を少しだけまくりあげ、左の脇腹を見せる。


 そこには奇妙な金属があった。


 色は木の葉のように深い緑で、形はいびつ極まりない。

 細い筋のようなものが周辺に伸び、肉の奥底に根を張っていた。

 その影響により、脇腹の肉がドス黒く変色している。


 金属は命あるものの如く、微かに脈打ち続けていた。


「nオ……オリジナルアーティファクトか」

 片桐が呟いた。

 彼もセクステルの一人だっただけあり、このアーティファクトの存在は知っていたらしい。


「だがそのアーティファクトは彫像型だったはず。何故そのような形に?」

「私には……アーティファクトを使う才能がありませんでした」

 アーティファクト操作は、精神の資質。

 資質の有無は、先天的な要素がものをいう。


 根本的な資質がなければ、いくら努力しても使うことはできない。


「だから改造したんだな……多大なリスクの代わりに、適性の有無にかかわらず使用できる内蔵型に……」

 草加の言う通りだった。


 紗百合が“遺跡”から手に入れた資料には、アーティファクト内部の精巧な図面も含まれていた。

 だから自分一人でどうにか手を加えることができた。


「この際だから言っとくが、元々そいつはそんなに出来のいい代物じゃないし、あんたの改造もあまり上手くできてない。だからあんたにかかってる負担は通常の内蔵型の遣い手のそれより遥かに重い」

 草加の言葉は刃となり、紗百合の胸を射抜く。

 だが同時に彼は、救いの手も差し伸べた。


「俺ならそいつを安全に取り外してやることができる。今すぐ取り外せば、とりあえず死にはしない」

「……」

 紗百合は俯く。


 取り外しを頼むことも、拒否することも、この時は選べなかった。

 闘い続ける覚悟も、目的を失う覚悟も、できていなかったから。


「だが……そいつをこれ以上身につけて、これ以上力を使い続けたら……もう命の保証はしてやれない」

 それは、分かりきっていたことだ。


 最初から死は覚悟していた。


 もし目的を遂げることができたなら、命を捨ててもかまわないと思っていた。

 だが覚悟が薄れている今となっては、その言葉は重くのしかかる。


 草加は背を向け、言った。


「二、三日時間をやる。その間にゆっくり考えな」


 そして、紗百合は一人になった。





 一人になれば、答えは見つかると思った。

 このアーティファクトを捨てるか、否か、決断を下せると思った。


 だが無駄だった。


 狭い世界と一人の時間が与えてくれるのは、堪えようのない孤独と、閉塞感のみ。

 ふとしたら押しつぶされてしまいそうな重圧だが、不思議と心地よくもある。


 きっとこの感覚に馴染んでしまえば、私はもう終いなんだな。

 と、心のどこかで考える自分がいた。


 こんな状況に陥ったのは、これで二度目だ。

 一度目は弟を失くした時。


 あの時もこんな風に塞ぎこんで、こんな風に思い悩んでいた。

 でもあの時は、立ち上がることができた。


 もしかしたら弟が生きているかもしれないと、希望が持てたから。

 あるいは、弟の敵をとらねばという、目的があったから。


 今は何も無い。


 再会した弟は、自分の敵になっていた。

 自分の助けなど求めていなかった。

 自分の存在など、彼の心からはとうの昔に消えていた。


 闘って、闘って、闘い抜いて……ニブルヘイムを倒して、弟を救い出す。

 そして、失った日々を取り戻す。


 密かに抱いていた淡い望みは、所詮幻想だった。

 そんな優しい結末は、もう永遠にやってこない。


 ならば自分は、どうすればいいのだろうか。


(淳也……)


 目を閉じれば、ただ一人だけが浮かんでくる。





 幼い頃から、体の小さかった弟。

 気が弱くて、病弱だった子供。


 だから守ってあげようと思った。

 自分が傍にいなくてはならないと思った。

 
 弱くて、出来の悪い子だったから。

 だから余計に、可愛くて仕方がなかった。





 今になって思う。

 あの姉弟関係に強く依存していたのは、本当は自分だったのではないかと。


 いくら頭の良いだの、大人びているだの自負していても、所詮は年端もいかぬ子供。

 世の中の底に位置する、弱い存在に変わりはない。


 だから、自分の傍にいてくれる者がほしかった。

 自分より弱い存在がほしかった。


 弟はいつも自分に寄り添って、自分に甘えてくる。

 だから自分は、この世に必要とされている人間なのだと感じられた。


 優しくしてあげれば、弟は自分の傍から離れはしない。


 慰めていたのは弟ではなく、自身の心だった。

 弟を過度に庇護することで、自らの孤独感と庇護欲を満足させていた。


 本当に弱いのは、自分だったのだ。


“いつまでも想い出にすがりつくな。過去は何も与えてはくれない”


