ニブルヘイム





骸は唄う 美しき死を
血潮は奏でる 昏き旋律を
人は彷徨う 終焉を求めて










第十話「魔軍」





 雲の隙間から、いびつな月が顔を出していた。

 雲間から零れる僅かな月光が、世界の輪郭を微かに映し出す。


 ニブルヘイムへと帰還したレオとエリダヌスの二人は、天空宮エリューズニルの廊下を歩いていた。


 左側は壁。

 右側には円柱が等間隔で置かれ、天井を支えている。


 円柱の合間から、ニブルヘイムの風景を眺めることができた。

 今この場所から見渡せる範囲には、深い森が広がっている。


「なあエリ、思ったんだが“やる気をなくした”と“なんとなくナイーブな気分になった”のどっちのほうが言い訳として通じると思う?」

「どっちも通じないと思いますけど……」
 
 特に後者は相手に不快感を与えることこの上ないだろう。

 と、エリダヌスは内心でつっこんだ。


 闘いの時の優雅で華々しい姿はどこへやら、今のレオは不真面目極まりない。


 「フム、そうだな。やはり見苦しく言い訳をのたまうのは俺らしくない。ここは胸を張ってしくじったと公言することにしよう」

「……」

 呆れたことに、ニブルヘイムに帰ってからというもの、レオはずっとこの調子なのである。

 エリダヌスは少々複雑に気持ちになった。


 普段ならため息混じりに無駄話につきあってやるところだが、今回は場合が場合だ。

 言っておかねばならないことがある。


「あの、レオ様……」

「ん?」

 不安の色濃い顔で、神妙に語る。


「その……お気を付けください。レオ様は私達ゾルダートには人望がありますが、セクステルの方々は……あまり快く思っていないようですから。特にカンケル様やビスケス様などは今回の件を理由にレオ様を排斥しようとしてくるかも……」

 現在のニブルヘイムを実質的に支配しているのは、天帝でなくレオたちセクステルの面々だ。

 エリダヌスは詳しいことは知らないが、どうやら数年前から天帝は組織の運営に口を出さなくなり、セクステル以外の者には姿を現すことさえなくなったという。


 ゆえに現在のニブルヘイムの支配体制はかなり不安定だ。


 最高幹部の六人が合議制を敷いていると言えば聞こえはいいが、それは裏を返せば有力者たちが互いに牽制しあっていることに他ならない。

 それは配下のゾルダート達も巻き込み、水面下での陰湿な派閥争いと化していた。


 そんな権力闘争にレオは進んで参加しようとはしないが、かといって大人しくしているわけでもない。

 全天で最も栄誉ある称号をもつ彼の存在を、邪魔に思う者は少なくないだろう。


 そんな中で今回の任務失敗という事実は、そうした者達にレオを排斥する理由を与えるのに充分なものと言える。


「ま、それはそうだろうな。成り上がりの若造でしかも態度がデカイとくれば、目の敵にする古狸の一人や二人は出て来るだろうさ。もっとも、そんな奴らの心情を汲んで大人しくしててやるほど俺も慎み深くはないがな」

 レオは他人事のように言う。

 その顔には余裕の笑みさえ浮かんでいた。


「任務失敗は事実だから当面は大人しくしててやるが、大人しく罰を受ける気なんざさらさらない。奴らが俺を潰そうとするなら、その時は腕づくで黙らせるだけさ。良識ある輩ならともかく、悪党といくら議論したところで時間の無駄だろうからな」