 弟は、既に過去を切り捨てた。


 もう彼は、姉の庇護を求めなどしない。

 甘い想い出にすがりつきなどしない。


 それに引き換え自分は、未だ過去にとらわれている。


 甘い幻想を捨てきれず、とうに過ぎ去った想い出にすがりついて生きている。

 きっと愚かな生き方をしているのは、自分なのだなと思う。


 それでも、自分は弟を止めねばならない。

 彼は多くの人々に災いをもたらす組織に加担している。


 姉として、彼を止めねばならない。


 けれど彼は、それを望んでいない。

 自分がいくら命懸けで闘ったとしても、彼は喜びなどしない。


 それなのに、闘うことなどできるのか。

 自らの命を削ってまで。


 いくら悩んでも、答えは出ない。


「お姉ちゃん、入るよー」

 唐突にドアが開き、鈴枝が入ってきた。

 手には、リンゴと果物ナイフの載った盆を持っている。


「ビタミンもとらないと元気でないでしょ、だからリンゴ剥いてあげるね」

「……」

 自分がここに籠ってからこの少女は、いろんな手を使って自分を励まそうとしてくれていた。

 勿論それはとてもありがたいことだと思うのだが、残念ながら今は感謝の意を表現できる気力はない。


「どうお姉ちゃん、ちょっとは具合よくなった?」

「ええ……」

 椅子に腰掛けて問う鈴枝に、紗百合は短く答えた。


「無理しなくていいからね。ちゃんと直るまでここでゆっくりしてていいよ。あたしもお料理食べてくれる人がいると嬉しいし」

「え、ええ……」

 今度はやや歯切れの悪い返答をする紗百合だった。


 この部屋から動かない自分に変わって、食事は鈴枝が作ってきてくれるが、やはりそこは七歳。

 味はもはや筆舌に尽くし難い域に達している。


 その後は会話が続かず、鈴枝はリンゴの皮むきに専念した。


 それは端から見ても、不慣れでおぼつかない様子だった。

 そして案の定、彼女は途中で刃を滑らせ、自分の指を切ってしまった。


 紗百合は思わず眼を見開く。

 だが幸いに、傷は浅かったようだ。


「あはは、ゴメンねー。やっぱりおにいちゃんみたいにはできないや」

 苦笑いし、傷口を舐める。


 幼くて、けなげなその振る舞いに、紗百合の心は少しだけ動いた。

 空ろな瞳が、微かに細められる。


「お兄さんは……好きですか?」

 何故そんな問いかけをしたのか、それは自分にもわからない。

 ただなんとなく、聞いてみたい気がしたのだ。


 その先にある答えを、知りたかったから。


「うん、大好きだよ」

 鈴枝は屈託のない笑顔を返す。

 偽りのない、本心からの感情がそこにあった。


「そう……」

 短く答えて、紗百合は会話を終わらせようとする。

 しかし予想に反して、鈴枝は言葉を続けた。


「おにいちゃんはね。ほんとは、ほんとのおにいちゃんじゃないの」

 紗百合の表情が変わる。

 かつて兄から聞いた言葉を、小さな少女は自らの言葉にした。


「ほんとにちっちゃい頃だったからもうよく憶えてないけど、あたしはニブルヘイムで生まれた子だったの。でもたくさんびといことをされてたみたいなの。だから見かねたおにいちゃんが助けてくれたんだよ」

 その話は、二つの意味を示している。


 草加雅人がニブルヘイムの人間だったこと。

 草加鈴枝までが、ニブルヘイムで生を受けた子だったこと。


 どちらも、紗百合にとっては衝撃的なものだった。


「あたしを助けちゃったから、おにいちゃんはニブルヘイムにいられなくなって、あたしを連れて出ていったの」

 その声は幾分辛そうだった。

 幼いながらも、自分のために兄が苦難の道を選んだことに、重苦しいものを感じているのだろう。


「ああ見えてもね、おにいちゃんほんとはすごく苦労してるんだよ。あたしの面倒見たり、お金を稼ぐためにたくさんアルバイトやったり……でも辛そうなとこなんて、あたしには絶対見せないの」

 そして、屈託の無い笑顔を見せる。


「だからおにいちゃんのこと好き。ちょっとドジでおかしくて騒がしいけど、でも世界で一番大好きだよ」


 紗百合の眼から空虚な気配が消え、確かな意思が宿る。

 頭の奥底に溜まっていたものが、どこかに消え失せた気がした。


 鈴枝の話が彼女に何をもたらしたか、それは本人にもわからない。


 けれど言葉にできない何かを、紗百合は小さな少女から貰った気がした。

 それは多分、少女の笑顔が想い出の中の少年と似ていたからだろう。


 今でもそんなことを考える自分は弱いのだろうか、と紗百合は思う。

 きっとそうなのだろうと心のどこかで感じている。


 でもこの弱さだけは捨ててはならないのだと思う。

 それを捨てたら、きっと自分は自分でなくなるから。

 それともそんな考えこそが、愚かな執着なのだろうか。


 今はまだ、答えは出せない。


 何にせよ、いつまでもこんな小さな子の世話になっているわけにはいかない。

 それに、暗い世界に閉じこもってまともな答えなど出せるはずがない。


 紗百合は静かに上体を起こした。


「お姉ちゃん。もう起きちゃっていいの?」

「ええ。鈴枝ちゃんのおかげですっかり良くなりましたよ」

 心配げな顔をする鈴枝に、紗百合は微笑みかける。

 無論彼女の体は未だ疲弊したままだが、それは顔に出さない。


「鈴枝ちゃんもこんないい日に私の相手なんかしてたらつまらないでしょう?遊びに行っていいですよ」

 気を使って言ってやると、鈴枝は嬉しそうに破顔した。


「ほんと。じゃ、お姉ちゃんも一緒に行こーよ」

 意外な申し出を受け、紗百合は一瞬きょとんとする。


 誰かと遊ぶ。

 何の意図も、意味も無く、ただ無邪気に。


 そんなことは、子供の頃以来だ。

 あの頃の自分は、当然のようにそうしていたというのに。


 血を分けた小さな肉親の、小さな手を引いて。


「……そうですね」

 紗百合は笑った。

 虚飾でも虚勢でもなく、心の底から笑った。


 そして小さな手を引き、狭い世界から出ていった。





 床下から聞こえる、地面を走る音。

 流れゆく、車窓の風景。


 早人と水城は目的地までの距離短縮のため、電車に乗り込んだ。

 もっとも早人はまだ目的地とやらを知らされていないので、ただ水城につきてきたにすぎない。


 空席はあったが、彼らは吊革につかまり並び立つことにした。


「へー……じゃ、片桐さんと知り合ったのは?」

 二人は今、他愛のない会話に興じていた。

 元々この二人は妙に気が合う部分があり、日常会話もそれなりにできる。


 今は水城が主体となり、早人と出会う以前のことを話していた。


「あまり思い出したくないが……まあいいや。三ヶ月くらい前だったかな、金欠に喘いでた俺はある大型トラックを警護する仕事を引き受けたんだ。まあ荷揚げを黒服が手引きしてたとこからして、積荷はそーとー洒落にならない代物だったんだろうがな」