 相変わらずこの男は動揺という言葉に無縁なようだ。

 むしろ今の状況を楽しんでいる節さえある。


 この余裕は自信の表れなのか、単に能天気なだけなのか。

 エリダヌスにはどうにも判別がつかない。


「それよりお前、さっきから妙にお淑やかだぞ。アーティファクトが壊れたのそんなに気にしてるのか?」

 思わぬことを指摘され、エリダヌスの顔が強張った。


 確かに自分は以前に較べて萎縮している。

 レオに対して以前ほど冷めた態度をとれなくなったし、挙動もどこか落ち着きがない。


 全ては先の闘いに破れ、アーティファクトを破壊されたのが原因だ。

 時間さえあればあの程度の破損は修復可能とはいえ、罰を受けるに充分な失態を犯したことに変わりはない。


 そんな自分を咎めなかったレオには、少なからぬ恩義を感じていた。


「私は……その……闘いに敗れた身ですし……こうしてここまで連れ帰ってもらえるだけでも身に余ることですので……」

 伸ばされた人差し指が、彼女の眉間をつい、と小突いた。


「なーに似合わないこと言ってる。元々、お前を無理矢理けしかけたのは俺だろ? だから有難がられる筋合いなんかないさ。むしろ悪党外道と罵ってくれて構わないよ」

 そう言って、薄く笑う。

 それは彼が闘いの時に見せる皮肉げな嘲笑でなく、本当に親しげな笑みだった。


「下らないことは気にしなくていいからもっと堂々としてろよ。お前は澄まし顔で俺のあげ足とってる方が様になってるからな」

 自分の頬がかすかに赤らむのをエリダヌスは感じた。


 レオの言葉に安らぎを与えてもらったのは事実だ。

 けれどそれだけではなんとなく悔しいので、少しだけ反撃しておく。


「べ、別に気にしてなんかいませんよ。ただ、レオ様が勝手に降格とかされたら私もいろいろ困るから忠告しただけです」

 無理してつっぱねた台詞を作り、わざとらしく眼鏡の蔓を上げる。

 あまりに分かり易い態度を見て、レオは可笑しそうに笑った。


 良くも悪くも、これが彼らなりの平和な光景だった。


「どうやらその様子だと、敵を打ち洩らしてきたようだね」

 ふいに聞こえてくる、静かな声。

 前方に位置する円柱の陰から、声の主は現れた。


 ニブルヘイム・セクステルの一人、アリエス。


 この人物は、相も変わらぬ静謐な気配を纏って佇んでいる。


「アリエス様……」

 エリダヌスが呟く。


 レオにとってアリエスが盟友であるのと同様、彼女にとってもアリエスは特別な存在である。

 かつて行き場をなくして彷徨っていた自分に手を差し伸べてくれた恩は、生涯忘れることはできないだろう。


 当のアリエスは、水晶のような目で二人を見つめていた。

 怒っているのかもしれない、とエリダヌスは思う。


 今回の件は本来、アリエスの失態を埋める形でレオが動いたものである。


 そのレオが部下を失い、自身も任務を失敗したとあっては本末転倒も甚だしい。

 アリエスが怒るのも無理はないかもしれない。


 レオは一歩踏み出し、笑顔で言った。


「悪いな、しくじった」

 アリエスは疲れたように嘆息する。


「だったらもう少しすまなそうな顔をしてほしいのだけどね」

 その様子を見て、アリエスが今回の件をさほど気にしていないことをエリダヌスは悟った。

 今こうして自分たちの前に現れたこの人物は、糾弾に来たというより、困った友人に文句を言いにきたように見える。


「詫びの代わりといっては何だが、二、三発くらいならぶん殴ってもいいぞ」

「……いいよ、君と喧嘩したくはない。任務を放棄するのはこれきりにしてほしいけどね」

 肩をすくめて冗談を口にするレオと、呆れた様子で応えるアリエス。

 その様子は普段の彼らの会話そのものである。


 アリエスは踵を返し、前方へと歩いてゆく。


「とりあえずカンケル達のところに報告に行こう。今後の方針も決めなければならない」

 レオは素直に盟友の後をついていく。

 元々、彼もそのつもりでこの場に足を運んでいたのだ。


 対して、エリダヌスは取り残される形でその場に留まる。


 レオたちセクステルの面々がこれから会合を開くというなら、そこに自分の居場所はない。

 そもそも宮殿におけるこれより先のエリアは、彼女の身分では足を踏み入れることの許されない領域である。


 去っていく主の背中を、静かに見つめる。

 レオは片手を上げて、言った。


「これまた不本意だが、めんどくさい会合に顔出してくる。しばらく仕事は回ってこないだろうから先帰ってていいぞ」

 何気ない仕草に、何気ない口調。

 それはその辺に散歩に行ってくるのと変わらないような、自然な様子だった。


「ああそれと、悪かったな」

「え……?」

 突然告げられた言葉に、エリダヌスは驚く。

 レオは振り向かずに続けた。


「今回は俺の趣味に走りすぎた。お前まで巻き込んだのは悪かったと思ってるよ」

 その声は、皮肉にも冗談にも聞こえない。

 何気ない口調の中に、偽りのない真摯な響きがあった。


「お前は今後事務関係の仕事に専念してもらう。戦闘には参加しなくていい」

 ここからでは、表情は見えない。

 でも、きっといつもとは違う表情をしてるのではないか、そんな気がした。


 彼は、自分とあの少年の闘いを見ていた。


 それで、自分を闘わせたことを後悔したのだろうか。

 そんな感情が、あの男にあるのだろうか。


 さっきつつかれた額を、そっと撫でる。


 赤い背中は、闇の彼方に消えていった。


 あの人がこれから先、何を望み、どこへ向かうのか。

 見当もつかない。


 それでも自分は、傍についていようと思う。

 あの人の生き様を、見ていようと思う。


 その先に何があるのかは、分からないけれど。





 天城市から車を飛ばすこと四時間。

 ようやくにして一行は目的地に到着した。


 百貨店の事件から既に日付は変わっているが、まだ空は夜の闇に包まれている。


 ここは他県の、ほぼ同規模の街。

 ワゴン車が駐車したのは、目的地近くの駐車場だった。


 現在四人は車を下り、静かな住宅街に足を踏み入れている。

 ここに立ち並ぶ家々の一軒が、目的の人物の住まいらしい。


「やれやれ……こんな時間に人ん家を訪ねる羽目になるとはな。こっちは怪我人なんだから、少しくらい休ませてほしいもんだね」

 おっくうそうに歩きつつ、水城が言った。


「安心しろ、これから二、三日はここに滞在するからその間に休めばいい。あの馬鹿のいる家で休めればの話だがな」

 一行を先導する片桐が応える。


「あの片桐さん……これから会う人ってどんな人なの?」

「会えばわかる」

 そっけない返答が即座に帰った。


「このおっさんにまともなコミニュケーションを求めないほうがいい。必要なこと以外は一切喋らない奴だからな」

 そう忠告したのは水城だった。

 何かにつけて本人の前で悪口を言うあたり、とことん片桐が嫌いらしい。


 しかし予想に反して、片桐は言葉を続けた。


「そうだな……あえて言うなら……」

 前方のみを向いているため表情は分からない。

 だがどこか疲れたような、もしくは呆れたような様子だった。


「医者としては優秀、戦士としては一流、人間としては失格だ」

 早人と水城は、なんとも言い難い顔を並べた。


 一方で、紗百合は会話に参加しようとはしなかった。


 歩くこともままならないため、早人に肩をかされてなんとか歩いている。

 その眼差しは空ろで、足取りは弱々しい。





 やがて一行が辿り着いた家。

 そこには「草加」という表札がかかっていた。





 よほど親しいのか頻繁に訪れているのか、扉の前に立った片桐は何の遠慮もなくチャイムのボタンを連打した。

 あまりの無遠慮さに、約二名は顔をしかめる。


 だが効果は抜群だったのか、比較的すぐに応えはあった。


『はーい、どちらさま?』

 インターフォン越しに聞こえたのは、どこか幼さを感じさせる声だった。


「こんな時間に訪ねてくる奴など俺しかいないだろう」

 片桐が応えると、相手もその返答を予測していたのか、あっさりと扉を開けた。


 片桐以外の三人の視界に入ったのは、短い廊下とその先のリビング、そして二階への階段からなるありきたりな風景。


 そして、その下端にかすかに見える誰かの頭頂部だった。

 そろって視線を下に向ける。


「こんばんは、おじさん」

 ちょこんと立っていたのは、小さな女の子だった。


 七、八歳くらいだろう。

 栗色の髪をツインテールに結わえ、あどけなく可愛らしい顔立ちをしている。


「ケガしてるみたいだけど、痛くない?」

「俺はかすり傷だ。後ろの連中は少々重症だがな」

 言われて、少女は三人を見た。


「その人たちがこの前言ってた人たちね。おじさんと一緒に闘ってくれたんでしょ?」

「そうだ」

 何気ないやりとりを交わす片桐と少女。

 その後方で、早人と水城は顔を見合わせていた。


「えーと……この子が……草加?」

「まさか……」

 一体どんな奴かといろいろ想像を膨らませてはいたが、まさかこんな小さな子が出て来るとは予想だにしていなかった。

 ゆえに、呆気にとられずにはいられない。


「草加鈴枝です。よろしくお願いします」

 少女はぺこりとお辞儀をしてみせた。


 その行為が、二人の誤解をより深いものにする。

 どう反応してよいものか二人が迷っていると、片桐が口を出した。


「あいさつはいいから兄のほうを呼んでくれ」

「はーい。おにいちゃーん、おじさんたち来たよー」

 疑念たっぷりだった二人はようやく納得した。


 おそらく今呼ばれている“おにいちゃん”とやらが片桐が用がある方の草加なのだろう。

 ほどなくして、返事は返ってきた。


「おー、わかったー。ちょっと待っててくれなー。今セーブすっからー」

 二階から聞こえてきたのは、若い男の声だった。


 台詞の内容からして、テレビもしくはパソコンゲームの類をしているようだ。

 玄関に来客がいるというのに失礼この上ない態度である。