 事も無げに語る。


 この時点で早人は大分呆れたような顔をした。

 水城優也という男は穏和な学生的な見た目に反し、非合法な裏の仕事を生業としている。


 詳しくは知らないが、その筋では“処刑人”と呼ばれる程怖れられているらしい。


「……水城さんの話聞いてるといつも思うけど、よくそんなバイオレンスな人たちと進んで関わろうとするね」

「別に好き好んでやってるわけじゃないさ。ただ金払いのいい仕事を探したら必然的にそっちの方向にいきつくだけだよ」

 そっち系の仕事を嗅ぎ回る時点で問題があるのでは、と早人は思う。

 どうやらこの男に世間一般の道徳論は通じないらしい。


「話を戻すぞ。……でだ、その仕事の依頼人が間抜けなことに警察に尻尾つかまれててな。とーぜん俺の乗ったトラックも警官隊に追撃されたわけだ。ま、そこまではそれ以前も似たようなことは何度かあったからどうにか切り抜けられるはずだった。ところが何の因果か、その場にやってきた警官の中にあのおっさんがいたんだよ」

 そこまで聞いて、早人には話の先が見えてしまった。


「……で、やられちゃったの?」

「途中までは互角の勝負だったんだが、つい不覚をとってあの野郎の策にはまってな。惜しくも紙一重で敗れたよ」

 幾分苦々しげな表情で語る。


 本当に紙一重の決着だったのかは疑わししいものだが、言及するのはやめておいた。


「……で、見事パクられた俺は取調べ室まで連れてかれて、あやうくムショ送りにされかけた。あの時は流石の俺もこれまでかと頭を抱えたよ。だがそこへ急に取り調べ役の交代とかほざいてあの野郎がやってきてな。取引をもちかけてきたんだ。“これから俺のやることに協力しろ、それならここから出してやる”ってな」

 その時の光景がいかなるものであったか、早人には用意に想像がついてしまった。

 彼ららしいといえば彼ららしい話である。


「……すごい裏取引だね」

「まったくだ。酷い刑事もいたもんだろ?あいつのが俺よりよほど悪党じゃないか」

 捜査に有益な情報を与える見返りに罪を減免される司法取引という制度はあるが、片桐の場合は公的ではなく私的な目的にそれを用いている。

 おそらく水城釈放には権力やら人脈やらを駆使して無理を通したのだろう。


 職権の乱用以外の何者でもない。


「大体俺が捕まったのだってあの野郎があの場にいたせいじゃねえか。それを恩着せがましくほざいて威張りくさりやがって、これだから中年は嫌いだ」

 思い出して怒りが湧いてきたのか、片桐を遠慮なく罵る。

 どっちもどっちじゃないかなぁ……と早人は思ったが、言うのはやめておいた。


 代わりに、一つの問いをする。


「ねえ水城さん」

「ん?」

「水城さんは……その……危険なものを護衛したり誰かと闘ったりとか、いつまでそういう仕事を続ける気でいるの?」

 水城が自分をどう思っているかは知らない。

 だが早人は水城を友達だと思っていた。


 出会ってから間もないし、それほど気心が知れているわけでもない。


 それでもどこかで繋がりはあると信じている。

 だから、できることなら裏家業からは足を洗ってほしかった。


 友達として、できることならまっとうな生き方をしてほしいと思う。


「さてな。まあいずれやめるつもりでいるさ。ただ今はまだ無理だ。俺みたいな野良犬は多少ヤバイ仕事にでも関わらなければまともな稼ぎは得られない」

 あまり真面目でない口調で、何気なく言う。

 話をはぐらかされると思った早人は、意を決して尋ねた。


「親とか親戚とかには頼れないの?」

 昔の……特に実家に関することを尋ねると、水城は決まって不機嫌になる。


 それは以前の経験から充分承知していた。

 しかしそれでも、聞いておかねばと思った。


 水城の眼つきが変わる。


 少々気に喰わない話をされたくらいで怒りをあらわにするほど彼も短気ではない。

 だが少々陰鬱な気分になるのは避けられなかった。


 実家や親類の話は、できればしたくなかった。

 思い出せば、決まってつまらない気分になるから。





 水城水陰流。



 遠い昔にどこぞの剣客が捏造した、名も無き流儀。


 遡れば居合い剣術の源流、林崎夢想流に至るそうだが、真偽の程は定かではない。

 流儀の理合いが優れていたのか、単に遣い手本人の腕が立っただけなのかは知らないが、一時はどこぞの有力に召し抱えられ、それなりの栄華を誇ったらしい。


 だがそれも長くは続かず、謀反の罪で咎められ、追討の手を逃れるため出雲の山奥に隠れ潜むこととなった。

 以来その地に根を下ろし、細々と生き永らえてきた。


 現代まで命脈を保ってきたその一派に水城優也の抱く感想は「下衆」の一言に尽きる。

 名を失い、刀の時代が終わった現在においても、遠い昔の栄華を捨てきれないのか、ほとんど外界と交わろうとしない。


 外部の者に剣を教えようともせず、ただ一族のみで身を寄せ合い、無意味な型稽古を繰り返している。

 あげくの果てには古流だ何だと妙なプライドをもち、自分たちを特権階級だと錯覚しだす始末だ。


 馬鹿すぎて話にならない。





 だが人は腐っても流儀に罪はない。

 ゆえに彼は水城流の名に誇りを持ち、自らその伝承者を名乗ることにしていた。


 傍らの早人に、大分遅くなった返答を返す。


「俺に親はない。片方はどっかに消えて、もう片方はとっくに死んだ」

 早人の表情が固まる。

 水城は構わず続けた。


「親戚は腐るほどいたが、奴らは俺を嫌ってたし俺も奴らが嫌いだった。だから関わりあいたくなくなって、俺の方から勝手に出てった。そんだけさ」

 何の感情も浮かべず、淡々と語る。

 確かに実家の連中は嫌いだが、恨みや憎しみは抱いていない。


 そういった負の感情は何も生み出さないと自覚しているから。


「……」

 早人は複雑な面持ちのまま、何も返すことはできなかった。


 電車が駅のホームに辿りつき、二人は降車する。

 互いに黙ったまま、階段へと歩いていく。


 その時ふと、水城は聞きなれた音を耳にした。

 美しさなどとは程遠い、醜い鳴声。


 見ると、近くの電柱に鴉が止まっていた。


 小振りだが、しなやかな体躯。

 闇そのもののような黒い羽毛。


 水城優也は鴉という鳥に、特別な思い入れがある。

 だからこそニブルヘイムに所属した時も、自ら志願して鴉座の称号を得たのだ。


 鴉は嫌われ者だ。


 人目を引くような美しさもなければ、空の王になるほどの強さもない。

 醜いと蔑まれ、卑しいと罵られ、不吉の象徴とさえ言われる。

 ただ生きているだけで忌避される、下賎な鳥。


 だがそれでも、鴉は生きている。


 どんなに人に嫌われようと、罵られようと、強く生きている。

 己の力で生き、その翼で空を自由に羽ばたいている。


 そして、鴉は賢い鳥だ。


 知性なら、他のどの鳥にも負けはしない。

 時にその知恵は、我が物顔で地を歩く人間をも欺く。


 そんな存在に、何故か魅かれた。


「……」

 だから、自分は鴉のように生きようと思った。


 どんなに蔑まれても、罵られても、構いはしない。

 知恵と刃を武器に、己が力で生き抜くと。


 大空を羽ばたく鴉のように、自由に生きてみせると。


「水城さん、携帯鳴ってるよ」

 意識を現実に引き戻したのは、早人の声だった。

 物思いにふけっていたため気付くのが遅れたが、確かにポケットに入れた携帯電話が振動している。


 彼のアドレスを知る者はあまり多くない。

 数少ない高校の友人に、片桐と紗百合。

 つい先日加わったもう一人。


 いったい誰からの連絡かと思いながら、折り畳み式の電話を開く。

 相手は、草加だった。





 時間は少し前に遡る。


 場所は、草加邸付近の公園。

 その一角のベンチに、草加雅人は腰を下ろしていた。


 穏やかな午後の日差しを浴び、穏やかな表情で佇むその姿は、見方によっては静かに思索にふける青年に見えたかもしれない。


 だがそんな紳士的な趣向がこの男にあるはずもない。

 彼が真摯な眼差しで見据えているのは、目の前で遊ぶ幼女達だった。


 砂場で山を作る幼女達、ジャングルジムによじ登る幼女達、追いかけっこする幼女達。


 いつ見ても壮観だ。

 これほど素晴らしい光景が、他にあるだろうか。


 幼稚園や小学校を隅から“見学”するのも悪くないが、あれは下手をすると不審人物扱いされる危険性がある。


 その点ここは安全そのものだ。

 日がな一日幼女を観照していられる。


 守備範囲は四から十五歳と豪語する彼の趣向を常人は忌避するが、本人に改める気は一切無い。

 「日本人の七割はロリコンなのだ」という思想の下、ひたすら己が道を貫くのみ。


 しかし、例外も存在する。


「あ、おにいちゃんいたんだー」

 聞き慣れた声を耳にし、草加の全身が一気が震え上がる。

 おそるおそる視線を向けると、紗百合に手を引かれた鈴枝がやってきていた。


「や、やあ鈴枝、ど、どどどうしたんだこここんなとこに……」

 動揺のあまり呂律が回らない不審者を紗百合は訝しんだが、鈴枝は気にしなかった。


「お姉ちゃんと遊びにきたのー。おにいちゃんこそどうしてここにいるの?」

「観さ……あ、いや……おにいちゃんはこれからの作戦とかについていろいろと考えるなきゃいけないことが多くてな。こうして日溜りの中でゆっくりと思案してたわけだ、うん」

「おにいちゃんも大変だねー。たまには息抜きして一緒に遊ぼうよー」

「あ、ああ、そうだな。すぐ行くからその人と一緒に遊んでなさい」

 何とか適当に言いくるめることに成功した草加は、妹が離れていく姿を見て、ほっと一息つく。


 誰に変態、ロリコン、最低人種と罵られようがまったく気にしない彼だが、妹に嫌われるのだけは避けたかった。


 妹の前では「いいおにいちゃん」でいたいのである。

 もっとも、普段の彼の妹への行いが「いいおにいちゃん」にあたるのかは定かではないが。


 額の汗をぬぐい、視線を別の場所へ移そうとする。


 それは、偶然だった。


 一瞬視線が公園前の道路に向いただけ。

 何の意味も意図もなく、ただそこを見ただけ。


 その時、そこを横切る者がいた。


 その者は静かな足取りで歩を進め、草加の視界から消えていった。

 表情が強張り、背筋が凍りつく。


 普段ならただの通行人など気にならないが、この時ばかりは別だった。

 その者が、よく見知った人物だったから。


 即座に携帯電話を取り出し、片桐に連絡を入れようとする。

 だが電源を切られていてつながらない。


(何でこんな時につながらねえんだ……あの野郎……!)