「もー、早く来てよねー。おじさん達待ってるよー」

「あー、わかったわかった。すぐ行くからー」

 妹の不満そうな呼びかけにも兄は動じない。

 そしてこの場の誰にとっても、彼の“すぐ”がなかなか訪れることがないであろうことは想像に難しくなかった。


 片桐がぽつりと呟く。


「鈴枝、奴がやってるゲームとやらを覗いてこい」

 意味不明な言葉に、鈴枝を含めた全員が訝しげな顔をした。

 その時だった。


 突然、二階の一室からあわただしい物音が聞こえ出す。

 察するに、どうやらパソコンか何かを処理するために右往左往しているようだ。


 ほどなくして、扉が勢いよく開け放たれる音がした。


 そして一人の男が颯爽と階段を駆け出りて来る……はずだったが、男は途中でつまづいてしまった。

 頭から転倒し、雪崩のように転がり落ちてくる。


 しかし転がりながらも、男は三人の前に出現した。


「……」

 派手と言えば派手すぎる登場である。

 あまりの出来事に、他の者は言葉を失い呆然となる。


 男はがばっと起き上がり、荒い息をつきながら片桐の肩を掴んだ。


「ハァ…ハァ……来てやったぞ、これで文句ねえだろ」

「相変わらず騒がしい奴だ」

 必死の形相で訴える相手を、片桐は冷めた眼で睥睨した。


 何もそこまで急ぐこともなかろうに、と早人と水城は思う。

 この男、妹にやってたゲームの内容を知られたくない一心でここまで駆けつけてきたのだろうか。


 一体自部屋で何をしていたのか、疑問は残る。


「こいつは草加雅人。残念ながらこいつが件の治療屋だ」

 片桐は男を三人に紹介した。


「おいこら、“残念”ってなんだよ“残念”って」

 男は不満げに抗議したが、早人と水城は内心で片桐に同意してしまっていた。


 草加雅人は彼らが思っていたより、ずっと若い男だった。

 水城と同年代くらいだろうか。


 やや長めの黒髪に、同じ色の瞳。

 やや垂れ目気味だが、全体で見ると整った顔立ちをしている。

 現在の彼は長袖の黒シャツに黒いジーンズという格好をしていた。

 
 そして何故か、右腕だけに黒い皮手袋をつけている。

 そのせいで、彼の外見を黒一色に見せていた。


「まあいいや、そいつらが例の新しい協力者ってわけだな」

 やや偉そうな態度で三人を眺める。

 どうやら事前に連絡は通っていたらしい。


「ああ、いろいろ話すことはあるが、とりあえず俺とこいつらの治療をしてくれ」
 
 片桐が言うと、草加はじろりと三人を見回した。

 眼差しだけで、彼の機嫌がよろしくないことは見て取れる。


 案の定、この男はくるりと踵を返してしまった。


「ダメ、顔はいいけどおっきすぎ。他は論外。何が悲しくて男の手当てなんかしなきゃならねーんだ」

 どうやら、三人の中に彼が気に入る手合いはいなかったようだ。

 そのままてくてくと自室へ帰ろうとする。


「ちょっとおにいちゃん! そんなこと言わないで治してあげてよ!」

 鈴枝が声を荒げるが、草加は気にしない。

 ため息をついて階段を上っていく。


 片桐は懐から何かのテープを取り出した。


「そうか、ならこいつを鈴枝に試聴してもらうしかないな」

 短い廊下に閃光が走る。


 目にも止まらぬ超スピードで、草加は片桐の眼前に引き返していた。

 移動によって生じた摩擦熱により、床が微かに煙を吐いている。


「わかったわかった! 治療でもなんでもしてやっからさ!」

「わかればいい」

 どこが漫才のような二人のやりとりを、他四名は何とも言い難い顔で傍観していた。


「だからそいつをよこせ!」

 草加は手を伸ばすが、片桐に渡す気はない。

 器用に手と上体を動かして相手の追撃を難なく振り払う。


「渡すかどうかはお前の働き次第だ」

「あーあー、わかったよ。ほらお前ら、いいから上がって来い」

 観念した草加は面倒くさそうに言い捨てて、階段を上ってゆく。


 皆が靴をぬいで家に上がろうとする中、片桐はマイペースに煙草を取り出し、火をつけた。

 そんな彼に、水城は囁く。


「……まずあいつの頭の中を治療してやったほうがいいんじゃないか?」

 片桐は紫煙を吐き出し、言った。


「珍しく意見が合ったな」





 エリューズニル最上階、“謁見の間”。


 分厚い鉛色の扉が開かれ、レオとアリエスが姿を現す。

 その時、既に他の四人は彼らを待ち受けていた。


 表情も、立ち姿も、個々によって異なる。

 だが、どれ一つとして友好的な眼差しがないことは明白だった。


 真っ先に、部屋の最奥に立つカンケルが口を開く。


「任務をしくじって逃げ帰ってきたわりには、随分と堂々とした入場だな」

 重々しい声色と、鋭い眼光。

 それは内に秘める殺気と怒気を隠すことなくさらけ出していた。


「お咎めを怖れてブルブル震えてる俺が見たかったかい? なら悪いが出来ない相談だ」

 相手の威嚇など意に介さず、レオは不敵に笑う。

 それがさらなる反感を買うことを知りながら。


 傍らのアリエスは複雑な胸中で成り行きを静観することにした。

 ここで自分がいくら注意したところで、レオは態度を改めはしないだろう。


 それがレオという男なのだから。


「この期に及んで何をぬかす。どうやらまだ自分の立場が分かっておらぬようじゃな」

「同感だな。なぁレオ、俺はてめえを結構買ってるしてめえの力量は信頼してるが、今回のことだけは納得がいかねえ。なぜ勝てる闘いを自ら捨ててきた? 理由を説明してもらおうか」

 左右に立つビスケスとタウルスが続け様に発言する。

 カンケルほどではないにせよ、どちらも明らかな不快感を示していた。


 三つ敵意と、二つの静観の眼差しに晒される中、レオは普段通りの穏やかな笑みを見せた。


「断る。説明すんのめんどくさいからな」

 三つの敵意が激しさを増した。

 先陣をきるのは、無論カンケルである。


「貴様、それは我らを敵に回す発言と受け取るが、よいのか?」

「別に。まあそっちが俺の敵になるというなら止めはしないがね。そうなった場合、命の保証はしてやれないが」

 交錯する、殺気と嘲笑。


 このままでは、この二人の殺し合いに発展しかねない状況だ。

 止めるべきか、否か、アリエスは逡巡する。


 だが、それより早く口を出した者がいた。


「敵の中に彼のお姉さんがいたからだよ」

 アリエスと同じく、それまで静観に徹していたジェミニだった。

 レオの顔から表情が消える。


「以前から話題に上っていた霊獣狩りが、実は彼の実姉でね。それを知った彼は最初、姉を敵の一人として扱い始末しようとしたが、差し向けた部下を倒して自分の前に現れた彼女を見て、どうにも気が変わったらしいよ。必死の説得に心を打たれたのか、最初からその気が無かったのか、彼の心情は僕には察しかねるけどね。とにかく彼は、姉とそのお仲間たちをあの場で殺すのはやめて、仕方なく帰ってきたというわけさ」

 流暢な口振りで、数時間前百貨店で起きたことを語る。

 まるで自分もその場に居合わせて、一部始終を見届けていたように。


「そんなとこだろ? レオ」

「……」

 レオは冷淡な目で、眼前で微笑む男を“観察”していた。


 こいつは見ていた。

 自分と奴らとの闘いを。


 なら、自分の任務放棄を止めることもできたはずだ。

 自分に代わって奴らを始末することもできたはずだ。


 なぜそれをしなかったのか、その意図はわからない。

 まあそれも、どうでもいいことだ。


 無表情だった顔に、不敵な笑みが戻る。


「何もかもお見通しなんだな、お前は」

 ジェミニの存在を意識から消し去り、カンケルのほうを向く。


「ま、そいつの表現に多少の不満はあるが、概ねその通りだ。ご理解いただけたかな?」

 おどけた様子で言うが、無論カンケルが納得するはずもない。

 むしろ、さらなる怒気を眼光に宿らせていた。


「ふざけるな、そのような戯言が通るとでも……」

「まあいいではないですか。ここは彼の心情を汲んであげましょうよ」

 弁護に回ったのはジェミニだった。

 彼は、同じ組織結成時からのメンバーで年長者のカンケルには敬語を使う。


 かといって心底敬意を払っているかどうかは、知れたものではないが。


「彼の人格はいろいろと問題があるものの、戦士としては極めて優秀です。それに陛下が不在の今、組織を預かる我々が内輪揉めを起こすのはよろしくない。彼の処遇はひとまず置いておいて、今は敵を滅ぼすことに専念しましょう」

「……」

 カンケルは難色を示しながらも押し黙った。

 ジェミニの意見は、一応正論のように聞こえる。


 そしてカンケルが怒りの矛を収めた以上、他の者もあえて反論しようとはしなかった。


「異論はないようだね。では状況を整理しようか」

 眼鏡の蔓を中指で上げ、ジェミニは語り出す。

 暗黙のうちに、彼がこの場の司会役となっていた。


「現在、確認されている敵は四人。元霊獣狩りのレオの姉。アリエスを裏切った元コルブス。宝瓶宮から奪われた刻星眼をその身に宿す少年。そして、四年前に組織を去ったあのリブラだ」

 敵の素性が簡潔に語られるが、今更驚きを見せる者はいない。

 その程度の情報は、皆事前に各々のルートから仕入れていた。


「その者達との戦闘により、ヒドラ、カシオペア、モノケロス、ムスカ、ラケルタ、ヘルクレスの六人のゾルダートが死亡。エリダヌスはアーティファクトの破損により当面の間戦闘不能。加えてヴァルホル一箇所壊滅。霊獣の被害にいたっては五十体を超える」


「なんとまあ、ひどい状況だな」

 レオは皮肉げに笑ってみせた。

 責任の半分はこの男にあるのだが、本人はそんなことは気にしない。


 ジェミニは話を続ける


「これは組織にとって浅からぬ打撃といえるだろう。霊獣は後からいくらでも生産できるが、ヴァルホルの修復には時間と手間がかかる。何よりゾルダートが六人も失ったのが痛い。モノケロスのアーティファクトは敵に奪われてしまい、ラケルタのものは彼の死亡と同時に消滅してしまった。他は何とか回収できたものの、肝心の使い手がいなくては意味がない」

 それらは全て事実だ。

 これまで受けた被害を総計すれば、それが組織の力を削ぐのに充分なのであるのは明白だった。


「よって、早急に手を打つ必要がある。これ以上敵をのさばらせておけば、やがては組織の存亡にかかわる問題になるだろうからね」

 ニブルヘイムという組織になぜ身を置き、何を求めるか、それは各々によって異なる。


 だが、組織の存続を願うのは皆同じだった。

 よって、異論を唱える者はいない。


「分かっているとは思うが、戦闘専門部隊だったレオ部隊が敗れた以上、最早ゾルダート・クラスでは敵に太刀打ちできないことは明白だ。全部隊を収集して抹殺にあたらせれば、話は別だろうけどね」

 レオとアリエスの配下が倒された現在、ニブルヘイムには二十七人のゾルダートが残っている。

 とはいえ半数は偵察や隠密など、非戦闘型アーティファクトの持ち主であり、残り半数は戦闘型の使い手とはいえ、まだアーティファクトの扱いに不慣れな者が多く、実際に戦力として期待できるのは十人に満たないだろう。


「それは賛成しかねるな。確かに数にものをいわせるのは確実な手だが、それではこちらの被害も相当なものになる。ここは少数精鋭をもって事に当たらせるべきだ」

 発言したのは、それまで口を閉ざしていたアリエスだった。

 セクステルの中では穏健派で知られるこの人物も、このような議論には常に積極的に参加している。


「そうだね、僕もそう思うよ。だからここは、少なくとも僕らの誰かが出向く必要がある」

 ジェミニの眼は、他の五人に向けられた。


 ここにいるのは、皆一騎当千の使い手たちだ。

 組織の生存競争を勝ち抜きこの座についた者達に、弱者は一人としていない。


「いいぜ、俺が行ってやる」

 名乗り出たのはセクステル一の巨漢、タウルスだった。


 甲冑のような筋肉を纏った人物だった。

 身の丈は二メートルをゆうに超える。

 深い口髭をたくわえた顔立ちも体躯と同じく無骨だが、眼差しには外見に似合わぬ知性も宿している。


 そしてその手には、布で幾重にも巻かれた何かを持っていた。

 主の身の丈より長いそれは、先端部が奇妙に膨張した形をしていた。


「てめえと違って、俺は暴れるしか能がねえからな。こういう時くらい役に立ってやるさ」

 彼がこう言い出すことは、ある意味皆の予想通りだと言える。

 セクステルの者達は基本的に自らの手を汚すことを好まない。


 例外はレオと、このタウルスの二人だ。
 
 タウルスは組織きっての武闘派である。


 ゾルダート時代に挙げた武功により最高幹部に取り立てられたという経歴も、それを如実に物語っていた。


「ほう、なかなか殊勝な心がけじゃな。もっとも、妾にはそなたが暴れるための口実としか聞こえんが」

 ビスケスが笑みを浮かべて皮肉る。

 タウルスは不敵な笑みをもって応えた。


「まあそんなわけだ。俺はいつでも出撃できるようにしとくから、敵の連中の行方でも調べといてくれや」

 そう告げて、これで話は終わったとばかりに退室しようとする。

 その後ろ姿を呼び止めたのはジェミニだった。


「待ちたまえタウルス。相手はアリエスとレオの部隊を倒してきた者達だ。いくら君とはいえ、一人では足元をすくわれる可能性がある」

 タウルスの足が止まる。

 彼が振り向いたとき、その顔には表情が無かった。


「俺じゃ役不足、って意味か?」

 威圧的な口調だが、別段怒りは込められていない。

 彼は今ジェミニの発言に不快を感じているわけではなく、その真意を測ろうとしていた。


「そうは言ってないさ。キミの勝利をより確実なものとするための手駒を用意してあげるってことだよ」

「ゾルダートや霊獣じゃ太刀打ちできない、って言ったのはてめえだろうが。それとも、てめえが加勢するとでも?」

「フフ……タウルス、キミともあろう者が一つ失念しているよ」

 そう語るジェミニの表情は、心底愉しそうだった。


「ニブルヘイムには……まだ“彼ら”がいるじゃないか」

 タウルスを初めとして、その場の全員が表情を変えた。

 その中で最も過剰な反応を見せたのは、普段感情の起伏を見せないアリエスだった。


「ジェミニ……まさか……」

「こういう時のために生かしておいたのだろう?資源は有効利用するものさ」

 宣告を受け、アリエスの表情が凍りつく。

 対照的に、ビスケスは愉快そうに笑った。


「これは面白い。まさか、あの化け物供を目覚めさせる時がやってこようとはな」

 レオ、カンケル、タウルスの三人は、鋭い眼差しのまま押し黙っていた。

 この場に集う六人は、主義も主張も思惑も、それぞれ大きな隔たりがある。


 だがこの時彼らは、脳裏に同じ存在を思い浮かべた。






 彼らに次ぐ実力を誇る、四人の戦士。


“失われた星座”の称号をもつ者達を。





 再び草加邸。


 ジャンケンの結果、治療を受ける順番は水城、早人、片桐、紗百合となった。

 肉体的な面では水城が一番重症なので、まあ妥当な順と言えるだろう。


「俺か……」

 自分の出したチョキを見ながら、水城は少々とまどった表情を見せる。


 傷を治してくれるのは有難いが、どうもその治療方法が気になる。

 あの怪しい男に任せて本当に大丈夫なのだろうか。


「……まあいいや、このままじゃろくに歩けんし、手早く治してくれ」

 しぶしぶ用意された椅子に座る。


 ここは草加雅人の部屋。

 六畳ほどの小さな部屋の中に、草加と順番待ちの患者三人が待機していた。


「さて、まずどこから治してほしい?」

「両足」

 レオから受けた打撲傷やムスカの鞭で打ち据えられた傷もあるが、ヘルクレスに斬られた両足が最も重症である。

 これでよく歩けたものだと早人が思ったほどだ。


 草加は患者の傷をしげしげと眺め、言った。


「うわー、つーかお前全身傷だらけだなー、たかがゾルダートの一人や二人とやりあったくらいで何そんなぼろぼろになってんの?」

 予期せぬ発言、いや暴言を受け、水城の顔が一気に強張る。

 膨張した血管が露骨に額に浮かんだ。


 そんなことを草加は気にせず、壁によりかかる片桐を見た。


「おいリブラ、これから本腰入れて奴らとやりあおうって時に、いいのかこんなので?」

「まあいないよりはいくらかマシだろう。いいからさっさと治してやれ」

 煙草をくわえながら片桐は気のない返答をする。

 水城の血管が無限増殖していく。


「み、水城さん、おさえておさえて」

 早人はあわてて宥め役に回った。


 このまま放っておいたらこの男のことだ。

 いつ刀を振り回し始めるか知れたものではない。


 現に今も、さりげなく左手が傍らの愛刀に伸びている。


「仕方ねーな、ほら、パッパッと治してやっから有難く思え」

 草加は、さも面倒くさそうに言う。

 爆発寸前の水城は、全身をブルブル震わせながらも黙って座っていた。


 傷口に伸ばされる、右手。


 黒皮に覆われたその手が、淡い燐光を放つ。

 微かにこもれ出た光が、水城の目にも映った。


 そして……


 パチッ、パチッ、と青い電流のようなものが傷口と接触する。


「―――!」

 水城の顔がかつてないほど強張った。

 全身が総毛立ち、鳥肌が浮かぶ。


 彼はそのまま脇に立てかけておいた愛刀をひっつかみ、迷わず抜刀する。

 殺傷力充分な刃を上段から振り下ろした。


 間一髪、草加は白刃取りで凌ぎきる。

 ぎらつく眼差しを交差させる彼らは、ともに荒い息をついていた。


「「な、な、何しやがんだこの野郎!」」

 二人の声が見事に重なった。


「ちょ、ちょっと!どうしたの急に!?」

 早人があわてて声を上げると、鬼気迫った顔の水城が答えた。


「どうしたも何も、こいつ妙な電撃みたいなの人の体に流しやがったんだよ!」

「ああそのことか。気にすんな、あれが俺の治療だから」

 刀身をさりげなく下ろさせた草加は、しれっと答えた。


「嘘つけ! あんな痛い治療があるか!」

 抗議の声を上げる水城。

 どうやらさっきの瞬間、彼は予期せぬ激痛をその身に感じたようだ。


「いいか、俺の治療術はな、俺の体内に流れる生体電流ってやつを一時的に増幅させて、それを相手の中に流し込むってやつなんだ。生体電流は、神経を介して肉体のあらゆる器官に脳からの命令を伝達する役目を担っている。それを利用して、俺は相手の体内の細胞に働きかけて細胞の復元能力を増幅させてるわけだ。だが、この電流ってやつの加減が難しくてな。つい余った電流が痛覚とかまで刺激しちまうわけだ」

 流暢な口振りで草加は解説する。

 その内容をある程度理解した水城は、訝しげに訪ねた。


「……じゃあ何か? お前の治療とやらは傷はすぐ治るけど、反面あんな痛みを伴うと?」

「そーゆーことだ。ま、傷口に消毒がしみるみたいなもんだから気にすんな。良薬は口に苦しって言うだろ」

「消毒どころじゃねーんだよあれは! つーか苦いんじゃなくて痛えんだよ!」

 必死にツッコみを入れる水城であった。

 だが勿論、草加は聞く耳などもたない。


「うるせーな。元々俺は、治療は専門じゃねーんだよ。いいから大人しくしてろ」

「もういい、俺は自然に治るのを待つ。や、やめろこら、放せ!……あああぁぁぁぁぁぁ!」

 この世のものとは思えない絶叫が、狭い部屋内に鳴り響いた。

 近所の人間が聞いたら、よからぬ勘違いをして通報する危険性すらあるだろう。


「荒治療が嫌なら、傷を負わない努力をすることだな」

 紫煙を吐きながら、冷めた様子で呟く片桐だった。

 直後にその手が後方に伸び、ドアノブに手をかけていた早人の襟首をひっつかむ。


「どこへ行く?」

「い、いや……ちょ、ちょっとその辺を散歩しに……」

 早人はひきつった笑みで答える。

 残念ながら、脱走計画は未然に防がれてしまった。


「十八歳未満は夜十一時以降外出禁止だ」

 こういう時に限って、刑事らしいことを言い出す片桐だった。


「ぼ、ぼくはいいよ。ほら、この通りぴんぴんしてるし、先に片桐さんたちが……」

「黙れ。いいからお前も治療してこい」

 惨めな脱走兵はずるずると引き摺られていく。

 すぐ近くでは、バチバチとした不気味な電流音が鳴り続けていた。


「いやだー!」

 新たな悲鳴が鳴り響いた。





 先に拷問……もとい、治療を終えた二人はリビングのソファーにもたれかかる。

 その表情は、ここに来た時以上に疲労の色が濃い。


「水城さん……治療ってもっと優しいものであるべきだよね……」

「まったくだ……世の中間違ってる……」

 仲良くうなだれ、仲良く愚痴を垂れる。

 妙なところで息の合っている二人であった。


「まあ、腕がいいのは認めるけどな……」

 水城は自分の足に視線を向ける。

 大腿の肉に刻まれた裂け目は、もう大分塞がっていた。


「あの人さ……さっき片桐さんを称号で呼んでたよね」

 早人の呟きに、水城は興味深げな視線を向ける。

 その点については彼も思うところがあった。


「ああ、確証はないが、多分ニブルヘイム時代からのつきあいなんだろうな」

「何者なんだろうね……あの人」

 先程の奇妙な治療術だけでも、只者でないことは見て取れる。


 それにこの家、あの歳の兄と妹だけで住んでいるというには少々不自然だ。

 他に家族はいないのだろうか。


 それ以上に気になるのは、ここに来る途中、片桐が言ったあの言葉だった。


 『自分たちをニブルヘイムに連れて行ける力の持ち主』


 確かにそう言っていた。


「さあな。聞いてみたところであの連中が答えるとは思えんし……まあどうでもいいさ」

 水城は、ぼんやりと天井を眺めて言う。


「俺としては、きっちり傷を治して俺らの役に立ってくれれば文句は言わんさ。無理に他人のことを詮索しても、無用なトラブルを生むだけで、得るものはないからな」

「……」

 さっき思いっきりトラブルを起こしていたくせに、と早人は内心でツッコんでおいた。

 そこへ、無邪気な笑顔をした鈴枝がやってきた。


「お兄さんたち、ケーキができたよー」

 彼女の手には六人分のケーキの載った盆があった。

 各皿を順にテーブルに置く。


 クリームを縫ったスポンジの上にイチゴをのせた、オーソドックスなショートケーキである。

 ややいびつではあるが、一応形にはなっていた。


「えへへ、これあたしが作ったんだよー。どうかなぁ?」

 二人はへえ、と感嘆する。

 一般論で言うなら、彼女くらいの歳でこれだけのものが作れれば大したものだ。


 ひょっとしてあの草加という男、こんな小さな子に家事全般を押し付けてのうのうと暮らしてやがるのではないだろうか。

 そんなよからぬ想像をしてしまう二人だった。


「どう、おいしい?」

「うん、おいしいよ。ありがとう」

 そう答えたのは、なんと早人でなく水城だった。

 穏やかな目をして、にこりと微笑みかけている。


(キャラ違う……!!)
 