 内心で毒づき、舌打ちする。


 だが愚痴をついている暇などない。

 片桐につながらない以上、もう連絡を入れられる相手は一人しかいない。


 彼の携帯電話には、有事に備えて入力しておいた水城のアドレスがあった。





「おい水城、早人の奴もそこにいるか?」

 電話に出るなり、草加は尋ねた。


「いるけど……何の用だ?」

「お前らどこ行ったんだか知らないが、さっさとうちに戻って来い。今すぐだ」

 唐突に有無を言わさぬ命令を受け、水城は不快を顕わにする。


「何だよいきなり、まず理由を説明しろ」

「……厄介な奴が来た」

 一拍の間があった。

 自分の認識したことを、言葉にしたくない。

 そんな思いから生じた間だった。


 やがて、その言葉が再開する。


「アリエスだ」

 水城の表情が消えた。

 先ほどの草加と同様に、全ての思考が停止する。


 一瞬の後に戻った表情は、ひどく険しいものだった。


「マジか……なんであいつが……」

「知らねーよ。道端で偶然見かけただけだからな。ちらっと見ただけだが、あんな目立つ髪した奴が他にいるはずがない」

 水城は納得する。

 確かにアリエスの容貌は人目を引くものであり、遠目からでも充分視認できるものだ。


 草加がアリエスの容貌を知っていたことに疑問は感じたが、今言及するのはやめておいた。


「……あいつ一人か?」

「一見した限りはな。けどあいつ一人でもお前らには充分な脅威だろ?だから鉢合わせないうちに戻って来い」

 どこか含みのある物言いを聞いて、水城は顔をしかめる。


「なんかお前ならどうにかなると言ってるように聞こえるが」

「とーぜんだろ。俺なら誰が相手でもどーとだってできるさ」

 自信に満ちた声で即答され、水城の機嫌はよりよろしくないものになる。

 その顔に皮肉げな笑みが浮かんだ。


「ほーお、自信過剰で結構なことだな。言っとくがすぐ戻って来いって件は却下だ。ここまで来て引き返すのも阿呆らしいんで用事を済ませてから帰る」

「おいちょっと待て! 人の忠告無視する気か!」

 草加は声を荒げるが、もはや水城は聞く耳をもたない。


「自分の身くらい自分で守れるさ。お前は家で大人しくしてな。じゃあな」

 そう告げて、一方的に通話を終える。

 携帯電話をしまうと、不穏な会話を察知した早人の視線に気付いた。


「何だって?」

「何と言うかな……少々面倒なことになった」

 言いにくそうに前置きして、ありのままを語る。


「どうも……アリエスがこの街に来ているらしい」

 早人の眼差しが鋭くなる。

 先程漏れ聞いた会話でおおよその内容は把握していたため、過度な驚きは見せなかった。


「アリエスって……水城さんの部隊のリーダーだったっていうあの……」

「ああ、ニブルヘイムには珍しいくらいの穏健派でな、そのためか部下も少なく、組織における権限もあまり高くはない」

 セクステルの者はそれぞれ数名のゾルダートを直属の部下としている。

 水城がニブルヘイムの“コルブス”だった時、直接の上司はアリエスだった。


 もっとも彼がゾルダートだったのはほんの三ヶ月ほどのことなので、それほど接触があったわけではない。

 交わした言葉もそう多くはない。


 しかしそれでも、彼はアリエスという人物をある程度理解していた。


「だが奴自身の実力は本物だ。普段は物静かだが、必要とあれば容赦なく敵を葬る冷酷さもある」

 アリエスは部下に甘く、同胞には優しい。

 だが敵には容赦しない。


 裏切り者の自分を決して許しはしないだろう。


「やっぱり強敵なんだね」

 早人が素朴な感想を述べると、水城は同意するように言った。


「ああ。俺にとっては、ある意味この前のレオより厄介な相手かもしれないな」

「俺にとってはって?」

 奇妙な物言いに、早人は疑問を抱く。


「お前や先生、それにおっさんならやり方によってはいくらか勝ち目も出て来るだろうさ。だが俺にはそれがない。俺の剣術と奴の能力は最悪の相性なんだ」

 アリエスと接触し、その下についた時は、隙あらば暗殺してやろうと目論んでいた。

 だがアリエスの能力を知った瞬間、そんな目論みはあえなく霧散した。


 水城にとって、アリエスはいわば天敵だ。


 単純な実力差もあるだろうが、それ以上に相性が悪すぎる。

 通常の勝負では、どう足掻いても勝つことはできないだろう。


「だから俺はあいつが怖いんだよ。あいつとだけはまともにやりあいたくない」

 その眼差しには、相手への深い警戒心があった。

 普段好戦的な振る舞いを見せ、不敵な笑みを浮かべる彼がこんな顔をするのは珍しい。


「そいつもセクステルの一人なら魔眼の持ち主ってことだよね。どういう能力なの?」

 早人は尋ねた。

 敵の能力は知っておいたほうがいいに決まっているし、何より水城がそれほど怖れる力なら、多少の好奇心も感じる。


「“万能にして究極”」

 詩を口ずさむように、水城は呟いた。


「奴の能力が語られる時に使われる形容さ。実際俺もそう思うがな」

「……多くの局面に対応できる応用力があって、それでいて強力な破壊力を備えてるってこと?」

 早人なりに考察してみたつもりだったが、水城は首を横に振った。


「前者は正解だが、後者は違う。奴の能力に破壊力なんてものはまるでない。奴の能力は極めて特殊でな。物理でなく人間の精神……その中でも限られた一部分に影響を与える」

 そう言って、自身の眉間に指を当てる。


「個人の過去の集大成であり人格の根幹を成す部分……つまり“記憶”だ」


「記憶……」

 呟いて、早人は眼を見開いた。

 いつぞやの紗百合の言葉が脳裏をよぎる。


“私も詳しいことは知りませんが、ニブルヘイム上層部に記憶を操れる能力者がいると聞きます”


 確かに、そう言っていた。

「奴の魔眼は……“記憶”を操る」





 立ち並ぶ家々。

 活気溢れる繁華街。


 せわしなく動き続ける交通機関。
 
 河川をまたぐ橋。


 延々と連なる山々。

 どこまでも青い海。


 どこにでもある、ありふれた現代の街並み。


 ニブルヘイムゾルダード・エリダヌスは浮遊大陸の端に立ち、眼下の世界を見下ろしていた。


 かつては自分も、あの世界の住人だったのだ。

 あの世界で朝を迎え、あの街並みの中を歩み、あの世界で日々を過ごした。


 決して楽しい日々ではなかった。


 父の虐待や周囲からの排斥など、辛いことのほうが多かった。

 それでも、ほんの僅かにはあったのだ。


 楽しい出来事も、大切にしたい思い出も。


(感傷よね……)