 満面の笑顔で喜ぶ鈴枝と対照的に、早人は見てはいけないものを見てしまったように硬直した。


 何をさわやかな好青年を気取っているのかこの鴉野郎は。

 それとも、さっきの荒治療のショックで頭が危ない方向にイッてしまったのだろうか。


 ……という心情を顔面全体で表現する。


「あ、そうだ、お茶いれてこなくちゃ」

 そう言って、鈴枝は一旦台所へ戻ってゆく。


 彼女が離れたのを確認した後、水城は早人の方を向いた。

 その顔を見て、早人はぎょっとする。


「絶対に口をつけるな早人。ヘタしたら死ぬぞ」

 水城の顔は苦悶に歪んでいた。

 眉間に深々と皺が寄り、滝のような汗が流れている。


「そ、そんなにマズいの……?」

「ああ、ある意味ではさっきの治療とやらを凌ぐかもしれん……」

 彼の顔は鬼気迫っている。

 どうやら本気で言っているようだ。


「そんなのによく我慢できたね……」

 その点に関しては、素直に関心する。

 さっきは平気で抜刀していたこの男が、相手が女の子とはいえよく堪えられたものだと思う。


「年少者には優しく接するのが俺のポリシーだ。年長の男は基本的に嫌いだがね」

 大分偏ったポリシーとやらを聞いて、早人は納得した。


 確かに、この男は年少者には優しい一面がある。

 自分が始めて学校で会った時も、かなり親切に接してくれていた。


 逆に年長者にはかなり険悪な偏見をもっているようで、それが男となればさらにひどいものになる。

 片桐を嫌っているのには、そういう理由もあるのかもしれない。


 などと思っていると、鈴枝が戻ってきてしまった。

 彼女は手のつけられた様子のない早人の前の皿を見ると、とても悲しそうな顔をした。


「あれ? お兄さんは食べないの? ケーキ嫌い?」

 早人の心に罪悪感がのしかかる。

 ここで食べるのを拒否する勇気は、彼にはなかった。


「い、いいや! そ、そんなことないよ! 大好き大好き!」

 首をブンブン振りながらひきつった笑顔を浮かべても、説得力などないだろう。

 だが、残念ながら鈴枝は真に受けてしまった。


「よかった。じゃあ遠慮しないでどんどん食べてね」

「うっ……」

 いよいよ追い込まれた。

 何とかこの場を切り抜けるには、話題を変えるほかない。


「あ……そ、そうだ。鈴枝ちゃんは何年生?」
 
 もう少し気の利いた話題にしたかったが、とっさには思いつかずありきたりな問いになってしまった。

 しかし効果はあり、鈴枝は笑顔で答えた。


「二年生だよー。お兄さんは六年生くらい?」


 沈黙。


「あ、いや……一応、中二なんだけどね……」

 露骨にひきつった笑顔で答える。


 密かに気にしていることを突かれた精神的ダメージは、計り知れないものだった。

 しかも、相手に悪気がないところが始末が悪い。


「えっ!? そうなのー!」

 などと露骨に驚かれると、余計に傷が深まる。

 憂さ晴らしに、隣で笑いをこらえている眼鏡野郎を一発ブン殴りたくなった。


 その時、草加の声。


「おっ、鈴枝、おいしそうなの作ったなぁ」

 治療を終えたのか、草加と片桐は二階から下りてきていた。

 なぜか、片桐より順番が先だったはずの紗百合の姿はない。


「先生は?」

 早人が問うと、草加が答えた。


「俺の部屋で寝かしといたよ。流石に、女の人にソファーで寝てろってわけにもいかないからな」

 言葉を引き継ぐように、片桐が言う。


「あいつは……しばらく休んでいたほうがいい」

 相変わらずの無表情だが、声にはどこか重さがあった。

 早人と水城は状況を理解する。


 今の紗百合は、これから自分たちと行動を共にできるかどうかも疑わしい状態だ。

 とても話し合いに参加できる精神状態ではない。


 今は、一人にしておいたほうがいいだろう。


「じゃ、とりあえずミーティングといこうか。これからどうする気なんだ、おっさん」
 
 水城は片桐に流し目を送り、彼に説明を促す。

 この集団における立場と敵についての知識の面から、話し合いを主導するのは必然的に片桐となる。


「そうだな……まずは、これから襲ってくるだろう連中について説明してやる」

 片桐が言うと、早人と水城は顔をしかめた。

 一方で、草加は平然と紅茶を啜る。
 

「説明って……今度はどんな奴らが差し向けられてくるか、目星ついてるのか?」

「俺もかつては奴らと同じ穴のムジナだったからな、奴らの思考パターンくらいは熟知している」

 水城が問うと、片桐は自信をもって答えた。

 まあ、元セクステルのこいつがそこまで言うなら信用していいのだろう、と水城は思うことにする。


「ふーん……で、次はどこの部隊なんだ? タウルスか? ビスケスか?」

「奴らに所属はない。奴らは正規兵じゃないからな」

 答えたのは草加だった。


 彼もまた、片桐と同じことを考えていたらしい。

 それはつまり、彼もまた敵の内実に相当通じていることを意味する。


「正規兵じゃないって……じゃあ何者なの?」

 早人は問う。

 片桐は眼を細め、重々しく答えた。


「囚人だ」





 現存する星座は、黄道十二星座を含め八十八。


 だが人の長い歴史の中では、さらに多くの星座が生み出され、諸々の理由により消えていった。

 それら“失われた星座”は、とうに人々の記憶から忘れ去られ、永劫陽の目を見ることはない。


 ニブルヘイムという組織の中で、忌避すべき魔物と位置づけられ、ゾルダートにもセクステルにも組み込まれることのなかった戦士たち。

 彼らにはゾルダート・クラスとは一線を画する意味で、“失われた星座”の称号が与えられた





 エリューズニル地下。


 長い長い、螺旋階段。

 奈落の底へ落ちゆくように、どこまでも続く。


 レオ、アリエス、タウルス、ジェミニの四人は、一団となってそこを下り続けていた。

 同じエリューズニルとはいえ、優美で壮麗な上層部とこの地下エリアとでは、雲泥の差がある。


 ここには、外部に晒す事のできない汚物や異物の類が無数に存在している。

 ニブルヘイムという組織において、汚点とされるものの数々が集約された空間だ。

 
 そして、その最深部に近い場所に、目当ての者達は住んでいる。


 否、幽閉されている。


「こんなに早く彼らを目覚めさせる時が来るとはね……不謹慎かもしれないが、ぼくは今歓喜に震えているよ」

 誰にともなく、ジェミニは語る。

 その声色は心底愉しそうである。


 “愉しい”の定義は大分異なるだろうが、タウルスも薄い笑みを浮かべていることに変わりはない。


「……」

 対して、最後尾を歩くアリエスの表情は優れなかった。

 どこか不安げで、どこか物憂げな顔をしている。


 それに気付いたのは、レオのみだった。


「どうしたアリエス? 浮かない顔だな」

「いや……なんでもない。なんでもないよ」

 静かにアリエスは否定する。

 それが取り繕ったものであることは明白だったが、レオはそれ以上詮索するのはやめておいた。

 かわりに、おどけて笑ってみせる。


「そうか。まあ、お前の場合年中浮かない顔してるからな。たまには景気のよさそうな顔しろよ」

「失礼な奴だな。それを言うなら、キミだって年中意味もなく薄ら笑いだろう」

「おっと、これは一本取られたな」

 いつもどおりの、冗談交じりな言葉を交わす二人。

 だがレオが再び前を向いたとき、アリエスの顔には元の翳が戻っていた。


「……」

 誰にも言うことはできない。


 この思いは、自らの胸の内にしまっておかねばならない。

 これから会う者達と自分は、浅からぬ繋がりがある。


 消すことの出来ない、何より確かな“繋がり”。


 彼らへの思いはあまりに複雑で、言葉にすることはできない。

 ゆえに一人孤独に思い悩む。


 迷いと、憂いを、胸に抱いて。





 やがて、四人は階段脇に備えられた扉を潜る。


 その先にあったのは、大広間と呼べる程広い空間だった。

 その奥に、四つの物体が安置されている。


 金属で固められた、太い円筒型の機械だ。

 突き出されたパイプやケーブルが樹の根のように床に広がり、その姿をどこかグロテスクに見せている。

 右から順に、一から四までのローマ数字が書かれていた。


 それらは最新鋭の技術を駆使して造られた、人間を冷凍睡眠させる装置だった。


 “幽閉”と“保存”。


 似て非なる、二つの目的を同時に遂行できる優れものだ。


 部屋の隅々には、その装置を維持するための機械類が幾つも備えられている。

 さらにこの上階には、それらの装置を管理するための部屋が存在していた。


 ジェミニは上着から無線機を取り出し、上階に待機さている部下に連絡を入れる。


「ぼくだ。彼らのところに着いたよ。さっそく彼らを解放してあげてくれ」

『……わかりました』

 連絡に応じたのは、ニブルヘイム科学部門に所属する科学者だ。

 彼らはゾルダートや霊獣と異なり戦闘力は持たないが、幽子操作を初めとした多くの分野に精通している。


 そして彼らを束ねているのは、科学部門を統括するジェミニだった。


『……お言葉ですが、本当によろしいのですか? あの化け物共を解き放ってしまって……』

 科学者の声には、隠し切れない不安と怯えがこもっている。


 彼とその同胞たちは、この場に封じられた者達の力を熟知している。

 その強さを、凶暴さを、過小評価したりはしない。


 だが、ジェミニはそんな怯えとは無縁だった。


「彼らが化け物なら、ぼくらは“神”だよ。余計な心配はしなくていい。ぼくは、早く彼らの姿が見たいんだ」

「……わかりました。お気をつけ下さい」

 科学者は渋々承知する。

 そして、解放の儀式が始まった。


 上階の科学者たちがコンピューターを操作し、幾重にも張られたプロテクトを解除していく。


 その影響でジェミニたちの階の機械類も起動し、独特の駆動音を奏でた。

 冷凍保存装置の表面に、幾何学的な光学模様が浮かび上がる。


 その淡い光は、薄闇の空間をささやかに彩った。





 女性的な電子音が、四人の復活を告げる。


『囚人ナンバーW、“スケプトル(王錫座)”解放』

 Wと銘打たれた装置が開かれる。


『囚人ナンバーV、“ノクター(梟座)”解放』

 Vと銘打たれた装置が開かれる。


『囚人ナンバーU、“フィリス(猫座)”解放』

 Uと銘打たれた装置が開かれる。


 そして……


『囚人ナンバーT、“ケルベロス(地獄の番犬座)”解放』

 最後の装置が開かれた。





 開かれた装置から吹き上がる、乳白色の蒸気。

 四人を凍結させていた氷が、急速に溶かされたためである。


 蒸気の中から肩を並べて歩を進める、四つの人影。


「やっとこさ解放かよ……ったく、人を下らねえものの中に押し込めやがって。おかげで体が鈍っちまったぜ」

 ぶつぶつと文句を垂れる一人目。


「ほらほら、折角解放していただいたのだ。そのように無粋で陰湿な台詞は控えたまえ。今は再び目覚めたこの時を、至福に感じようではないか」

 気取った口調でたしなめる二人目。


「またすぐに檻暮らしに戻されんとええんやけどなぁー……あー、寝起きはやっぱダルいわ」

 呑気にぼやく三人目。


「……」

 何も語ろうとしない四人目。


 彼らこそ、“失われた星座”の戦士たち。

 ゾルダートを凌駕し、セクステルに匹敵する、真の実戦部隊。


「相変わらずだな、てめえらは」

 以前と変わらない個性豊かな面々を目にし、タウルスは愉快そうに笑った。

 四人の戦士は、それぞれの感情をそれぞれの瞳に映し、セクステルの面々を眺めている。


「やあキミたち、目覚めの気分はいかがかな?」

 一歩前に踏み出し、そう言ったのはジェミニだ。

 四人を覆っていた蒸気が晴れ、その姿が顕わとなる。


「てめえのツラ拝んだら余計に悪くなったぜ。うぜぇから喋んじゃねーよ。糞眼鏡」

 スケプトルは露骨に邪険な態度をとる。

 言葉遣いから誤解されがちだが、彼女はれっきとした女性である。


 男装の麗人……というには些か過激な性格だが、顔立ちは凛々しく美しい。

 短く切り揃えられた青い頭髪を、黄色いバンダナで包み込んでいた。


「ほう、上の方々が四人も出迎えてくださるとは光栄だね。また面倒事を我々に押し付ける気とお見受けするが、いかがかな?」

 ノクターは挑発的な視線を向け、皮肉な笑みを見せた。


 外見年齢は二十代後半。

 彼ら四人の中では最も年長に見える。


 ウェーブがかった金色の長髪が印象的で、顔の左半分を白い仮面で覆い隠していた。

 どこか西洋人的な顔立ちをした彼が黒いロングコートに身を包んだ姿は、東欧の伝承に登場する吸血鬼を連想させる。


「あ、レオたんにアリ坊におっちゃんだー。みんなおひさ〜」

 フィリスはジェミニ以外の三人に手を振り、愛嬌のある笑顔を見せる。

 それは、ジェミニへのあてつけという意味も含んでいた。


 彼女の外見年齢は二十歳前後。

 やや外ハネ気味の赤い髪と褐色の肌をした女性である。


 緊張感のない独特の口調と、猫のように尖った耳が特徴だった。

 そんな彼女は、自身の趣味により薄緑色のチャイナドレスを着用している。


「……フン」

 最後の一人、ケルベロスはそれだけしか口にしなかった。


 彼は精悍な顔立ちをした青年である。

 乱雑に刈り込まれた黒髪とやや無骨だが整った顔立ちは、彼の容貌に野性的な魅力を与えている。
 

 にもかかわらず、その姿は異様だった。


 彼には左腕が無い。

 左の眼球もとうの昔に潰れている。

 そしてその全身には、大小さまざまな傷跡が刻まれていた。


 その傷だらけの体が、彼がこれまで歩んできた人生の重みを無言のうちに物語っている。


「フフ……元気そうでなによりだ。もう少し可愛げが出てくれると嬉しいんだけどね」

 四人の非友好的な態度も意に介さず、ジェミニは笑う。

 それが余計に癇に障ったのか、スケプトルは鋭い視線を向けた。


「ざけんな、お喋りはいいからさっさと用件言えよ」

「あるのでしょう? 我々の力を必要とする事情が。冷酷非道なあなたが慈悲の心で我々を解放してくださったとは、到底思えませんからね」

 ノクターが言葉を引き継ぐ。

 こちらは対照的に、愉しげな笑みを浮かべていた。
 

「その通りだよ。タウルス、君の口から説明してやってくれ」

「まあ簡単に言うとだ。うちの組織に喧嘩売る奴らが出てきてな、霊獣どもを初めとして、レオとアリエスの部隊を潰しやがった。で、そいつらの始末に俺が出向くことになった。お前らは、そのサポート役ってわけだ」

 タウルスは決して単細胞ではないが、こういう口上に手間をかけようとはしない。

 だがその乱雑な説明でも、四人が理解するには充分だった。


「よーするに、おっちゃんと一緒に喧嘩しに行けってことやね。あーめんどくさ」

 真っ先にフィリスが感想を述べる。

 それをたしなめるように、ジェミニは告げた。


「そのつもりだがね。まだ決定事項ではないのだよ」

 予期せぬ発言に、四人の表情が変わる。

 それはセクステルの三人も同様だった。


「キミたちを冷凍保存してから、もう二年になる。その間に、キミ達の性能が劣化していなかったか少々不安でね。そもそも、キミ達はこの任務を任せられるほどの遣い手だったのか? 少々、自分の記憶に対しての不安もある」

 四人の視線、特にフィリスとスケプトルの険悪さが増す。

 見え見えの挑発など意に介さないが、自分たちを“物”のように扱う物言いは癇に障った。


「よって、これからキミ達の能力をテストしたい。方法は簡単。ぼくらと少しばかり喧嘩してくれればいいんだよ」

 その身勝手な発言に最も憤りを示したのは、アリエスだった。


「ジェミニ……!」

 即座にジェミニに詰め寄ろうとする。

 しかしそれは、伸ばされたレオの手によって止められた。


「まあいいじゃないか。“喧嘩”程度でくたばる程ヤワじゃないだろ? こいつらも、俺らもな」

 彼の冗談めいた言葉は、ある意味正しかった。


 彼らセクステルと“失われた星座”の四人の間に、それほど絶対的な差はない。

 本気の殺し合いならいざ知らず、少々の小競り合いで勝負が決することなどありえないのだ。


 アリエスもそのことは充分承知なため、渋々ながらも引き下がった。


「制限時間は一分。その間に、ぼくらを満足させるだけの力を示せれば、キミらを討伐隊のメンバーとして迎え入れよう」

 それが出来なければ、大人しく檻へ帰るがいい。

 ジェミニの眼は、無言でそう告げていた。


 四人の戦士に選択の余地はない。

 彼らはただ闘うのみ。


 それが彼らの生まれた意味であり、課せられた宿命なのだから。





「あーあ、めんどくせーことさせやがって。あのメガネ野郎、この期に及んでまだ俺らが信用できないのかね」

 真っ先に動いたのはスケプトル。

 牡羊座のアリエスを標的に定め、その眼前に立ちはだかる。


 彼女は腰に備え付けた鞘から、自らの得物を引き抜いた。

 王錫座のアーティファクトの原型は、その名に違わぬ短い杖の形をしている。


 思念を込め、発動を促す。


 杖の上部から弧を描く刃が、先端から諸刃の刃が出現する。

 さらに反対側の先端が外れ、柄の中から出現した鎖を引き連れ、鎖分銅となった。


 大蛇のように長い鎖をもつ、鎖鎌。

 それが王錫座のアーティファクトだった。


 旋回する鎖分銅が風を切り、静かなる音色を奏でる。


「ま、いいか。喧嘩は嫌いじゃねえし」

 不機嫌そうだったスケプトルの顔に、初めて笑みが浮かんだ。


 アリエスは左手にナイフを持つ。

 青い水晶を研磨して作り上げたような、青いナイフ。

 現在の武器はそれだけ。


 だがアリエスの能力を考慮すれば、それだけで充分ともいえよう。


 円を描いていた鎖分銅が、突如として放たれた。


 それは地を這うように低空を飛行し、標的に迫る。

 そして命中の寸前に上空へと浮上し、アリエスの右腕を襲った。

 
 だが、アリエスは“魔眼”の所持者だ。

 動体視力においては“刻星眼”が最高値を誇るが、他の魔眼も常人を超える動体視力は充分に備えている。


 分銅の軌道を瞬時に見極め、鮮やかに回避した。

 だが、気を抜く暇は一瞬たりともない。


 アリエスが分銅を注視した一瞬、わずかな一瞬をついてスケプトルが間合いを詰めてきたからだ。

 視線を移した時にはもう、眼前にまで迫ってきていた。

 
 二人の刃がぶつかり合う。


 衝突は一瞬。


 だがその一瞬の膠着が、両者の明暗を分けた。

 アリエスの右腕に、かわしたはずの鎖が巻き付く。


 アーティファクトである鎖分銅の動きは、まさしく自由自在。

 たとえ主が鎌を振るっていても、単体で独立した動きをすることも可能。

  
 鎖と鎌の同時攻撃。

 それが“失われた星座”が一人、スケプトルの戦術。

 
 腕を絡めとられては、アリエスは間合いを放すこともできない。

 その後二人は幾度か刃を交えたが、スケプトルの猛攻にアリエスは押され、すぐさま壁際まで追い詰められた。


「くっ……」

 背を壁に叩きつけられ、アリエスは短い呻きを上げた。

 既に喉元には、相手の諸刃の刃がつきつけられている。


「流石だねスケプトル……武器の勝負では、キミには到底敵わないよ」

 皮肉も虚飾もなく、素直に相手の力量を賛美した。

 だがスケプトルの顔は、元の不機嫌なものに戻っていた。


「なぜ……」

「……」

「なぜ……本気でやってこない? てめえなら、今この状態で俺を殺すことだって出来るだろうが」

 彼女はアリエスの能力を知っている。


 アリエスが魔眼の力を使っていれば、ここまで追い詰められることはなかった。

 今この状態でさえ、覆すことは造作もないだろう。


 だが本人にその気がなければ、いかなる力も意味を持たない。


「私は臆病者だからね……殺し合いは嫌いだよ……」

 細い指がそっとそっと伸ばされ、喉元の刃をつまんだ。

 そのまま静かに、下に下ろさせる。


「相手がキミ達なら……なおさらだ」

 スケプトルはそれ以上、アリエスを叱咤することはできなかった。
 
 自分に向けられた双眸が、深い悲しみを湛えていたからだ。


「チッ……」

 興醒めしたように舌打ちし、身を翻した。





 一方、ノクターはタウルスを相手と定め眼前に立ちはだかる。


「ではタウルス殿、久々に我が華麗なる美技をご覧に入れよう」

「御託並べてると時間切れになるぜ。さっさと来いよ」

 二人はともに愉しそうに笑う。


 この場で最も好戦的な部類に入る彼らとって、闘いは最高の娯楽だ。


 先手をとるはノクター。

 胸元で腕を交差させ、続いて両手を左右に突き出す。


 美しき闘いを信条とするこの男が編み出した、仰々しくも流麗な動作。


「蠢け、深淵に巣食う禍々しき怪異共よ。我が御名において現世に這い上がり、生者を貪れ」

 突き出された両手から、小さな何かが無数に放たれる。

 それらは左右対称の動きでタウルスの周りを迂回し、やがて周囲全てを取り囲む。


 そして人魂のように、空中に浮遊した。


「“餓鬼魂”」

 名を呼ばれし者達は、一斉にその素顔を顕わにする。

 滑らかな球体のようだった表面に、醜悪な面相が浮かんだ。


 苦悶、渇望、狂気、悪意。

 あらゆる負の感情を兼ね備えた顔で、タウルスを見据えている。


 詠唱は、自己への暗示。

 授ける名は、妖魔の名。


 奇妙な呪文が魑魅魍魎を生む、妖異なる内蔵型アーティファクト。


 現世に産み落とされた悪鬼たちは、主に従い一斉に標的を襲った。

 逃げ場のない、全方位攻撃。


 無論、タウルスはただ指をくわえて待ってなどいない。


“餓鬼魂”が動いたと同時に、自らの得物を包む布を乱暴にはぎとった。

 奇怪な鉄の塊が、外界にその姿を現す。


 四つの切っ先をもった両刃の穂先。

 四方を飾る月牙。

 月牙に繋がれし鎖分銅。


 それは一言で言うなら、長い柄の先端に数多の武具が?ぎ合わされた物体だった。
 

 名は、“混天撃”。
 
 大陸は唐代より伝わる、特異な長柄武器。


 その超重巨大さと複雑さゆえに、「残唐五代史演義」に名を連ねる豪傑、李存考のみにしか使いこなせなかった言われる代物だ。
 
 だがニブルヘイムの豪傑、タウルスにとっては玩具に等しい。
 

 これは彼のアーティファクトではない。

 彼がその膂力と技量をもって操る純粋な武具だ。
 

 重さ八キロに達する鉄の塊を、小刀のように軽々と振るう。

 自らの周囲全てに向けて。

 
 それは、嵐のような攻撃だった。


 幾度となく旋回する巨魁に、襲い来る餓鬼魂たちは次々と薙ぎ払われてゆく。

 ある者は穂先の、ある者は月牙の、ある者は分銅の餌食となって。


 一瞬の後、タウルスの足元には無数の死骸が転がっていた。

 タウルスは得意げな笑みを見せる。


 しかしノクターの顔に焦りは浮かばない。

 満足そうに微笑む。


 見ると、右の上腕部にかろうじて攻撃をかいくぐった一体が喰らいついていた。

 鋭い牙で厚い皮を破り、中の肉を貪り喰らっている。


 痛みがないわけではない。

 だが、タウルスは眉一つ動かしはしなかった。


 何気ない動作で最後の一体を掴み取る。


 そしてあろうことか、それを自らの口元に運んでいき、噛み砕いた。

 ぐちゃぐちゃと咀嚼し、不味そうに飲み込む。


「不味いな。瑞々しさが足りねぇ」

 二人は残忍な笑みを向き合わせる。

 戦術や趣向は違えども、共に心底から闘いを愉しんでいることに変わりはない。


「流石はタウルス殿。私の鮮やかな一手を易々と凌ぎきるとは大したもの。可愛い我が下僕を味見するのは、感心しかねますがね」

「ハッ、相変わらず言うことが長ったらしい野郎だ」





 同胞二人が動いたのと同時刻、フィリスは困ったように呟いた。


「あらら……スーちゃんもノクさんもノリノリやねぇ……」

 彼女は先の二人とは違い、戦闘を愉しむ趣味はない。


 よく言えば平和主義者、悪く言えば事勿れ主義といえる。

 だが、この状況ではそうも言っていられないようだ。


 視線を正面に向けると、そこに彼女の最も嫌う男が立っていた。


「キミの相手は、ぼくがしてあげよう。反撃はしないから安心なさい」

 セクステルの一角であり、科学部門を統括する男、ジェミニ。

 自分だけでなく、他の三人もこの男をひどく嫌っている。
 

 小さく嘆息し、腰のポーチから自身のアーティファクトを取り出す。

 それは金色に輝く、九尾の猫の彫像だった。


 気乗りしない顔で、頭をぽりぽり掻く。


「ハァ……ウチ、喧嘩は好きやないんやけどなぁ……」

 そう言いつつも思念を集中させ、アーティファクトを起動させる。

 九尾の猫は二つに分かれ、主の両手を包み込む。


 変形が終わった後に現れたもの、それは手首から指先までを覆う黄金の手甲だった。

 猫より虎に近いであろう鋭い爪が、指先に備え付けられている。


 ジェミニの唇がつり上がり、陰湿な笑みを形作る。


「闘うために生まれてきた者がそれを放棄するのは、喰えない豚や走れない競走馬と意味的には等価だよ。CF039」

 次の瞬間、ジェミニは右に動いた。


 それまで彼のいた場所を、鋭い四つの刃が通過してゆく。

 それらは全て、後方の壁に突き刺さった。


 金色に輝く鋭い爪。

 それはフィリスの手甲の指先から射出されたものだった。


「ま、ええか。あんたキライやし」

 一転して低音になった声と、鋭い眼差し。

 今フィリスが抱いているのは、純粋な怒りと嫌悪だった。


 細い指が、奇妙な円を描く。

 それとともに、ジェミニの胴体に細長いものが巻きついた。


 壁に打ち込まれた爪から伸びる、銀色の糸。

 それらはフィリスの指先と繋がっていた。


 絹のしなやかさと名刀の切れ味を併せ持つ銀糸。

 それが猫座の戦士、フィリスの武器。


 糸を操る右手を大きく引き、敵を抹殺しようとする。

 その刹那、ジェミニの双眸に変異が生じた。




 瞳の奥に映る、もう一つの瞳。

 そこに映る、さらなる瞳。

 合わせ鏡のように、無限に続く。




 噴き上がる鮮血。

 時間すれば一秒にも満たないだろう。


 糸で対象を絡め取り、切断する。

 その単純な動作を徹底的に磨き上げた殺人術は、常人の目には動きの過程一つ見ることはできない。


 ジェミニとて例外ではなく、指一本動かす間もなくその身を切断された。

 下半身と分断された上半身がぼとりと地に落ち、血潮を垂れ流す。


 自身の死さえ認識できなかったのか、その顔は笑みを浮かべたまま固まっている。

 見るも無惨な死骸を、フィリスは無感動に見下ろした。


 背後から聞こえる、拍手の音。


「素晴らしい」

 フィリスは冷淡な眼を、後方に向ける。


 そこには柔和な笑顔を浮かべて手を叩く、白衣の青年がいた。

 衣服には、一滴の血痕もついていない。


 フィリスは何も言わず、ただ眼に映る男を睨む。

 眼前で笑っているのは、ジェミニ。


 後ろで笑ったまま転がっている肉塊は、かつてジェミニだったモノ。

 その矛盾した事実に、彼女は一片の驚きも見せない。


 それが、双子座の魔眼の能力なのだから。





 そして、悠然と立つレオのもとへ猛進する人影が一つ。


「俺の相手は……やはりお前か」

 レオは愉しげに微笑み、赤輪眼の“右眼”と“左眼”の双方を起動させた。

 セクステルの長たる彼が、自身の相手と見るにふさわしいと認め、本気で臨戦態勢を整える相手。


 その名は、“失われた星座”最強の男、“ケルベロス”。


 常人とは比較にならない脚力で、相手との間合いを一気に縮めていく。


 レオは愉しげに微笑むと、何の遠慮も躊躇もなく、赤輪眼の右眼を発動させた。

 瞬時にケルベロスのいた場所で爆炎が爆ぜ、部屋中に爆音が轟いた。


 だが、その程度で終わるケルベロスではない。


 爆破を先読みしていた彼は、無傷の姿でレオの背後に出現していた。

 自身の武器たる右腕を振りかぶって。


 無論、レオもケルベロスの動きは知覚している。

 瞬時に身を翻しつつ、赤輪眼の左眼を宿した左腕を突き出した。


 タイミングは同時。

 交差する、獅子と魔狼の爪。


 結果は、互角といっていいものだった。


 突き出された二人の一撃は、ともに相手の顔に命中する寸前に止められていた。

 あと一歩踏み込めば相打ちになると互いに悟り、拳を止めたのだ。


 満足げに微笑むレオと、一切の感情を見せないケルベロス。

 レオの頬は僅かに裂け、ケルベロスの頬は僅かに焦げていた。


 二人は示し合わせたように後方に跳び、間合いを空ける。


「なるほど、どうやら腕は鈍ってないらしいな」

 レオは賛辞の言葉を述べた。


 “支配状態”でないとはいえ、彼と互角の体術戦を繰り広げられるのは、タウルスを覗けば、この眼前の男しかいないのだから。


「……」

 対して、ケルベロスは何も言わない。

 その顔には、何の感情も浮かばない。


 機械のように、何も望まず、何も感じず、ただ闘う。

 それが、ケルベロスという男だ。


 そして、約束の一分が経過した。





 ジェミニは大仰に両手を広げ、満足そうな笑みを見せた。


「素晴らしい。本当に素晴らしいよ。二年振りの目覚め直後にそれだけ動けるとはね。やはりあの貯蔵器の出来は完璧だった……いや、もちろんキミ達自身の力も素晴らしいと思うよ」

 そのような台詞をのたまわれても、四人は嬉しくも何ともない。


 今の短い立ち合いで見せたのは、彼らの力の一旦に過ぎなかった。

 もっとも、それならセクステルの四人も同様だが。


「世辞はいいんだよ。で、俺らは討伐隊とやらに加わって構わないんだろうな?」

 四人の心情をスケプトルが代弁すると、ジェミニは優しげに微笑んだ。


「もちろんだ。持てる力を存分に発揮してくれたまえ」

 それはどこか、子供じみた笑みだった。

 大好きな玩具を使えることを喜んでいる子供のような、そんな類の喜びが感じられる。


「ウチはとにかくお腹すいたわー。なんか食わせてーな」

 一人場にそぐわない台詞をのたまうのはフィリスだ。

 戦闘時以外の彼女は、組織の中で珍しいほど呑気な性格をしている。


「まあ、まだ連中の行方も知れないわけだしな。部屋をくれてやるから、とりあえず休んでな」

 レオがそう言って、先頭をきって歩いてゆく。

 セクステルの二人と失われた星座の三人はその後をついていった。


 残されたのは二人。

 地獄の番犬を冠するケルベロスと、牡羊座のアリエス。


 静寂の訪れた空間で、二人はただ見つめあう。

 沈黙を破るため、ケルベロスは口を開いた。


「……どうした? てめえもさっさと行けよ。いつまでもシケたツラしてんじゃねえ」

 一切の感情を廃した、辛辣な言葉。だがそんな言葉でさえ、無口な彼が口にするのは珍しい。

 アリエスは静かに口を開く。


「……やはり討伐隊には私も加わるよ。キミたちだけを闘わせるのは心苦しい」

「いらねえ世話だ」

 即座に言い捨てて、ケルベロスは背を向けた。


「しかし……」

「敵は俺たちが始末する、てめえの手は借りねえ」

「……」

 静寂の中に足音を響かせて、ケルベロスは去っていく。

 最後に、こんな言葉を残して。


「アリエス……てめえは確かに強えよ。だが闘いには向いてねえ。ここで大人しくしてろ」

 何も感じず、何も望まない男の、無骨で、傷だらけの背中。

 アリエスは悲しげな眼で、それを見つめていた。


 かつて誰よりも慕った、“友”の背中を。


「ケルベロス……」

 かつて彼を呼んだ時、彼はいつも振り向いてくれた。


 いつからだろうか。

 自分たちの間に、深い溝が生まれたのは。


「……」

 ケルベロスは振り返らなかった。


 決して振り返らなかった。





「“失われた星座”の戦士たち……?」

 その名を聞かされた早人と水城は、訝しげな顔を並べた。

 早人はもちろんのこと、かつてニブルヘイムに籍を置いていた水城でさえ、その名を聞かされたのは初めてだった。


 続きを促す視線が、片桐に集中した。


「かつて……“アスクレピオス計画”というものが存在していた」

 その名を聞いて、真っ先に反応を示したのは水城だった。


「アスクレピオス? どこかで聞いたような気がするな。それも星座の学名か?」

「黄道上に存在する星座は十二……と長い間考えられてきた。だが近年の天文学の発展により、隠されていた十三番目の星座の存在が判明した」

 やや遠まわしな表現で、片桐は応える。


「それが蛇遣い座……“アスクレピオス”だ」

 ギリシャ神話の名医、アスクレピオスの名を冠する星々。

 後から加えられたゆえに、黄道十二宮などを初めとした占星術にも加えられない、異端の星座。


 その存在が認められた現代においても、一般にはあまり知られていない。


「ニブルヘイムはその十三番目の存在、アスクレピオスの戦士を生み出そうとした。アスクレピオスは、天帝を守護する任を負った他の十二戦士とはその役割が異なる。アスクレピオスのアーティファクトだけは、生身の人間に装備させることが不可能だということが判明した。だから天帝は、アスクレピオスのアーティファクトが装備可能な人間を人工的に造り出そうとした」