 分かっている。


 いくら懐かしんでも、もうあそこへは戻れない。

 あの世界にもう、自分の居場所はない。


 親なしで、人殺しの自分には。


「……」

 ではここが、自分の居場所なのだろうか。


 この奇妙な世界の住人にとって、自分は駒の一つにすぎない。

 代わりなどいくらでもいる。いなくなったところで構いはしない……そんな存在だ。


 自分とて、組織の在り方に納得しているわけではない。

 多くの者に災いを与える組織に加担していることには、少なからぬ罪悪感を感じている。


 それでも従わなくてはならない。


 ここの一員でいる意外に、自分の生きる道はないのだから。

 俯き加減に、大きく息を吐いた。


 下界を眺めると、決まって憂鬱な気分になる。

 それでも眺めずにはいられない。


 しかし、そんなシリアスな気分をぶち壊しにする者が現れた。


「えいっ!」

「きゃあ!」

 背後からくる、声と衝撃。


 とたんにエリダヌスの体は前方へと押しやられた。

 無論前には、彼女の体を支えてくれるものなどない。


 ただ空があるのみ。


「わたたたたたたっ! ……きゃあぁぁぁぁ!」

 必死に両手をばたつかせ、なんとか踏ん張ろうとする。


 しかし努力も空しく、その体は前方へと傾斜していった。

 そのまま絶叫を上げて落下していく……かと思われた時、背後から襟首を掴まれて落下を免れた。


 そのまま後方に引かれ、なんとか九死に一生を得る。


「アハハハハ! どや? ビックリした?」

 洒落にならない悪戯の犯人は、赤い髪と褐色の肌をした女だった。

 失われた星座の戦士、フィリスである。

 楽しそうな馬鹿笑いに、エリダヌスはプッツンした。


「何すんのよこの馬鹿! 死ぬとこだったじゃない!」

 鬼気迫る形相で猛烈に抗議する。


 彼女は大人しく礼儀正しい性格だが、意外と気は短い。

 一度キレるとに極端に凶暴になるという性癖の持ち主である。


「堪忍堪忍。ぼけーっとしてるアンタ見たらついつっかかりとうなってな。まあそう怒らんといてや」

 両手を合わせて苦笑いするフィリス。


 見たところあまり反省した様子はない。

 とはいえどこか憎めない笑顔をしているせいで、エリダヌスの怒りは大分削がれた。


「まあ、許してあげてもいいけど……今度やったら……って…」

 そこまで言って、ようやく気付いた。

 自分にからんできた女が、見覚えのない相手であることに。


 見た目は、けっこう年上。

 けれど愛嬌のある笑顔のせいでやたらと子供っぽい印象を受ける。


 猫のように尖った耳をしているが、一応人間だ。


 こんな奴いたっけ、と自身の記憶を検索する。

 しかしいくら考えても、該当する人物が見当たらない。


「ああ、ウチはフィリスゆーんや。よろしゅうな。ちなみにフィリスゆうんは猫座のことやから」

「猫座って……そんな星座あったっけ?」

 露骨に胡乱げな目を向けるエリダヌス。

 失われた星座の戦士たちの存在は、彼女らゾルダート・クラスの者には知らされていない。


「まあまあ、細かいことは気にせんとき。それよりアンタは?」

「……エリダヌスだけど」

 一応名乗ってやると、フィリスは難しい顔をして下唇に指をあてた。


「呼びにくい名前……やなくて称号やなー。なんかアダ名の一つでも考えんといかんやろなぁ」

「いい。それより用が無いならさっさと行ってよ」

 エリダヌスは露骨に邪険な態度をとる。


 気分は大分落ち着いたが、もうこの妙な相手に敬語を使う気にはなれなかった。

 というより、関わりあいたくない。


「待ちや、用ならあるんよ。あんた暇そうやし、ウチと遊んだってや」

「は……?」

 予期せぬ発言は、エリダヌスの目を丸くさせた。

 フィリスは一人で勝手に話を進める。


「さて、何して遊ぼか? 言っとくけどウチ、かくれんぼなら負けへんよ」

 そんなことを自慢されても困る。


「……この歳になってやれっての?」

 露骨に顔をしかめると、フィリスは事も無げに言った。


「ええやん、アンタちっこいし」

「うっさい! ちっこいゆーな!」

 密かに気にしてることを指摘され、年頃の少女は激怒した。


 “チビ”を意味する単語は彼女には禁句である。

 “幼児体型”などと言われた日には、速攻で相手に殺意を覚えるだろう。


 そんな相手を見て、フィリスは腹を抱えて笑う。


「アハハ、あんたおもろいなぁ、気に入ったわ」

 再度発せられる馬鹿笑いにエリダヌスは激怒しつつも、少しだけ冷静になった。


 待て待て。

 落ち着けエリダヌス。


 このままでは奴の思う壺だ。


 馬鹿と本気でケンカしてどーする。

 いつもの冷静で理知的かつ聡明な自分を思い出せ。


 ……と己に言い聞かせ、何とか平常心を回復させる。


「てゆーかあなた、何で初対面の相手と遊ぼうとするのよ?」

 とりあえず根本的な質問をしてみた。

 この女の歳になって遊んでくれなどとせがむ自体に問題がある気がしたが、もうそれはツッコまないことにした。


 フィリスは後頭部で腕を組み、つまらなそうに唇を尖らせる。


「だってぇー、スーちゃんは乱暴やからヘタに遊ぶとケンカになるし、ノクさんはどっか行っちゃうし、ケルやんはあんま口きいてくれへんし……」

「……」

 知らない奴の話をされても困る。

 この得体の知れない女には、得体の知れない同類がいたりするのだろうか。


「しゃーないからレオたんにかまってもらおと思うたら、“俺の無駄話聞いてるより金髪でメガネでちっこい奴のとこに行ったほうが楽しいぞ”なんて言うもんやからここに来たんよ」