 淡々とした口調で、片桐は語る。

 その脳裏では、かつて眼にした悲惨な光景を思い描いていた。


「だが、望み通りの人間を生み出すのはニブルヘイムの技術をもってしても容易なことではない。何百体ものサンプルが生み出されたが、その多くは人の形を成さずに死んでいった。かろうじて生を受けた者達も知能や肉体に障害のある者が多く、容赦なく処分されていった。五体満足で生まれてきた一握りの者達も、アーティファクトの才能に乏しいなどの理由で次々と斬り捨てられていった」

 その話を、早人と水城は静かに聞き入っていた。

 草加は目を閉じて紅茶を啜っていた。

 鈴枝は片桐から目を背け、顔色を青くしていた。


「そんな中で、極めて成功作と呼ぶに近い性能を発揮した四体がいた。結果として奴らにアスクレピオスの座が与えられることはなかったが、優れた戦士である奴らを処分することを惜しんだ天帝は、歴史の中で消えていった星座の称号を与えて組織に組み込んだ……というわけだ」

 片桐がひとしきり語り終えると、場は一瞬静まりかえった。

 皆が今の話についてそれぞれの感想を抱き、まだ見ぬ敵を思い描いている。


 そんな中で、水城は口を開いた。


「なるほどな、ニブルヘイムにまだそんな隠し玉がいたとは思わなかったよ。まあ、情報さえあれば対策の立てようはある。知ってるんだろ? そいつらの能力について」

「王錫座は鎖鎌、猫座は糸、梟座とケルベロス座の二人は内蔵型に属するアーティファクトを使うと聞いている。それ以上のことは知らん」

 一瞬、水城の顔が硬直する。


「知らんって……って、他に何か情報ないのか、具体的な能力とか戦術とか弱点とか……」

「奴らの装備しているアーティファクトは、奴らが生まれた後に奴ら専用として急造されたものだ。その開発に俺は関わっていない」

 まるで当然のことのように片桐は即答した。

 こういう時ですら、偉そうな態度を崩さないのがこの男らしい。


 水城はさも嘆かわしそうに額に手をやり、大きく息を吐く。


「何が説明してやるだ、結局有益な情報は何一つないときた」

 隣の早人はまあまあ、と宥めるが、内心は水城と同じだ。

 敵の正体が明らかでも、能力が不明ではどうしようもない。


 すると、それまでケーキを食べることに集中していた草加が口を開いた。


「まあそう言うなって、今日の本題はこれからなんだからよ」

「本題?」

 水城が眉をひそめる。

 対して早人は、心得た顔で片桐を見た。


「これから、ニブルヘイムとどう闘うか……って、ことだよね」

「ああそうだ。今までのように奴らが襲ってくるのを待っていたのでは、どうやっても勝ち目はないからな」

 その返答は、皆が予期していたものだった。


 昨夜、早人たち三人と途中から加わった片桐は、レオとその部下たちと戦っただけで相当な痛手を受けた。

 草加という治療役を得たとはいえ、これまでのやり方では到底生き延びていけないことは明白である。


「レオとアリエスの部隊を倒せたとはいえ、ニブルヘイムにはまだ三十人近いゾルダートと、三ケタに及ぶ霊獣がいる。無論、セクステルの六人もな。そいつら全てを相手にしていたら、命が幾つあっても足りない。数の力に負けて、いずれ力尽きるのがおちだ」

「だったら、天城市とその付近にあるっていうヴァルホルを全部破壊するっていうのはどう? ヴァルホルが壊れれば霊獣は造れなくなって、霊獣がいなくなればニブルヘイムは自然に消えていくんでしょ?」

 早人は意見するが、片桐は迷わず否定した。


「俺とて全てのヴァルホルの位置を把握しているわけではないし、それはあまり効果的とはいえない。確かに霊獣の生産を止められればニブルヘイムの勢力は一時的に減退するが、多くの人間の魂を喰らいあそこまで“肥大化”したニブルヘイムは、そうすぐには消えはしない。それに、一旦ヴァルホルを破壊しても俺たちの知らないところで再建されてしまえば、元の木阿弥だ」

 “肥大化”という言葉に草加以外は訝しげな顔をしたが、あえて問う者はいなかった。


「確実に奴らを倒す方法は一つ。俺達が、ニブルヘイムに乗り込むことだ」

 皆が表情を引き締める。


 ここに来る前車内で話を聞かされた時から、こうなることはわかりきっていた。

 いや、早人も水城も、ニブルヘイムと関わると決めた時からいずれはそうなることは予期していた。


 今まではただ目先の闘いにとらわれて、そのことを頭の隅に押しやっていたに過ぎない。


「ニブルヘイムの“核”を破壊すればニブルヘイムは消滅する。霊獣の生産も止まる。ニブルヘイムの住人も死に絶える」

 ニブルヘイムに行き、その中核を破壊する。そうすれば全てが終わる。

 誰でも理解できる、簡単な図式だ。


 だがそれが最も難しいことは、言われなくとも理解できた。


「あそこに乗り込むってのはいいとして、前から気になってたんだがあそこってどうやって行くんだ?」

 水城が当然の疑問を口にする。


「あそこには、通常の手段ではどうやっても行くことはできない。仮に俺たちに翼が生えて空を飛べたとしてもだ。あの島の周囲には空間操作によって生まれた不可視の障壁が張られている。通常の物体は障壁に触れるとその軌道を捻じ曲げられ、壁面に沿って移動することしかできなくなる。例えて言うなら、太陽の重力によって捻じ曲げられる光のようにな。だからどの角度から突っ込んだとしても、永遠に辿り着くことはない」

「じゃあどうやって……」

 言いかけたとき、それを遮る形で草加が言った。


「聞かされてなかったか? そのために、俺がいるんだってな」

 彼は笑っていた。

 自信と希望に満ちた、得意げな笑みだった。


「俺の“力”なら、お前らをニブルヘイムまで連れてってやることができる。そのために、いくつか手順を踏むことにはなるけどな」

 皆の視線が彼に集まる。

 彼のことを知らない二人は好奇と疑念の入り混じった眼差しを、彼をよく知る二人は信頼に満ちた眼差しを向けていた。


 そして草加は、これからの計画について語った。





 どこまでも続く闇の空。


 まばらに漂う雲は月明かりを浴び、金の輝きを帯びている。

 天空を彩る星々はいびつな月とともに、世界を淡く照らし出す。

 空はどこまでも果てしなく、どこまでも美しい。


 その片隅に、明らかな異物が浮かんでいた。


「……」

 草加邸の前にて、片桐琢磨は空を見上げていた。

 彼以外の者達は既に寝静まり、家の明かりは消されている。


 傷はある程度癒えたとはいえ、疲労は残っている。

 だが、眠る気にはなれなかった。
 

 元々娯楽とは縁の薄い彼は、別段することも思いつかず、空を眺めて気を紛らわすことにした。


 しかしそれだけでは心もとないので、煙草を取り出し一服することにする。

 空へと立ち上る紫煙を見ていると、なぜだか“あいつ”のことを思い出す。


 あいつは、この煙に敵意に近いものを抱いていた。


 こんなものは無意味だ。
 
 脳を侵し、内蔵を蝕む猛毒だと忌み嫌っていた。


 そんなものは早くやめろ、でないと早死にするぞ、とさんざん言われた。


 だが、十代から染み付いた習慣はそう簡単にやめられるわけもなく、それほど長生きしたいわけでもないので禁煙の努力はしなかった。

 そのうちあいつも説得を諦めたのか、自分の前では吸うなとだけ言うようになっていった。


 そんな些細なことですら、今となっては懐かしい。


「……」

 できることなら、あいつのことは思い出したくなかった。

 あの日の言葉までも、思い出してしまうから。





“人は皆塵芥なんだよ……君も、私もね”

 そう、あいつは言った。


“星々の世界の広大さに較べれば、我々の存在なんて塵粒みたいなものさ。悠久の時を生きる星々に較べれば、我々の命なんて一瞬のものに過ぎない。世界の片隅に一瞬だけ在ることを許された、惨めな塵芥だ”

 あいつの話には、よく星が出てきた。


 あいつは星が好きだった。

 星々の放つ悠久の輝きに、魅せられていたのだろう。


 あいつは人が嫌いだった。

 自身までも塵芥に例えて、蔑みの対象としていた。


“そして悲しいことに、我ら塵芥は何も知ることはできない。世界は未だ多くの謎に包まれている。我々の生きる世界とは何なのか、我々はなぜここに在るのか、我々とは何なのか……数えればきりがない。そして、答えを知る前に私たちは消えていく運命にある。私達に与えられた時はあまりに短く、その先にある死は絶対のものだからだ。”

 そう語る時のあいつは、本当に悲しそうだった。


“死は強大だ。形無きゆえにその存在は何より不滅で、抗う術はない。だが、死は決して無と同義ではないよ。死もまたこの世界を形作る一つの力なのだと、私は思っている。そして力である限り、そこには必ず理が存在する”

 いつしかあいつの話は、星よりも、人よりも、“死”が多くを占めるようになっていた。


“だから私は、死に挑んでみたいと思う。これまで誰も勝つことのできなかった敵に、打ち勝ってみたいと思う”

 なぜあいつが“死”に関心を抱くようになったのか、それは分からない。


 死にたくなかったからか。

 死にたかったからか。


 今となっては、答えは出ない。


“私は死の先に行ってみたい。そこに何があるのかは、まだ分からないけどね”

 その時の自分は、あいつが何を言っていたのか、何を求めていたのか、理解することができなかった。


 気付いた時には、何もかも遅すぎた。


 あいつは本当に、死の先に向かってしまった。

 自らの目的を遂げるために、旅立ってしまった。





 決して届くことのない、遥か彼方へ。





 どうして、気付くことができなかったのだろう。


 あいつの心が、とうの昔に壊れていたことに。

 あの狂気が、取り返しのつかない域に達していたことに。


 分かっている。

 いくら後悔しても、もう遅い。


 あいつはもう、終わってしまったのだ。


 この世界を蝕む、大いなる災いを残して。

 災いは数多の悲劇を生み、悲劇はさらなる災いを生み、無限の“罪”をあいつに与えていく。


 けれど終わってしまった者に、罪は償えない。

 だから、自分が償うしかない。


 そうすることが、今の自分が“あいつ”にできる、唯一のことだから。





 不意に、誰かの声。


「綺麗な空だね」

 見ると、早人が立っていた。

 こんな静かな時に接近を感じられなかったとは、自分は随分物思いにふけっていたらしい。


「車の中で寝たせいか、どうも眠れなくってさ」

 早人は、苦笑交じりの顔で頭を掻く。

 片桐は一瞥をくれただけで、すぐに視線を夜空に戻してしまった。


 早人はやや困った顔をする。


 まさか、ふらりと外に出てみれば先客がいるとは思わなかった。

 しかも、相手が片桐というのが少々困りものである。


 さっきのような作戦会議ならともかく、普段の彼とどう話していいのかわからない。

 かといって、無視しているのも少々気まずいものがある。


「えーと……星を見てたの? それともニブルヘイムを?」

 試しに、何気ない口調を装って他愛のない問いをしてみた。

 だが、反応は全くといっていいほど無い。


「……」

 どうにも取り付くしまのない男だ。

 水城の言うように、まともなコミュニケーションをとるのは難しそうである。


 まあ、無理にこの男と会話をしたいわけでもない。

 そそくさと、身を翻して屋内に戻ろうとした。


 その矢先。


「“ニブルヘイム”というのはな……地獄の名前なんだ」

 唐突に、片桐は口を開いた。

 その眼は、未だ天空に向けられている。


「北欧神話では、人間の住むこの地上をアースガルドと呼んでいる。そして、その遥か下に存在する世界がニブルヘイム……女怪ヘルの統治する死者の国だ」

 唐突に知らされる事実。

 しかしそれ以上に、突然そんなことを語り出すこの男の真意が計りかねた。


「あの島を創った奴は、何を思ったのかそんなものの名をつけた」

 彼が何を思ったのか、何を伝えたいのか、それは分からない。

 だが話しかけられた以上、何か応えないわけにはいかない。


「そう言われると……なんか不思議だね」

 早人もまた、夜空を仰ぎ見る。


「上手く言えないけど、あそこの連中って自分たちを偉大だと思って、あそこを楽園みたいなものだと思ってるわけでしょ? だったら、そんな地獄の名をつけるなんて矛盾してると思うけど……」

 素直に思ったことを口にする。

 すると片桐は、遠い眼をして言葉を続けた。


「名付け親は、最初から分かっていたのかもしれないな。どう飾り立てても、あれが天国などに成り得はしないことを。ただ多くの者に災いを与え続けるだけのものだということを」

 あいつは、最初から分かっていた。


 自分の生み出したものが、人々に与える災いを。

 他者が味わう苦しみを。


 それでもなお、奴は自身の目的のために、あれを生み出した。

 全てを理解しながら、他者の苦痛から眼を背け、自己の目的を優先する行為。


 それを“悪意”と呼ばずに何と呼ぶのか。


(愚かだ……本当に愚かだ。あいつも、俺も)

 早人の眼にも、片桐が陰鬱に沈んでいることは見て取れた。


 空を睨むような眼の奥に、どこか悲しげな翳を帯びている。

 今は、一人にしておいたほうがいいのかもしれない。


 今度こそ、その場を立ち去ろうとした。


「じゃあ、ぼくは……」

 踵を返し、歩を進める。


「待て」

 数歩もいかぬうちに、足が止まる。

 呼び止めたのは、片桐の声だった。


「この際だ。言っておくことがある」

 あれは数日前、水城から報告を受けた時。

 その時に知った。


 水城が見つけた新しい協力者が、あの少年だったことを。


「お前の眼に魔眼を埋め込んだのは、俺だ」

 早人の顔が凍りつく。


 言葉が意識に染み入り、背筋を駆け巡る。

 驚愕と混乱が渦を巻き、意識を支配した。

 あまりに唐突で、あまりに衝撃的で、返す言葉もない。


 冷涼な夜風が、二人の間を吹き抜けてゆく。


「元々お前の眼は、現代の医学では治療不可能な状態だった。それに視力を与えるためには、魔眼と同化させてアーティファクトと化させる必要があった」

 片桐は事実のみを述べるように、淡々と語る。


「なんであなたが、そんなことを……」

 当然の疑問が口から出た。


 かつて、自分はこの男と面識などなかった。

 この男が見ず知らずの相手の眼のために、そんなことをした理由がわからない。


 答えは、静かにやってきた。


「それが、ヒリカの望みだったからだ」

 時が止まる。


 そんな錯覚を感じるほど、今の一言は衝撃的だった。

 思考が再開するのに、数秒を要した。


「ヒリカを知ってるの!?」

「ああ」

 短く、だがはっきりと、片桐は答える。


「ヒリカは今どこにいるの!? 今無事でいるの!? 何であの日にいなくなったの!? ねえ!?」

 幾つもの問いが自然と口から溢れ出す。


 今の早人は驚愕と同時に、歓喜に近い感情を抱いていた。


 やはり、自分の歩んできた道に間違いはなかった。

 やはりニブルヘイムと関わることが、ヒリカを知る唯一の方法だったのだ。

 
 片桐の視線は、夜空から早人に移される。

 なぜかその眼差しは、冷淡なものだった。


「あいつに逢いたいか?」

「当たり前だよ!」

 興奮のせいで、自然と強い口調になる。


 今の早人には、そんな自分を抑えるような自制心は残っていなかった。

 強く問い詰めれば、自分の求める答えが返ってくる。

 そう信じて疑わなかった。


 だが……


「諦めろ」

 冷徹に、片桐は告げる。


「え……?」

「ヒリカのことは諦めろ。あいつは、お前と逢うことを望んでなどいない。たとえ逢ったとしても、ろくなことにはならない。だから、あいつのことはもう忘れろ」

 まくしたてるような、有無を言わさぬ言葉。


 早人の頭から歓喜が消え、不穏なものが渦巻いていく。

 頭の中が真っ白になっていくのが、不思議と自覚できた。


「今……なんて……」

「同じことを二度言う気はない」

「ふざけるな! なんであんたがそんなことを決め付けるんだよ! いいから早く逢わせろよ!」

 激昂に向かう感情を止めることはできなかった。

 ヒリカのことを知りながら、それを教えようとしないこの男が、今は他の誰より、この世の何より許し難かった。


 片桐の表情は変わらない。

 むしろ、より冷酷さを増していた。


「逢ってどうする気だ。また、盲目だった時のように傍に寄り添って欲しいのか。光を得て、自分の足で歩けるようになりながら、それでもまだあいつに甘えていたいのか?」

 その言葉は剣となり、早人の胸を貫いた。

 どこか真実のようで、こちらの心を見透かしたような響きが、何より堪え難い。


「違う……! ぼくは……」

 必死に否定しようとする。

 だがその前に、片桐は問うた。


「お前はあいつをニブルヘイムの者だと思い、あいつに逢うためにここまでやってきたのか?」

「……そうさ」

「……だったら、もう闘うのはやめたほうがいい。いくら求めてもお前の欲しい答えは手に入らないし、そんなことではこの先生きてはいけないだろう」

 容赦なく言い放つ。

 まるで、お前にもう用はないと告げるように。


 早人の肩が激しく震え、全身の血が昂った。


「逢いたくて何が悪い……! そのために必死になって、何が悪い!」

 今までずっと、そう信じてきた。


 逢いたいと願う気持ちに、嘘はないと。

 その気持ちだけは、何より確かなものだと。


 自分は正しいのだと、強いのだと、ずっと信じてきた。


「その想いの強さは否定しない。だが、お前自身は弱い。誰かに執着してしか生きられないのは、弱者の証だ」

 片桐は早人の脇を通り抜け、家へと戻ろうとする。


 今告げた言葉に偽りはない。

 紛うことなき、彼の信念だ。


 だがその信念に最も反した生き方をしているのは、他ならぬ彼自身かもしれない。


“弱者としてしか生きられないというなら……俺も同じことだがな”

 心の中で、そう呟いた。


 不意に、背後で金属が蠢く音がした。


 最早聞きなれた、独特の音色。

 これは、アーティファクトの変形音だ。


 振り向くと、銀の巨砲を構えた少年がいた。


「逢わせろ……!」

 その眼に宿るのは、灼熱のような怒気だった。

 ほんの少し揺さぶるだけで、殺気へと変貌してしまいそうな危うさを秘めている。


 だがそのような脅しに、片桐は動じない。

 冷淡な眼を、再び向ける。


 そこに宿るのは、明らかな侮蔑だった。


「お前はヒリカに逢うべきではない。逢う資格もない」

 そして、家の中へと消えてゆく。


 逆上のあまり、早人は巨砲を撃とうとした。

 心の引き金に指がかかる。


 だが撃てなかった。


 今自分が撃てば、それがどのような結果を招くか、考えてしまったから。


「くそ……!」

 闇夜の世界に、一人残される。


 周囲を彩る数多の人工の光が、やけに遠く感じられた。

 すぐ近くで多くの人間が寝静まっているはずなのに、不思議と孤独な気分になる。


 握り締めた拳を、傍らの壁に叩きつけた。


 もう引き返すことはできない。

 自分にできることは、ただ進むだけ。


 その先にあるのは希望なのか、絶望なのか。

 もう何も分からない。






 煌々たる月は、数多の影を生む。


 舞台は、夜の公園。

 影たちは躍る。


 猛々しく、禍々しく、狂おしく。


「グガアァァァァァ―――!」

 迸る絶叫。


 それは痛みの悲鳴であり、恐怖の悲鳴であり、断末魔の叫びであった。


 血飛沫とともに、灰色の巨体が倒れる。

 それは奇しくも、先に絶命していた同類の骸に重なり合った。


 残された人影―――草加雅人は感情のない目で、始末した二体の霊獣を睥睨する。


 そうして彼は、外していた手套を右手に付け直した。

 その異形を、その力を、薄い黒皮で覆い隠すために。


 張り詰めていた殺気を消し、笑顔で振り向く。


「ほら、もう大丈夫だぞ。悪い奴らは蹴散らしてやったから」

 視線の先には、十代前半くらいの少女が立っていた。

 一人夜道を歩いていたために霊獣に襲われた、不運な少女である。


「あ……ぁ……」

 危機は去ったというのに、その顔は未だ恐怖で引きつっていた。


「大丈夫か? なんなら、お兄さんが家まで送って……」

「ば、化け物……!」

 皆まで聞く前に、少女は声を上げる。


 手を差し伸べかけた草加は、表情を凍らせた。

 少女はそのまま、悲鳴を上げて走り去っていく。


「……」

 助けた筈の者に拒絶されるのは、決して気分のいいものではない。

 だが気分の切り替えの早い彼は、すぐに自嘲気味に笑った。


「あーあ、口説く間もねえとは……骨折り損のくたびれ儲けかよ。正義の味方は辛いぜ」
 
 まあそんなものだろう、と自分を納得させる。

 元より、何かの見返りが欲しくてやっていることではない。


 それに―――と、自身の右手を見る。


 何も知らぬ者から見れば、自分も霊獣と同じなのだろう。

 異形を宿し、異能の力を振るう、得体の知れぬ存在であることに変わりは無い。


 だから、仕方ないことなのだ。


 誰にも理解されないことも。

 何の代価も得られないことも。


「……お兄ちゃん」

 ふいに、か細い声が聞こえた。

 彼が、誰よりよく知る者の声だ。


「鈴枝……」

 流石に驚きを隠しきれず、とまどいを見せる。

 草加鈴枝は小さな体を夜気に晒し、兄を見つめていた。


「何やってんだ……! 危ないから、夜中に外に出るなって言ったろ」

 駆け寄った草加は珍しく叱咤する。

 しかし鈴枝は応えず、俯き加減に言った。


「もうここまで……怪物たちが来るようになったんだね……」

「……」

 草加は目を逸らす。

 まさかこの小さな妹が、そんなことに気付いているとは思わなかった。


 霊獣が人間を襲い、魂を奪うのは、ニブルヘイムの存続のため。

 だが必要以上の霊獣が生み出され、必要以上の人間が犠牲になった結果―――事態はより深刻な様相を呈していた。


 即ち、ニブルヘイムは膨張している。


 過度な餌を与えられ続けるあの浮遊大陸は、徐々にだが確実に、その規模を広げているのだ。

 そして、肥大化したニブルヘイムを維持するにはより多くの霊魂が必要。


 故に霊獣たちは獲物を求めて、活動範囲を広げてゆく――――そんな悪循環が、もう延々と続いていた。


「そうだ。そしてこのまま放っておいたら、もっとたくさんの人間が襲われるようになる。俺一人の手じゃ、守りきれないくらいにな」

「だから……あの人たちと一緒に行くの……?」

 少女は問う。

 不安と悲しみを、瞳に映して。


「痛い思いするってわかってるのに、死んじゃうかもしれないのに……ここよりもっと危ないところに行くの……?」

 哀願めいた問いは、草加の心にのしかかる。

 自分の身を案じてくれる妹に、今の彼は上手く応えてやることができない。


 だから……


「……仕方ないだろ」

 地に膝をつき、震える少女に手を伸ばす。


「それが、俺の選んだ道なんだから」


 小さな体を、優しく抱きしめた。

 精一杯の、想いを込めて。





第9話 第11話

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