「……」

 あのキザ野郎、よりにもよってこんな難物を自分に押し付けやがって。

 とエリダヌスは内心で主を毒づいた。


 しかし当のフィリスはかまってもらう気満々である。


「せやからウチと遊んでや。ウチもうすぐキツーイお仕事させられるから今くらいしか羽のばせへんのや、な」

 その笑顔を見ていると、不思議と毒気が抜かれてしまう。


 エリダヌスは眼前の女への認識を少しだけ改めた。

 得体の知れない上に気に入らないことも言うが、どうにも憎めない奴だ。


 仕方なさそうな態度を装って、ぶっきらぼうに言う。


「ま、まあ相手してあげてもいいけど……あんまり頭悪そうなことに付き合うのはやだからね」

 実を言うと、彼女も誰か話相手がほしかったのだ。


 凶悪犯や無法者が多くを占める組織にあって、まともな交流がもてる相手はレオとアリエスくらいしかいなかった。

 だから、積極的に親交を深めようとしてくるフィリスの態度はある意味好ましいものであった。


 一方、フィリスは少し困ったような顔をした。

 どうやら「頭悪そう」でないことを本気で思案しているらしい。


「そやねー……じゃあこれなんかでどや?」

 彼女が背中に手をつっこむと、中から人の頭ほどもある球体が出現した。


 常軌を逸した出来事にエリダヌスは驚く。

 ひょっとしてこれがこいつの能力……などと妙な深読みをしてしまったほどだ。


 そして、もう一つ気になる点は……


「……ネットもなしにどーやってバレーやる気よ」

 相手の手に乗っているのがバレーボールだということだった。


「あれ? これってボールぶつけてはっ倒した方が勝ちとちゃうの?」

「……」

 それはドッヂボールだ。

 というよりドッヂボールも二人ではできない。


 こいつはかなりの馬鹿だ。


 これまで得た情報からエリダヌスは早くも判断を下した。

 そんな冷めた視線など気にせず、フィリスは指先でボールを器用に回す。


「ま、ええわ。ウチ馬鹿やからルールとかあっても覚えられへんし。ほないこか」

「ちょ、ちょっと待ちなよ! まだ誰もやるとは……」

「問答無用! いくよ、おチビ!」

 フィリスの手から剛速球が放たれる。

 そしてどうやら、エリダヌスへの呼び名は「おチビ」に決定したらしい。


 あまりに安い挑発に、眠っていた闘志に火がついた。


「だからチビゆーなコラァ!」

 そして、剛速球の応酬が始まった。





 女二人がじゃれあう姿……というにはややバイオレンスだが……を眺めて、レオは可笑しそうに笑った。


 現在彼はとある建物の屋根に寝そべっていた。

 常人が見たら、どうやってよじ登ったのか疑問に思わずにいられないような場所である。


 やはりフィリスをエリに会わせたのは正解だったようだ。

 あの二人のアホなやりとりは見ていて楽しい。


 それに今日は雲一つ無い晴天だ。

 日がな一日寝転んでいるほど怠け者ではないが、今しばらくこの心地よさに浸っているとしよう。


 その前に、こいつの相手をしてやらねばならないが。


「何の用かな?」

 視線が左を向く。

 そこには隻腕にして隻眼の男が立っていた。


 失われた星座の戦士において最強と称される男、ケルベロス。

 この男が用もなく自分の元を訪ねることはありえない。


「アリエスの奴を見なかったか?」

 単刀直入に、ケルベロスは聞いた。

 レオは少しだけ眉をひそめる。


「どーゆー意味かな?」

「あいつの姿が見あたらねえ。あの根暗がどこかに出かけたのかって聞いてんだ」

 レオは状況を理解する。


 確かに言われてみれば、今日はまだアリエスの姿を見ていない。

 ニブルヘイムに籠りがちな幹部連中の中でも、アリエスは特にその傾向が顕著だ。


 下界に赴くのは部下に指令を下す時くらいで、滅多に外出などしない。

 仮に私用で出かけたとするなら、なかなか驚くべきことだ。


 それにしても、とケルベロスの顔を除きこむ。

 普段無口無言を決め込んでいるこの男も、アリエスのこととなると少々口数が多くなる。


 まあ、気持ちは分からなくもないが。


「知らんよ。仮に外出したとしても付き合いの長いお前に行き先を教えなかったなら、俺に教えてるはずがないだろ」

 アリエスと眼前の男との関係は、以前アリエス自身の口から聞かされていた。


 あの二人の“繋がり”は、自分とアリエスのそれより遥かに深い。

 もっとも、今もその繋がりが維持されているかは定かではないが。


 ケルベロスは何も言わず、その場を去っていこうとする。

 レオはむくりと上体を起こした。


「まあ、心当たりがなくもないがな」

 ケルベロスの足が止まる。

 鋭い眼差しで、レオを睨んだ。


「……どこだ?」

 レオは微笑んで答える。


「お気に入りの、鴉のところさ」





 並び立つ、石の塊。


 時の流れから切り離されたうな、静寂の世界。

 涼やかな風が、木の葉を引きつれ通り抜ける。


 早人が水城に連れてこられたのは、とある寺院の一角に存在する墓地だった。

 今の時間帯、周囲に他の人間は見当たらない。


「水城さん……まさか……」

 ここまでくれば、水城の目的ははっきりしていた。

 もっとも、途中で彼が花やら線香やらを買い込んだ時点でおおよその予想はついたが。


「……」

 水城は答えない。

 目的地に近づくごとに、彼の口数は減っていっていた。


 墓石の間の狭い道を、無言で進む。

 やがてその足は、とある墓標の前で止まった。


 黒光りする墓石は立派だが、供えられた花はとうに萎れ、枯葉があたりに散乱している。

 墓石に刻まれた名字は、早人の知らぬ他人のものだった。


「……」

 水城は何も語らない。

 無言で作業に取り掛かった。


 しおれた花を花瓶から抜き、自ら用意した花に差し替える。

 きちんと花瓶に水を差し、塵取りと箒で墓の周りを掃除までした。


 手馴れた手際と厳かな気配は、彼の行為が心からのものであることを示していた。


 線香に火をつけ、墓前に供える。

 そのまま膝を折り、両手を合わせて眼を閉じた。


 その横顔は静謐そのもので、一切の雑念が感じられない。


 こんな顔をした水城を、早人は初めて見た。

 今の彼に声をかけるのは憚られたが、水城が弔う相手への興味は禁じえなかった。


「そのお墓の下には、誰がいるの?」

 静かな表情で、尋ねる。

 答えは、風に乗ってやってきた。


「俺の母親だ」

 そう、短く告げる。

 亡き者に思いを馳せているのか、彼の黙祷は長い。


「親になるのを放棄してどこかに消えたろくでなしの子なんざさっさと堕ろせばいいのに、それができずに一人で苦労を背負い込むことになった……馬鹿な女さ」

 親を親とも思わないような、辛辣な言葉。

 だがそれが偽りの愚弄であることは、早人にも見て取れた。


 水城は悲しみの表情など浮かべない。

 だがその眼差しは、死者を悼む者のそれだった。


「あげくの果てに苦労のし過ぎで早死にした……本当に、馬鹿すぎる」

 水城家に嫁いできた母は、一族の嫌われ者だった。

 柔和で物静かだが、決して無意味に媚びようとはせず、自分の信念を曲げない性格だった彼女は、伝統と格式を重んじる家の中で、浮いた存在だったのだろう。


 だから彼女の死後、水城家の者は彼女を先祖代々の墓に葬ることを拒否した。

 ゆえに彼女の遺骨は実家に引き取られ、この地に埋葬されることになった。


 そして、母を失くした子供は孤独になった。


 親族は一応自分を養子にしたが、嫌われ者の子などに愛情を注ぐはずもない。

 扱いは使用人も同然だった。


 剣は教えてもらえず、学校にも行かせてもらえない。

 ただ家事全般を押し付けられ、虐げの対象にされるのみ。


 もし親が眼前の墓に眠る女性でなければ、そのような扱いを受けることはなかっただろう。

 だが彼女を恨んだことは一度としてない。


 水城楓という女性の子として生まれたことを、後悔したことはない。


 記憶の片隅に、在りし日の姿が残っているから。

 誰よりも優しい人であったと、知っているから。


(優しい……か……)


 本当にそうであったかはわからない。


 何しろ母が逝ったのは、まだ物心つくかつかぬかの頃だ。

 自分の抱く朧げな記憶がどこまで確かなものかは知れたものではない。


 もしかしたら自分は記憶を改竄したのかもしれない。

 虐待の苦痛を紛らわすために、想い出の中の母を美化しただけかもしれない。


 だとしたら、とんだ道化だ。


 だがそれでもかまわない。


 死者は何も語らない。

 何も成すことはない。


 亡き者にどのような想いを抱き、どのようなものとして扱うか、それは結局のところ今を生きる者の自由だ。


 だから深いことは考えず、それなりにいい親だったと考えることにしよう。

 こまめに墓参りに来るほど律儀ではないが、年に一度くらいなら来てやってもかまわない。


 静かな面持ちに、自嘲気味な笑みが浮かぶ。


(随分と似合わないことしてるな……俺も)


 もう思索は終わりにしよう。


 墓前で静かに感傷に浸るなど、自分に似合いなどしない。

 立ち上がり、帰路につこうとする。


 それは、唐突にやってきた。


「君に死者を弔う心があったとは、少しばかり意外だね」

 美しく、澄んだ声。

 けれどどこか、幼さを感じさせる声。


 二人が振り向くと、一人の少女が立っていた。


 人間味を感じさせない、青い髪。

 透き通るように白い肌。

 目鼻立ちは恐ろしいほどに整い、一部の隙もない美貌を誇っている。


 その美しさはどこか、匠の業で造られた蝋人形を連想させた。


 美麗な容貌に反し、装いは地味。

 男物のコートを羽織り、青いジーンズを穿いている。


 歳は若い。

 せいぜい十四かそこらといったところ。


 水城の顔から血の気が失せ、一切の思考が停止する。

 対して早人は訝しげな顔で、見知らぬ相手に近づいていった。


「えーと……君は……?」

 少女は答えない。

 答えるまでもないかのように。


 代わりにその手が、上着のポケットに入れられた。


 水城の思考が再開し、最悪の展開を脳裏に浮かばせる。

 もはや固まってはいられない。


「逃げろォ!」

 力の限り、叫んだ。


「そいつが“アリエス”だ!」

 早人はその言葉を理解できなかった。

 思考より先に、痛みがやってきたから。


「え……?」

 腹部を貫く、青き刃。

 柄を握るは、白くか細い手。


 刃が抜かれるとともに、呻く間もなく、早人は倒れる。


 出血はない。

 痛みもそう激しくはない。


 だが体は完全に麻痺していた。

 指一本、まともに動かせない。


 地に伏す早人に、少女は一瞥もくれない。

 ただ真っ直ぐに、眼前の少年だけを見据えていた。


「やあコルブス。逢えて嬉しいよ」

 言葉とは裏腹に、その顔には感情がない。


 水晶のように澄んだ眼は、どこまでも空ろで。


 どこまでも深く。

 どこまでも昏い。


 究極の力を宿した、玲瓏な美貌をもつ少女。


 それが浮遊大陸ニブルヘイムの誇る、牡羊座の戦士。


「アリエス……!」

 怒りと怯えが混濁した眼で、水城は少女を睨んだ。

 敵うはずの無い、強大な敵を。





 死者の魂眠る地で

 因縁の二人が再び出会う。





第10話 第12話

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